自己否定感と痛みへの反応としての「激怒」

怖れや、怒りや、屈辱感や自己否定感がたまりにたまって満杯になったタンク、それが激怒です。

激しい怒りは多くの人にとって、これ以上痛みに耐えたくないという限界の反応なのです。

すっかり絶望して他に方法がないとき、人は自分の言うことを聞いてもらうため、こっちを見てもらうため、価値を認めてもらうために、怒りを爆発させるという手段に出ます。

激怒が生活の中で欠かせなくなっている人もいます。

このような人は子ども時代に、自分の感情の中で怒りだけが唯一安全に表現できるものだと気づいて、他のもろい部分はすべて、怒りの仮面の下に隠したのです。

すぐにカッとなる人の多くは、他のどんな感情の動きもみせません。

何かで引き金が引かれて怒りが噴出するまでは、あらゆる感情にしっかり蓋をしているのです。

だからなんの徴候もなく、突然に、誰かの横っ面に怒りが投げつけられることになります。

たとえば部下の仕事をさんざんにこきおろしたり、レストランやガソリンスタンドの店員に向かって限りない文句を並べ立てたりします。

どんな意見の食い違いにもがまんならず、肩を怒らせて出て行ったり、あるいは暴力や暴言の形をとるかもしれません。

しじゅう怒ってばかりの人というのは実際にいるものですが、この人達は近所や地域でも敬遠されがちです。

一人孤独に暮らしていたり、いつも激怒の犠牲となる家族とともに人づきあいの少ない生活を送っていることも多いでしょう。

どこに住んでもすぐにうまくいかなくなり、引っ越しを繰り返す場合もあります。

怒りで荒れ狂っている人は、はた目からはコントロールを失っているように見えますが、本人はまさに怒りの只中で支配権を握り、力にあふれていると感じています。

怒りを爆発させているときは、もはや自分が無能だとも欠点だらけだとも感じずにいられるのです。

激怒の背景には、これ以上傷つく体験をしないよう自分を守りたいという思いがあります。

怒りの爆発は、偽りの力の感覚(けれど本人にとっては魅力的な感覚)によって無力感や自己否定感を埋め合わせようとする行動なのです。

怒りが、空しさや無力感や痛みから自分を守るためにとれる唯一の方法だとしたら、人はそれに飛びつきます。

怒りを表すことは、人々を遠ざけて自分を守るという効果もあります。

そうやっていれば、自分では醜いと信じている内面を他人に見られずにすむわけです。

怒りの爆発には、自己否定感を他人に移し替えることで自分を守る効果もあります。

あからさまに怒りを表わす人は、犠牲者になりそうな相手、つまり虐待を耐え忍び自己否定感を背負いこんでくれそうな相手を選ぶのです。

激怒は、表現することを決して許されなかった怒りが積み重なった結果として出てくる場合もあります。

抑え込んだ怒りは、心の中に根づきます。

それは時と共にふくらんで、しつこく居座った恨みとして化膿するかもしれないし、もっとよくあるのは、慢性的なうつにおちいる場合です。

こうして怒りのはけ口がない状態が続くと、あるときいきなり敵意に満ちた行動として爆発し、暴力行為や殺人に至ることさえあります。

こうした行為は、痛みに耐えられず、葛藤を解決できず他の選択肢に気づくことができずに、感情が蓄積された結果なのです。