生きる運命を左右するメールの心理

30歳をすぎたら自分らしさにこだわらない

人には誰にでも「こんなふうになりたい」という理想像があるものです。

本来「自分らしさ」や「自分の強み」は、血眼になって探すものではありません。

探さなくても、心の内側から「これをしたい!」という抑えがたい欲求が湧いてくるもの。

そして、それが自信につながっていくわけです。

自信は、「自らを信じる」と書きます。

でも、誰もが自分を信じられなくてもいいのです。

信じきれる人は信じればいいし、そうでない人は別の生き方をすればいい。

思うに、両者の境目は30歳あたりにあると思います。

つまり、30歳を越えても「自分はこれをやりたい!」という確信や自信を持てないようならば、無理をすることはないのです。

「自分らしさ」や「自分の強み」にはこだわらず、自分というものを前に押し出そうとせず、誰かの指示に従ってコツコツと働く。

「サポート役」として生きたほうがいいのです。

30歳を越えたら、今ある自分を受け入れた方が楽になれるし、幸福な人生を送ることができるだろうと思います。

もしかすると、探していた「自分らしさ」は、そのなかで見つかるかもしれない。

今の時代にさかんに言われる「自分らしさ」は青い鳥のようなもの。

人は手に入れられないものにこだわり続ける限り、幸せにはなれません。

現実の自分と理想の自分、他人の評価と自分の評価のあいだにある乖離に苦しみ、自分を痛めつけるだけです。

勝ち負けの世界からいっさい退場する生き方だってある。

その時その時の状況に対応しながら、マイペースで生きていく方法です。

農業や漁業など第一次産業にたずさわる人たちには、少なからずそういう感覚があるでしょう。

「お天道様には適わない」というわけです。

一つの不文律ですね。

ひとたび台風がやってきたら被害は免れないし、日照りが続けば畑は干上がる。

人間が制御できるものではないから、そこには逆らわず、自分の経験値やスキルで状況をどうにか乗り切っていけばいい。

そういう生き方だってあるのです。

心地よく生きるが勝ち

生き方について、とてもシンプルに考えます。

人間、心地よく生きるのが一番だ。

それが基本哲学。

最低限食べていけるだけ稼いでいるなら、後は自分にとって心地よい時間の過ごし方をすればいい。

それが一番ハッピーなのです。

ボストンに住んでいるある男性は朝7時に出勤し、午後三時には帰宅。

そのあとは、町のサッカーチームのまとめ役として活動していました。

男女や学年によってチームがいくつかあったけれど、全部のまとめ役を彼が担っている。

三時から彼は町のサッカーチームのすべてを統括する。

週末になると、他の町とリーグ戦を組んで、チームメンバーと観戦しに来る親たちの配車も彼が取り仕切ります。

彼がポンポンポンと指示を出せば、みんなハイハイハイと従うわけです。

アメリカでは、配管工という職業の社会的地位は決して高くありません。

でも、地元の人たちはみんな、子どもも、親も、彼に好意と敬意をもって接するのです。

日本では、どこまでいっても名刺の肩書きがついて回るけれど、アメリカはそうじゃない。

いったんオフィスを離れれば、まったくフラットな人間関係が存在します。

充実した表情で生きる彼は、「心地よく生きること」が、すなわち「自分らしく生きること」「幸せに生きること」を示しています。

とりあえず否定をやめる

人間というものは、状況が厳しいほど、意識的に前を向こうとするものです。

置かれた状況が本当に厳しいと、人間は楽観的になります。

だって、悲観していたらやっていけないのですから。

うんと厳しいシチュエーションにいる時は、物事を楽観する以外にバランスのとりようがないわけです。

その意味で、今の日本に生きる人は恵まれているのかもしれません。

国や自分自身について、いろいろと悲観的なことが言えるのだから。

要は、まだまだ現状に余裕があるから、悲観していられるのです。

みんなで「政治がダメだ」「大企業がダメだ」「教育がダメだ」と否定をして、何もしないままでもとりあえず生きていける。

ですが、この「とりあえず否定する」という態度は、人間の思考を停止してしまう行為です。

これは非常に危惧されることです。

たとえば、近年よく取り上げられる「格差」の問題。

マスコミもやたらと「格差=悪」「平等=善」という構図を押し付けて、日本中のみんなが社会的格差を頭から否定しにかかります。

もちろん、格差がない社会は望ましい。

ですが、最近の日本の世論には本質的な部分において「思考停止」があるように思うのです。

きちんと考えれば、格差の問題は「分配と生産」の問題。

この点がすっぽり抜け落ちてしまっている。

そして、みんなが「格差」と呼んで騒いでいるのは、「分配」に関する部分です。

富は生産されたあとに分配され、格差は分配の際に生じます。

それを「富の生産」にはいっさい触れずに、「富の分配」だけ論じようとするからおかしくなる。

戦後の日本では、みんながそこそこの暮らしができる「一億総中流」を望んできました。

今でもそれは変わらない。

国民全員が平等な「富の分配」を要求しているわけです。

しかし、誰かが富を作らなきゃいけない。

じゃあ、誰がどういうインセンティブで作るのか。

そして、富を作った人に対する報酬はどういうふうに支払われるのか。

「格差」を論じるなら、そういうことも一緒に考えなきゃいけないのに、国民全体が頭ごなしに否定をすることで「一億総思考停止状態」に陥ってしまっているのです。

大切なのは、物事の本質を見極める眼と、それに向き合う気持ち。

今よりも少しだけ視点を変えてみることです。