言い訳が自己物語にもたらす影響

言い訳が自己物語に影響する効果

その場しのぎの言い逃れ

遊園地に行けば、迫力あるジェットコースターの類が必ずいくつかあるものだ。
キャーキャー楽しそうな悲鳴が聞こえる。
心理学の実験によれば、ジェットコースターでスリルを味わい叫びまくった後では、心臓のドキドキや身体の火照りの名残を一緒に歩いている目の前の異性によって引き起こされた性的興奮によるものと勘違いし、その異性を好きになるといったことが起こるらしい。
ジェットコースターの根強い人気は、そうした事情も関係しているかもしれない。

でも、だれもがあの種の乗り物を好むわけではない。

ある内気な男の子のケースでは、遊園地に行っても、「高所恐怖症気味だし、スピードにも弱いから、ジェットコースターには乗らない」と宣言することにしている。
だが、それは今だから言えるのかもしれない。
もし、まだデートで格好つけて自分の魅力をアピールしなければならない段階のカップルだったらどうだろうか。
「ジェットコースター片っ端から乗ろうよ。私、あのスピード感とスリルがたまらないの」
「う、うん。そうしようか。まあ、他にも面白そうなのがいろいろあるからね」

他に目をそらせようという戦略がそれほどうまくいくとも思えない。そこで、
「今日は、ちょっと体調が悪いから、ベンチで見てるから乗ってきてよ。おとなし目のやつだけつきあうことにするよ」

のように逃げざるを得ない。

だが、その場しのぎの言い逃れのせいで、夕涼みしながら大好きなビールを彼女と二人で一気飲みする楽しみも、「今日はアルコールはやめといたほうがいいわね」と言われて、あきらめざるを得ない事態に追い込まれるかもしれない。

アドリブ的な一言も自己物語に影響する

あるセラピストが面接調査をした人たちの中に、親とちょっとしたことで口論になり、こんなうるさく干渉する親なんかと一緒に住めないというようなことを思わず口走ってしまい、引っ込みがつかなくなってアパートで一人暮らしをする羽目になったという人がいたというエピソードがあった。
その瞬間まで、一人暮らしをするなんて考えたこともなかったという。
結果的には、売り言葉に買い言葉で口走った思いがけない一言のおかげで、自立した新たな生活への第一歩を踏み出したのだった。

普段からしっくりいってない父親との間で、ちょっとしたことがきっかけで激しい口論になり、
「何だ、その生意気な態度は。人から小遣いもらってる身で、偉そうなこと言うな」
「小遣いくらいで恩着せがましいこと言われたくないね。そんなに言うなら小遣いなんていらないよ」
「ほんとうにいらないのか。後で泣きっ面かくなよ」
「アルバイトなんていくらだってあるんだ。小遣いくらい自分で稼いでやる」
といったやり取りがアルバイトを始めたきっかけだったという人もいた。

売り言葉に買い言葉というのは、親子の間でよくみられるものだが、上司と部下の間でもしばしばみられる。

上司からことあるごとに理不尽なケチをつけられるのを、ギリギリのところで耐え忍んでいた人が、もう限界だとでも言いたげにキレる瞬間というのがある。
ただキレるだけならどこにでもある話だが、キレたついでに、「そんな仕事は僕一人でやらせてもらえたら、今日中に終わりますよ」「僕のやり方で自由にさせてもらえたら、そんなノルマすぐにクリアできますよ」のように啖呵を切ってしまい、死に物狂いがんばる羽目になったという話もある。

一瞬前までの冷静な時点では思ってもいなかったこと、ましてや人に言うなど考えられなかったことを、つい勢いで言ってしまうことがある。
用意していた言葉ではなかったとはいっても、人は、自分の口からいったん出てしまった言葉に無責任ではいられない。
自分が発した言葉をそう簡単に裏切るわけにはいかない。
そこで、思わず口走った言葉に得られることになり、その後の行動はその線に沿って組み直されていく。

自己物語の文脈は、こうしたアドリブ的に発せられた一言によっても、大きな影響を受けることがあるのだ。

苦しまぎれの説明がもたらすもの

相手に自分の言い分が通じないとき、相手から意図した反応が得られないとき、人は、話す素材の選択、その並べ方、説明の仕方を考え直し、語り口を変えてみる。
それでもなかなか思わしい効果をあげられない場合、苦しまぎれの言い訳的な説明をせざるを得なくなる。

大きくは自分の生い立ち、小さくはちょっとした自分の言動に関して、何らかの説明をせざるを得ない場面というのがあるものだ。
どんな話にしても、一度語っただけで、聞き手からすんなりと承認されるということは少ない。
「よくわからないなあ」「どういう意味?」「どうしてそう考えるの?」「うそー」「なんでー?」「それはおかしいよ」「考えすぎじゃない?」「気にし過ぎるんだよ」「信じられないなあ」などといった言葉が返ってきたりする。

このように、話し手と聞き手の生きてきた物語的文脈には、ズレがあるのがふつうで、それを埋める工夫が必要となる。
そのために、素材を選び直したり、強調点を変えてみたり、話の筋道を変えたりして、根気強く語り直していくことになる。

親子間の葛藤にしても、夫婦間の揉め事にしても、恋人同士のすれ違いにしても、上司と部下の対立にしても、こちらの語りがすんなり聞き手の理解の枠組みに収まることはない。

聞き手には、聞き手の生きている物語的文脈があり、その視点からこちらの語りを理解しようとする。
また、聞き手にはこちらが語る話の登場人物や出来事に関してもっている情報量も少ない。
そこで、こちらとは違った視点からこちらの語りを聞くことになる。

その結果、こちらの言い分をなかなかわかってもらえない。

絶対に共感してもらえると信じて勢い込んで話したところ、思いがけず冷淡な反応が返ってきてガックリするというのはよくあることだ。

でも、せっかく話し始めたのだから、できることならこちらの気持ちをわかってもらいたい。
そこで、相手にわかってもらえるように工夫しながら、何度も語り直すことになる。

わかってもらえるように意識して語り直すうちに、聞き手の理解の枠組みが知らずしらずのうちに話の筋に取り入れられていく。
聞き手の視点を取り入れることで、
「あ、そうか。そういう見方をすれば、それほど腹を立てなきゃいけないことでもないかな」
と思えてきたりする。
人に話しているうちに、新たな視点を獲得するとか、気持ちが吹っ切れてくるというのは、このようなケースだろう。

でも、どうしてもこちらの気持ちをわかってほしい、どうにも譲るわけにはいかないという場合もある。
そんなときは、聞き手の枠組みからしても「なるほど」と納得してもらえるような大げさな語りをせざるを得ない。
それでもなかなかわかってもらえないと、大げさな語り口がどんどんエスカレートしていったりする。

自分がいかに運が悪いか、不幸であるかを語る人に、
「そんなことありませんよ。もっと運の悪い人はいくらでもいますよ」
「あなたのお話を聞いていると、あなたがおっしゃるほど不幸な人生じゃないように感じるんですけど」
のような反応を返したなら、今度は不幸を象徴するさらなるエピソードを探し出し、ひとつひとつのエピソードがいかに悲惨なものであったかを前にも増して大げさな言葉で語ってくるに違いない。

自分のことは自分でもわからない

かつて不登校をしていた時期があるという人が、「なぜ学校に行けなかったのだろうか?」と自らに問いかけても、さっぱりわからないと言って、カウンセリングを頼る人がいる。

本人がわからないくらいなのだから、尋ねられたところで他人のカウンセラーにわかるはずがない。

重要なのは、自分自身のとった行動の意味について、本人でさえも説明ができないということ、不登校のような大きな意味をもつであろう出来事であっても例外ではないということだ。

苦しまぎれの言い訳も自分を方向づける

人の気持ちをくすぐるような言葉をごく自然に口にしたり、自己主張を抑えて何でも人に合わせるタイプの人が、友達から批判されたとする。
いつもへらへらして人に合わせるばかりで、人のご機嫌をとるようなことを平気で言ったりして、そういう取り入る態度が気に入らない、のように。

そう言われると、自分でも思い当たる節がある。

たしかに、周囲の人たちがわりと人の気持ちに無頓着なのに対して、自分には非との機嫌を損ねないように気にし過ぎるところがある。
まわりには自分の思いや考えを主張する人が多いけれども、自分はどうもそういうのが苦手で、そもそも主張したいことなどなくて、人に従っていたほうが楽でいいと思っている。

しかし、取り入る人間、主体性のない人間といった否定的な響きをもつアイデンティティをおいそれと受け入れるわけにはいかない。
自分のそうした態度に対して、ある程度正当な意味を与えることができるような、何らかの説明を是非とも考案する必要がある。
そうしないことには居心地が良くない。

人は、自分の心理的特徴や行動的特徴の理由を知りたい、そうした特徴を身につけるに至った事情を説明できるような情報がほしいと思うとき、しばしば自分の成育史をたどってみる。
自分の生い立ちを振り返ってみると、たとえば小さい頃友達の気持ちをひどく傷つけてしまったことがあったことを思い出す。

さらには、父親が自己主張のものすごく強い人で、周囲の人たちとの軋轢が絶えず、本人も家族もけっこう苦労していたことを思い出す。
「これは使える」ということになる。

つまり、人の気持ちを心ならずも傷つけてしまった経験がトラウマになって、人の気持ちを傷つけたくないという思いが強く、それで人の気持ちに過敏なところがあるといった説明を考案する。

さらには、自己主張の塊のような父親を身近に見ていて、自己主張しても結局だれのためにもならないし、みんなが気持ちよく過ごせるように、自分はできるだけ自己主張を抑えて、人と人をうまくつなぐような、人間関係の潤滑油みたいな存在になりたいと子ども心に思っていたといった説明を加える。

いったんそうした説明をし始めると、人の気持ちを傷つけたくないために過度に人の気持ちを気遣う自分、自己主張を抑えてだれとでもうまくやっていける人間関係の潤滑油のような自分といったアイデンティティが強く意識されるようになる。

いったんアイデンティティが定まると、日々の行動をとる際に、そうしたアイデンティティにふさわしい行動が選択されるようになる。
そうなると、以前はよく見られたただの臆病や気の弱さから出ていたような行動や、単に人の気持ちをくすぐるようなお世辞が目に見えて減ってくる。
それに代わって、人の気持ちを心から思いやるような行動や、人と人の間をうまくつなごうとする調整役的な行動に精を出すようになる。

こうして自分の態度や行動に一本筋が通ってくる。

このように、自分でもよくわからないままに口にした苦しまぎれの説明が、いつのまにか自分の行動を方向づけることがある。

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自己呈示の方向に自分が変わる

このようなメカニズムは、社会心理学でいう「自己呈示の効果」に通じるものがある。
自己呈示とは、自分をこんなふうに見せたいといった意図のもとに、作為的に一定の自分を呈示することである。

たとえば、ある実験では、知らない人に対して、自分がいかにも内向的な人物であるかのように装って応対する。
また別の人は、反対に、自分がいかにも外向的な人物であるかのように装って応対する。
それぞれの人が、内向的あるいは外向的な人物としての自己呈示を行うわけだ。

このような自己呈示が、じつはその後の行動に影響を及ぼすことがわかっている。
つまり、内向的人物としての自己呈示を行った人は、この実験の後には、以前に比べて、自分を内向的な人間とみなす傾向が強まっており、実際の行動にも内向的な方向への変化がみられたのだった。
反対に、外向的な人物としての自己呈示を行った人は、前よりも自分を外向的な人間とみなす傾向が強く、実際の行動も以前より外向的なものが目立つようになっていた。

人に対してふりを装うことで、自己概念、つまり自分自身に対する見方がふりを装った方向に変化する。
人は自己概念に沿った行動を選択するので、実際の行動も、ふりを装った方向へと変化していく。

どうしてこんなことが起こるのか。
それは、僕たちに一貫性を求める強い欲求があるからだ。
人前である行動を示したからには、そういう行動をとるような人物として自己定義しないことには、気持ちの収まりが悪い。

人間は、人と人との間に生きている。
ゆえに、人に対して「自分はこういう人間だ」と宣言したからには、実際にそういう人間になっていかざるを得ない。
相手に抱かせてしまったこちらのイメージを裏切るわけにはいかない。
そんな形で、人は、自分が人に対して発したメッセージに縛られている。
そうした心理メカニズムが働いているのだ。

人は自らの語りに拘束される

こうしてみると、人のアイデンティティ、僕たちが自分のものとして生きている自己物語は、けっして固定的なものなんかではなく、具体的な語りの場でのやりとりを通して、たえず変更が加えられていると言えそうだ。

自分の発した言葉を誠実に守ろうとする人もいれば、自分の言葉を忘れたかのように不誠実な態度をとる人もいる。
だが、ここでいう自分の言葉に縛られるというのは、ちょっと違ったニュアンスのことをさしている。

とっさに口をついて出た言葉に縛られたり、苦しまぎれの言い訳に拘束されたり、アドリブ的な語りにその後の人生が方向づけられたりする。
語りのもつ力、アイデンティティに対して語りが発する威力のすごさは、カウンセリングといった語りの場で人が生まれ変わることからも明らかだ。

人には、自分を首尾一貫した筋道をもっている存在とみなしたがる傾向がある。
日々の行動が支離滅裂に羅列されているのではなく、何らかの納得のいく説明がつくものであってほしいと願っている。
日々の行動に、過去から現在に至る諸々の経験に、うまくつじつまの合う説明をつけてくれる物語筋、それを僕たちは切に求めている。

それが、自分さがしと言われるものであり、自己物語の探求である。
自己物語は、語りの場で探求され、綴られていくのである。