様々な幸せの形とそのつかみ方

人は生き始めるスタートラインが違っている。

同じトラックを走っているように見えても、実は何週も違って走っている。

結果だけを見るということは、このスタートラインの違いを認めないということである。

人は、同じ距離を走っても、到達する地点は違っている。
だから、到達した地点ではなく、自分が走った距離で自分の人生を評価することをこの本は進めている。

神経症的愛情要求を持っている人は、相手が自分のために犠牲を払うところに愛情を感じる。
相手が自分のために何かを我慢してくれると、満足していられる。

つまり、相手が自分のためにどのくらい辛いことをしているかということで、満足する。

相手が自分のために犠牲を払っていないと、相手は自分を愛していないと不満になる。
相手がじぶんのために苦しい思いをしていないと不満になる。

そういう神経症的愛情要求を持った人と、与えることを喜びとした人とでは、同じ状況にまったく正反対の気持ちを持ち、正反対の反応をする。

にんげんはたまたま外側が同じだけれども、心の中は全く違う生き物である。

人間は外側が同じだから、心の中も似ていると思われてしまう。
しかし、ある人と別の人とは、人間とワシよりも違う。
まだヘビと人間の方が、その人と他の人よりも似ていることもある。

人間ほどお互いに違っている動物は存在しない。

幸せについて調査した本がある。
その本では、苦労の強度と積極的な感情とは、驚くべきことに関係がないと述べている。

積極的な感情とは、達成感や誇りである。
つまり、人は苦労しているから、必ずしも不幸になる者ではないということである。

私たちは、できれば、悩みも苦労もない楽して幸せなだけの人生を送りたいと望むが、そんな人生などないということである。

そして、おそらく悩んで不幸になっている人は、避けてはいけない問題の解決をさけてしまった人達ではないかと思う。

問題を解決しようとした人は、苦労は絶えないが、幸せもつかんでいる。

つまり、悩んでいる人は、苦労しないで幸せになろうとしたところ、より深刻な悩みの淵に陥ってしまったのではないだろうか。

うまくいっている人生とは問題のない人生ではなく、次々に問題を解決している人生である。

生きがいとは、問題解決の積み重ねのなかで味わうものである。一つ一つの問題を解決することで、人生に意味が出てくる。

人生が充実しないのは、問題を解決する意志がないからである。
さまざまな問題を解決する意志のある人は、最後には幸せな人生を送ることができる。