自分の要求を言う大切さ

世間一般の人間関係の中の問題

都会には、自分が何をしたいかを要求せずにいると、その沈黙のためにこちらが大なり小なり犠牲を払うはめになる人間関係が少なくとも5パターンある。

赤の他人

繁華街の店員、離れた都市で食事する際のウェイトレス、通りすがりの人などは、個人的にはあまり重要ではない。

私たちいい人は、礼儀正しく彼らに接し、その見返りに相手にも同じ態度を期待する。

彼らに自分が何をしたいかを言わないことは、ふつう問題にはならないが、もし彼らに自分のものを奪われそうになったり、または、彼らへの要求をはっきり口に出さなければ、当然、受けるに値するもの、受ける権利のあるものを失う。

サービス業者

折りにふれ、私たちのかかわる相手は、クリーニング屋の店員、保険外交員、銀行の金銭出納係、車の整備士、美容師だったりする。

その場合の主な関心事は、彼らをもっと知ろうとすることではなく、よくサービスしてもらうことだ。

クリーニング屋の店員と仲よくするのはたしかに楽しいが、彼女の身の上話を聞きたいとは思わないし、自分の話をしようとも思わない。

ただジャケットをきれいにしてもらいたいだけだ。

こちらの望みを丁重に言えば、たいていちゃんとやってもらえる。

権威者タイプの人

上司、同僚、得意先や権威者タイプの人(医師、弁護士、教授、牧師など)とはファースト・ネームで呼び合う仲かもしれないが、彼らとのつきあいは、個人的というよりは公的な関係になりがちだ。

彼らはいつもこちらを利用できる立場にあるので、もし彼らに酷使されれば、しばしば悲惨な目にあうはめになるにちがいない。

したがって、自分が何を期待しているかはっきりと彼らに言うことで、得することは多い。

友人

友人だけでなく、親しい隣人、知人、趣味のサークルや教会の仲間もまたこの部類に入る。

彼らは相当長い間、個人的に大事な存在で、もっと知りたいと思う人たちだ。

自分が何を望んでいるかを彼らに伝えなければ、単に冗談やあいさつをかわす程度の、浅いレベルでしか相手を知ることができない。

自分が何をしたいかを言えば、必ずもっと近しくなったと感じる。

親しい人

配偶者、兄弟、親友といった最も親しい人たちの前では、自分の壁を低くでき、お互いの誠意と信頼で心が通う。

どんなに彼らが大事な存在かを告げるといったやりとりで自分自身が深まる。

ある段階では、自分のすべてを知ってもらいたいと期待する。

しかし願望が心の奥により深く根ざすほど、とくに慣例にとらわれないものほど、はっきり口に出すことはいっそう難しくなる。

自分の沈黙の結果が、最も厳しく苦しく返ってくるのもこのグループの人たち相手の付き合いだ。

つきあいが比較的うまくいっているときは、すべてのグループの人たち(とくに最後の三つ)から与えられる権利があり、自分が望んでいることも間違いだと言われないとわかっている。

けれども現実には、いくつかの理由で、いい人は望みをはっきり口に出さないままでいる。

自分が何をしたいかを言わない原因

誰にでも、こうしてほしいという考えはちゃんとある。

どうしていい人はそれを、口に出せないのだろうか?

常識的にまずいと思う

「いい人は自分のことを口にしないし、自分自身のことより他人の関心事に気を配らなければならない」といい人は両親から教わった。

自分が望んでいることを要求するのは、強欲で利己的だと教わったのかもしれない。

自分の望みが社会的に受け入れられていて、事前に認められているなら、ただお願いしますとだけ言えばいい、とも聞かされたはずだ。

しかし、それ以外の、何かを直接要求する方法について、両親は何一つ教えてくれなかっただろう。

弱みを見せたくない

両親は、真の大人は強く、人の助けは必要としないとしばしば子どもたちに教える。

それで、多くのいい人(とくに男性)は、人に何かを欲するのは自分が弱いしるしだと考えがちだ。

お互いに依存し合うよりは自主的であるほうが大人の心理だと勘違いしている。

「こんな事を言ってもいいのか」と人目を気にする

子どものとき、何かをねだって叱られ、何かをほしがったことを恥じた記憶があるかもしれない。

それが自己評価を低くする一因となった。

したがって、いい人は大人になった今でもしばしば、その是非はともかく、自分の望みが度を越していて、役に立たず、害になり、不適当で、人に期待する権利のない、たわいのないものだと思い込んでいる。

自分の意見を拒絶されるのが怖い

自分が何をしたいか言わないのは、恥をかいたり恥知らずと思われないようにという気持ちが原因であり、一生にわたる癖になっている。

長い時間をかけて進化した脳は、子どものころ、私たちに「大切な人から拒絶されるかもしれない」という社会的な恐れをまず警告した

幼児期から、この種の恐れによって安全、対人関係やいちばん大切な心の奥底を危うくしないよう、自分自身を守ってきた。

そうやって命拾いしてきたのだ。

残念ながら、そうした身を守る方法や安全なふるまい方を必要以上に教えられすぎたため、いい人は、大人になっても自分の危険を受け入れる力を妨げられ、衰えさせてしまった。

たしかに、命の中心で無条件に自分が受け入れられていると理解できれば、この恐れと過度な自己防衛に一撃を加えられる。

しかしそう決意しても、恐れは一緒に消えてなくならないかもしれない。

自分が何をしたいかをいつも周りの人に言い出せない、そしてその結果、自分の目的が打ち砕かれるということは脅威にはならないだろうか?

ひょっとすると、今あなたは自分が何を望んでいるかを人に言わなかった場面を思い出しているかもしれない。

だが、いつでもずっとそうしてきたのでまさか大きな間違いだとは思いもしなかっただろう。

関連記事
人付き合いが怖いを克服する方法
自分を信じられないと他人も信じられない

なぜ、黙っていることは間違いなのか

沈黙が間違いだと確信できるまで、人に自分が何をしたいかをいわないだろうから、その間違いの理由を見直してみよう。

ほんとうの自分を理解してもらえない

自分の望んでいることを口に出さないとき、いい人は社会的に受け入れられるだろうと思う自分のペルソナ、つまり自分自身のイメージだけを人に見せる。

このように自分をある程度しか見せなければ、人は自分を部分的にしか理解してくれない。

皮肉にも、対人関係を気まずいものにしないために自分が何をしたいか言わないうちは、関係を単に表面的なものにしかならない。

自分自身を裏切ることになる

私たちには、ほんとうの自分になりたいという人間の本質的な要求がある。

そのために自分に人間の価値を認め、同時に社会的なみんなの幸せのために適切に報いようとする。

したがって、正当な欲求をがまんして黙ったままでいることは、自分の正直さと充実して生きる力を裏切ることになる。

自分を価値がない存在にしてしまう

自分の権利を気にかけないやつだと相手に思われるため、一方的に奪われ、いつも汚い仕事を押しつけられ、目的のために利用していいという扱いを受ける。

沈黙が彼らの思うままにさせる原因ではないとしても、私たちがされるがままなので、いいように扱われるきっかけを与えているのだ。

ストレスがたまって病気になる

黙っていると、自分が何を必要としているかを人に告げるために使う、膨大な感情のエネルギーを使い果たしてしまう。

「なぜ自分は要求しなかったのか?」と後悔の念で苦しむ。

そしてしまいには、望んでいるものを与えてくれない人を恨み、また口に出して言わない自分自身にも怒りを覚えることになる。

この怒りは、心の中に抑え込まれるので、うつ病や重病にかかる危険がある。

手に入れて当然の多くのものを逃す

ときには、単にこちらの望みを知らずにいるか、たとえ望みを聞いても今まで行動を起こす気にはなれなかったという理由で、相手が要求にこたえてくれないこともある。

しかし、自分の要求を言わないと、必要以上に不幸な人生を過ごすことになる。

沈黙は自己敗者的だ。

自分が何をしたいかをしらせることによって、手にして当然の多くのものを人から得られる。

まとめ

いい人は礼儀正しく人と接し、他者にも同じように態度を期待する。

自分の言いたいことが言えない原因は幼少期、親に言いたい事を言ったら受け入れられなかった場合が多い。

自分の思っていることを言うことで人間関係の次のステップに進める。また思っていることを言わないことで損をするし、重症化すると心の不調をきたす。