語ることが自己物語の構築に重要

語ることの大切さ

語ることからすべてが始まる

よく知っている人を相手に自己を語るのは簡単だが、お互いによく知らない相手に自己を語るというのは非常に難しい。

よく知っている相手との間には共通の文脈ができあがっているので、その文脈にふさわしい自分を提示していけばよいから、ほぼ自動化した形で自己を語ることができる。
たとえば、相手がこちらのことを勇ましい豪傑とみなしているなら、自分の中の武勇伝的なエピソードを中心に語ることになるだろうし、相手がこちらのことを温厚な紳士とみなしているなら、自分の中のおだやかな部分を中心に語ることになるだろう。
相手との文脈によって語り分けるからといって、決してだましているわけではない。
どちらも嘘ではないのだ。

困るのは、よく知らない人が相手である場合だ。
共通の文脈ができあがっていないため、どのような自分を語り出していけばよいのかがわからない。
逆に言えば、共通の文脈による制約がないぶん、どんな自分でも自由に演出し、語り出していくことができる。
だからこそ、迷い、悩んでしまうのだ。

こうした事情からわかるのは、僕たちは自分のことをいろんなふうに語ることができるということだ。
それはつまり、僕たちの自分には決まった形ができあがっているわけではないということだ。
このことを一般に、「自分のことをよく知らない」というふうに言うこともある。

自己紹介。

昔、学校でよくやった。
クラスが新しくなったとき、順番に教室の前に出て、みんなの前で自分についていろいろと喋る。
私はあれが本当に苦手だった。
いや、苦手というだけではない。
私はそのような行為の中に何の意味も見出すことも出来なかったのだ。
私が私自身についていったい何を知っているのだろう?
私が私の意識を通して捉えている私は本当の私なのだろうか?
ちょうどテープレコーダーに吹き込んだ声が自分の声に聞こえないように、私が捉えている私自身の像は、歪んで認識され都合良くつくりかえられた像なのではないだろうか?
・・・私はいつもそんな風に考えていた。
自己紹介をする度に、人前で自分について語らなくてはならない度に、私はまるで成績表を勝手に書き直しているような気分になった。(中略)
なんだか架空の人間についての架空の事実を語っているような気がしたものだった。
そしてそんな気持ちで他のみんなの話を聞いていると、彼らもまた彼ら自身とは別の誰かの話をしているように私には感じられた。
我々はみんな架空の世界で架空の空気を吸っていきていた。
(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』講談社)

だれか聞き手を前にして自己を語ることで、自己物語が構築されていく、つまり自分の形が定まっていく。
ということは、語り始めるときには、自分の姿を本人もはっきりとつかんでいないのだ。
結局、自分の姿がおぼろげにしか見えないうちから、まずは語ることを始めなければならない。

語ることによって、自分の姿が語りの方向につくられていく。
初対面の人たちを前に自己紹介するときにとまどうのも、その人たちとの語り合いを経験しないうちは、その人たちとの間にふさわしい自己を構築することができないからなのだ。

出会いが新たな聞き手をもたらす

人生で最も大きな影響力をもつのは、人との出会いだと言われる。
試しに自分の人生を振り返ってみれば、いろんな出会いが思い出されるはずだ。
自分に良い影響をもたらしてくれた出会いとして思い出されるものもあれば、あの出会いさえなければと悔やまれる出会いもあることだろう。

いずれにしても、長い人生上には無数の出会いがあるのに、その中からとくに思い出されるからには、良きにつけ悪しきにつけそれなりの意味がある出会いに違いない。

どんな出会いがあり、どんな影響を受けたかを振り返ってみるだけで、出会いというものが人生において占める比重の重さが実感できるはずだ。
その出会いのもつ威力を、語りと自己物語の生成といった視点から見るとどうなるだろうか。

まず言えるのは、新たな出会いが新たな聞き手をもたらすということだ。
新たな聞き手が登場し、これまで身近に接してきた聞き手をもたらすということだ。
新たな聞き手が登場し、これまで身近に接してきた聞き手とは違った聞き方をする。
語り手は、聞き手の理解の枠組みに合わせて、自分にまつわるエピソードを語る。

「私は、人前で意見を言うのは、どうも苦手で、会議とかもいつも黙ってるだけで時間が過ぎていくって感じ」

とこちらが言ったのに対して、

「わかるわかる。私もそう。何か、緊張するよね。でも、たいした発言じゃないのに、堂々と言いたいこと言う人いるじゃない。いいよね。ああいう気楽な人って」

といった反応が返ってきた場合と、

「発言するからには立派なことを言わなきゃいけないって気持ちが強すぎるんじゃないの。みんなそうたいしたこと言ってるわけじゃないし、思い切って何か言ってみれば、べつにどうってことないってわかってきて、楽に発言できるようになるんじゃないかな」

といった反応が返ってきた場合と、

「人から受け入れられなかったらどうしようっていう不安が強いみたいね。
そういうコンプレックスから自由になるには、まずは自分に自信をもつこと、自分が自分を受け入れることが大事だよね」

といった反応が返ってきた場合とでは、こちらのつぎの発言の方向がまったく違ってくるはずだ。

つまり、人は、聞き手の理解の枠組みの見当をつけながら、聞き手にわかってもらえるような説明の仕方を選びつつ自己を語るのだ。
ゆえに、新たな出会いというのは、新たな自己の語り方を導き出すという意味において、人にとってとても重大な影響をもつ出来事だと言える。

人は相手によって語り分ける

このように考えると、僕たちの生きている自己物語の生成には、出会いのような偶然的要因が色濃くからんでいることがわかる。

たまたま身近に接するようになった相手との語り合いを通して、一定の方向づけが行われていく。
その相手が故意にこちらの自己物語を一定の方向に組み換えようと意図するのではなくても、その相手が納得した反応を返してくれるように、その相手にとってわかりやすい語り口をさぐりつつ自己を語っているうちに、いつのまにか自己物語はその相手の生きる文脈を取り入れた方向に変化している。

つまり、生き方を揺さぶられるような出会いというのは、自分の人生に関してこれまでとは違った振り返り方を可能にしてくれるような出会いのことである。
振り返り方が変わることで、自分の人生史上の諸々のエピソードのもつ意味や人生史の流れに変化が生じる。
その結果、自分の生い立ちのもつ意味、生い立ちに対して自分自身が感じるところが微妙に変わってくる。
ときには、180度変化することさえある。
自己への気づきとか、新たな自己の発見などと言われる現象は、このようにして起こるのである。

生い立ちというと、今さら変えることのできないもの、過去の事実として固定されてしまっているものといったイメージをもつ人が多いかもしれない。
しかし、出会いによる自己物語の組み換えという観点からすれば、同じ人物の生い立ちも、聞き手の聞き方によって、さまざまな色合いをもつものに語り分けられるということになる。
生い立ちとして語られるエピソードの選択やその意味づけが、聞き手に納得し共感してもらうという目的のもとに変化していくのだ。

語り合いの中で、相手にわかってもらうように説明するのは当然のことである。
また、相手によって同じ出来事でも違った説明の仕方をしないと納得してもらえなかったり共感してもらえなかったりすることがあるというのは、幼い頃から誰もが経験済みのことである。
ゆえに、相手による語り分けというのは、ほぼ自動化しており、改めて意識されることはない。
けれども、人は誰でも自己物語を相手によって微妙に語り分けているのであり、新たな出会いによって新たな自己物語が生成しはじめることがあるのだ。

居酒屋で高校時代の友達と一緒に盛り上がっているとき、後ろのテーブルに職場の同僚がいたりしたらどうだろうか。
気づいたとたんに、照れというか、ばつの悪さというか、何とも言えない気まずさを感じざるを得ない。
べつに職場のことを話題にしていたわけではなくても、ちょっとした困惑を意識するのがふつうだろう。

それはなぜかと言えば、人は相手によって見せている自分が多少ずれているからだ。
高校時代の友達に見せている自分と職場の同僚に見せている自分のどちらがほんとうでどちらが嘘というのでなくても、相手によって見せている自分が多少ずれていて、自己を語る仕方にも多少の違いがあって当然なのだ。

目の前の相手によって自分が変わるから、自分は多重人格なのではないかと相談にくる人もいるけれども、そういう意味では、だれもが多重人格者なのだ。
相手が誰であっても一定の自分を出しているほうが、よっぽど浅い自分しか出せないのっぺらぼうのような得体の知れない人と言えるのではないか。

■関連記事
自己物語が変わると世界もひっくり返る
自己物語の作られ方
自己物語というアイデンティティの構築

価値観の違いがもたらす意味づけ

生きる意味がわからない人

自分の人生の意味がわからないという人々が増加する現象は、人間関係の希薄化、つまり自己を語り合うような深いかかわりの欠如という現象とともに進行してきたように思われる。

自己を語ることは、人生の意味を創造することにつながる。
ゆえに、いつもとは違う相手を前に自己を語ることは、これまで気付かなかった人生の意味に気づくきっかけになったりする。
相手とのやりとりの中で、自分が思わず語ったことがらを後で反芻してみて、ハッとすることがある。
視点を揺さぶられたことによって、新たな意味に気づかされたのだ。

深く語り合う場が欠如しているということは、いろいろに自己を語り分ける機会に恵まれないことを意味する。
人生の意味がわからない、自分が見えてこないと訴える人々の増加は、そうしたことが背景として進行していることなのではないだろうか。

人生の意味というものは、どこかに転がっていたり、埋もれていたりするものを、そのまま拾ったり掘り起こしたりして見つかるといった類のものではない。

自分なりの解釈のもとに自己を語り、聞き手の解釈を理解する努力をし、その聞き手の理解の枠組みからもわかってもらえるように工夫しながら語り直し、再び聞き手の反応を確認する。
こういった作業の積み重ねの中で、自分が経験してきたことがらの意味が、ひいては人生の意味が、知らず知らずのうちに生み出されているのである。

視点が違えば意味づけも違う

ところで、聞き手は語り手と違う視点を与えてくれるわけだが、語り手は聞き手の視点を何でも受け入れようとするわけではない。
対話が相互に理解し合うことを目的としているとはいっても、相手の視点をどうしても受け入れられないという場合もある。
どうにも譲れないこともある。

たとえば、親子の間でよく交わされる会話に見られる典型的な視点のすれ違いに、つぎのようなものがある。

「自分で何でもするようにならないとダメよ。
もうちょっとしっかりしてもらわないとねえ」

「けっこうしっかりしてると思うんだけどなあ。
お母さんの期待にしっかり応えてあげてるし」

「どこが。
お母さんの期待にどう応えてるって言うの」

「こと細かく面倒みたいっていうお母さんに、口うるさく指図する機会を与えてあげてるじゃない」

「なに勝手なこと言ってるの。
そんな期待なんかしないから、勝手に応えたりしないでちょうだい。
こっちだってあなたのことでピリピリして口うるさく注意しまくるより、自分の趣味にでも浸って心穏やかに暮らしたいわよ」

「あのね、もしほんとにそうなら、私のこともっと突き放して自由にさせてくれればいいじゃない。
お母さんがああしろこうしろっていちいち指図するから、自分でなんとかしようって気がなくなっちゃうんじゃない」

「何言ってるのよ。
あなたが何もしないからいちいち口うるさく言わなくちゃいけないんでしょ」

「違うんだって。
自由に放っといてくれたら私だって自分でいろいろ考えてするけど、自分からする前にああだこうだいちいち注意されたり指図されたりするから、まあ言われたことだけやればいいかってことになっちゃうんじゃない」

「屁理屈ばっかり言って。
放っといたら何にもしないから、放っとけなくなっちゃったんじゃないの」

「もう、わかってくれないんだから」

「それはこっちのセリフよ」

ここには、娘の自律性の欠如のもつ意味についての解釈の相違が見てとれる。
娘の日頃の行動からして自律性が欠けていると見られるということに関しては、母親と娘の双方の見解は一致している。
しかし、その原因についての見方は、真っ向から対立している。

これは、どちらが正しいといった問題ではない。
ものごとには多義性がある。
とくに心理的な性質のものごとに関しては、あたかも多義図形を見るときのように、見る視点によって異なった意味が浮上してくる。

問題となるのは、自分の今後にとって、あるいは相手と自分の双方の今後にとって、どういった意味づけをするのが好ましいかということである。

人の振る舞いは相手が抱くイメージに拘束される

双方の意味づけの対立というのは、なにもこのようなあからさまな言語的やりとりにかぎられるわけではない。

人には、相手の視線に拘束されるといった性質がある。
相手から、こういう人物に違いないといったイメージをもって働きかけられると、知らず知らずのうちにその投げかけられたイメージに沿った行動をとるようになる。

たとえば、小中学校時代を思い出すと、教師からもクラスメートからも信頼されているいかにも優等生といった感じの子がいたはずだ。
そういったタイプの子は、どんなときも模範的に振る舞うものと周囲から期待され、本人はそういった期待を肌で感じ、その期待に沿った行動をとる。
そして、周囲の人たちは、そうした振る舞いをごく当然のこととして受け止める。
しかし、本人の意識の中では、ごく自然に振る舞っているわけではないかもしれない。

試験前に体調を崩したとする。
ふつうの子なら、体調を理由に勉強を棚上げすることもできるだろう。
でも、優等生のラベルを貼られた子としては、試験で悪い成績をとるようなことはあってはいけないことなのだ。
周囲の期待を裏切ってはいけないといった義務感から、歯を食いしばって試験勉強に打ち込まざるを得ない。
逆に、劣等性のラベルを貼られた子なら、ちょっとした体調の悪さをいいことに大いに手を抜き、堂々と悪い点をとることだろう。
それこそが自分らしさの証なのだから。

あるいは、ふざけたい、バカなことをしたい、人をからかいたいといった悪ふざけの衝動がふとこみ上げてくる悪魔の瞬間というのが誰にもあるものだ。
そんなとき、ふつうの子なら、適当に悪さをして衝動を発散することができる。
でも、この優等生タイプの子は、自分がそんな行動をとった場合の周囲の人の反応、つまり意外な行動を目の当りにしての驚きや困惑を考えると、どうしても自分を抑えざるを得なくなる。
逆に、悪ふざけばかりしてどうしようもないやつといったイメージをもたれている子なら、こみ上げてきた衝動をそのままに行動化することができるだろう。

いずれも周囲の期待に応えるべく振舞っていると言える。
周囲の人たちがこちらに突きつけている自己定義にふさわしい態度や行動をとっているのだ。
あたかも自己定義の正しさを証明するために行動を選択しているかのようである。
言ってみれば、教師やクラスメートといった周囲の人たちとの間で承認され共有されている自己物語を生きているというわけだ。

自己定義をめぐる対立と相互変革

相手が押しつけてくる自己の意味づけ、つまり自己定義が、こちらにとって納得のいかないものであるときは、そのままには受け入れられないという意思表示をしていく必要がある。
しかし、これからもかかわりが続く相手である以上、ただ拒否して終わりというわけにもいかない。
向こうの意味づけとこちらの意味づけを突き合わせながら、双方が相手の視点を理解しつつ折り合いをつけていかなければならない。

たとえば、母親の期待に十分応えて、良い子として生きてきた子が、思春期を迎え、自分の足で歩き始めなければならないときになって、突然行き詰まるということがある。
親から押し付けられ、素直に従って生きてきた自己物語が、どうにも窮屈でしようがないと感じられ、新たな自己物語への脱皮が求められているのだ。

そこで、この子は、自分を良い子の型にはめようとする自己物語を拒否し、その自己物語を拒否し、その自己物語を生きることを自分に強いてきた母親に対する反逆を始めることになる。
反逆の仕方は、置かれた心理的および社会的状況によってさまざまな形態をとる。

これまで口答えもせずに母親の言うことは素直に聞いてきた子が、突然乱暴な口調で母親の要求を拒否したり、自分勝手な行動をとり始めるかもしれない。

反抗による講義である。
あるいは、これまで学校をずる休みするなんて考えられなかった子が、突然学校に行かなくなって、母親をおろおろさせるかもしれない。
引きこもりによる抗議である。

こうした抗議によって、子どもは母親の期待に素直に応えるという形で生きてきた自己物語、母親との間で相互承認がなされてきた自己物語を拒否して、自立する年頃になった現在の自分によりふさわしい自己物語に書き換えていくための第一歩を踏み出したのである。

この子は、自分自身の自己物語の主人公であるだけでなく、母親の生きる自己物語の主要な登場人物でもある。
ゆえに母親は、わが子が自己物語を書き換えて日頃の振る舞い方を変えたりしたら、母親自身の自己物語の組み換えも必要となるわけだから、おいそれと認めるわけにはいかない。
母親としては、わが子をこれまでの自己物語の中に引き戻そうとするだろう。
子どもは、そうした母親の働きかけに対して、当然反発する。

ここに母親と子どもの間の自己物語をめぐる協議が始まる。
お互いの視点と要求が語り合いの中で持ち出され、新たな自己物語の構築に向けての協議が進行するのである。

このところ子どもや若者の自立が後れているという指摘とともに、親の子離れがスムーズに進行していないといった指摘も目立っている。
自立できない子どもの背後には、わが子の自立を妨げる親がいる。
子どもの自立が問題とされるとき、そこでは本来親子の相互自立が問題とされなければならない。

なぜなら、子どもが自立的に生まれ変わっていくときには、わが子が主要な登場人物である親の自己物語にも大きな変化が生じざるを得ないからである。
子どもが変われば、親も変わらざるを得ないのだ。
子どもが変わるためには、親が変わらなければならない。
つまり、相互に相手の自己物語の主要な登場人物である人同士は、それぞれの自己物語の更新や改訂を協議しつつ進めることになる。

聞き手によって自己物語が作られる

聞き手の反応をモニターする

内向性の強い人は、自分が話した言葉が聞き手にどんな反応を起こさせたかを気にする傾向がある。
相手からどう思われるかなんてあまり気にしてもしようがない、と居直りを決め込もうとしても、どうしても人の反応が気になってしようがない。
それが、人間として生きるということなのかもしれない。
人間を生きるとは、文字通りに読めば、人との間を生きるということなのだから。

もちろん、相手の反応をモニターする傾向には、大きな個人差がある。
モニター傾向が非常に強い人は、相手の反応を見ながら、相手から受け入れてもらえるように、相手の意向を汲み取った反応を返すことをとくに心がけるだろう。
一方、モニター傾向が極端に弱い人は、相手の反応にほとんど無頓着に、ただ自分の思うままに反応を返しているだけのように見えるだろう。

だが、強弱の違いこそあるものの、だれもが自分の発した言葉が聞き手からどんな反応を引き出したかにまったく無関心ではいられない。
相手の反応に無頓着に見えるとしたら、それは相手の反応を読みとる能力が弱いか、あるいは相手の反応に合わせて適切な反応を返していく能力が弱いということに違いない。
本人の中では、自分が相手の中に生み出した反応を見て、それにふさわしい反応を返しているつもりなのである。

人の語りは、常に聞き手にある種の反応を期待して、こちらの意図する反応を聞き手の中に引き起こすべく行われている。
そのために、効果的な道具立てが工夫されるのだ。

たとえば、有効と思われるエピソード素材を好んで想起し、そうした素材の効果的な並べ方を検討し、こうして並べられたエピソードの連鎖の流れに対して納得のいく説明を考案するのだ。

意図した効果が現れるのが確認できると、いよいよその路線を強化すべく効果的な語りでたたみかけていくことになる。

相手の反応で変化する語り口

人はよく愚痴をこぼす。
愚痴をこぼすとき、語り手は聞き手からその愚痴が正当なものかどうかを客観的に評価してもらおうと思って愚痴をこぼすわけではない。
愚痴をこぼし、聞き手から「そうだ、そうだ」「それはひどい」「それは腹が立つね」のように共感してもらうことで、スッキリしたいのだ。

そんなときには、語り手の気持ちに寄り添って聞いてくれる聞き手の存在は、とてもありがたいものだ。
語り手の気持ちに共感しつつ、じっくり耳を傾けてくれる聞き上手がみんなから好かれ、異性からもてるのも、聞き上手は語り手を気持ちよくしてくれるからである。

しかし、みんながみんな語り手の気持ちに寄り添って話を聞いてくれるわけではない。
むしろ、そのような聞き上手のほうが稀かもしれない。
そこで、多くの場合、相手に共感してほしくて語ったのに、思いがけない反論によって当惑させられたり、反応のなさに肩すかしをくらうことになる。
そんなときは、より極端なエピソードを探したり、ある視点を強調する語り口をとるなど、意図する反応を聞き手から引き出すために、あの手この手を使うことになる。

たとえば、上司がいかに理不尽な要求をしてくるかを嘆き、共感してもらい、一緒に上司のことをこき下ろしたかったのに、「それは、上司が鍛えてくれようとして試練を与えてくれてるんじゃないの」と言われたり、「あなたが上司を立てないで言いたいことをけっこうはっきり言うほうだから、にらまれるんじゃないの。
もっと上手に付き合わなくちゃ」のようにさとされたりすることがある。
でも、そんな見方はぜったいに間違っている、とても受け入れがたい反応だ。
そんな言い分を受け入れたりしたら、よけいストレスが溜まってしようがない。
そう思わざるを得ない場合にどうするか。
そこは、なんとしても、こちらの言い分に賛同してもらえるように、語り直さなければならない。

そこで、その上司が部下を育てようなどと殊勝なことを考えて行動するような人物ではないことを証明すべく、日頃の身勝手な言動を思い起こしつつ、
具体的なエピソードを提示していくことになる。

あるいは、自分のつきあい方が悪いからそうなるのではないということを証明すべく、他の部下たちもいかに困っているかを示すエピソードを並べ立てることになる。

それでも相手が納得してくれない場合は、実際にあったエピソードを脚色することで、意図する反応を聞き手から引き出そうと必死の試みをするだろう。
ときに誇張が過ぎて捏造に近い語りになってしまうこともある。
意識して嘘を言っているわけではないのだが、聞き手の反応が思わしくないとき、意図する反応を引き出すために、人はどうしても極端な語りをしてしまいがちだ。
それほどに、聞き手というものの存在意義は大きいのだ。
聞き手が語り手の語る内容や語り口を支配するといってもよいくらいだ。

こうして、エピソードの内容そのもの、あるいはその前後関係や背景に関する説明の仕方は、語りの場において決まってくる。
つまり、過去の経験についての語りを大きく左右するのは、記憶力の問題というよりも、思い出しつつ語っていくときの、その場に働く語り手と聞き手の双方の思惑からなるベクトルである。

聞き手が導く自己物語

このように、人は、相互に相手を規定し合っている。
身近に接する重要な相手に期待され、承認されている自己物語を矛盾なく生きるように、たえずプレッシャーをかけられているのだ。

やはり、内向型の人の語りは、なんとしても聞き手に承認してもらわなければならない。
語り手は、自分の身に降りかかった事実を相手にわかりやすく語っているつもりでありながら、聞き手の反応に合わせて語り直されていく自己物語は、聞き手とのやりとりを通して作り直されていく。
つまり、語られる自己物語には、語られる時点でアドリブ的に創作される作り話といった側面もあるのである。

多くの人は、人に自己を語るとき、自発的に自分自身について思うところを語っているように感じているが、じつは聞き手のもつ文脈に規定され、その文脈のもとで納得のいく語りとなるように工夫しながら語っているのである。

ということは、多くの人の抱える自己物語は、聞き手とのやり取りを通して、たえず書き換えられていることになる。
つきあう相手によって自分が知らず知らずのうちに変わっていくというのも、こうしたメカニズムによるわけだ。

学生時代からの親友と語り合うことの心地よさは、遠慮なく何でも言えるからスッキリするということに加えて、日頃の周囲の人たちとの語りの中で変化してしまっている自己物語を、あるべき方向に引き戻すことができることにもよる。
眠りかけていたかつての自己物語が息を吹き返すことで、自分の中に変化が生じる。

学生当時のエピソードを語り合い、その当時に生きていた物語的文脈を思い起こし、それに沿って現在の境遇を語っていくことで、親友との間で相互承認し合ってきた自己物語の文脈が再び現実生活を規定する力を発揮しはじめる。

たとえば、企業の論理に染まって当然のように日々とっていた行動が、改めて強く意識されるようになった学生時代の自己物語の文脈のもとでは、納得できないものとなる。
そうした思いを実感し、かつての自己物語が機能し始めると、日々の行動も変わっていかざるを得ない。

旧友との語り合いによって忘れていた自分を取り戻したなどと言われることがあるが、それは、さまざまな人たちとの語りによって拡散し、身のまわりの経験を一定の意味の流れのもとに凝集していく力を失いかけていた自己物語が改めて強く意識され、強化されるからである。

そうなると、これはまたある意味でひとつの危機ともいえる状況にもなりかねない。
現実に自分が置かれている立場とどう折り合いをつけていくかで、頭を悩まさなくてはならない。

■関連記事
自己物語を肯定するカウンセリング
語ることと聞くことで自己物語をつくる
自己物語は独りよがりじゃない

自己物語への反乱の重要性

自己物語には相手が抱く文脈が取り込まれている

人をバカにした態度をとる相手には、真正面から対決する姿勢で自己を主張することができる人でも、相手がこちらに好意的な態度を示して、こちらが抱いている自己像と違ったものを相手が期待しているとき、どう反応すべきか悩んでしまう。

たとえば、みんなから非情なケチ人間とみなされ、本人もそう自認している人物が、自分を優しくていい人だと純粋に信じ込んで接してくる人の影響で、長年忘れていた優しい心を取り戻していくということも起こり得る。

これを自己物語の観点から解釈すれば、人間味のない非情な人物としての自己物語を周囲の人たちの承認のもとに生きていた人物が、新たに接するようになった相手から優しい人物としての物語的文脈を投げかけられて、その文脈を自己物語の中に取り込んでいったということになる。

親による過保護が弱い子をつくるというのも、同様のメカニズムが働く結果といえる。
過保護にする親は、「自分は保護してもらわなければならない、頼りない子なんだ」という自己物語の文脈を子どもに意識させる。
ことあるごとに親から過保護な態度を示されることによって、頼りない自分、親に依存している自分といった文脈が、子どもの自己物語の中に植えつけられていく。

しっかり者というラベルを貼られることで自立性を身につけていくのも、まったく同じメカニズムの結果とみることができる。
しっかりしている子だから自分のことは自分でできるはずだとして親から突き放されることで、「自分は人に頼らなくても、自力でしっかりやっていける子なんだ」「自分のことは自分で解決していかなければならない」という自己物語の文脈を意識させられる。
そうした経験にしょっちゅうさらされることで、しっかり者の自分、自立性の高い自分といった文脈が、子どもの自己物語の中に根付いていく。

しかし、ときに自分が生きている物語的文脈から抜け出したくなることがある。
今生きている自己物語が、無理やり押しつけられたものであるかのように思われて、どうにも我慢ができなくなることがある。
そんなときは、周囲から承認されている自己物語の文脈を、思い切って拒否することになる。
反乱を起こすわけだ。

押し付けられた自己物語への反乱

兄弟姉妹の出生順位によって性格が違うというのは、多くの研究によって証明されている。

たとえば、姉という立場にある人は、一般に抑制のきいた落ち着きや面倒見のよさが求められるようである。
人の性格というのは、周囲からの期待や要請にしたがってつくられていくといった側面が強いので、姉として育った人は、当然のように自分を抑えた控えめな態度、周囲に気配りする態度を身につけていく。

でも、いくら抑制と気配りを求められる姉として生まれたとはいっても、神でもなければ仏でもない、ただのひとりの人間である。

わがままな気持ちになることもあれば、衝動がこみ上げることもある。
自分のことで精一杯で、人のことを気遣う心の余裕を失うこともある。

そこで、周囲からの期待による縛りがきつすぎるとき、「みんなのために生きているわけじゃない」「いつも優等生ではいられない」といった気持ちがこみ上げてきて、「私は私なんだ。私だって、妹みたいに自分をもっと自由に出したっていいじゃない」とでも言いたげな、予想外の反応が飛び出したりする。
優等生の反乱だ。

素直な良い子の反乱と同じだ。
この種の反乱は、それに則って生きるように期待され、何気ない言葉や態度を通した無言の圧力によって押し付けられてきた自己物語を生きることを拒否し、もっと楽に自分を出せるように物語的文脈に変更を加えることを目的としている。

こうした反乱には、冷静に話し合うことで親にわかってもらおうとするやり方もあれば、感情的に反発し対立し、さらには勝手な行動を強引にとっていくことで、思い通りにはならないということを力ずくで納得させようとするやり方もある。

ただし親にとっても、わが子は自己物語の重要な登場人物のひとりなので、そう勝手に役柄を変えられても困ってしまう。
したがって、わが子の反乱をそう簡単に認めるわけにもいかない。

そこで、両者の思いは平行線をたどることになる。
こうして、多くの場合、この種の反乱は、本人にもよくわからないままに感情的に反発するといった形をとることになるのが一般的である。

どんな説明をするかで結果は違ってくる

自分のとった言動の意味がよくわからないというのは、けっして珍しいことではない。
そんなとき、「なぜ、あんなこと言っちゃったんだろう」「あんなことしなければよかったのに、どうしてやってしまったんだろう」と首をかしげたり、後悔したりする。
でも、いったん発してしまった言葉を取り返すわけにはいかない。
してしまったことを今更取り消すわけにもいかない。
そこで、自分でも納得がいき、相手も納得してくれそうな説明を考え出すことになる。

たとえば、母親の言葉に、ついイライラして感情的に激しく反発してしまった後で、母親から「どうしたの?」「何をいらついてるの?」と尋ねられる。
でも、自分自身なぜあんな態度をとったのかよくわからない。
そこで、もっともらしい説明を生み出すことになる。
説明の仕方に正解があるわけではない。
本人でもよくわからないくらいなのだから、どんな説明でも、納得のいくストーリー性を備えていればよいのだ。
「いちいちうるさく言うから嫌になるんだ。
自分のことは自分で考えるから、ほっといてくれ」「自分の人生だし、自分で責任とるしかないんだから、好きなようにさせてほしい」のような説明も可能だ。
このような説明をして、母親の側がある程度納得すれば、子どもは自立への一歩を踏み出すことになる。
以後、母親の態度には、何らかの変化が見られるはずだ。

だが、「いちいちうるさいなあ。ほっといてくれ」「イライラして何もできなくなっちゃうじゃないか。どうしてくれるんだよ」「うるさく言われるから、何もする気がしなくなるんじゃないか」「どうしろって言うんだよ」のように答えることもできる。
これは、子どもが自分で自分をコントロールできないことの表明にもなっているので、母親としては、安心してわが子を自立へと突き放すわけにもいかないだろう。
「ごめん。このところ忙しすぎてひどい睡眠不足だったから、ついイライラしちゃった。
気にしないで」のように説明することもできる。
これは、母親も自分の態度の変更を迫られるわけではないので、受け入れやすい説明だ。
もちろん、このように説明したからには、つぎの休日くらいはどこにも出かけずに、ゆっくりと休養をとったほうがよいだろう。
こうした説明を納得して受け入れた母親からも、ゆっくり休むようにアドバイスされるに違いない。

同じ態度や行動に関しても、いろんな説明があり得るのだ。
そして、どんな説明をするかで、その後の方向性が大きく異なってくる。