自分を生きることとは、自然な自分を信頼し、それに素直に従うことでした。
ですから、本来楽なはずなのです。
それなのに、自分を生きることは必ずしも一筋縄ではいきません。
それは、長いこと期待された役割を生きる自分が外界と接する行動様式だったからです。
「偽りの自分」と「本当の自分」との乖離が救いだったからです。
期待された役割を生きることが、安心と安全、そして自己価値感を得る道だったからです。
加えて、外界としての周囲の環境は、これまでの「偽りのあなた」に合わせて整えられているからです。
ですから、自分になり、自分の人生を生きるためには、内なる闘いと、外界との闘いとの両方が必要になります。
しかし、大人になった今では、自分を生きることを妨げている最大のもの、それは自分自身に他なりません。
それゆえに、賢く決断し、賢く努力すれば、自己成長や自己実現を実感しつつ、楽しみのうちに自分の人生をつくることができるのです。
甘えからの脱却
そのためには、甘えからの脱却が必要です。
期待された役割を生きる根底には、甘えがあるからです。
期待された役割を生きる自分とは、「良い子にしているからママ、嫌いにならないでね」と言っているようなものです。
周囲の人に、「努力しているのだから、賞賛して欲しい、好いてもらいたい、嫌いにならないで欲しい」と、訴えている姿なのです。
他者に甘え、他者によって自分を決めてもらおうとする姿勢です。
同時に、他者に好意と賞賛を強制しているのですから、服従者でありながら、支配者たらんとしていることです。
この矛盾した心を満たすことは不可能ですから、つねに不安的な心理にとどまらざるを得ないのです。
親への恨みを語りながら、その親に甘え、依存し続けている青年の姿を多く見うけます。
会社で便利屋として使われることを嘆きながら、その状況を受け入れ、働き続けている人も少なくありません。
自分を生きたいならば、自分のなかの甘えをしっかりと確認し、甘えの心地よさから抜け出る決意が必要です。
自我の喪失と回復についての深い論考のなかでR・メイは、これこそが勇気なのだと述べています(R・メイ著 小野泰博訳『失われし自我をもとめて』誠信書房)。
「勇気とは、親への依存という保護領域から分離し、自由と統合の新しいレベルへ進んで移ってゆくことである。」
そして、勇気の反対物は自動機械のような同調性であり、臆病とは怠け者のことだ、とも述べています。
自分になるために、甘えから脱却する勇気をもつことです。
怠け者から脱却することです。
無力感の克服
自分になることを妨げるさらなる要因として、無力感があります。
期待された役割を生きる人は、根底の自己無価値感と結びついた無力感のために、「他の生き方をするのは無理だ」と、思いこんでしまうのです。
他の生き方を欲しながら、いざ、それを実行しようとすると、不安になって尻込みしてしまいます。
しかし、期待された役割をしっかりと生きている人は、自分のなかに自分を統制する強さを育ててきた人です。
他の人の期待に応えて、がんばり抜く力があります。
押し寄せる仕事をがんばってこなす力があります。
自分のことよりも、相手のことを優先してあげられるほどの力があります。
求められることをやるとき、人のために献身しようとするとき、これをもっぱら「偽りの自分」と思っていたかもしれませんが、それは自分の力の発揮なのです。
自分のなかに現に存在する力なのです。
この力をこれまで育み、発揮してきたのです。
この強さを他者の賞賛を勝ち取ろうとする努力に向けるのではなく、素直な自分であろうとすることに向けることです。
思い切れば容易なはずです。
自己抑制を解けばよいのですから。
心のブレーキをはずして、思い切って踏み出すことです。
罪責感の克服
期待された役割を生きる人は、しばしば強すぎる罪責感に束縛されています。
このために、自分を優先しようとすると罪責感にとらわれてしまい、自分になることを妨害することがあります。
罪責感は、道徳的な判断能力の形成に由来すると考えがちですが、その起源は親との関係なのです。
フロイトが超自我の概念を提唱したように、絶対的な力を持つ親に対する子どもの依存と敵意との葛藤にその根源があると考えられています。
親を悲しませること、親の気分を害すること、親の期待に添えないこと、これらが子どもにとっての罪責感の起源なのです。
このために、親が感情的に混乱したり、困っていると、子どもは自分に原因や責任があるかのように感じることがあります。
たとえば、幼い子どもは、夫婦喧嘩の声で目を覚ました時、なぜか「自分のせいでけんかしている」と、思ってしまいます。
親が離婚したのは、自分のせいだと思っている子どもも少なくありません。
過保護な親も、子どもの罪責感を不当に強めてしまうことがあります。
こうした親は、無力な子どもの世話をすることによって自分の存在価値を得ていることが多いので、子どもが過保護から抜け出ようとしたり、自立しようとしたりすると、自分の存在価値を脅かされるように感じてしまうのです。
子どもは親のこの感情を敏感に感じ取り、能力が高まる自分に誇りを感じつつも、同時に罪責感を持たざるを得ないのです。
自分であろうとすると、「自分勝手」とか「ワガママ」という意識が生じます。
自分であることは、「我がまま=自然な自分のまま」ではあっても、「ワガママ」ではありません。
このような罪責感は、子ども時代の産物です。
もはやあなたは子どもではありませんから、大人として思考し、行動することです。
大人の罪責感とは、自分の思考に基づくものです。
自分の判断に基づくものです。
訳の分からない感情ではありません。
親から自立することが、ひどい罪責感を引き起こすために、親が自分の成長を抑圧することがわかっていながら、親から離れられない人がいます。
とりわけ、そうした親は子どもの罪責感を巧みに利用するからです。
また、子どもはこれまでに無力感を植え付けられてしまったからです。
こうしたこともあって、親からの精神的自立が、象徴的な夢と結びついていることは珍しくありません。
たとえば、必死に親を説得している夢を見たり、すがる親を振りきる夢を見たり、なかには親殺しの夢を見る人もいます。
また、大学入学や就職で家を離れるということは、より自分を生きることにつながります。
このために、自宅から通えない遠方の大学を選ぶ人がいます。
なかには、国内では束縛から逃れられないので、国外留学する人もいます。
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決断と責任
自分を生きるということの本質は、自分の根源に関わる決断を自分で行い、その決断に自分が責任を持つということです。
自分でいかに生きるかを決断し、その決断に従った生き方をするということです。
自分を生きる人にとって、自分を導く者は自分であり、自分を支配する者は自分しかいません。
自分になることは、親のくびきから離れるばかりではありません。
社会の不必要な束縛からも離れることです。
そして、自分の人生のすべてを自分で背負いこむことです。
人は誰でもどこかユニークな面を持つ存在です。
ですから、ほんとうに自分であろうとすると、どこかで一般的なパターンからはずれるところが出てきます。
ところが、親、教師、世間の人は、人それぞれのユニークさではなく、皆と同じように感じ、考え、欲求し、行動するように求めます。
皆に同調することを期待し、圧力をかけます。
ユニークさに対して、批判や非難、心ない噂がなされることもあります。
そうしたこととの闘いに、自らを浪費しないことです。
自分を生き続けることこそ、そうした批判や非難に対処する最善の方法です。
自分を信頼し、基準を常に自分のうちに置くことです。
自分の感覚、感情、欲求、願望に。
自分を成長させること、自分が満足できることに力を注ぐことです。
確かに、直線的には進みません。
安易に自分の満足できる人生が達成されるとはいえません。
自分を生きようとして、でも「ダメかな?」などと、行きつ戻りつしながら進んでいくのです。
私たちは、多かれ少なかれ期待された役割を生きる自分を抱えつつ、生きていく存在なのです。
それでも、より自分になる努力を重ねることで、いっそう満足できる人生をつくることができるのです。