自己主張の適切な方法

自己主張とは、自分の思っていることを相手に渡す事であり、何が起きているか、責任を明確にすることだ。

自己主張が苦手な人、といっても、会社の上司や友達になど場面によってその度合いは様々であるが、それによって気分を落としている人もいると思う。

なかでも、幼少期から利己的にならず、思っていることを理性で抑えつけているいい人は自己主張に苦しむ。

しかし、自己主張の練習をし、うまく思っていることを伝えられるようになると、他者との関係は良好なものになる。

その自己主張の方法や練習をここに記した。

自己主張の第一歩

1.自分が何をしたいか言わないことは自分を不当に扱うことだ。

沈黙して自分を虐待していた事実を認めよう。

それを間違いだと見なして初めて、その習慣を破り、何がしたいかをはっきり要求できるようになる。

2.もうこんなやり方で行動しないと決意する。

「今後は相手に何を望んでいるかはっきり言うつもりだ」と自分自身に言う。

それを書きとめ、貼っておく。

3.友人の支えを得る。

自分には自己主張の点で問題があると友人に告げよう(彼はおそらくすでに知っていて、同じ問題をかかえているだろう)。

こんなふうに自分の弱みを見せて、なんとか支えになってあげようという相手の気持ちを引き出す。

もし自分の沈黙のせいで過去に友人関係を損なっていたとしたら、謝りながら告げてもいい。

たとえば、「ごめんなさい。私は今まで自分がほんとうはどうしたいか、あまり言ってこなかったわね。あなたは私のことをわかってくれようとしていたのに。もう二度とそんなことはしないつもりよ」というふうに。

この三つの行動で、自然に言いたいことが口から出てくると保証するわけではない。

習慣は、なかなかなくならない。

問題の核心は、人の目にかなういい人でいようとする訓練から来ており、自分をいつも誤った方向に導いてきた三つの前提にあるのだ。

自分を愛することと自分勝手は違う

私たちいい人は両親から、献身的で、利己的でなく、いつも人を優先するようにと教えられてきた。

だから、自分自身のために何かしようとするときはいつも、たとえ人のためにあれこれして自分が疲れ果てていたとしても、「今、自分はいい人ではない」という声がする。

このように、いい人は自己愛と自分勝手は同じものだと完全に勘違いしているが、それは全く別のものだ。

利己的だと、あまりにも自分のことで頭がいっぱいなので、人の権利や要求を考えることができないはずだ。

しかし、いい人は人との精神的な結びつきを誤解していて、自然な関係は与えることだけに基づいていると思い込んでいるため、与えることと得ることのいずれにも基づいているというふうに考えない。

精神的に不安定な子どもや若い人は、健全な関係に必要なバランスをとろうとして、四苦八苦するのはよく知られた事実だ。

子どもは利己的になりがちだから、彼らが成熟するまでには-充分大人になるまで待つしかないだろうが-それが叶うとしても、代価は支払わなければならない。

逆説的だが、子どもは自分のことで頭がいっぱいであると同時に、無意識に利己的な自分を責めていて、自分自身に対してあまりいい感じをもてない。

両親から利己的にならないように望まれてきたためだ。

だが、自己愛には、自分自身を愛するのと同じような微妙なバランスで、周りの人を愛するように要求する性質がある。

つまり、他者と自分自身の両方につくせない状況のとき、どちらにつくすかを選ばなければならないという意味だ。

ときには、相手の要求が自分より強いから、都合がいいから、今度は自分が気をつかう番だからといった理由で、他者を優先させたりする。

またあるときは、自分の要求のほうが強いし今度は自分が気をつかってもらう番だからと判断して、自分自身を第一にし、何を望むかを相手に告げることになる。

自己愛には自分自身のための利己的な要求はつきものだし、それが自然だという事実は知っておいたほうがいい。

単に利己的なのか、それとも自己愛へのほんとうに深い知識をもってバランスをとっているかのいずれにしても、自分のためになることに逆らう行動はできないものだ。

また、明らかに私欲を超えて誰かのために何かを犠牲にする場合でさえ、それは見かけほどすばらしいものではない。

しかし、そういった要求もまた、利己的でも不健全でもないばかりか、実際にほんとうの自分になるためには欠かせない大切なものなのだ。

もしあなたが相手に、自分が何をしたいか進んで言えるなら、利己的ということにはならない。

相手と自分自身への愛を反映させるやり方で、自分自身の関心事を追求すればいい。

そして、これこそまさしく、私たちが人間関係に望むところではないだろうか?

大事な人には弱みを見せる

もしあなたがいい人になるように育てられたのであれば、おそらくできるだけいい印象を与えるように、弱みを見せないように、苦しんだり泣いているところを人に見せないようにと教わったはずだ。

そのため、関心のある人に誠心誠意かかわることは、冒険だし不可能だといつも思ってきた。

だが、そうではない。

誠心誠意かかわることは自分が本来の在り方になれる重要な鍵となる。

大切な人と誠心誠意かかわろうとするなら、相手に自分の弱みを見せることだ。

弱みを見せれば、「私はあなたに関心があり、信頼をおいていて、私への関わり方を尊重しています」と相手に知らせることになる。

残念ながら、私たちの多くは、どんな場合も相手に充分わかってもらえるほど、自分の弱みを見せることはない。

感情を抑え、何をしたいか言うことを抑えて、用心深く自分を守る。

その結果、ほんのわずかしか自分のことを言葉にできないから、かかわり方は部分的になる。

そのため、家族や友人にすら近しい感じが持てず、しばしば自分や彼らの感情面がかけていると感じるはめになる。

人が自分の人生に豊かさを与えてくれるチャンスを逸し、喪失感から自分は未熟だと感じてしまう。

行動レベルからいうと、誠心誠意かかわるのは、単にうわべや正確な情報、人あたりのよさだけでコミュニケーションするよりも、人にもっと自分をさらけ出すことである。

つまり、期待を含む自分の考えや意見(たとえ自分自身が不安なことでも)を相手に知らせ、より深い心のレベルでは、自分の弱さや不安について正直であるという意味だ。

自分が何を恐れ、何を必要としているかを相手に知ってもらえてはじめて、自分をわかってもらえるし、あるがままの自分とかかわってもらえるようになる。

ある年に、麻薬をやり、売ってもいる十代の少年の父親がセラピストのところにやってきた。

彼は怒っていたが、息子に起こっていること、彼とのコミュニケーションがほとんどとれないことについて苦しんでいた。

彼は息子のために、自分が強く完璧であるイメージをいつも保とうとしてきたと打ち明けた。

彼はまた、職場での自分の評判を気にしていたことも認め、彼自身にとって、息子の非行を認めるのはどんなに苦しかったかを話してくれた。

セラピストたちは、彼の不安や彼にとっていちばん大切なものは何かについて話し合った。

やがて、彼は息子に向かってこう言った。

「おまえのために、親として失格だと思われるのを私はとても恐れてきた。おまえとの間にはずっと私の不安があったことは残念だ。だが、おまえを愛しているよ。だから、おまえが人生を台無しにしてしまうのではないかと心配なんだ。すぐにでも助けを求めてもらいたいんだ」

この数年間で初めて、彼は息子のゆっくりだが確実な回復が始まった。

人と誠心誠意かかわるには、自分自身のすべてを相手に語らなくてはならないというつもりはない。

最も近しい人でも、自分の暗い側面のぞっとするような細部や、今までもっていたグロテスクな幻想、恥ずかしいことまで知らせる必要はない。

だが、どんなときでも、関係性に見合う、その問題に適した、その瞬間のほんとうの自分を相手に知ってもらった方がいい。

そのためには、ほどよい、だが徹底した正直さが要求されるのだ。

話し方は、相手とのかかわりの度合いを左右する。

もし漠然とした話を漠然と話せば、相手との深いかかわりを避けることになる。

言葉遣いを変えれば、自分をもっとはっきりさせ、わかってもらうことができる。

誠心誠意かかわることが、すべての方法、手段、テクニックにおいていちばん重要なわけではない。

それは関係を維持する一つの方法にすぎない。

わかりやすくいえば、それは自分がどう感じ、相手に何を望んでいるか、ほどよく正直に言うことで、日常のあらゆる状況の中で自分の心を開くやり方だ。

自分のくもりのない日常茶飯事を通して、相手に信頼を与える親密さだ。

誠心誠意でかかわることは自己防衛とは違う。

関係のための基盤をもち、何を望んでいるかを人に気軽に言う時に欠かせないし、もしあなたが自分自身を受け入れ、本当の自分を尊重する気持ちをもつなら、いつも簡単につくれる状態だ。

もう一度、無条件に受け入れ、与えることの本来の意義を思い起こしてみよう。

個人的な充足感と人間関係の質は、自分のかかわり方で決まる。

心から相手とかかわるとは、何を望んでいるかを相手に言い、自分も自由になる意味だと知ってほしい。

我を通すことと自己主張は違う

いい人は、両方のスタイルを区別できず、どちらも否定的に見てきた。

二つの違いがわかれば、自分が何をしたいかを気軽に言えるようになる。

我を通す(アグレッション)とは

相手を威圧し、彼らの正当な立場を認めないこと。
ただ自分自身の欲求と価値だけを自己主張すること。
利己的なこと。

自己主張(アサーティブネス)とは

自分の期待を表現し、相手の立場はそのままにすること。
相手と自分の両方の価値を自己主張すること。
自然な自己愛を表現すること。

きちんと礼儀を守ったうえでまともなことを頼むなら、それは積極的自己主張(アサーティブネス)になる。

自分の要求を相手に強引に押しつけて嫌気を起こさせるのではなく、自己主張によって、相手に必要とされていると感じさせ、それに応じることで満足してもらえるのだ。

自分が何を望んでいるかを人に言えばすばらしいことが起こる。

実際、相手を尊敬し、お互いの絆を深めることになる。

あなたは自分を進んで愛そうとしているか?

自分が感心のある人に誠心誠意かかわっているか?

丁重なやり方で自己主張しているか?

もしこれらの質問に対する答えがイエスだったら、あなたは自己主張できる行動スタイルをつくりはじめようとしている。

自分の考えを自己主張する練習

家族制度、社会的機関、政府は、ある種の要求をかなえてくれるためにある。

そしてもちろん、私たちは生活するためにそれらを利用しなければならない。

しかし手に入れて当然のものすべてを得るには、他人、知人、同僚、力のある人、家族や最も親しい人に立ち向かわなくてはならない。

彼らに前例のないことをやってもらいたい場合もあれば、ずっとやってきたけれどやめてほしいと望むこともあるだろう。

相手に自分の望みを察してもらい、自発的にかなえてもらうことはあてにできない。

その代わりに、自分が何をしたいかをはっきり、率直に、説得力をもって口に出すことができるコミュニケーション・パターンを意識的にとり、身につける練習をしよう。

健全な主張を学ぶ

相手に何かをやめてもらいたい、または何か始めてもらいたいと自己主張する際には、否定的に、まわりくどく、操作的に、道徳をふりかざしてはいけない。

むしろ積極的かつ、明確に、率直に言おう。

そのような説得力のある自己主張は、はっきりしているし、正直かつ丁重なので、相手も快くこたえたくなる。

一方、もし自己主張が否定的だと、否定的な反応をつくり出す。

たとえば言い方がまわりくどければ相手が自分なりに解釈しなければならないので、負担をかけることになる。

巧みに操ろうとすれば、相手を怒らせ抵抗させることになる。

道徳をふりかざせば、相手に義務や自責の念から出る行動を強いることになる。

きちんと主張する具体的な例

もし、自然な自己主張と無分別な自己主張の違いがよくわからないのなら、立場を逆にしてみよう。

誰かに、まわりくどかったり、否定的だったり、道徳を振りかざして自己主張されたときに、自分がどんな気持ちになるか考えてみるのだ。

次に肯定的な自己主張の例をあげておく。

  • 積極的に、はっきりと、率直に接してほしいのです。
  • 丁重に話しかけてほしいのです。
  • あなたを大切に思っているので、家に帰ってきてもらいたいの。
  • 持っているお金だけを使うようにしてください。
  • 車についてそろそろ決めてください。
  • 出かける時、クリーニングに出してきてもらえないかしら。
  • 委員会の会長を務めてほしいのです。

ひとりでいるとき、自分の権利を自己主張する練習をするといい。

まず小さな期待から始める。

心の中で想像上の相手に、自分が何をしてもらいたいかを告げる。

相手を自然に無意識に感じられるまで、前記のようなせりふを繰り返しながら自分自身に話しかける

あなたはまもなく、自分の望みを自信をもって気軽に言い表し、もっと大きな、もっと深い事柄でも応用できるようになる。

その結果、より多くの期待を得られるだけでなく、人との関係も深まるだろう。

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自己主張の新しい方法を学ぶ

沈黙を命じるのは恐れだ。

沈黙の瞬間、恐れる気持ちに集中してみよう。

自分自身にこうたずねてみる。

「何を自分は恐れているのか?何が自分を死にそうなくらいおびえさせているのか?」

内なる声が語ってくれるまで耳を傾ける。

恐れを感じたくないために、すぐには聞こえてこないかもしれない。

ある日、偶然隣り合わせた一人の女性が、同僚のことを話してくれた。

彼女は相手を尊敬しており、彼も彼女を高く評価していると知っていた。

しかし、彼女が担当する重要なプロジェクトで、彼はちゃんと仕事をしなかったので、彼女は対応に困っていた。

セラピストが彼女に何を恐れているのかをたずねると、すぐに「彼が、私のことを部下をこき使う上役だと嫌っているんじゃないかと思うんです」と返事が返ってきた。

セラピストは「ほかには?」とたずねた。

彼女は、「えー、それからもちろん、もし彼がちゃんとやらないと、プロジェクトは失敗し、私の評判を台無しにするだろうとも思っています」と言う。

セラピストは、こんなふうに言えるかと彼女にたずねた。

「あなたは、私のことを部下をこき使う上役だと、嫌っているんじゃないかと心配なのよ。それに、もしあなたが自分の役目を果たさないなら、プロジェクトは失敗して、すべての責任を私がとることになるかもしれないってふあんでもあるの。でも、あなたに、私たちの目標をめざしてがんばってもらいたいのよ」

彼女が実際にそう告げた結果、彼は謝り、双方とも一緒に働くことをいっそう好ましく感じるようになり、すばらしい満足のいく仕事ができただけでなく、大いに評価された。

口に出して言わないことに気づけば必ず、自分の恐れは何かが浮かび上がり、自分を抑制している原因を突き止めるのに役立つだろう

まず、自分自身で恐れを認め、それから、自分が何かを望んでいる相手にそれを伝えよう。

  • 「こんなことを頼むのは恥ずかしいのですが、私のためにやってもらいたいことがあるのです」
  • 「もし私の望みをあなたに告げれば、嫌われるかも・・・とも思っているんです」
  • 「やっていただきたいことがあるのですが、強引だと思われるのではと心配しています」

強引だと思われそうなら、情報を求める

事実がはっきりせず、めまぐるしく変わるといった予測できない状況では、いい人を沈黙させる事態が起きる。

その状況をつくり出している現実がどうなっていて、自分の権利はどうなのか、しばしばはっきりわからなくなる。

うまく自己主張することは、自分が何をしたいか唐突に言い出すのではなく、今何が起こっているのか、何が自分にとって役立つのか、何が自分の権利なのかを明らかにすることだ。

最初の課題は、質問して情報を得ることかもしれない。

その質問によって、自分が受けて当然のものは何かがわかるかもしれない。

例えば、車のエンジンを見てもらうため、修理工場に行ったときのことだ。

割引券を忘れてきてしまったが、整備士は、「とにかく請求書から四千円値引きしましょう」と言ってくれた(彼はいい客だと知っている)。

しかし、いざレジに支払いに行くと、まったく割引きされていなかった。

彼は割引き券を忘れてきたから、割り引いてくれと言い張れなかったが、整備士の言葉をあてにしていたし、四千円は四千円だ。

騒ぎ立てたり、黙ったままでいたり、失意や怒りで立ち去ったりするのでなく、整備士のところに戻って、割引きのことで自分が勘違いしているのかどうか、丁重にたずねた。

彼の返事が「はい、あなたの勘違い」ですだったとしても、私にはそれ以上何もできなかっただろう。

だが、相手はそう言わなかった。

彼はレジ係にちゃんと伝えなかったことを謝り、責任を持って請求書から四千円を差し引いてくれた。

彼は強引になることなく、自分が望むことをしてもらえた。

情報を求めても人を傷つけることにはならない。

ねばり強く主張する練習

ときには、あなたは抵抗に直面するかもしれない。

自分が何をしたいかについて思慮深く、積極的で、率直であっても、ある人たちは(少なくとも最初は)それを与えたがらないだろう。

それでもあなたは自分の意見に従う必要がある。

たとえば、子どもたちはとても反抗するかもしれない。

こちらの当然の自己主張に抵抗する強い大人(とくに権威者タイプの人)の場合は、こちらもねばり強く自己主張しなくてはならない。

ある人は妻と結婚したとき、学生で、彼女は、有名だが薄給しか支払わない医師の下で看護師として働いていた。

自分たちは彼におびえていたので、自分たちの大切な感情を表わさなかったし、要求を彼に告げることもしなかった。

それから二年以上、彼女は残業代をまったく支払ってもらえなかった。

だいぶ前に、彼は医師を人間として見るようになった。

いい仕事をし、患者を気遣う彼らを尊敬しつづけはしても、もはや神聖視しなくなった。

そして、正当に情報を得たり、治療を受けたりすることに対し、今では彼らに非常にねばり強く自己主張するようになっている。

血液検査の結果、前立腺のがんの可能性が高いとほのめかされ、彼は泌尿器科医にまわされた。

堅いカシューナッツ形の何かが、前立腺のちょうど真ん中にあるのが写真に写っていた。

医師は「これは腫瘍です」と告げて、前立腺全体を検査するためにそれを採取し、さらに10種類の針生検を行いたいと言った。

そこで、「今すぐしたほうがいいでしょう」と彼は同意した。

終わったとき彼は、生検の結果が出るから来週の火曜日に予約を入れるよう私に告げた。

ちょうど金曜の朝で、妻と彼の四人の子どもたちと彼らの家族と一緒に、5時間かかるところへ二週間の休暇旅行に出掛けようとしていた。

彼は医師に、火曜日に旅行先に電話して結果を教えてくれるように頼んだ。

彼はそうしたがらなかった。

医師「私はふつう検査の結果をお電話するようなことはしません」

自分「慣例にないかもしれませんが、どうか例外にしてもらいたいのです。休暇中に行ったり来たりするのは避けたい」

医師「結果があまりよくない場合は特に、お電話ではお伝えしたくありません」

自分「お気持ちはわかりますが、結果がよかろうが悪かろうが、火曜日に電話がほしいのです」

医師「あなたが戻りしだい来院なさるというのではいかがですが?」

自分「それはできません。二週間も悩みたくありません。先生に電話をかけてもらいたいのです」

医師「結果は水曜日でないと出ないかもしれません。ちょうど手術が入りますから」

自分「それでは、手術が終わったら電話をかけてください」

医師「それならお電話できると思います」

自分「どうもありがとうございます。では私の滞在先の電話番号をお教えします」

彼は、自分が何をしたいかについて、ねばり強く自己主張するように提案しているのであって、要求に応じてくれない相手をどなりつけるようにとすすめているのではない。

正当なものを要求するなら、はじめから返答が得られないままにしないように、ベストをつくすべきだと言っているのだ。

それには、あなたは自分が何をしたいかに集中し、彼らが言っていることや感じていることをよく考え、自分の関心事を必要な限り、何度も繰り返すことだ。

もちろん、何を望んでいるかを何度も言ったとしても、相手がそれに同意するとは限らない。

だが、少なくとも彼らはあなたがどんな人かをわかってくれるだろう。

また、あのとき要求していれば、それを得られたかもしれない・・・と、あれこれ考えずにすむ。

さらに、自分が成長した証に拒絶という手段を使うこともできる。

自分の正当な関心事を大事にしようとすることは、あなたが成熟した証拠だ。

しかしそのためには、失望の建設的な処理法も学ぶべきだ。

両方とも成熟のプロセスでの踏み台であり、ある程度のところまでたどりついたしるしでもある。

だが、健全に、ねばり強く自己主張することで、ときには仕返しを受けるときもあると知っておいたほうがいい。

ある年、彼の娘は離婚しようとしていたので、幼い孫は大学を出るまで彼の家に生むことになった。

彼は父親代わりになったので、徹底してはっきりものが言える関係でいこうと心に決めた(娘が子どもだったころはうまくできなかったが、今度は彼のスキルに基づいて行動した)。

彼女が物事を理解できるようになるやいなや、彼はこんなふうに言った。

「夕食の時間だよ。おもちゃを片づけてもらいたいんだ」。

または、「お母さんの言うことをちゃんと聞いて欲しいんだ」。

彼女はすばらしい反応を見せてくれた。

彼女が5歳になった復活祭の朝早く(私にとっては忙しくてストレスのたまる時期だったが)、彼女は私の書斎のドアを開けてこう言った。

「ねえケン(彼女は彼のことを愛情込めてこう呼んだ)、私のきれいな新しいドレスを見てもらいたいの」。

彼は言った。「ぜひそうしたいけれど、今とても忙しいんだ。もう少したってから見に行こう」。

彼女はきびすを返して去っていった。

だがまたすぐ戻ってきて、彼のの袖を強く引っ張りながら、「ねえケン、私のきれいなドレスを今、見に来てもらいたいの」。

彼は言った。

「できるだけ早く行こう。だが、まず今やっていることを終わらせなくっちゃならないんだ」。

また彼女は突然いなくなった。

そして数分後に戻ってきて、今度は彼が仕事に夢中になっているのを見ながら、彼のひざに乗っかり、彼のあごを引き寄せてから、大声で言った。「ねえケン、忙しいのはわかっているけど、私のきれいな新しいドレスを今すぐ見に来てもらいたいの!」

彼女は、彼らからすっかり学んでいた。

彼のねばり強い自己主張の効能で、仕返しを受けたのだ。

彼は彼女のドレスをすぐ見に行ってあげた。

自分が何を望んでいるかを相手に言わせる

いい人は誰でも、自分の期待を口に出すのが難しいと思っている。

相手が自分におびえているとわかったときは必ず、口に出して言ってほしいとはげまさなくてはならない。

「あなたの気持ちが私には大切なんです」と言ってもいいだろう。

相手が求めるものに心を配っていることを確信させ、それから耳を傾けるのだ。

ときには相手は、与えたくないモノや、筋違いの要求をしてくるかもしれない。

しかし、もしその要求が無分別で不合理だったり、不当で度を越していると感じるなら、「悪いが、あなたの要求は大きすぎて、私にはできない」と言えばいい。

たとえ相手の申し出を拒んでも、何が欲しいかをちゃんと言った率直さは認めてあげよう。

そして、もし彼らが言いたいことを口に出すのが難しいと思っていると感じたなら、「あなたにとって頼むというのは簡単じゃないってわかっているよ」とも言える。

自分に近しい人に自己主張させるといくつかのメリットがある。

一つは、ほんとうの望みを言葉で言い表すように彼らを励ますと、さらに結びつきの強い、さらに自由な、さらに興味深い仲間になれる。

お互いの間に尊敬と信頼の土壌をつくり、関係をより強化できる。

また、自己主張したいという自らの要求を思い出すことにもなるので、相手に自由に自己主張させるなら、彼らの行動は自分自身のお手本にもなる。

言い換えれば、「何をしたいかを言いたい」という相手の要求に配慮することは、自分のためにもなる。

もう大丈夫、自己主張できる

こんなひとり言をつぶやくかもしれない。

「自分の基本的な欲求と正当な期待を、もうこれ以上抑えつけたくない。自分が何をしたいか言い始めたい」。

それでも相変わらず、あなたが今まで自分を沈黙させてきた社会的状況に直面していても当然だが、自己主張のやり方をマスターするには少し時間がかかるかもしれない。

しかし、何度も練習すれば成果はきっと上がる。

少なくとも、次のことから始めるといい。

  • 人に何かを望む場合は積極的に、「・・・してもらいたいのです」と率直に告げる。
  • 強引になるのではと思う時には、そう恐れていることを相手に言う。「強引だと思われるかもしれませんが・・・」
  • 自己主張していいかはっきりしないときは、情報を求める。「すみませんが、・・・していただけるかどうか教えてもらえますか?」
  • 当然の望みが受け入れられないときは、ねばり強く自己主張する。「あなたが抵抗しているのはわかりますが、・・・してもらいたいのです」
  • 相手がおびえている場合は、率直に自己主張するよう励ます。「あなたが私に何を望んでいるのか言ってもらいたいのです。怖がらないで」

これらを練習することは、どんなときに自分がしたいことを言えないのかを自覚させてくれるだけでなく、自己主張のスタイルをつくり出すのにも役立つ。

ある状況で、あなたは自分の期待を口に出すのをまだ怖がっていることに気づくかもしれない。

しかし練習を重ねれば、日がたつにつれ、だんだん少なくなる。

さらに時がたつにつれ、もっと楽に適切な自己主張ができるようになり、関係はさらに満足のいくものになるだろう。

もう何がしたいかを言わない態度はやめよう。

それでも、いい人でいられる。

まとめ

いい人は親に利己的にならず相手を配慮することを教えられた。

だから自己主張する時、いい人は罪悪感を感じるかもしれない。

口に出して言わないことに気づけば、今自分が何を抑圧しているのかがわかる。

上手く自己主張することは、自分の要求を突き通すことではなく、今何が起こっているのか、だれに責任があるかを明確にする効果がある。

自己主張の練習を繰り返して行うことで、楽に自己主張できるようになり、他者との関係もよりよいものになる。