自分を裏切る心理と対処法

自分を裏切るとは、等身大の自分で人と接することである。

背伸びして人と接し続けると、やがては苦しくなる。

人にはそれぞれありのままの自分がある。

ありのままの自分で人と接することができれば生きるのが楽になる。

ありのままの自分で人と接しないということは自分を裏切ることになる。

自分を裏切ることは生きるのが苦しいことである。

ここでは、そんな自分を裏切る人の原因とどうしたら自分を裏切らずに生きれるかについて述べてみたいと思う。

自分を裏切るとは

自分を裏切ると生きることが苦しくなる

相手の自尊心にとりいらなくても、自分は人に認めてもらえるということが感じられた時に、人は心理的に安定する。

そしてそのように成長できた人は幸せな人である。

そんな人は、実際の自分を裏切ってまで、相手に認めてもらいたいという姿勢はない。

人に認めてもらうということが、自分にとってそんなに重要ではないからだ。

このような人は当然、神経質などにならなくても生きていける。

だが、心理的成長を遂げていない人にとっては、ありのままの自分で相手と相対するということは、大変なストレスなのである。

このストレスに耐えられず、実際の自分以外の人間になるという自分を裏切る努力までして、相手のお気に入りになろうとする。

しかし、自分を裏切ることによって支払われる犠牲は想像以上に大きい。

実際の自分の姿を否定するのであるから、やがては生きている無意味感、無力感に悩まされ、生きることに絶望していく。

気力を失い、何も困難がなくても生きることが辛くなる。

生きているということが耐えがたいほど辛いものになるのである。

大切なのは、一緒にいるとストレスを感じるような人とは、こちらから進んでは付き合わないことだ。

ありのままの自分であっても、それが許されるような人とだけ付き合うようにする。

そうすれば無理なく自分も成長していけるし、ストレスにも耐えられるような人間になる。

一緒にいても、その人に合わせて価値観を修正しなくてもいい、そんな人と付き合うべきである。

だが、どういうわけか自分を裏切る人は、そういう人よりもむしろ、ありのままの自分であることを許してくれない人と一緒にいようとする傾向がある。

それはそのような相手に心理的に依存しているからである。

自分を偽り、相手に心理的に同一化することで、自分の無力感から逃げられるからである。

しかし、それでは悪循環だ。

その時はそれでほっとするかもしれない。

とりあえず自分を苦しめている無力感からは、気が紛れるのだから。

しかし、結果として無力感はいっそう深刻になってくる。

その人に同一化して、心理的に自分もその人の栄光にあずかるというのは、一種の精神的な麻薬である。

最も手っ取り早い逃避法であるが、事態を深刻化するだけで何の解決にもならない。

『預言者』を書いたカーリー・ギブランが恋人のハスケルに宛てた手紙の中に、次のような文章がある。

「貴方が何になっても、私は貴方に失望しない」

このギブランのような親に育てられた人は幸運である。

認めてもらうために、自分の存在を偽る必要などなかったはずだ。

だがそうでない場合、子どもは親に喜んでもらうために自分を裏切り自分の感情を犠牲にする。

砂遊びをするにも、走るにも、折り紙をするにも、自分は何がしたいかではなく、何をしたら喜ばれるかをまず考えるのだ。

ありのままの自分が親に受け入れられているという基本的安心感の有無が、その人の一生を支配する。

基本的安心感を感じられる人は、自分が自分であることを喜べる。

だがそれがない自分を裏切る人は、他人の顔色を窺う。

他人の価値観のほうが、自分のそれより大切になってしまうのだ。

よい子の根幹にある「嫌だ!」という感情

あまりにも生真面目なために問題を起こす人というのは、長いこと自分の喜びの体験を認めてこなかった人ではないだろうか。

ありのままの自分に対する肯定的感情を失ってしまっている人である。

彼らにとって生きる目的とは、他人が受け入れてくれる自分を演じることであって、自分自身であろうとすることではない。

自身の喜びの体験そのものができなくなる、とマズローは述べている。

また、ロロ・メイも同じようなことを言っている。

すなわち、外側からの要求ばかりに従っている人は、幸福を得る力をも捨ててしまう。

したがって従順であることによって、「よい子」であることが幸福と成功の条件であると教えることは危険である、と。

従順であることによって「よい子」でいることは、自分を殺すことなのである。

人は子どもの頃、家庭の中では許されなかったさまざまな感情を心の底に抑圧して生きる。

また、よしとされる感情を持っている”ふり”をして成長する。

それによって善と悪とを判断する。

ある人は兄弟喧嘩をするとひどく怒られた。

父は「嫌だなー」と深いため息をついて、ものすごく不機嫌な顔をして、睨みつけるのだ。

そのため一切の攻撃的感情を抑圧して成長し、神経質になってしまった。

また少しでもほかの人をほめると父に嫌な顔をされるので、いつも自分の感情を監視していなければならなかった。

この世の中で一番良いところはこの家であり、世界で一番立派な人は父親であった。

そこでいつも今自分はどのように感じる「べき」かと自分に問いかけていた。

そのうちに、自分を裏切り続けてきた自分は今どのように感じているのか、実際の感情が自分にもわからなくなった。

許される感情、持つべき感情、そのようにつくられた感情で生きていると、生きている実感がなくなる。

立派な人なのだけれども、何となく存在感がないという人がいる。

そういう人は今述べたような生き方を強制されてきた人ではないだろうか。

その自分を裏切る人は小さい頃から「嫌だ」ということを決して言わなかった。

それは決して許されない言葉であった。

しかし、実際はすべてにおいて「嫌」だった。

自分でない自分を押し付けられ、嬉しくもないのに嬉しい顔をし、悲しくなくても悲しい顔をし、尊敬していないのにしているような顔をして生きてきた。

それ以外に自分が生きる道はなかったのだ。

このように、心の底ではすべてが嫌だったが、その感情を抑圧して生きてきた。

ところがある時「実は自分はすべてが嫌だったのだ」と気がついた途端、肩の荷がすーっと軽くなったような気がした。

やはり驚いたし、救われたように感じた。

私は自分の自我の基盤が少し強化されたような気がしたのである。

そして私は「嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ」としばらく言い続けた。

それまで私は歩くことも、走ることも、座っていることも、しゃべることも、黙っていることも、勉強することも、遊ぶことも、働くことも、歌うことも、何もかも嫌だった。

つまり、生きることが嫌だったのだ。

遊びたくもないのに、気に入られるためにいかにも楽しそうに遊び、家の手伝いなんてしたくないのに、嬉しそうに手伝い、勉強したくないのに、ほめられるためにすすんで勉強し、何を求められても決して嫌な顔をしないで自分を裏切って生きていた。

「嫌だ!」。

個の感情は「何でも言うことをよく聞く、従順で素直なよい子」を演じてきた自分の核心にある感情であった。

その「嫌だ」という感情に気がついた時には、自分は自分という存在の核心に触れたような気がしたのである。

■参考記事
喧嘩できない人が本音を言うチャンス

自分を裏切るよい子

あるべき自分で自分を失う

「お前が感じるように感じるな、私が感じるように感じろ」

これはグールディングという人の書いた交流分析の本に出てくる文章であるが、無意識的にこのように子どもに強制する親は多いようだ。

もっとひどくなると、「私が要求する」ように感じろ、ということになる。

そのような親に従順に忠誠を誓っている子、それが「素直なよい子」なのである。

従順な子は自分の住んでいる世界に脅威を感じている。

まるで知らない怖い動物に囲まれているように感じているのである。

そして自分を守るために他人の欲求に敏感になり、他人の期待に応えようとする。

それによって自分を裏切る自分を危険な世界から守ろうとしているのである。

ロロ・メイは「親の期待にそって生きることは、親からの賞賛や賛辞を得る方法であり、『親にとっての掌中の玉』であり続ける方法である」と述べている。

それが、不思議なくらい問題のない子、素直なよい子、驚くほどの問題のない子である。

利己的な子、悪い子と思われることを恐れて、怒りを抑える。

だから、自分をはっきりと主張できない。

従順な子どもというのは、その点で神経質的な子どもといえる。

そのようにして育つと「あるべき自分」が「実際の自分」に先行する。

そして自分の可能性を実現しようとするよりも、「あるべき自分」になろうとする。

その結果、実際の自分の人生を犠牲にすることになる。

したがって、生きる喜びの実感を失い、自己喪失に陥る。

自分の生活を失い、自分の人生を失う。

それが「自分を裏切る人」である。

親の期待にしたがってのみ生きていれば、自分はこの人生で何をしたらよいのかということがわからなくなる。

自分の内面に湧き出るものを感じることができなくなってしまう。

これは「あなたであるな」というメッセージと同じである。

現実の生活ではよく伝達されているメッセージである。

先のロロ・メイの本の中で、ある同性愛者の臨床例が紹介されている。

彼は六人兄弟の末っ子で、四人の兄とすぐ上に姉がいた。

その姉が幼いうちに死に、母親が末っ子の彼を少女のように可愛がるようになった。

母親は彼に女の服を着せる。

彼は彼で、女性的興味を発達させる。

彼は母親の期待する女の役割を演じ始めたのである。

少女としての役割を受け入れることで、母親に気に入られようとしたのだ。

彼がもし少年のように振る舞えば、彼は母親に姉を失った悲しみを思い出させ、母の期待に背く。

まさに彼は、母親の期待をかなえるために現実の自分自身を裏切ったのである。

「親の目の中にある自分の役割、言い換えれば、自分自身の中に持ち運び、永続させているイメージに従って生活しなければならないなら、その人間には、自分の支持しているものはもちろん、自分が何を信じているのか、あるいは自分自身の力が一体どんなものなのか、こうしたことがわからないのである」(失われし自我をもとめて)

要するに、親の期待する役割のみを演じていれば、自己を喪失してしまうということである。

その親の期待する役割を演じることが、実際の自分を裏切ることになる時、そうなるのである。

このような場合は「あなたであるな」というメッセージはよく理解できる。

しかしこれと同じメッセージは、情緒的に未成熟な親からよく伝達されているのである。

たとえば子どもが適当な年齢になっても、不安な親は、子が自分から心理的離乳することを望まない。

そこで子どもは、自分の自立の願望を裏切って、いつまでも母親の「可愛い息子」でい続ける。

自立できない弱々しい息子の役割を引き受けることが、親を喜ばせることになるからだ。

親に気に入られ、ほめられることが何よりも嬉しい自分を裏切る子どもは、いつも親の期待する役割を演じることになる。

自分の要求を唾棄し、親の要求に注力する

「あなたであるな」というメッセージには、もう一つ含まれているものがある。

それは「あなたは実際の自分に気がついてはいけない」という自分を裏切る禁止令である。

ある人の幼い頃の家族旅行の例で説明しよう。

子どもの頃、その人は父と海に行くのは嫌だった。

しかし父が期待していたのは、自分が海に父と行きたいと望むことである。

実際の自分は父と海に行きたくないのだが、そのように望むことを期待されていた。

父親から「あなたであってはならない」と、メッセージを受けていたのである。

それは同時に「あなたは、海に父親と行きたくないという本当の気持ちにきがついてはいけない」という禁止令であった。

実際の自分に気がついてはいけない。

これは大人になって、他人とのコミュニケーションをする際に、大変な障害となる。

人とふれ合えなくなるからだ。

さらにこれにはもう一つある。

「父は海なんて行きたくないのだけれども、息子の自分が行きたいので仕方なく行ってくれるのだ」と解釈しなければいけないのだ。

こう解釈すれば、恩着せがましい父を満足させることができる。

これはつまり、実際の相手に気がついてはいけないということでもある。

実際の父は、子どもとべったりして家族一点張り、ほかに行くところがない。

しかも一人ではいられない人だった。

要するに、実際の自分の気持ちにも気がついてはいけないし、実際の相手の気持ちにも気がついてはいけないということである。

このような経験をしながら成長した人が、他人と心をふれ合えるような大人になるはずがない。

まさに他人とコミュニケーションできない神経質者のような、他者不在の自我状態である。

その人は青年時代、神経質傾向に悩んだ。

その原因はいくつかあるが、その一つに父親から受けたこのような強制的なメッセージがあったのは間違いない。

自分を裏切る人の特徴は、心が他人に支配されるということである。

他人のことが気になって仕方ないのである。

だからいつも心が安定しないで、かき乱されている。

自分を裏切る人の心は、休息を知らない。

自分がない人は、他人との比較でしか自分を捉ええられないので、他人のことが気になって仕方がない。

「あの人にこう思われるのが悔しい」とか、「あの人がいい暮らしをするのが許せない」「あの人だけが甘い汁を吸うのがしゃくにさわる」「あの人が得をするのでは私の気がすまない」などと、他人との関係でいつも心が乱される。

つまり、自分の生活がないのである。

これではどんなに偉くなっても、その人生は虚でしかない。

いつも一生懸命やらなければ、と自分を叱咤し、馬鹿にされてはならないと張り詰めている。

だがそのわりには、こころのどこかでいつも退屈している。

一生懸命生きながら、その人生は虚でしかないとは何という悲劇であろうか。

ヒルティーは、自分に荷が勝ちすぎている役割を引き受けると、そのために不名誉を招くばかりではなく、本来その人が果たし得たであろう役割をも果たせなくなると述べている。

自分を裏切る人こそ、荷が勝ちすぎる役割を引き受けてしまうということは、興味深い事実である。

「あるべき自分」が先行するために、どうしても実際の自分には荷が勝ちすぎる役割を引き受けてしまう。

そして挫折する。

その結果、心身ともに様々な症状が出る。

実際、そういった人は子どもの頃、従順なよい子であったケースが多いのである。

幼い頃、人は誰でも周囲の人の好意を欲しがる。

その好意を得るためにはどのようにしたらよいか、子どもはそれぞれ学ぶ。

その中で従順な子どもは、愛を得る方法とは、お行儀よく振る舞う、邪魔しない、自己主張しない、騒がないということだと学習した。

愛を得なければ自分の存在には何も意味がないと子どもは感じる。

そのために従順にしているのである。

従順な子どもは、自分が無視されたり否定されたりすることを恐れているのである。

心を病む自分を裏切る人というのは、子どもの頃「よい子」であった人が多い。

手のかからない、反抗しない子は、未成熟な親や支配的な親、自己中心的な親にとっては、素直なよい子に思える。

そんな親は、自分の心の葛藤に心を奪われているから、子の心を理解する能力を持っていない。

そのため、この子は手のかからない子なのではなく、子ども自ら手をかけられないでいるのだ、ということに気がつかない。

子どもからすれば、親の要求を一方的にかなえるだけの存在なのである。

子どもは自分の親への要求をすべて放棄している。

本当は親に対して、自分の顔を見てほしい、自分の話を聞いてほしい、自分を可愛いと言ってほしい、自分と遊んでいることが一番嬉しいと言ってほしい、自分を抱いてほしい、もっと自分を求めてほしい、とさまざまな要求がある。

しかし子どもはそれらの要求をすべて放棄しているのである。

そして素直なよい子は逆に、一方的に親の要求をかなえることに神経を使っている。

自分の存在を確認してほしいという切実な願いを放棄して、親の要求をかなえることにすべてのエネルギーを使う。

これらの子どもの要求は、人間にとって本質的なものであるから、この時期に実現されないからといって消えてなくなるものではない。

一生の間、無意識の領域から生涯にわたって、その子を支配し続ける。

結婚してもその要求は心の中で実現を求め、配偶者に歪んだ形で突き付けられることになる。

いつも不機嫌で配偶者に絡んだり、束縛したり、嫉妬したりするのは、小さい頃実現されなかった要求を、さまざまな形で結婚生活の中で実現しようとするのである。

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自分を裏切ることをやめるには

自分の気持ちに正直になる

たとえば、自分を裏切る人は人前では堂々としていなければいけないという思考をもっているとする。

しかし、正直な本当の自分は震えたいし、呼吸も荒くしたいし、緊張感で押しつぶされそうである。

そういう人が自分を裏切るのをやめるには、人前で震えて、呼吸も乱れて、緊張感全開で臨む他ない。

それが自分の気持ちに正直になるということである。

大人になったあなたを見ている人たちは、「なんだ、緊張してるな。」くらいしか思っていない。

つまり等身大の自分で人と接する。

すると生きることが楽になる。

一緒にいてリラックスできる人からヒントを得る

一緒にいてリラックスできる人とのつながりは大切にしたほうがよい。

一緒にいてリラックスできる人とは、自分の弱みを見せられる人である。

つまり、等身大の自分で接することができる人である。

その人と一緒にいる時は自分を裏切っていない。

一緒にいてリラックスできる人からは自分の弱みを見せてもいいんだ。という思考の決定づけを手助ける勇気を与えてくれる。

まとめ

いつも素直で明るいよい子は自分を裏切る人。

親からの愛情を受けたいからよい子になる。

よい子になるとは、精神的な自虐行為で生きるのが辛くなる。

自分の気持ちに素直になることで、生きることが楽になる。

一緒にいてリラックスできる人から自分を裏切るのをやめるヒントを得よう。