自己物語が変わると世界もひっくり返る

自己物語が変わるとは

人生の意味がわからない

「人生の意味とは何か?」などと改めて口にすると、浮世離れした哲学じみた議論に聞こえるかもしれないが、じつはこれはだれもがたえず自分自身に問いかけていることでもあるのだ。

もっとも、人生の意味というのは、こんな意味があるといった正の形で意識されるより、意味がないといった負の形で意識されることが多い。

ゆえに、人々の口をついて出てくる言葉も、「自分はこんな人生の意味を感じている」のような肯定的なものでなく、「自分はどうも人生の意味がわからない」のような否定的なものであるのがふつうだ。

伝統による縛りから自由になった現代人が、自由と引き換えに失ったのが、心の安定だ。
社会心理学者のフロムが『自由からの逃走』において見事に指摘したように、伝統的なものに縛られない自由さは、人々に根なしの状態をもたらす。
根なしの不安に耐えながら、自分自身の責任のもと、行くべき方向を、充実すると思われる生き方を探し出していくには、強靭な精神力が要求される。
多くの人は、そうした重圧に耐えかねて、再び安易な従属の道を選ぶ。

だが、伝統的な価値観や生き方が否定され、破壊された後の世界を生きている僕たちは、どこからか適当な価値観を探し出してきて、自分の物語を築き上げなければならない。
何とかして、人生に意味を与えてくれる、自分を世界につなぎ止めてくれる物語をもたなければならない。
宗教が拠り所となっている文化圏では、その宗派のもつ物語が個人を社会につなぎ止めてくれる。
だが、宗教による規定力が乏しい日本では、こうした時代の混乱には計り知れないものがある。

そんな時代だからこそ、多くの人たちは、金儲けや出世への没頭、マイホームなどの物質的追求への没頭、音楽への耽溺、性的耽溺、インターネットの世界への耽溺、新興宗教など思想団体への帰属など、我を忘れさせてくれ、根なし不安から束の間でも解放してくれる現実逃避の場を求める。
自意識を麻痺させること、自分と極力向き合わないようにすることで、不安に直面するのを避けようとする。

でも、いくら逃げたところで、自分の人生の意味がつかめないことによる不安から解放されることはない。
ふと立ち止まった瞬間に、「自分の人生は何なのだろう?」といった問いがふと頭をもたげ、答が見つからないために不安になる。
不安なままでは耐えられないので、自分と向き合う自意識を断ち切ろうとするかのように、音楽に身を任せたり、友達との電話やインターネットでのメール交換に没頭したりする。
こうして現代を生きる多くの人たちは、自分自身から遠ざかっていく。

出来事の羅列の世界から意味ある世界へ

自分のまわりでは、日々いろいろな出来事が起こっている。
友達との会話とかドライブの最中に起こしてしまった事故のように直接自分が巻き込まれている出来事から、道端で目撃した出来事、さらにはテレビや新聞のニュースで知った出来事まで、距離感はさまざまだが、いろいろな出来事を経験している。

でも、そうした出来事をまんべんなく自分のものとして取り入れるわけではない。
身近なところで起こったことでも、マスメディアを通して知ったことでも、とくに自分にとって意味があると思われる出来事を自分の世界に取り入れていく。

生きる文脈が機能しないことには、世界は成立しない。
個々の出来事は、意味のある文脈の中に置かれることによって、はじめて安定した意味をもつことができるのだ。

文脈の中に置かれる前の出来事は、個人にとっては何の意味ももたない事実の羅列にすぎない。
そうした出来事の羅列の世界は、言ってみれば離人症の世界のようなものだ。

離人症患者の典型的な訴えとして、精神医学者の木村敏が例示しているように、周囲の世界が無意味化し、バラバラになってしまうということがある。
絵を見ても、いろんな色や形がただ目の中に入り込んでくるだけで、何の内容も意味も感じない。
つまり、絵という有意味な全体を鑑賞することができない。
テレビや映画を見ても、細切れの場面場面はしっかり見えているのに、全体の筋がわからない。
つまり、ストーリー性をもった全体の流れを楽しむことができない。
自分というのも同様で、瞬間ごとに違った自分が何の規則もなくてんでバラバラに出ては消えていくだけで、今の自分と前の自分との間に何のつながりもない。

ここから言えるのは、僕たちのまわりで起こっている出来事というのは、それだけではただ無意味な出来事が羅列されているだけであるということ。
そして、こちらから、つまり見る側がある物語的文脈の網をかぶせることによって、それらバラバラな出来事の間に有意味な連関がつくられ、個々の出来事も意味を帯びてくるということである。

このように、人は物語的文脈を抜きに現実と接することはできない。

身のまわりの出来事、自己のさまざまな経験をまとめ上げるのが自己物語であり、それを獲得することで僕たちは意味のある世界の住人となる。

自己物語が、諸々の経験を統一的な意味の流れのもとに整理してくれる。
自己物語を通して、人は目の前の現実や自分自身を意味づけることができる。
それが、現実の出来事や自分を理解するということなのだ。

世界の意味づけは人の心が生み出す

目の前で起こっている出来事そのものに意味があるのではない。
それによって、見る側の心に何が喚起されるかが問題なのだ。
喚起されたものが意味を構成していく。

同じうまそうなステーキでも、腹がペコペコのときと、うまいものをいっぱい食べた直後の満腹時とでは、見る側に喚起するものは180度違ったものとなるはずだ。
記録的な雪が降り積もったいちめんの銀世界も、スキーをしにやってきた人に喚起するものと、そこで生活している人に喚起するものとは、大きく異なっているだろう。

何が喚起されるかを決定するのが、見る側が抱えている物語的文脈である。
見る側が物語的文脈を投げかけることで、個々の出来事が意味を獲得し、意味のある世界が目の前に広がってくるのだ。

何かが喚起される以前の裸の出来事そのもの、そのままの現実、ありのままの世界を見る目などというのはあり得ないし、そんな世界を生きるということなど考えられない。

映画や漫画の切り離された一コマを見せられても、前後のコマをいくつか見せてもらわないことには、いくら想像力を働かそうとしても、そこに描かれている場面の意味がなかなかつかめないのと同じだ。
僕たちは、ある特定の視点をとらないかぎり、意味ある世界を体験することができない。

どんなストーリーの映画なのかについての情報が与えられれば、ある一コマが何を意味する場面なのかを推測することが可能となる。
それと同じで、ある自己物語を手に入れ、その文脈を目の前の現実にあてはめることで、身のまわりの出来事に意味を見出すことができるようになる。

日々の生活に意味が感じられない、無意味な毎日が虚しくてしようがないという人は、目の前の現実に意味を与える文脈として機能する自己物語をもっていないのである。

毎日が虚しいのは、意味を感じさせてくれない現実に問題があるのではなくて、現実に意味を与える文脈を投げかけることのできない自分自身に問題があるのだ。

気持ちのもちようで色あせていた世界が輝いてくるなどと言われたりするのも、こうしたメカニズムをさすものと言える。

世界と自分を意味ある形につなげてくれる自己物語をもつことで、目の前の世界に意味があふれている。
意味を経験する前提として、現実の出来事と自分をつなぎ、世界を意味づける物語的枠組みを獲得する必要があるというわけだ。

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自己物語というアイデンティティの構築

文脈がアイデンティティを構築する

ラベルづけが記憶を変容させる

心理学者カーマイケルらの記憶の歪みに関する古典的な実験では、ラベルづけが記憶に影響することが証明されている。
そこでは、同じ図形に対して二種類のラベルを用意し、ある人たちには一方のラベルのもとにその図形を提示し、別の人たちにはもう一方のラベルのもとに同じ図形を提示し、後にその図形を思い出して描くように求めている。
その結果、見たラベルによって、再生された図形に見られる元の図形からの歪みの方向に明らかな違いがあった。

たとえば、二つの円を一本の直線でつなげた図をメガネというラベルのもとに提示された人たちが後に再生した図は、ダンベルというラベルのもとに提示された人たちが後に再生した図と比べて、直線の部分が短くなっていた。

つまり、同じ図を見ても、後に思い出しながら描いてみると、メガネを意識して思い出した人はよりメガネらしい図を、ダンベルを意識して思い出した人はよりダンベルらしい図を描く傾向がみられたのである。

このような結果は、人の記憶というものが、写真などとは違って、ものを忠実に写し、再生するのではないことを示している。
つまり、人の記憶は、意味とともにある。
意味を意識しつつ、その意味にふさわしい思い出し方をするのだ。

単なる文字や図形であっても、このように文脈によって見え方が違ってくる。
想定する意味によって見え方や思い出し方が違ってくるのである。
オリジナルの形がはっきりしているものでさえそうなのだから、他者の態度や言動といった形の定まらないものでは、文脈効果が猛威を振るうのももっともなことである。

対人関係にも文脈が影響する

文字や形といった物理的刺激をとらえるにも、文脈の持つ意味の影響が大きい。
ましてや人間関係的事象をとらえる際の文脈効果の力には絶大なものがあるに違いない。

コンパで盛り上がって、さあ二次会に繰り出そうというとき、「今日はちょっと体調が悪いから、これで失礼します」と帰ろうとする部下に対して、上司が内心抱く反応は、その部下との関係をその上司がどうとらえているかによって違ってくるだろう。

その上司が両者の関係を良好なものととらえているなら、コンパ中のちょっとしたしかめっ面を思い出して、「ほんとうに体調が悪そうだったな。大丈夫かな」と気遣うかもしれない。
だが、両者の関係があまりうまくいっていないととらえた場合には、コンパ中の楽しげにはしゃいでいた様子を思い出して、「あんなに元気にはしゃいでいたのに。体調が悪いなんて口実だな」と勘ぐるかもしれない。

ほんとうに体調が悪かったかどうかといった事実は、相手には知りようがない。
人間関係上の出来事は、このように事実にあてはめる文脈によって大きく左右され、そうした文脈の上で進行していく。

仲の良い友達同士とか、親子間、夫婦間といった身近な間柄でも、すれ違いなど日常茶飯事だ。
こちらがずうずうしくならないように遠慮したことが、嫌がって断ったと曲解される。
親愛の情を表すジョークのつもりで言ったことが、悪意のこもった嫌味と受け取られる。
親切のつもりでしてあげたのに、余計なおせっかいだと言われる。
人間関係の波乗りをして暮らしている人は、こうしたすれ違いを毎日のように経験している。

人の言葉や態度は、どのようにでも解釈することができる。
好意的な文脈のもとに置けば楽しいジョークに聞こえる言葉も、非好意的な文脈のもとに置かれたとたんに悪意に満ちた嫌味に聞こえてしまう。

相手が病み上がりで調子がとても悪いという事情を知っていれば、そうした文脈に沿って相手の言動を意味づけることができる。
だが、そんな事情を知らなければ、病み上がりの文脈が機能しないため、気乗りしない様子を見て、「何か不満でもあるのか」「なんか感じ悪いなあ」といった反応になってしまうかもしれない。
誤解を避けるには、こちらの動きを支配している文脈を相手に知ってもらうことが大切だ。

人間関係のトラブルというのは、案外こうしたお互いのもつ物語的文脈の食い違いから生じるものなのではないだろうか。

性格判断にも文脈が働く

人の性格を判断するときにも、このような文脈の威力が発揮される。

たとえば、まだどんな人かよく知らない人物に関して、頭が良いということが確認されたとする。
その瞬間、ある人は「なんか冷たそうで付き合いづらいなあ」と否定的な印象をもつかもしれないが、別の人は「話の分かる人かもしれない」と好意的な印象をもったりする。

同じ情報をもとにしながら、なぜ正反対の方向に印象がつくられるのかといえば、それぞれの印象の根拠がじつは相手でなく見る側の心の中から引き出されたものだからである。

小中学校時代に、頭の良いクラスメイトの利己的な言動を見せつけられた人は、知的な人というのは利己的で他人に対して冷たいものだという思い込みを持っていたりする。
そういう目で見ると、頭の良い人の示す行動にも利己的なものもあればそうでないものもあるはずだが、どうしても利己的な行動ばかりが意識されがちとなる。
その結果、頭の良い人、知的能力の高い人というのは、独立心や責任感が強く、仕事の面では頼りになるけれども、競争心が強すぎて、自己中心的で、思いやりがないといった勝手な性格観を暗黙のうちに身につけることになる。

このような暗黙の性格観を身につけた人は、ある人物に関して頭が良いという情報を仕入れると、競争心が強いとか、自己中心的であるとか、思いやりがないとかいった未確認の性格までも、その人物がもっていると信じ込んでしまう。

反対に、子どもの頃、成績の良いクラスメイトが引っ込み思案で要領の悪い自分になにかと気を配ってくれ、いろいろと相談に乗ってくれたという経験を持つ人は、知的な人というのはものわかりがよく他人のことをよく気遣ってくれるといった、これまた勝手な性格観を暗黙のうちに身につけることになる。
そのような人は、ある人物に関して頭が良いという情報を仕入れると、人の気持ちがよくわかる、面倒見がよい、便りがいがあるといった未確認の性格までも、その人物がもっていると信じ込んでしまう。

実際には、ひとくちに知的な人、頭の良い人といっても、利己的で冷たい人もいれば、心の温かい思いやりのある人もいるはずである。
しかし、目の前の人物を得体の知れないままにしておくのは気持ちが悪い。

そこで、手っ取り早くシロクロつけようとして、過去経験をもとにした文脈効果を利用することになる。
そこで、暗黙の性格観が猛威を振るうことになる。
いったんできあがった印象は、その後その相手を見る目に色付けをしてしまうから、自分勝手な暗黙の性格観によってつくりあげられた印象を修正するのは難しい。

人はふだん、かかわっている周囲の人たちの性格を判断しながらつきあっているわけだが、その人のものと思い込んでいる性格の相当部分が未確認の性格なのではないだろうか。
人は、目の前の人を見ているつもりでありながら、じつは自分の頭の中に住んでいる架空の人物を見ているのかもしれない。

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自己物語の作られ方

自己物語が人生を形作る

自己物語をもつことで意味ある生活が送れる

文脈のもつ威力を実感することができただろうか。
物語的文脈こそが、僕たちの人生に意味を与えてくれるのだ。
人生の意味の探求というのは、じつは自分好みの物語的文脈探しであり、それを自己物語として身にまとって生きることなのである。
そうすることで、日々の経験に意味を感じることができ、生活が意味で満たされる。

自己物語が、バラバラに散らばっている僕たちの経験や身のまわりの出来事を意味のある流れに沿って並べてくれる。
そうした文脈のもとに、自分の身に降りかかった出来事や自他の行動のもつ意味が解釈される。
つまり、採用した自己物語の文脈に沿って生きている世界が意味づけられていく。
そこに、人生の意味が立ち現れてくる。
人生の意味というのは、物語的文脈が生み出してくれるものなのだ。

個人が感じている人生の意味が正しいかどうかということは、原則として問題にはならない。
先に文脈効果について見たように、採用する文脈によって目の前の出来事や自他の行動の解釈の仕方は異なってくる。
どの解釈が正しいかという問題ではない。
そんな判断は、誰にも成し得ない。
現実というのは多義性をはらんだものであって、文脈によって多様な描写が可能である。
つまり、いろんな解釈があり得るし、どの解釈も間違いではないのだ。

ルビンの壺
ルビンの壺

上の図(「ルビンの壺」)は、杯にも見えるが、向き合った二人の顔にも見える、有名な多義図形のひとつである。
杯というのもひとつの見方だし、向き合った二人の顔というのもひとつの見方だ。
どちらが正しくてどちらが間違っているというようなものではなく、見ようによってどちらにも見える。
人生の意味というのも、じつはこの多義図形のようなものだというわけだ。

人によって、人生の意味づけ方はさまざまである。
自分と全く違った人生観をもって生きる人などまわりにいくらでもいるだろうが、それを否定することはできない。
何に生きがいを感じるかは個人の自由だ。
ならず者が政治結社に入ることで規律正しい生活をはじめ、ある種の使命感を得て生き生きしてくるということもある。
無気力青年が、よりよい社会の実現を目標に掲げる新興宗教集団に入信することで、使命感に燃えた意欲的な活動家になることもある。
周囲の人たちに危害を加えるものでないかぎり、人生のどのような解釈も、つまりどんな自己物語をもつことも、否定するわけにはいかない。

いずれにしても、自己物語をもつことで、日々の生活が意味でみたされてくる。
自己物語が自分を意味ある形で世界につなぎ止めてくれる。
それによって、人は社会の中に自分を位置づけることができ、将来展望をもつことができるようになる。
これが、いわゆるアイデンティティの確立につながる。

アイデンティティを確立するというのは、自己物語を身にまとうことなのだ。
こうして、自己物語を手に入れた人は、自分の人生に生きがいを感じることができるようになり、世界に対する使命感のようなものさえはっきりと、あるいはほのかに感じ取ることができるようになる。

身にまとった自己物語を脱ぎ捨てる難しさ

採用している自己物語、人生に意味を与え、生活に張りを与えてくれている自己物語が、社会的に望ましくない性質のものである場合もある。

たとえば、世界救済とか革命とかを掲げ、破壊的な行動に出る組織のもつ物語を自己物語として身にまとっている場合、本人としては使命感に燃え、組織から与えられる任務にやりがいを感じ、日々の生活は偉大な意味に貫かれていると信じることができ、充実した生活を送ることができているであろう。

しかし、その組織が犯罪性を帯びたものであり、そこでの使命感に基づいた行動が世の中の人たちに迷惑をかけたり、危害を加える性質のものであるなら、そうした自己物語を脱ぎ捨てることを求められるかもしれない。

だが、いったん身にまとい、生活を意味で満たしてくれている自己物語を脱ぎ捨てるには、大きな抵抗が伴うのがふつうだ。
周囲から批判されるような物語的文脈であれ、それを用いて現実を秩序立てることで、自分の日々の生活に意味を見出すことができているのである。
周囲の出来事や自他の行動を秩序立てて解釈する枠組みとして機能している、そうした物語を失ってしまったら、生きている世界の諸々の出来事や経験はバラバラに解体してしまう。
そこには、もはや何のまとまりも見られず、意味というのを感じることなどできない、虚無的な世界が立ち現れることになる。
それはとても恐ろしいことだ。
せっかく手に入れたはずの人生の意味を見失ってしまうのであるから。
抵抗を示して当然と言える。

採用していた自己物語を脱ぎ捨て、新たな自己物語を獲得するまでの混乱の期間は人生にとっての大きな危機であると言ってよいだろう。

自己物語が変われば現実の意味も変わる

自己物語の文脈が現実のさまざまな出来事に意味を与え、また個々の出来事の間に意味のあるつながりをもたらす。
そうであれば、現実を生きる枠組みとして採用している自己物語が変わることで、個々の出来事の意味も変わってくるだろうし、人生の意味も違ったものになってくるはずである。

燃え尽き症候群と言われる現象は、仕事上の役割が大きく変化したり、人生の展望に大きな変化が生じたりしがちな成人期半ばに起こりがちな自己物語の破綻を意味するものと言える。

たとえば、与えられた職務を忠実にこなすことは、会社のためであるばかりでなく、自分のためにもなり、社会のためにもなっていると考え、私生活を犠牲にして一生懸命働いてきたとする。
はじめのうちは、がんばって働けば働くだけ給料も上がるし昇進もするということで、個人的にも報われていたため、何の疑問ももつことなく走り続けた。
ところが、あるところまでくると、報われる人と報われない人が出てくる。
組織のピラミッド構造のもとでは、地位的に上の方に行くほど報われる人はかぎられていく。
中年期くらいになると、多くの人は「先が見えてきた」と淋しそうにつぶやき始める。

そうなると、自己物語の転換が必要となる。
会社のために働けば働くほど自分自身も報われ、将来に明るい展望が開かれてくるといった物語に、もはやすがりついているわけにはいかない。
自己物語の拘束力がゆるむと、いろいろなことがらのもつ意味が違って見えてくる。

会社の仕事は社会のためになっていると信じ込んでいたが、どうも必ずしもそうでないようにも思われてくる。
単なる営利追求に奔走していただけなのかもしれないといった疑問すら湧いてくる。
趣味ももたず、友達とのプライベートな付き合いも最小限におさえ、家族との生活も犠牲にして、仕事に没頭していたこれまでの生活が、急速に色あせてくる。
アフターファイブや土日に趣味を楽しんだり、家族とのんびり過ごしたり、友達と飲み会だ旅行だと楽しく遊んでいた連中のことなど、これまでは眼中になかったのだが、急にうらやましく思われてくる。

自己物語とズレている経験も汲み上げる

身にまとっている自己物語が息苦しく感じられることがある。

日々気持ちよく過ごすには、自分の経験していることをうまく説明できる自己物語を身にまとうことが大切だ。
現実は流動的で、人々が置かれている状況はたえず変動しつつある。
そうした流動的な情況に適応しながら生きている人々は、自分の置かれた状況を適宜とらえ直し、それに対応すべく自己の態勢を組み直していかなければならない。

自己物語が硬直化すると、いつの間にか経験から疎外されてしまう。
僕らが息苦しく感じるのは、そんなときだ。

心理学者のロジャーズは、自己概念と経験のズレが小さいことが健康につながると言う。
あらゆる経験に対して開かれ、どんな経験をもありのままに意識化できる柔軟な自己概念をもつことが健康につながるというのだ。
「ありのまま」という言い方には抵抗があるが、ここでは「自分なりに納得のいく」というように読み換えておきたい。

ロジャーズは、経験と自己概念のズレに関して、夫に見捨てられた母親に育てられた娘の例をあげている。
彼女には、もちろん母親と自分を見捨てていった父親を憎む気持ちもあった。
だが、血のつながりのある実の父親に対する懐かしいような温かいものをどこかで感じていることもあったのであろう。
しかし、母親とのかかわりの中で形成されてきた自己概念に縛られて、肯定的な感情は防衛されて意識にのぼらず、憎しみばかりが意識されていた。

そのような女性がカウンセリングを受けにやってきたわけだが、カウンセリングが進むにつれて、ありのままに自分の経験を感じ取ることができるようになってきた。
つまり、母親が夫を憎み、娘である自分にも父親を憎んでほしいと思っていることに自分が気づいており、その気持ちに応えなければと思っていることや、自分がある点で父親を憎んでいることは確かだが、父親に対する肯定的な感情もあることを率直に意識できるようになったのである。

このように自己物語(ロジャーズの言い方であれば、自己概念)が硬直化し、経験をうまく汲み上げることができなくなったとき、自己物語を組み換えることが必要となる。
経験を汲み上げることができるような、より柔軟性のある自己物語、より多面的にものごとを見ることのできる自己物語に書き換えていくことが求められる。

自己物語の書き換えで過去も変わる

過去を振り返ると、思わずほくそ笑んでしまうような微笑ましい出来事や楽しい思い出、誇らしい出来事がある反面、嫌な出来事、思い出すのもいまわしい出来事、消してしまいたい思い出があったりする。
肯定的な意味をもつ過去はよいが、ときに否定的な意味をもつ過去に脅かされたり、支配されたりして、防衛的な構えをとらざるを得なくなり、自由に動けなくなることがある。

そうした過去へのとらわれから解放され、自由に動けるようになるために、カウンセリングが効力を発揮したりする。

そこで行われているのは、いまわしい過去、否定的な意味をもつ過去の書き換えである。
人はだれでも、自分史の中に、書き換えることができるなら書き換えてしまいたい部分を多かれ少なかれもっているものである。

だが、書き換えといっても、過去に起こってしまった出来事を起こらなかったことにすることなどできるはずがない。
出来事そのものを書き換えたり、消し去ったりできるわけではない。
できるのは、事実としての出来事のもつ意味、その出来事が自分にとってどんな意味をもっているかについての解釈のし直しである。

それは、出来事の意味を解釈する文脈として機能する自己物語の書き換えである。
文脈が変わることで、個々の出来事のもつ意味が変わってくる。
出来事そのものは消したり書き換えたりできなくても、解釈の枠組みとしての自己物語を書き換えることで、過去の風景は一変する。
過去に起こったことを今更どうにかできるものではないけれども、自己物語を書き換えることで、過去はいくらでも変えられるのだ。

小さい頃母親が再婚したことを、自分よりも男の人を選んだとみなし、「見捨てられた物語」を生きている人がいた。
再婚によって、母と二人きりだった幸せな日々が断たれ、どうにもなつけなかった義父と三人のぎこちない生活が始まった。
その後、学校の友達にも恵まれ、ごくふつうに楽しい青春時代を送ることはできたが、子どもの頃を思い出すと暗くなるし、母に対しても恨みがましい気持ちが拭いきれず、どうにもしっくりいかなかったと言う。

そんな人が、過去の思い出やその時々の思いを語る中で、じつはあのとき、母親はわが子に経済的に豊かな生活をさせたいとの思いから好きでもない人と再婚したのではないかといった疑念を抱くに至った。
そう考えると納得のいくことがいくつか思い出されてくる。

それによって、過去を解釈する物語的文脈に微妙な変化が生じる。
すると、そういえば自分と義父の関係がうまくいっていなかっただけでなく、夫婦関係も冷えていたみたいだし、母はときおり辛そうな表情をしていたなあなどと、これまでと違った見方で子ども時代を思い出すようになる。

こうして、母親の再婚をめぐる人生史の意味づけが大きく変わる。
受け入れがたかった再婚という出来事や、そのときの母親の気持ちのもつ意味が変わることで、長年苦しめられてきた過去の一コマをようやく受容できるようになる。

自己定義は、ある種の「封じ込め」

ある物事を定義するということは、その物事のもつ意味を限定するということだ。
つまり、定義することによって、定義されたものはそれ以外の可能性を失うことになる。
たとえば、ある図形が正三角形と定義されることで、その図形が直角三角形である可能性は排除される。

同様に、ある物語を自己のものとして採用するということは、別の物語を生きる可能性をとりあえずは捨てることを意味する。

組み立て玩具のレゴを組み合わせると、いろいろな形のものをつくることができる。
だが、人間の形をしたロボット戦士もつくりたいし、大好きなワンちゃんもつくりたいという子が、ロボット戦士をつくることに決めたとき、それは同時に犬をつくるのを断念したときでもある。
レゴを使って何かの形を組み立てていくように、人は多くの過去経験の素材をさまざまな形に組み立てていくことができる。

ある物語を自己のものとして採用するということは、自己を定義するということに相当する。
それは、多様な形をとり得る自分あるいは自分の人生を、特定の物語の枠の中に封じ込めることを意味する。

ひとつの形に封じ込めることは、他の多くの可能性を切り捨てることになるから、なかなか決断がつかない。

そうした思いは、今の多くの人たちの感じるところではないだろうか。
あらゆる形をとることが許される豊かで自由な時代だからこそ、迷いは大きい。
でも、とりあえず何らかの鋳型としての物語を採用し、その中に自分のさまざまな経験を封じ込めないかぎり、自分というものが形をとることができない。
つまり、他者から認知される社会的に安定した存在になれない。

拘束されることを嫌い、可能性を開いておくことにこだわり過ぎると、いつまでも自分は宙ぶらりんの不安定な状態に置かれることになる。