自分をどこまでさらけだせるか

人との距離がうまくとれない

携帯電話は、今の若い世代にとってなくてはならないものになっています。
ちょっと前まで、電話は機能的コミュニケーションの代表的な道具で、用がなければかけないものでした。
それは、緊急の用件を伝えるのに力を発揮しました。

それが今ではとくに用もないのに電話やネットする。

というより、緊急の用がないからこそ電話、ネットに向かう。

「女性の長電話」というのは昔からいわれてきたことですが、周囲の学生たちに聞いても毎晩のように夜中の十二時、一時に、退屈だから、寂しいからといって友達と電話やネットで通信するという者が少なくありません。

とくに一人暮らしの者に。

対面しないにしても、電話なら双方向性のコミュニケーションが前提だし、肉声を伴うので、かなり人間的なコミュニケーションの道具といえるかもしれません。

しかし、人付き合いにおいて閉ざされた内向的なコミュニケーションが行なわれている傾向があります。

楽しいこと、さしさわりのないことは話すけれども、内面的なことまでは話したくない、話せない。

相手にあまり近づかないで、踏み込まない関係が多いようです。
と同時に、心理的距離のとり方が極端になりやすい。

恋人とか、とくに親しい友人には極度に密着した距離をとり、それ以外の知人に対しては、他人に対すると同様に、みんな一律に距離をおくというように。

なぜ柔軟に中間的距離がとれないのでしょうか。
原因の一端は、現代の親子関係にあります。
なんといっても、母子関係がダイレクトであり、それをいつまでも持ち越しすぎるのです。
母子間のコミュニケーションでは、原則として母親は子どもの気持ちを察し、合わせてくれます。
子どもとしては、とても楽な関係です。
ときに押し付けがましくなって、うっとうしく思うことがあっても、近い関係であることに違いはありません。

こうした関係にひたりすぎると、相手の気持ちを察したり、探りあいながら徐々に関係を深めていくといった能力が発達しにくいのです。
母子関係に似た甘えた関係を他人に求めるとしたら、恋人のようなごく身近な間柄しかありません。
一方的な甘えを無条件に受け入れてもらえる居心地のよさを求めていては、人とほんとうに親しくなることはできません。
自立への圧力が弱く、大人になっても濃密な母子関係を持ち越しやすい女性は、ぜひとも自分を振り返りたいものです。

人と面と向かって付き合うのが苦手

今、小・中学校で人気者というと、ジョークのうまい子だといいます。
これは大人の世界でも同じかもしれません。
お笑いタレントは相変わらず人気があって、映画にドラマにと大活躍、もともとは二枚目で売り出していた俳優も道化的要素を加えることでウケをねらったりしています。

結局、ジョークの周辺を漂っていれば、ムキになることもないし、何の対立も起こりません。
個人個人の異質性をおおい隠して、なんとなくナアナアですごし、なんとなく一体感を味わえます。
誰も落ちこぼれないし、傑出することもないというわけです。

人との付き合い方や心理的距離のとり方のわからない者にとっては、道化的に接して軽くかわしていくのが無難なのです。

人間というものがよくわからず人間恐怖症なのに、どうしても人間を思いきることができず、人間に対する最後の求愛として道化スタイルを考案し、「この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした」と言う太宰治の『人間失格』の主人公のように。

茶化さずに面と向かって人と付き合うのが苦手な者が多いということは、人との付き合い方に不安を抱く者、自分をさらけだしたいのにそれが怖くてできない者が多いということでしょう。

ただ、そうした傾向のなかで「何か物足りない」感じを抱く者が出てきているのも事実です。
内面世界を共有し合えるような深い関係をどこかで求めているのに、そんな欲求を表面に出すのはカッコ悪いし、照れくさい。
だから、現実の人間関係はドライにこなしながら、エンカウンター・グループなどのようなセッティングされた親密な場にお金を出して通ったりするのです。

エンカウンター・グループというのはお互いに知らない者同士でグループを組み、二時間ぐらいを一単位として話し合う集団心理療法の一つです。

といってもテーマが決まっているわけではなく、その瞬間に思っていること、感じたことをありのままに表出するものです。

したがって、感情的なやりとりに発展することがありますが、そのなかで日頃抑圧しているものが表面化し、自己認識を深めるきっかけになります。
と同時に、何でも話せる親密な関係を体験することもできますが、あくまでもその場限りの関係です。
このようなセッティングされた場でないと安心して内面をさらけだせないとしたら、これはちょっと病的状況でしょう。

理想の友人像は「モモ」

一昔前、ミヒャエル・エンデの『モモ』が映画化され注目を浴びました。
この主人公モモこそが、今求められている友人像なのかもしれません。

モモの前では何でも言えます。
心からホッとできます。
モモは何をするのかというと、何もしません。
ただ聞いているだけです。
つまり、モモは、人の気持ちをすべてそのままに受け入れてくれるのです。

この忙しい世の中に、無条件に話を聞いてくれる存在は、とても貴重です。
ありのままの自分を素直にさらけだせる相手がいてはじめて、自分がみえてきます。

相手の話はうわの空で聞き流し、つぎに言いたいことを必死に喉にせきとめ、相手が話し終わったとみるや一気にまくしたてる。

そんな会話光景がいたるところで目につきます。

おもしろいかおもしろくないか、自分の考えや感じ方と一致するか対立するかに関係なく、無条件に相手の話に耳を傾けること、相手の気持ちに心から関心をもつこと。

それが現代を生きる多くの者に欠けている点ではないでしょうか。

受け身で自分がないといわれた女性も、近頃ではしっかりと自己主張する人が増えてきました。

でも、その反面、せっかく得意としていた人の気持ちへの共感性を失うとしたら、何の進歩にもなりません。

モモのような友達を一方的に求めるのは調子よすぎます。

お互いに相手にとってのモモになることを目指すべきでしょう。