疑心暗鬼になった人はストレートに物事を頼めない
疑心暗鬼な人とは、人に合わせて生きてきて、本当の自分が信じられなくなり、その結果、他人が信じられなくなってしまったことである。
そのような状況に陥ったまま生活するのは苦痛である。
そこで疑心暗鬼になった人が気が楽になる心理を記してみたい。
疑心暗鬼な人は無理して陽気に振る舞い利用されるだけ
その疑心暗鬼になった人が自分を安売りするのは、自分を守るためである。
小さい頃からそういう疑心暗鬼になった人は誰も自分を守ってくれなかった。
ある小学校で、ある先生がある子を「あなたは、自分で自分をダメにしている」と叱った。
そして先生は「先生は、あなたを守るために叱ったのだ」と説明をした。
するとその子は心底泣いた。
その子はそのときまでに、ほんとうに守ってくれる人がいない。
守ってもらったという体験をしていない。
しかし、なぜかそのときに「この先生は自分を守ってくれるために叱ったのだ」と感じた。
そこでほんとうに守ってくれる人を体験して心底泣いた。
自分を守るために疑心暗鬼になった人はいろいろと無理をする。
ある中学生の修学旅行のときである。
宿の布団が足りなかった。
そこに敬子ちゃんという元気な子がいた。
先生は「敬子ちゃんは何でも我慢できるから、元気だから」と言って、敬子ちゃんを布団がないまま敷居に寝かせた。
「なんで私を敷居に寝かせるの?あんなずるい人たちがいっぱいいるのに」と敬子ちゃんは思った。
先生は敬子ちゃんを「我慢強い」と言って、疑心暗鬼になった敬子ちゃんを調子よく利用したのである。
利用した先生は忘れていても、利用された疑心暗鬼になった敬子ちゃんは大人になっても覚えている。
その子は家でも同じ役割を強いられた。
敬子ちゃんは陽気に振舞って家を守った。
陽気さを演じて疑心暗鬼になった彼女はみんなをまとめる。
彼女はイヤな雰囲気になりたくないから、陽気に振る舞う
その疑心暗鬼になった子は適当におだてられている。
彼女は大人になってそれがわかって、過去を後悔する。
陽気に振舞うのは陽気だからではない。
無理を疑心暗鬼になった人はしている。
ずるい人はそれをしない。
愛情飢餓感の強い疑心暗鬼になった人は自分の必要性を放棄してしまう。
そして心理的に病んでいく。
さびしい疑心暗鬼になった人は、だまされて地獄につれていかれる。
エライ人に取り入るのが上手い人がいる
それをしない人もいる。
それが「必要性を放棄しない」ということである。
さびしいから、疑心暗鬼になった人は利用されてしまう。
表面しか見ない。
陽気に振舞う人を見て、疑心暗鬼になった人は心まで陽気だと思ってしまう。
強い人とは、「表面的なものはいらない」と思える人であり、それを実行できる人である。
疑心暗鬼になった人は騒ぎを穏便に収めるために犠牲になる
「私は真面目に生きてきた。
私は必死になって努力してきた。
それなのにいいことは何もなかった。
ただただつらいだけだった」という疑心暗鬼になった人がいる。
そして、たしかに善良な人である。
そういうことになってしまうのはどこに原因があるのだろうか?
そういう疑心暗鬼になった人はたしかに必死になって努力してきたであろう。
しかしいったい「誰のために」疑心暗鬼になった人は努力してきたのか?
嫌われるのが怖くて怯えている人の周りにはずるい人が集まる。
そしてトラブルが生じる。
しかしその疑心暗鬼になった人は、怯えていることで自分が問題をつくったことに気がついていない。
世間はだいたい弱い人を犠牲にしてトラブルを解決する。
あるホテルマンが、予約等々で何か騒ぎがあったときには「譲ってくれる人を犠牲にして解決する」と言っていた。
このホテルマンは自分が解決するつもりはない。
騒ぎを穏便に収めるためには犠牲になる人が必要なのである。
だれかに「譲ってくれ」と言っているときには自分が解決できないときである
穏便に解決するためには「魔法の杖」が必要である。
「穏便に」というが、「穏便に解決すること」はホテルにとって利益になることなのである。
つまり譲る疑心暗鬼になった人はホテルの利益のために利用されただけのことである。
「ありがとうございました」と頭を下げるうしろで舌を出しているかもしれない。
この「魔法の杖」に使われるのがいわゆる善良な人である。
彼の善良さは、他人にとってはトラブルを解決する道具であった
なぜ彼はトラブルを解決する道具になったか?
疑心暗鬼になった彼は「なぜ私を選んだか」を反省しなければならない。
そうでなければ彼はまた道具にされる。
それは嫌われるのが怖くて疑心暗鬼になった怯えている心の中を見抜かれて、なめられたのである。
そこを反省しないかぎり、また道具に使われる。
あっちでもこっちでも利用されて、だまされてボロボロになっている疑心暗鬼になった人のなんと多いことか。
疑心暗鬼になった人は飛んで火に入る夏の虫
カッコをつける人は劣等感と憎しみがある。
Aさんは、「十一時ニ十分にここをでなければならない」と言った。
そこで会議は十一時ニ十分に終わるようになった。
Aさんは、自分が重要人物であるかのようにカッコをつけただけである。
バカにされないようにと思っている。
その場にいたBさんは、「Aさんは活躍をしている忙しい人」と思う。
しかし、その場にいた「嫌われたくない症候群」の疑心暗鬼になったZさんはもっと忙しかった。
しかし疑心暗鬼になったZさんはそれを主張しない。
そこでZさんが犠牲になっていることにBさんは気がついていない。
歪んだものの見方は一定の型にはまった見方である。
その歪んだものの見方をする疑心暗鬼になった人、僻んだ人は、人の言うことを表面的に受け取る。
こういうAさんやBさんのような人に合わせていると人間関係がダメになる。
こういう人たちが集まるとトラブルが起きてくる。
AさんやBさんのような人に合わせていると「この人は誠実な人」という人が、周りに集まらなくなる。
Zさんは善良な人だが、疑心暗鬼である。
質のいい人が疑心暗鬼になった彼の周りに集まらない。
カレン・ホルナイが言うように、自己蔑視の特徴の一つは虐待を許すということである
自己蔑視している疑心暗鬼になった人は他人が自分を虐待することを許す。
親から情緒的虐待を受けた子どもは、大人になってから他人からの虐待も受け入れてしまう。
なぜならその疑心暗鬼になった人自身が虐待されることに心の底で同意しているからである。
バカにされた扱い、軽視された扱いをされることにその人が心の底で同意している。
自分で自分を軽蔑しているがゆえに、疑心暗鬼になった人は自分を大切に扱ってくれることには逆に違和感がある。
だからこそ疑心暗鬼になった人は質の悪い人に対して献身し、やさしい人を疎かにしていくのである。
ずうずうしい人のカモに、みずからすすんでなる
自己蔑視している疑心暗鬼になった人は「飛んで火に入る夏の虫」である。
不誠実な人間にすすんで利用される。
利用されやすくだまされやすい。
嫌われるのが怖い疑心暗鬼になった人は、一般的に相手を好きではない。
好きな人と一緒にいれば楽しい。
だれか好きな人がいれば、そんなにいつも「嫌われるのは怖い」などと思ってはいない。
そして好きな人のために何かをしたときには、本人は「犠牲になった」と感じない。
周りが犠牲と思うだけで、本人にとっては好きなのだから、それは犠牲ではない。
ある家庭での出来事
父親が会社から疲れて帰ってきた。
お母さんはビールを飲みたい。
お父さんは買いに行かない。
お父さんはビールを飲みたいが、いまは疲れていてビールを買いに行くくらいなら飲みたくない。
するとお母さんは「お父さんが飲まないなら私は飲まない」と言った。
お父さんは買いに行かない。
お父さんは「僕はいらない」と言った。
それを聞いていた自己蔑視の子どもが、ビールを買いに行った。
そして翌日、子どもは「僕のお父さんは悪いんだよ」と先生に言った。
そうだろうか。
お母さんは「買いに行くのはイヤだけども、気持ちよく飲みたい」ということである。
「だったらお母さん飲むな」ということである。
ずるさは弱さに敏感である
母親は子どもに買いに行かせるつもりなのである。
それなら子どもに「買ってきて」と頼めばいい。
しかし、それも頼まないで「飲みたい」と言う。
これはずるい母親である。
それなのに子どもは「お母さんはかわいそう」と言う。
これが自己蔑視した疑心暗鬼になった人の発想である。
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疑心暗鬼になった人は感情に蓋をして問題解決を遅らせる
ハト型夫婦という言葉が英語にある
お互いにケンカをしない夫婦である。
またカードハウス・カップルという言葉もある。
トランプをするときに相手に自分の札を見せない。
そうしながらゲームは進行する。
それと同じように心の内を見せないで生活している夫婦である。
「理解し合うためにはケンカは必要でない」と思う人もいるかもしれない。
けれども、人間関係ではトラブルこそお互いを理解し合うチャンスなのである。
好きではないが、仲良し
それが嫌われるのが怖い疑心暗鬼になった人たちの関係である。
そういう人はもちろんケンカを嫌う。
ケンカを嫌うのは、そういう疑心暗鬼になった人にエネルギーがないからである。
今の人はエネルギーがない。
「嫌われたくない症候群」の疑心暗鬼になった人はいつも人間関係で犠牲になっているようだが、自分より弱い立場の人がいるとずるい人に変わることが多い。
「嫌われたくない症候群」の人になるのである
お互いの信頼関係がない疑心暗鬼になった人達は、諍いを恐れて、自分が折れることで問題を解決しようとする。
しかしそうした解決の仕方では、問題の本質的な解決にはなっていない。
「嫌われたくない症候群」の疑心暗鬼になった人たちはケンカをしないけれども、相手にとっては近づきにくい人たちである。
疑心暗鬼になった人は長いあいだにはお互いに話すのが億劫になる。
ケンカをすると感情の器の中が空っぽになる。
気持ちがスッキリとする。
「嫌われたくない症候群」の疑心暗鬼になった人は「器」の中にいつも何かが残っている。
そして器の「蓋」をして人と付き合うから、人間関係が重くなる。
「嫌われたくない症候群」の疑心暗鬼になった人は、人と会うときにはいつも感情に蓋をして会うことになる。
蓋をする人は両方から得ようとしている
蓋をしてケンカをしない疑心暗鬼になった人は、まず第一に相手が好きでない。
次にエネルギーがない。
最後に疑心暗鬼になった人はさびしい。
ケンカをしないけれども、困った時に相手は助けてくれないと疑心暗鬼になった彼らも心の底では知っている。
嫌われるのが怖い人は、周囲の人みんなが嫌い。
普通は、好きなら自分の意見を言う。
疑心暗鬼になった人はさびしいときに「来ない?」と誘われれば、相手が嫌いでもついていく。
嫌われるのが怖い人たちのつきあいはこんな付き合いになってしまう。
「自分が悪い」と疑心暗鬼になった人はとりあえず謝ってしまう。
あるハト型家族である
子どもが腕を壁にぶつけた。
そして骨折した。
でも「気持ちがスッキリする」と子どもは言った。
疑心暗鬼になった母親は精神科の医者の前で「私が全部悪いんです」と言う。
母親は言葉では息子を責めていない。
しかし疑心暗鬼になった母親は心の底では息子を責めている。
母親は明示的に責めていないけれども、黙示的に責めている
夕食のときには、たまらない空気が流れている。
息子が何か気に入らないことをすると、疑心暗鬼になった母親は息子に直接「いけない」と言わないで、「お母さん、このあいだ話したじゃない」という言い方をする。
そして何かトラブルがあると疑心暗鬼になった母親は「お母さんが、いけないんだから」と言う。
母親は、いつも謝っているのだけれども、子どもの気持ちがスッキリとしない。
子どもは「そう言われると、お母さんには何も言えない」と言う。
そして「『もういいか』と思ってしまう」と言う
子どもは何かわからないけれど、とにかく納得だけはしていない。
そこである先生が「お母さんに、腹立つ?君はお母さんを責めているの?お母さん、見て見ぬフリをしたの?先生の気のせいかな。君は、お母さんを責めているのかな?」
先生からそう言われて、子どもは気持ちがスッキリした。
先生は、その子に「お母さんから、もし、『最近態度が大きいんじゃない?そう思わない?』と言われたらどう思う?」と聞いた。
すると母親に「ごめんねと言う」と言う。
疑心暗鬼になった母親は息子から嫌われるのが怖いから、見て見ぬフリをして「いい母親」を演じる。
息子は、疑心暗鬼になった母親に謝られると「もういいかなぁ」と思ってしまう。
相手から謝られると、相手を責められない。
息子は母親から「おまえの、その態度が気に入らない」と言ってもらったほうがスッキリする。
先生が言った。
「太郎君、君はお母さんに怒りを持っているんじゃない?」
そう先生から言われて彼は顔が真っ青になった。
疑心暗鬼になった母親のほうは「私がほんとうにいけないんです。私がいたらなくて。愚かな女です」と言う。
先生はその疑心暗鬼になった母親に「では愚かな女って、どういうこと?」と聞いた。
母親は何にも言えない。
さらに「なんであなたは悪い女なの?」と聞いた。
また疑心暗鬼になった母親は何にも言えない。
母親が悪いのは、子どもが怪我をしたのに、見て見ぬ「フリ」をする、それでいて「いい親」を演じる
だから悪いのである。
疑心暗鬼になった人は知らない「フリ」は怖い。
相手は見ている。
おかしいときには聞く。
聞かないのは子どもを好きではないから。
聞かない人は疑心暗鬼になったずるい人。
変だと思っても、相手が何も言わない
「あ、いいや」と思うが、そのときに相手は憎しみを抱いた。
疑心暗鬼になった人はそのときに借金を背負った。
何かあったとき「このくらいならいいだろう」と思う。
しかし人の心は離れている。
そのときに人の関係はゼロになった。
まずいと思っていたことが、うまくいったと思ったら、うまくいっていない
疑心暗鬼になった人は相手のほうから言わないからうまくいったと思わないこと。
相手が言わないということは何でもないことではない。
自分が相手を利用しようと思っている。
そこで疑心暗鬼になった人は見て見ぬフリをする。
しかしそのとき疑心暗鬼になった人は相手を失っている。
「あわよくばうまくいけばいい」と思っているが、長い目で見れば、うまくいかない。
嫌われるのが怖い疑心暗鬼になった人たちの人間関係は言い訳ばかりで実りがない。
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疑心暗鬼になった人は「うまくしよう」といい顔をする
子どもが不登校になった
そんなときにペコペコ謝る疑心暗鬼になった保護者がいる。
それはどう対処してよいかわからないからである。
ペコペコするのは、「捨てる」覚悟が疑心暗鬼になった人はできていないからである。
母親がもし「この中学校で大きな問題になってもかまわない」と覚悟を決めれば解決に向かう。
修羅場をつくる覚悟を決めれば、トラブルは解決に向かう。
この疑心暗鬼になった母親は「うまくしよう」とかんがえるから、謝る。
しかし物事はうまくいかないのが当たり前
この母親にはエネルギーはある。
しかし疑心暗鬼になった自分ではエネルギーがないと思っている。
そう思ってしまうのは、いろいろなことを「うまくしよう、うまくしよう」とするからである。
そういう欲という重い荷物を疑心暗鬼になった人は持って走っているからである。
「あなたさえ幸せならそれでいいの」-この母親の言葉は子どもの成長を妨害する言葉である
こういう疑心暗鬼になった母親は相手の悩みを解決することを考えていない。
自分が原因で子どもが悩んでいる。
そんなときに、この台詞を使う。
子どもから嫌われるのが怖いから疑心暗鬼になった母親は、この台詞を使う。
自分のなかに憎しみがあるから母親は、子どもから嫌われるのが怖い。
こういう疑心暗鬼になった母親は、子どもを信じていない。
そして子どもに母親は、いい顔をする。
なんでいい顔をするのか?
疑心暗鬼になった母親は嫌われるのが怖いから。
嫌われるのが怖い疑心暗鬼になった人は、心の中に核がない。
この不登校になった息子の心の中には母親がいない。
また、子どもは母親に不満。
だから子どもにはエネルギーがない。
母親のほうは子どもに無関心。
母親は自己不在だから子どもから嫌われるのが怖い。
人は心の中が空虚であればあるほど嫌われるのが怖い。
心の中が空虚な疑心暗鬼になった人は、好かれることで自分の存在を確認しようとする。
心の中にいろんな感情を溜め込んだ疑心暗鬼になった人はなかなか自立ができない。
それくらい自分の感情を表現するのは、大切なことなのである。
疑心暗鬼になった人はさびしさを埋めるために我慢する
ふつう交渉というと、話し合いで自分の主張をいかに通すかである。
自分のイライラ、自分の満足されていない感情で人に因縁をつけることがケンカと思っている疑心暗鬼になった人がいる。
疑心暗鬼になった人は自分のいらだちの感情をぶつけることがケンカと思っている。
その考え方は間違っている。
ケンカというのは、もともと関係があって、そのうえで自分の不満を相手にぶつけることである。
まとめるためには譲るところは譲る必要がある。
ケンカは感情の交渉ごとといってもよい。
ケンカはコミュニケーション
心の触れ合っている友人関係でないときには、ケンカはたんなる文句である。
心がふれている関係で、どうしてもこれを相手にいいたいというときにコミュニケーションとしてのケンカは起きる。
触れ合った関係が長く続くためには解決しなければならない問題が出てくる。
これを乗り越えなければ、お互いの関係は先に進めないという感情の溝が出てくるときもある。
このことを言ってケンカになっても、ケンカをしなければお互いの溝は深まると感じたときにケンカをする。
そして感情を共有できる関係になる。
ケンカの仲直りで関係の幅が広がる
その人の人間としての幅も広がる。
この社会のなかで生きるのに大切なのは、人間の幅。
それをしないと疑心暗鬼になった自分は相手にとって便利な人になるだけ。
あるいは逆もある。
お互いの関係が、便利な人との関係になると、ケンカはしない。
相手が便利な人だったらケンカはしない。
疑心暗鬼になった人は文句を言わない。
何かあっても疑心暗鬼になった人は、我慢する。
それは我慢したほうが得するからである。
その「得すること」のなかに「さびしくない」ということが入っていると大問題である。
「嫌われたくない症候群」の人には、嫌われないことで何か得することがあるだろうか
たとえば、さびしいということが回避できるというメリットがあると思うかもしれない。
疑心暗鬼になった人はそのメリットのために我慢をする。
しかしそのメリットと「みんなに嫌われたくない」という疑心暗鬼からくるデメリットとどちらが大きいだろうか?
また、メリットと思っていることは、ほんとうにメリットなのだろうか?
じつはメリットと思っていることは、メリットでも何でもないことのほうが多い。
つまり無意識まで考慮に入れれば、疑心暗鬼になった人がメリットと思っていることはメリットではなくデメリットである。
その瞬間はメリットかもしれないが、疑心暗鬼になった人は長い目で見ればデメリットである。
つまり「さびしいということが回避できるというメリットがある」と思っているのは間違いである。
「みんなに嫌われたくない」と言う疑心暗鬼になった人は、相手の言いなりになることで、無意識の領域でたいへんな代価を払っている。
無意識の領域まで入れればケンカをしないことで心の借金は増えている
たとえば次のような例で考えてみればわかる。
母親からの相談である。
娘が結婚した。
しかし娘の夫は覚醒剤で逮捕された。
そしていま二人は別居している。
それでも娘は別れたくない。
しかし母親は娘を夫と別れさせたい。
でも娘に「別れろ」と言えない
「もし娘が夫と別れて幸せになれなかったらどうしよう」と疑心暗鬼になった母親は恐れている。
疑心暗鬼になった母親は、娘が離婚して幸せになれずに娘から恨まれるのが怖い。
母親は、娘から嫌われるのが怖い。
娘も、別居しているけれども、夫を忘れられない。
今でも夫を好きである。
一緒になっても幸せになる保証はない。
母親と娘の二人は「どうしよう、どうしよう」と言っている。
娘は「でも好きなの。でも麻薬は悪いこと」。
この先どうなるか?
二人ともだれからも好かれたい
二人とも愛情飢餓感が強い。
じつは疑心暗鬼になった母親は娘の意志で別れさせたい。
そこが母親のずるさであり弱さである。
結局、解決できないで、日々不快感が強くなる。
お互いにケンカはしない。
でも疑心暗鬼になった人は憂鬱になる。
「キルケゴールが憂鬱というものを自己存在の本来性を求める決断を怠った負い目から生じるものとみなしている」
この母親と娘の二人の憂鬱は二人が自己実現を怠った結果である。