自己物語というアイデンティティの構築

自己物語が描けないアイデンティティが構築できない

将来展望がもてない、前へ踏み出すことができない

ある女子学生は、将来展望をもてない苦しさをつぎのように訴える。
「何かしないとと思って、資格を取る目標を立てて、試験勉強がんばって、いくつか資格を取ってきました。勉強していると、なんだか落ち着くんです」
「でも、いろんな資格をもっていても、一人の人間ができることって、結局活かせるものって、どれか一つだけじゃないですか。数があっても意味がないんですよね」
「たった一つでもいいから、自分はこれをやってみたい、本気でこれに賭けてみたいって思えるものがあればいいんですけど・・・。それが見つかれば、道が切り拓けそうな気がするんですけど・・・。それが見つからなくて・・・、何だか、焦ってる」
「こうして何もしないでブラブラしていると、世の中から取り残されそうな、落ちこぼれそうな不安に押しつぶされそうになるんです。それで、資格取得のための受験勉強をするわけですけど・・・、本気になれるもの、これだと思えるものにめぐり合えなくて、ただ動いてごまかしているような感じになってしまって・・・」

そんな行き詰まった状況を、「ドンドン壁を叩いているのに、壁が開かない」と表現した学生もいた。
「でも、ほんとうにドンドンやっているのかなあ。やってるふりをしているだけかもしれない」「やっぱり怖いのかも」「開いちゃったら怖いって思いつつ叩いているから、ダメなのかなあ」。
何とか壁を越えて、自分の道を歩き始めたい。
そうした思いは強くもっているのだが、壁を越えるのも何だか不安でしようがない。
壁の向こう側にどんな世界が広がっているのかがわからないことが不安なのか、思い切って壁を越えることができない。

自己物語の文脈が欠けると、将来展望をもつことができない。
将来展望がもてれば、目の前の出来事を意味づけ、生きている世界を秩序立てることもできる。
でも、将来展望がもてないのでは、目の前の出来事を意味づけることができない。
意味のわからない出来事がバラバラに並んでいる無秩序な世界というのは、何とも不気味でしようがない。

そんな居心地の悪い世界に乗り出していく勇気はなかなか湧いてこない。

引きこもりと自己物語

安定した自己物語をもてないと、その場その場で自分にふさわしい態度や行動を自信をもって選択することができない。
そこで、社会的な場に出ていくのがためらわれる。
明確な自己物語の中にどっしりと根を下ろしているように見える人、社会的な場に堂々と自分を押し出していくような人を見ると、圧倒され、近づきがたい感じがする。
そこにあるのは、こちらを圧倒する存在に吞み込まれる不安、そして自己卑小感。
安定した足場をもたない自分が頼りなく思われ、そんな自分が相手に比べてみすぼらしく思われてくる。

良い成績を取ろうと一所懸命勉強している人、運動部など部活に没頭している人、会社などで与えられた仕事に素直に精を出している人、つまり一定の社会的役割態度を何の疑問もなしに身につけている人たちを見るにつけ、その無邪気さ、気軽さをうらやましく思う反面、自分はそんなに単純ではないし、無神経でもない、といった自負心さえ抱いたりもする。

だが、そうした勇ましい自負心も一種の強がりにすぎない。
家から一歩外に出た途端に、足がすくんでしまう。
何のためらいもなく堂々と社会的な場に出ていく周囲の人たちに比べて、自分はなんてちっぽけで頼りない存在なのだろう、といった自己卑小感に責めさいなまれる。

ある引きこもり気味の青年は、一大決心をして家を出ても、近所で人とすれ違うだけでものすごい重圧を感じるという。
「それを払いのけるためなのかどうかわからないんですけど、これを身につけていないと安心して外出できないんです」と彼は言って、ズボンの裾をたくし上げると、足首にベルトのようなものが巻いてあり、そこにナイフが収まっていた。
べつにナイフを使うわけではないし、人にちらつかせるわけでもない。
でも、ナイフを身につけるという行為には、頼りない自分を補強し、堂々としているように見える周囲の人たちに対して引けを取らない存在に自分を引き上げるといった心理効果があるのかもしれない。

引きこもる若者

若者の間に引きこもりが急増していることは、マスコミが盛んに報道しているので、今や周知のことといってよいだろう。
そもそも引きこもりという言葉自体、数年前までは一般にほとんど知られていなかった。

引きこもりというのは、家族以外の対人関係を避けて、社会的な場にほとんど出ることなく、自宅に引きこもる生活が常態化したものをいう。
不登校もその典型であるから、引きこもりが急増していることに異論を唱える者はないだろう。
このところ不登校だけでなく、学校に行く年代を過ぎて、二十代になっても、あるいは三十近くになっても、働きに出ることなく自宅でブラブラしている若者が増えてきている。

事件が起こったときに、引きこもりの若者が関係していたりすると、いい年をして仕事ももたずに家でブラブラしているなんて、母親以外と対人関係ももたずに家にこもって暮らしていたなんてと驚き、あきれる。
そうした事件によって引きこもる若者の存在が世に知られてきたわけだが、じつは引きこもる若者は今や珍しくはなく、全国に数万人から数十万人いるとも推定されている。

問題が問題だけに表面化しない部分が大きく、実数を把握するのは困難であるのだが、引きこもる若者の数はかなり多く、また急激に増えてきているのは事実のようである。
それだけ若い世代では、人とかかわる力が衰弱している。
さらには、個人が社会の中に安定した居場所を得るのが難しい時代になっているということでもあろう。

自己物語というアイデンティティがうまく構築されていない人々

迷いが多い人

現代の文化的風土の大きな特徴として、個人に対する縛りがゆるい、言い換えれば個人がとても自由だということがある。
長男だからこうあらねばならない、女はこうあるべき、母親としてはこんなふうにしなければならない、大人になったらこんなふうに振る舞うべき、などといった社会的な縛りが非常にゆるい時代と言える。

青年期の延長とかモラトリアムの蔓延といわれ、いろんな生き方が許され、選択肢も多い時代にあって、青年期のアイデンティティの確立が困難になっているといった指摘がよくなされる。

たしかに、選択の自由がなければ迷うこともできないが、選択の自由があり、かつ選択肢が非常に多いとあっては、なかなか決めることができないのも当然といえる。

自己を定義しかねて、どんな生き方を選択したらよいかがわからず、精神的に路頭に迷っている若者が多くなっているのは、たしかに事実だろう。

だが、迷いが多いのは、なにも若者にかぎらない。
「40にして惑わず」などと言われる40歳だが、迷わないどころか、こうありたい自分をめぐって、あるいはこうありたい自分と現実の自分を引き比べて、日々迷いと葛藤と自己嫌悪の連続である。

成人期になると安定するなどというのは、幻想に過ぎない。
ひたすらがんばってきた人が急に燃え尽きてしまう燃え尽き症候群、体力の衰えを実感したり仕事能力の向上が限界に突き当たって行き詰まってしまう上昇停止症候群、夫が仕事に忙しくて不在がちなうえに子どもが独立して専業主婦としての役割喪失の危機に直面することによる空の巣症候群、いずれも人生の折り返し点を迎えて、後半生をどう生きるかといった課題に直面し、身動きがとれなくなっているわけだ。

だが、こうした人生の節目にかぎらず、現代では、人はたえず「自分はどうあるべきか」と問い続けなければならない運命にあるようだ。

なぜか?
それは、今の時代、生き方が社会的に十分定義されていないからではないだろうか。

生き方が社会的に定まっていない

たとえば、ここに40代の男性で、長男で、父親で、教員である人物がいるとする。
現代の問題は、こうした人物の生き方が社会的にはっきりと定義されていないところにある。
個性を尊重し、個人の自由な選択に任せるといった時代の空気が、個人を路頭に迷わせることにつながっている。

ひと昔前の時代のように、40歳にもなったら分をわきまえて落ち着くべし、長男として実家を継ぎ両親と同居すべし、父親としてどっしり構えているべし、教員として学生や近所の人達の模範となるべしといった社会規範を強く押しつけられていれば、それはそれできついけれども、がんばる方向が決まっているという点での安定感はある。

自分がそうした期待に応えられるかどうかは別としても、父親は父親らしく、先生は先生らしく、銀行マンは銀行マンらしく振る舞っている社会というのは、面白みはないかもしれないが、安定感はある。
きつい縛りではあっても、こうすべきといった方向性がはっきりしているぶん、方向喪失状態の中をさまようよりも、よほど気が楽とも言えるのではないか。

ところが、今は「らしくない」人が巷にあふれている。
いかにも「らしい」のは流行らない。
「らしくない」ほうが格好いいといった雰囲気さえある。
父親らしい威厳とは無縁の友達感覚でつきあえる父親がいてもよいし、銀行マンらしい堅苦しさがなくロックバンドを組んでアフターファイブを楽しんでいる身軽で愉快な銀行マンがいてもよい。

社会的に押しつけられるものが少なく、個人の自由だということで、「それもよし、これもよし」式に、いろんな生き方が容認される時代だからこそ、「では、僕はいったいどんな生き方をとればよいのだろう」と迷ってしまうのだ。

個人の自由だなどと言われると、色気も出てきたりして「ちょっと格好良く決めてみるか」とか「少しは自分色に染め上げてみたいな」なんて思ってしまう。

それで、いよいよ迷ってしまうというわけだ。

「これが40代の男の生き方だ」「長男としては、こうした態度をとるべきだ」「これが父親としてのあるべき姿だ」「教員はこうした態度を身につけていなければならない」といった具合に、社会からの押し付けが強ければ、「自分らしい生き方」などといったテーマをめぐって迷い悩むことなどないし、こういうことをすべき、こんなことはしてはいけない、といった行動基準もスッキリしていて、ある意味で非常に生きやすい。
もちろん、そこには迷いがないぶんだけ、受け身の部分があり、諦めがあるわけだ。

生きる筋書きの欠如

社会的役割がなくなると

ある定年退職後の女性はつぎのような発言をしていた。

「私も、仕事してるときは自分を見失うということはなかったんですけど、定年退職してみると、自分って何なのかがまたわからなくなったように思います。
結局、若い人たちだけの問題ではないんですよね」

長女としての自分、母親としての自分、セールス・ウーマンとしての自分、こういった自分を長く生きてきた人にとって、そうした役割を模範的に演じることができたかどうかは別として、それぞれの社会的役割に応える形で身についた態度や行動はしっかりとなじんでいる。
今更脱ぎ捨てようとしたところで、きれいに脱ぎ捨てることなどできない。
仮面にしっかりなじんだ素顔は、もうほとんど仮面と区別がつかない。

ここで伝えたいのは、社会的役割を脱ぎ捨てた自分などというものはないのではないかということだ。
社会的役割というのは表面的なものであって、それを脱ぎ捨てたときに裸の自分、ほんとうの自分が現れてくる、などと言う人がいるけれども、それは嘘だ。

社会的役割を脱ぎ捨てたとたんに、人は自分がわからなくなってしまう。
いくつもの社会的役割を帯びているからこそ、僕たちは社会に根を下ろすことができる、つまり社会的役割を帯びているからこそ、僕たちは社会に根を下ろすことができる、つまり社会的存在としての人間でいることができるのだ。

個人の自由の尊重といって、社会的役割による縛りが大幅にゆるくなった今日、人は自分に形を与えてくれる枠組みを失ってしまったというわけだ。

生きる筋書きが欠けている

人が生きている自己物語は、自分自身で手に入れた独自のもののように思ってはいても、じつは生まれ育った文化的風土に強く規定されたものと言える。

人は、主体的に自分の人生を生きているかのように思い込んでいるけれども、実際には文化的に注入された物語的枠組みを用いて、素材としての自己の諸経験を一定の人生の形に綴りあげているのだ。

つまり、自己物語というのは、個人が勝手に生み出すものではなく、文化的な基盤をもつものなのである。

現代に顕著にみられる問題は、こう生きるべきといった人生の筋書き、それに則って生きればよい典型的なシナリオが欠けていることだ。
それゆえ、日々の経験を意味ある人生へと綴りあげていくことができない。

たとえば、働くということの筋書きひとつとってみても、自己物語の一部としてどんな筋書きを採用するかを決めるのは、案外難しいことに気づく。

継ぐべき家業があれば、嫌でもそれを継がなければならないので、迷うことなく自分の将来像をすぐに描くことができるだろう。
自己物語の筋立ては、最初からほとんどが与えられている。
拘束されているといった不満も感じるかもしれないが、自分でシナリオを考える必要がないぶん、楽といえば楽である。

しかし、八割がサラリーマン化した今日、継ぐべき家業もなく、何々家の長男としての拘束もゆるやかである。

家族を養うために働くといったシナリオも、若い世代にはアピールしない。
家族のためなどと言いながら、自分の好きな仕事をしているんじゃないかとか、家族のためにがんばっている自分というものにナルシスティックに酔っているだけじゃないかとか、結局妻を家庭に閉じ込めて自分だけ外で自由にやっているんじゃないかとか、いろんな見方が成り立ってしまう。

世のため人のために働くといったシナリオも何だかうさん臭い。
世のため人のためなんて調子の良いことを言いながら、結局自分が目立ちたいだけじゃないか、といった視点も、マスコミを通して報道される政治家や官僚の姿を見ていると、なかなか否定しがたいところがある。

国の発展のために働くというのも、発展途上国ならまだしも、ここまで経済的に成熟した国では、どうもグローバル化しつつある時代にはそぐわないように思われる。

会社など組織のために働くというのにも、時代遅れのような格好悪さがつきまとう。
会社のためと思ってやってきたことが、じつは一企業によるただの利潤追求にしかすぎず、世のためになっていなかったなどということもある。
古くは公害問題を見てもそうだし、最近では子どもや若者の健全な心や人間関係の発達を阻害するような玩具や通信メディアなどもわけありだ。
心から会社のためを考えて働いてきたのに、リストラに遭ったとか、組織を守るために切り捨てられたとかいうのも、多くのサラリーマンが思い知らされた現実である。

こうした葛藤は、今や男性だけのものではない。
女なんだから結婚して主婦になって子育てをするといったシナリオの拘束力も急速に弱まっている。
こうしたシナリオの拘束力が強い時代なら、いい年をして家にいられたらみっともないといった家から追い出す圧力が強いため、主婦として母としてのシナリオに乗らざるを得ないが、今はそうした圧力は非常に弱まっている。
自由なぶん、さて自分はどんな形をとればよいのだろうと悩まなければならない。

役者がシナリオづくりまで求められる

働くことのシナリオに限らず、生き方全般に関する模範的なシナリオが欠けているのが現代の特徴なのではないか。
立派な人間の生き方、あるべき男あるいは女の生き方などといった伝統的なシナリオが総崩れしつつある。
そうかといって、それに代わる今にふさわしい新たなシナリオが定まっていない。

そうなると、自分なりのシナリオを作っていかなければならない。
そこに産みの苦しみがある。
役者が役柄を演じるだけでなく、台本を書くことまで要求されているのに似た状況と言えばわかりやすいだろうか。
自分によくフィットするシナリオを書くというのは、そう簡単なことではない。

自分が準拠すべきシナリオを手に入れるまでは、生きる指針の欠如による不安定、頼りなさ、焦りにさいなまれる。
生きる基準となる物語的文脈がないから、自分が何をすべきかわからない、どんな方向に努力をしたらよいのかわからない、日々どう過ごしたら充実するのかわからない、ということになってくる。

このままではなにか物足りない、こんな中途半端な状態は嫌だ、こんな不完全燃焼のような日々から脱したい、という思いは強い。
けれども、どうしたら満足できるのか、充実するのか、燃焼できるのかが見えてこない。
これではいけない、何とかしなくしゃとは思うものの、向かうべき方向性がつかめないため、身動きがとれなくなってしまっているのだ。

結局、シナリオを獲得できない役者、役柄を与えられない、あるいは奪い取れない役者のように、宙に浮いた状態で漂っているというわけだ。

浮遊する自分

シナリオを失った役者は、舞台に立ってどう振る舞ったらよいのかがわからない。
他の役者たちが演じている劇の中にどうしたら溶け込めるのか、どのようにしたらその場にふさわしい適切な行動がとれるのかがわからない。
役柄が定まらず、浮遊している自分をどのようにして舞台につなぎ止めるかが問題となる。

現実社会で浮遊する多くの若者も同じだ。
人としてこう生きるべき、こう振舞うべきといった社会的自己が明確に定まっていれば、それを身につけることで、社会にどっしりといった社会的自己が明確に定まっていれば、それを身につけることで、社会にどっしりと根を下ろすことができる。
つまり、安定したアイデンティティを身にまとって、社会に居場所をもつことができる。

ところが、伝統的価値観による縛りがゆるみ、個人の自由が大幅に尊重されるようになって、人としてこう生きるべきといった社会的自己が弱体化した。
それは、生きる枠組みとして機能する文脈の喪失、いわば自己物語の崩壊を意味する。

人は、物語を通して社会とつながることができる。
だが、自己物語を失うことで、自分を現実社会につなぐやり方がわからなくなってしまう。
そこで、社会に出ていけないということになってしまう。

現実社会を生きるには、現実社会という座標軸の中での位置づけを定めてくれる指標が必要だ。
それを与えてくれるのが、社会的に定義された自己であり、他者との間で合意が得られた自己物語である。

他者との間で共有され、社会的に保証された自己定義の揺らぎが、個人が現実社会に足場を築くのを妨げている。
アイデンティティが定まらず、社会を浮遊している若者たちが、「現実との距離感がつかめない」などとよく口にするのも、そのことを意味している。

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自己物語が作るアイデンティティ

社会的に認められる自己物語が必要

社会的立場、つまり職業や肩書きにとらわれない個性的なアイデンティティを求める動きが強まっている。

能力を発揮できる仕事なら昇進にはこだわらない、地位を得るより能力や個性をみがく仕事に就きたい、社内での評価など気にせずに実力を養っておきたい。
人間関係の面でも、会社の人間関係をプライベートな時間にまで持ち越さない、社内人事に血まなこになったりしない。
そんな価値観を掲げる若い世代が台頭してきている。

だが、何々会社の社員であるとか、課長であるとか、所属・肩書きに支えられ、それにふさわしい物語的文脈を採用することと比べて、社会的役割とは別の次元で自分なりの物語的文脈を探求し、創出するというのは、大きな産みの苦しみを伴う作業となる。
既製品を身にまとうよりも、自分で創作することのほうが、やりがいが大きいぶんだけ、苦労も大きい。
会社など組織への帰属意識によって自分を社会につなぎ止めていた世代と比べて、組織での位置づけよりも自由ややりがいを求める世代は、ある意味でははるかに険しい道を歩み始めたと言えるだろう。

そのように苦心して独自に構築されたアイデンティティも、足場のない浮遊感からくる不安を和らげ、安心をもたらしてくれるものとなるには、他者から承認されたもの、自分にとって意味のある他者から理解され、社会的に価値を認められるものでなければならない。
人は、人間である限り、どうしても社会的存在であることを免れないのだ。
ゆえに、少なくとも身近に接する他者から承認されるような自己物語を構築しなければならない。

そうしないと、社会の中に安定した居場所が得られない。
社会の中に位置づけが得られないということが、社会的存在である人には、大きな不安の源泉となる。
生命の危険が脅かされることの少ない平和な時代にあっては、生きる不安の中のもっとも大きなものがアイデンティティの不安だと言ってもよいだろう。

そうしたアイデンティティの不安を克服するためにも、人は社会的に承認された自己物語をもたなければならない。
物語としてのアイデンティティこそが、人を社会につなぎ止めてくれるのだ。

自分は発見されるのでなく創造される

自分の日々の経験に意味づけを与えてくれる物語的枠組みが失われた時代だからこそ、自分探しが多くの人々の心をとらえることとなった。
カウンセラー・ブームもそうだ。
心が路頭に迷っている人を理解し、支えてあげたいという人が急増したというより、自分自身の心が路頭に迷っている人が増えているということだと思う。

つまり、自分自身の行くべき方向性が見えないために、心のどこかに得体の知れない不安定さを抱える多くの人達が、心の病理とか癒しとかいったテーマに惹きつけられる。

そんな感じではないか。
結局、自己探求のための心理学の勉強であり、自己治癒のためのカウンセリングの勉強なのである。

そこで求められているのは、生気の失せた不安定な自分を生き生きとした自分に立て直すことである。
それは、自分探しとか自己発見とかいった言葉から連想されるような、どこかに隠されている本当の自分を発掘するというような作業ではなく、身近に散らばっている自分自身の経験を納得のいく形に組み立てていく作業である。
ゆえに、自分さがしとか自己発見というより、自己創造と言うのがふさわしい。

過去の経験や現在進行中の日々の経験、あるいは将来の夢などを自分なりに納得のいく形に組み立てていく自己創造の作業は、言い換えれば自分にふさわしい自己物語を綴りあげることである。
そのためには、諸々の経験をすくい取り、意味づける基準として働く文脈が必要だ。

このようにみてくると、自己の探求として探し求められているのは、自分そのものとか自己経験の素材とかではなく、自分を世界にうまくつなぎ止めてくれるような、納得のいく物語筋であることがわかる。
自分というのは、発見されるのでなく、物語的筋立てによって構築されるのである。

ゆえに、「自分とは何か?」といった問い方よりも、「自分はどうありたいか?」という問い方のほうが正しいことになる。
自分はどんな物語筋を好むのか。
それがわかれば、その筋立てに沿って自己のさまざまな経験を並べることで、自分にとって納得のいく自己物語を構築していくことができる。

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自己物語を失うとは

納得のいく物語の筋書きがなければ、自分がわからない

自分がつかめない、自分がわからないというのは、自己のさまざまな経験を意味のある形に織り上げていく物語筋をもたないことをさす。

自分の気持ちによくフィットした自己物語を手に入れるまでは、周囲の出来事や自分自身の諸々の経験、これまでの自分の人生史やこれからの自分の人生の展望を、意味のある形にまとめることができない。
したがって、人生の意味がわからない、自分がつかめないということになる。
そんな宙ぶらりんな状態では、気持ちも落ち着かない。

得体の知れない諸々の経験に意味を与えてくれるのが物語的枠組みだ。
物語的枠組みのおかげで、僕たちは自分や自己の人生というものを理解することができる。
得体の知れない衝動がうごめく場である自分に理解可能な枠組みを与えてくれる自己物語の欠如は、不安やいらだちを生じさせる。

自己物語を失った人の危険性

過度の不安やいらだちによる神経症的な態度や、攻撃的・反社会的行動が蔓延しているのが現代であるが、そこには日々の経験を意味ある形に綴ることで人々の行動を意味ある方向へと導く物語的枠組みの欠如がある。
不安の文脈、攻撃の文脈が、健全に機能する自己物語の欠如の間隙に忍び込むのだ。

このような時代には、自分によくフィットする自己物語を構築する産みの苦しみゆえに、何らかのわかりやすい物語、単純明快に自分の生に意味を感じさせてくれる物語に安易に同一化していく危険も大きい。
ナチスが勢いを得たのもそうした物語欠如の時代であったし、日本でもたとえば学生運動や内ゲバが流行ったのが伝統的価値観の揺らいだ時代であった。

最近の宗教まがいの危険な団体への帰属の背景にも、自分の生に意味を感じさせてくれる物語の獲得への希求があるのだろう。
こんな時代がからこそ、人生に意味あるまとまりを与えてくれる説得力ある物語を提示することができれば、多くの人々を惹きつけ、コントロールすることさえできてしまうに違いない。