相談できない悩みを打ち明ける

相談できない悩みを打ち明けるとは

迷いや悩みを打ち明ける

相談できない悩みを打ち明けるとは、自分も他人も信じる勇気を持つことである。

活発な精神内部の活動があるにもかかわらず、それが外部に向かった行為によって発散されず、強い感情をともなったまま保持されることを「抑留」という。

たとえば誰か異性を好きになる。

きれいだなあ、セクシーだなあという印象を受ける。

そして会うたびに感情はたかぶる。

感情はどんどんたかぶるのだけれど、ひとりでそれをどうすることもできない。

友人に、「じつはこんな人を好きになってしまった」と打ち明けられない。

許されない恋などになると、これはもっとひどくなる。

また、好きになった人に対して、好きになったと自分の恋心を打ち明けて、壊れるものなら壊してしまい、次の段階にいくなら次の段階にいくということができない。

ひとりでじっと好きだ、好きだと思い続けている。

そのような人は、強い緊張状態を解放していく「伝導能力」を欠いている人なのである。

自分の内部の緊張に従って動かない。

友人に打ち明けることも、当の本人に自分の恋心を伝えることも、酒を飲んで騒ぐこともできない。

恋心は発散されないまま、いよいよ強まっていく。

友人に打ち明けるには、あまりにも臆病なのである。

当人に自分の恋心を伝えるには、あまりにも内気なのである。

そして精神内部の活動性はいよいよ高まる。

ついには、なにをやっても手につかないという状態になる。

机の前に座ってボーっとして、その人のことを考えている。

街を歩きながらその人のことを考えている。

「なんてすばらしい人だろう、あんな人はこの世に二人といないのではないか」などと熱に浮かされるような生活がはじまる。

自分を神経質な人間であると決め込むと、いろいろな自分の体験を「神経質だから」と解釈してしまう。

誰にでもあるような体験をしても、自分は「神経質だから」そうなったのだと思い込んでしまう。

自分がある悲劇的な体験をしたとき、いま自分が感じているようにすべての人が感じるわけではない、ということを心の中で思いおこしたほうがよい。

ことに自分にとって恥ずべき体験をしたときには、このことは大切である。

同じ体験をしても、人によっては恥ずべき体験とは感じない。

つまりどのような恥ずべき体験をしても、そのとき自分が感じているようには周囲の人は自分のことを見てはいないということである。

同じ秘められた望みのない恋愛や失恋でも、人によって反応は違う。

ドイツの精神医学者、クレッチマーは次のように述べている。

「たとえばわれわれが『失恋』と名づけている体験それ自体にしても、その主観的体験形態はそれぞれの精神病質性人格によってまったく異なったものであることがわかる。

失恋というものは、原始性の娘には激しい短い不快であり、無力性の娘には長い苦しい疲労困憊であり、ヒステリー女には半ば意識された内面的不調和となり、陰謀女には悪質の侮辱であり、訴訟好きの女には極悪非道の不正である。

では失恋は敏感性人格にとってはなにであろうか。

恥ずかしい敗北である」(『新敏感関係妄想』星和書店)

つまり失恋でも、なにか仕事上の失敗でも、自分にとって望ましくない体験をしたとき、自分の体験の解釈を唯一絶対のものと考えないことである。

自分がなにか失敗して、それを恥ずかしい敗北と感じたとき、それは「自分が」そう感じているのであって、その失敗は必ずしもすべての人にとって恥ずかしい敗北になるとは限らない。

失恋したとき、その人がもし、クレッチマーのいう敏感性性格であるならば、クレッチマーのいうとおり恥ずかしい敗北と感じ、その感じ方に心がいつまでもさいなまれるかもしれない。

しかし訴訟好きの人なら、相手のことを極悪非道と思い、それはきわめて不正なことと感じるのである。

われわれはともすると、自分の感じ方を人間の感じ方として唯一絶対のものと思いがちである。

敏感性性格者は、そもそも失恋というものは恥ずかしい敗北であると思い込む。

すべての人にとって失恋は恥ずかしい敗北であると思い込む。

そしてすべての人はいま自分をそのように恥ずかしい敗北者と見ていると思い込む。

これらの自分の感じ方が、自分の主観的感じ方ではなく、客観的にそういうものだと思い込んでしまう。

しかし、このような体験をしたとき、われわれは今、自分は自分の性格ゆえに、このように感じているにすぎないのだと自分に言い聞かせることを忘れてはならない。

「断られる」は傷つく体験ではない

アメリカ人は日本人にくらべてノーと言われた時傷つかない。

断ったり断られたりすることで傷つくので、なるべくそのような機会を避けようと、相手の心を「察する」のが日本人である。

ある留学生が、いかにも不思議でたまらないというように、「どうして、断られたくらいで傷つくのかな?」と首をかしげた。

「断られる」という体験はすべての人にとって傷つく体験ではない。

しかし、断られたことで傷つき、繰り返し繰り返しそのことを心の中で再体験しているような人もいる。

拒絶されたということが執拗に心を痛めつけるのは、拒絶そのものの性格ではなくその人の心の側の性格でもある。

ある体験が自分にとってどのようなものであるかということは、体験と自分との関係によって決まるのである。

ある薬をどこに入れても同じ化学反応がおきるわけではない。

人間についても同じことである。

そもそも失恋なら失恋にしても、失恋にいたる心理過程そのものが、その性格によって違うのである。

ある体験を自分にとって絶対のものとしてしまわないことである。

ついつい敏感性性格者的な人などは、体験を大げさに考える傾向がある。

ことに敏感性性格的要素とナルシズムとをあわせもつような人は、他人から見ればどうでもいいような体験を、天下の一大事のように感じていたりする。

「たいへんなこと」と「自分が」感じているだけであって、決してそのこと自体はたいへんなことではない。

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相談できない悩みを打ち明ける勇気をもつことで救われる

誰にも相談できない悩みほど深刻

ある学校でいじめから暴力事件が出た。

その学校にいた快活な子がいった。

「事が起きる前にどうして相談してくれなかったのだろう」と。

その快活な強力性性格者の子にとっては、他人に相談するということは、べつに難しいことでもなんでもない。

この子はなにかつらいことがあったとき、友人にそれを打ち明け、打ち明けることでそのつらさを半減することができるのであろう。

しかし、暴力事件を起こした子にとっては、他人に自分の苦しみを打ち明けるということがどうしてもできなかったのであろう。

強力性の子にとっては、「どうして」打ち明けてくれなかったのか、「どうして」相談してくれなかったのかと不思議でならないにちがいない。

相談するというような簡単なことが「どうして」できないのか、その子には理解できない。

交流分析でよく「できないのではなく、やらないのです」ということがいわれる。

それはそのとおりなのである。

たしかに相談はできないのではなく、相談しないのである。

しかし、やはり「できなかった」のであろう。

たしかに「できないのではなく、しないのである」。

しかし、そのできないことに深くその人の性格がからんでいるということを理解しなければならないであろう。

そして、自分は敏感性性格的要素が強いと思う人は、いま自分にできないことがあったとしても、それは決して一般的に「できないこと」ではなく、「自分に」できないのだということを理解することである。

よく誰にも相談できない悩みという言葉がある。

それは、誰にも相談できない悩みがあるわけではなく、その人が誰にも相談しないのである。

その人にとっては、相談することがたいへんむずかしいということである。

そして実を言えば、他人に相談することがむずかしい人ほど、他人に相談することが望ましいのである。

他人に相談することが難しい人は、自分の悩みを自分の中で大きくふくれあがらせてしまうことが多い。

誰にもいえないまま、その悩みは自分の心の中に完全に閉じ込められ、いよいよ苦しみを増してしまう。

だれにも言えず自分で自分を追い込んでいく。

その悩みは「恥ずべき事」と本人は感じている。

しかしそれは他の人にとっては、決して恥ずかしい悩みなどではない。

その人がひとりで勝手に恥ずかしいことと決め込んでいるだけということがいくらでもある。

なにかおもしろくないことがあったとき、自分の感情を外に向かって表現でいないままでいるから「くやしい」のである。

自分を傷つける者と闘わない人ほど「くやしさ」を味わう。

ことに小さい頃神経質的な親に傷つけられても、「くやしい」と思うことさえ許されなかった人もいる。

まとめ

相談できない悩みを打ち明けるとは、自分も他人も信じる勇気を持つことである。

自己肯定できていればノーと言われても傷つかない。

悩みを溜め込むとくやしい気持ちになる。