自分も他人も受け入れる

まず受け入れられていることを知る

愛のレンズで人生を見たとしよう。

言い換えれば、人生において、罰を下すような判断や拒絶でなく、受け入れるほうを選ぶのだ。

生まれたばかりの赤ん坊をあやす、両親のうれし涙を見たことがあるだろうか?

自分が受け入れられていると知れば、赤ん坊と同じように自分がしっかりと宇宙の愛に抱かれていることが見えてくるだろう。

このレンズの焦点を合わせるには、洞察力と常識を使おう。

つまり、地球はまるいと確信するように、自分は受け入れられていると信じるのだ。

自分自身の経験からその証は見つかる。

宇宙飛行士や地球儀メーカーを信頼するように、自分の経験と、心の一番奥底で感じているニーズに語りかける深い声を聞こう。

愛は人生を正しく動かす、とその声が言っているのが聞こえるはずだ。

愛は人の精神を豊かにし、高め、解放し、大きく広げる。

ほんとうの自分になるための後押しをしてくれる。

愛されているとわかれば、その愛を受け止めて自分も他者も愛する、それだけで充分だと思うようになる。

他人を喜ばせようとがんばったり、まわりから見放されるという強迫観念には耐えられなくなっていく。

しかし、いざやってみるとなると、自分が受け入れられていると信じることはそれほど楽ではない。

心の奥で、愛の約束どおりに自分が受け入れられているか、確認したいと思うだろう。

また、自分が受け入れられている事実を認めるのに抵抗感がある場合もある。

そうした抵抗を乗り越え、自分を受け入れる勇気をもって、完璧主義とさよならするには何があればいいのだろう。

自分の価値を信じる

誰かが充分すぎる好意をくれようとするのに、自分はそれを受ける価値がないと感じることがある。

しかし、ひどい仕打ちをした相手が許してくれて、肩を抱いてくれたとする

その信じられないような美しい好意はその人間をゆさぶるだろう。

そうすると、うわべだけの許しでなく、より深く大きな許しを表されるまま受け入れるような心の自由が与えられる。

ほっとする言葉を聞く

尊敬する人、あなたにとって大切な人から「君はそのままでいいんだよ」と言われたとしよう。

「ときどき失望させられることもあるが、あなたと知り合えてうれしい」と言われるかもしれない。

そうした言葉は気持ちをほっとさせてくれる。

ときには信仰も力になる

ぎりぎりのところで、条件つきで受け入れられているとする。

そんなときは自分を証明しようと果てしなく不毛な努力をすることに嫌気がさしてくる。

やがて必死に捨て身になって、未知の世界を見つめ、自分を受け入れることへの抵抗を乗り越えようとするとき、信仰という盲目的な一歩を踏み出す場合もある。

こうした体験も自分を受け入れようとする勇気につながる。

では、条件なしにあなたを愛する人がいなかったとしたらどうしたらいいのだろう。

あるいは、完璧主義に嫌気がさしてはいるものの、ぜったいにいやだ、というほどでもない場合はどうすればいいのか。

また、変わることへの抵抗があるとしたら。

そうしたときはどうすれば、自由にあるがままの自分を受け入れられるのだろう。

人を受け入れる練習

まず、何かが起きるのを待つのではなく、自分で起こせばいい。

たとえば二ヵ月ほど、知っている人、会う人を誰でも受け入れてみる。

これは、その人と今後もっと親しくするかどうかを判断するためのテストとは違う。

無条件に受け入れる

無条件に受け入れることによって、相手を自由にできるかどうか、そのうえに純粋な関係を築けるかどうかを試すアイデアなのだ。

実際に試してみれば、条件つきと無条件に受け入れることの違いがどんなもので、自分がふだんはどちらを大事にしているかがわかる。

もちろん、出会う人誰とでも、すぐに親しくなればいいというものではない。

たとえば、職場の新人を大事に受け入れることは配偶者への愛とは違う。

誰にでも心を開く一方で、相手にどんな関係を保ちたいかをわかってもらえるサインを送るのは大切なことだ。

もう一つ大事な点は、相手をすぐに受け入れるのは、彼らを喜ばせることによって自分を好きになってもらうためではない、と肝に銘じておくことだ。

そうしないとこの試みも、完璧でいようとする古いわなと同じことになる。

まわりの人たちの善意を信じ、自分の強みにも弱みにもオープンでいれば、欺かれたときに傷を受けるのはあなた自身だ。

だが、相手を無条件で受け入れるということは、利用されてもいいという意味ではない。

誰かのそうした意図が感じられたときは、すぐに離れて、向こうが尊重の気持ちを見せてくるまで戻らないでおく。

もし誠意をもって謝るならば、相手を許し、お互いに判断したり拒否したりするのはやめたほうがいい。

真の愛は、相手を追い払うことでも、好き勝手にさせることでもない。

他者も自分も同じように大切にすることなのだ。

このアイデアを成功させるには、何のために、どう向かい合おうとしているかを相手に知ってもらうほうがいい。

それを知らせることで、相手は何がどうなっているか理解してくれるし、あなたはアイデアそのものに夢中になりすぎずにすむ。

また、完璧でない人を快く受け入れ、自分もまた完璧でいなくていいと思えるように、相手が手伝ってくれるきっかけにもなる。

このアイデアにはもう一つメリットがある。

受け入れられた相手もまた、自分や他者に対して肯定的でやさしくなるのだ。

誰でもすぐには変われないだろう。

だが、愛は伝染するものだ。

神秘的でいながら予測できる方法で、愛は愛を生み、人を大いに変え、相手から最良の部分を引き出し、健全な関係を築きながら、ほんとうの自分へ向かうように働く。

典型的な例として、中学校の二人の教師である。

一人は学校が始まったとたん、自分が生徒にいかに厳しく、クラスのレベルを維持するのがどれほど大切か、また、生徒が興味を持っていることの大半はいかにくだらないかを印象づけようとした。

生徒はすぐ、彼女の期待にこたえなければ許さない、という脅しを感じとった。

その教師は不幸で嫌われているばかりか、生徒の成績を上げられないことで知られていた。

逆にもう一人は肯定的な教師だった。

生徒を信頼し、意見を聞いてくれて、みんなと一緒に話し合い、生徒を個人として扱ってくれた。

生徒の最高の能力を引き出すことで知られていたとしても不思議ではない。

彼女を知る人は口をそろえて「生徒を愛せる先生」と呼んだ。

愛によって人や自分を受け入れよう。

きっと喜びや、人としての最高の気分を味わえる。

愛されていると思えば、喜びで満たされるものだ。

一方、受け入れてほしいという深い思いにこたえて相手を愛すれば、あなたの喜びは言葉にならないほど高まる。

愛を行動に表わすと、かつて人の目を気にするいい人として果てしない努力をしている間は手にできなかった「心の豊かさ」が生まれる。

自分も人もありのままに受け入れられれば、完璧主義を手放して自由になり、満ち足りた生き方を始められる。

あらゆる人たちのなかで、この選択をした人が、最も自由で喜びにあふれている。

さらに、彼らのうちでいちばん健康なのは、自由や喜びを大きくふくらませるやり方で自分の不完全さを扱うことを学んだ人である。

不完全さの取り扱い方

「やっぱりまだ、欠点や失敗を抱えてこの世を生きるのは難しい・・・」と感じているかもしれない。

自分をまだ充分受け入れていないからだ。

自由や喜びを経験するには、自分には欠点があるという事実を見つめ、隠さずに認めることが大事だ。

人間くさいことを恥じて、不完全な部分を必死にとりつくろうとするのは不必要だし、何の助けにもならない。

「完璧でないことを気にしないよい点は、人に多くの喜びをもたらすこと」という言葉がある。

あなたが完璧な人間でないところを見せれば、相手を安心させられるのだ!

いつも完璧でいようとすると、相手をしらけさせる。

次に、自分の不完全さを受け入れられるようになる方法をあげておこう。

引き受ける前に考える

どんなことでも、自動的に結果を出さなくてはならないようなことは引き受けない。

行動する前に立ち止まり、自分の心に聞いてみよう。

「これを完璧にやりとげなかったらどうなるか」「引き受けたとしたら、どのくらいの時間とエネルギーに相当するか」と。

一生懸命やってもだめなら、自問する

何かを仕上げるのにあまりに長い時間をかけていたら、こう言ってみるといい。

「何時間もやってみたけれど、時間は貴重なものだよな」「なぜ時間をとられているんだろう」「これを完璧にしなかったら、どんなひどいことになるんだろう」「そのままにしたらどうなるだろう」と自問自答してみる。

今していることをやめて、じっくり自問してみたら、自分で時間を管理できるようになるだろう。

自分に厳しくするのをやめる

みんなによく思われようとして懸命にやったとしても、人はたいてい気づいてくれないものだ。

みんな自分のことを考えるのに忙しく、自分がどう思われているかを知るほうにご執心なのだ。

完璧主義者は、自分に厳しく人には甘い。

だから、誰かがミスをしても、けっして見放したりはしない。

自分自身に対するよりも他人に対するほうがずっとソフトなのだ。

自分に厳しくし過ぎないためには、自分も時折、誰もがするような失敗をやらかすという事実を受け入れることだ。

人の期待どおりに生きなくても、人生はなくならない。

何かミスをしたとしても、誰かにひどい暴力をふるったとか、犯罪を犯したというのでなければ、明日どうにかなってしまうということはないのだから。

適切に批判する人にだけ同意する

批判は、がんばって築こうとしている自分のイメージをこわすので、痛みが伴う。

しかし、心の奥底で愛されたいと願うとき、そのイメージを手放すなら、すべて受け入れられた不完全なあなたで生きられるのだ。

ドライブ中にスピードの出し過ぎと指摘されたら、こう言えばいい。

「そうですね、速すぎましたね」。

ちゃんと理由があれば、「友人を急いで病院に連れていくところでした!」と言えばいい。

当然の批判には同意し、必要のない自己弁護をしないことが救いになる。

  • 「また遅くまで起きていて、明日まいるわよ」-「そうだね。まいるだろうな」
  • 「だらしないわ。あなたったら外見をかまわないんだから」-「そのとおり。身だしなみは僕の弱みだな」
  • 「そんなばかげたことをして!」-「まったく。利口じゃなかったな」
  • 「あんなこと言うべきじゃなかったんだ」-「ええ。時折、私、おかしなことを言ってしまうのよね」

もう、完璧でいる必要はない。

批判の勢いをそらし、役に立てることすらできる。

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いつも満足させてほしいと期待する人を避ける

ときには、あなたが完璧でないことをひっきりなしにつつく人がいるかもしれない。

そんな期待を押しつけるような相手とは関係を断とう。

代わりに、自分のいちばんいいところを引き出してくれる人、ベストをつくすことは期待するが、すべてに最高は求めない人との友情を深めたほうがいい。

幸い、教師、上司、配偶者、それにあなたにとって大切な人たちが期待するのはふつう、双方の関係にふさわしいレベルの行動だ。

スーパーマンになれとは言わないだろう。

ただし、あなたが努力しているのに相手が気がつかないとか、正しい判断をしない場合はある。

そうしたら見過ごしておかず、きちんと説明するといい。

ただでさえ、相手のせいでまた完璧主義の癖に戻らずにすむよう、一生懸命やっている最中なのだから。

正面きって理由を話せば、たいていの人は耳を傾けてくれる。

それでも大切な人が相変わらず非現実的な期待を押しつけてくるようなら、第三者に対立点を仲裁してもらおう。

人との関係を築く三つの完璧な方法

1.お互いの関係を築くうえで役立つ、「いいこと」をする。

配偶者、子供、上司、同僚、友人を適切に扱う。
指示された仕事や頼まれごとが法外でも枠外でもなければ、やればいい。
お互いの関係にふさわしい期待を果たせば、あなたの行動は完璧なのだ。

2.失敗したら謝り、状況をみて、名誉挽回に努める。

あやふやな記憶のせいで、友人をすっぽかしたら、まずは謝る。
目をまっすぐ見て、自分の無責任な行動を後悔していると伝えよう。
もし、相手に金銭的な借りがあれば、謝り、弁償しよう。
謝罪と弁償が受け入れられたら、両者の間の壁が取り払われ、関係が完全に修復されたことになる。
謝るのを忘れていて後で気づいたとしたら、自分がしたことと気づくことが遅れた点の両方を謝ろう。

3.謝ってもだめなら、関係を修復したい、拒絶されては無力でどうしていいいかわからないと伝える。

前と同じ関係には戻らないかもしれないが、やれることはやったのだし、まったく自分を弱い立場において、しかも自分は不完全だという事実を全面的に受け入れたのだ。
あなたも少しずつ、できるようになる。

こうした「完璧な」方法は、完璧主義のように、自己破滅的なプレッシャーをかけはしない。

自分の不完全さを受け入れられるようになるし、つい完璧にやろうとしたときのブレーキになる。

もう大丈夫、自分を受け入れられる

つねに誰かを喜ばせることはできない。

そうわかった以上、もう繰り返さない決心がついただろう。

自分を受け入れた人は、今までよりもっと現実的に、自分の不完全さとつきあっていける。

  • 何かを引き受ける前にその重さをはかる。
  • 完璧にやろうとしたら、自分を叱る。
  • 自分に厳しくし過ぎない。
  • 適切な批判には同意する。
  • 完璧であるよう押しつける人は避ける。
  • 人との関係を築くために三つの完璧な方法を使う。

完璧主義の癖は、折りにふれ首をもたげるだろうが、もうその癖に支配され、がっかりすることはない。

あなたは自分の現実的で高い基準を保ち、「私は、みんなを楽しませているだろうか」と気にかける代わりに、「人として、今までより自分に忠実だと感じているかと自問すればいい。

依然として、人に好かれたいと思う自分はいるだろう。

大切な人の期待に合わせて、いい気分を味わうことがあるだろう。

相手を楽しませようと結構エネルギーも使うだろう。

だが、もう自分の不完全さを受け入れているのだから、受け入れてもらえないとか拒否されたといった、重たい気持ちに悩むことはない。

もう完璧主義はやめよう。

それでも、いい人でいられる。

まとめ

自分が愛されているとわかれば、他人も自分も愛せるようになり、それで充分と思うようになる。

誰にでも心を開く際に相手とどのような関係を築きたいかというサインを送ること、またその時、自分が相手に好かれたいということを持ち出さないことを肝に銘じてほしい。

人間くさい部分を恥じて、完璧に取り繕うことはしてはならない。

自分に完璧を求める人との関係は絶ち、自分のいいところを引き出してくれる人と積極的に付き合うようにすることがよい。

自分に厳しくし過ぎないためには、誰しもが自分と似たような失敗をしていることを肝に銘じることである。