誰もが認められたい、愛されたい

イタリア人は、女性を見ると、すぐに口説くと言われる。

「きれいだね」とか「愛してる」といったことを挨拶代わりに使うということもよく言われ、実際そうらしい。

だが、そのことは、イタリア人がもてることと、不可分だろう。

今日の日本では、そんなことを気軽に口にしたら、セクハラで訴えられかねないが、そういう危険を顧みず、女性に積極的に声をかける男性は、風采や収入に関係なく、女性にもてる。

女性たちは、半分嫌がりながらも、馴れ馴れしく話しかけてくる男たちの口先だけのお世辞や誘いに、いつのまにか乗ってしまう。

なぜだろうか。

答えは簡単だ。

誰もが自分を認めてほしいし、愛されたいからだ。

全然気のない相手であろうと、「きれいですね」とか「すてきですね」と言われて、憤慨する人はあまりいない。

人が自分を褒めてくれたことを、人生の特別な出来事として、よく覚えていたりする。

それは、そういうことは滅多に起こらないからでもある。

とてもきれいな人でも、そんなにしょっちゅう「きれいですね」と言われるわけではない。

そう心に思っていても、たいていの人は素知らぬふりをする。

そうする方が、奥ゆかしく、こちらのプライドを守れると思っているからだ。

自分から好意を示したり、下心を見抜かれることは、みっともないことで、軽蔑を受けかねないと恐れているのだ。

そうした点から言えば、自分からアプローチしたり、自分の好意を率直に打ち明けることは、プライドが傷つくかもしれないというリスクを顧みない勇気ある行動だと言える。

そうした犠牲を払い、勇敢にも自分が愛するに値する存在だと告げる行為に対して、警戒はしつつも、内心悪い気はしないのである。

相手にほんの少しでも好意があれば、それはより高められるだろう。

その言い方が、堂々としていたり、すがすがしいものであれば、その勇敢な率直さに、いっそう好感を覚えるかもしれない。

誰もが自分の価値を認められ、愛されたいと願っている。

表にはださなくても、心ひそかに、特別な関心や賞賛が与えられることを期待している。

だが、そんなことは滅多に起きない。

それゆえ、そんな体験を与えてくれる存在を悪くは思えない。

多くの場合は、好感を抱く。

自分を認め、讃える存在を、認め、讃えるようになる。

逆に、貶し責める者は、貶され責められる。

自己愛の作用・反作用の法則だ。

社会的知性に優れたものは、そのことをよく知って行動する。

それが本当の頭の良さなのである。

ところが、生半可に頭のいい、理屈や常識に縛られた人は、論理の筋だとか、正しさとか、事実かどうかといったことにばかり気を取られ、議論で相手に勝とうとしたり、事実と違っているからと言って、相手を責めようとする。

しかし、そんなことをしても、余計に相手を否定し、傷つけ、感情的にさせ、関係を悪化させるだけで、何のメリットもない。

優れた社会的知性は、人間関係において大事なのは、正しいかどうかではなく、相手も喜び、こちらも得をすることだと考える。

つまり、相手の自己愛をくすぐることが、自分も愛されるだけでなく、恩恵を手に入れる方法だということを体得しているのである。

意表をつく行動

演技性の人がもちいる、もう一つ特徴的な戦略は、相手の意表をつく行動で、相手の警戒心を麻痺させ、非日常的な心理状態にさせてしまうということだ。

多くの人は日常の繰り返しに安心を得ると同時に、変わらない日常の刺激のなさに飽き飽きしている。

非日常的な出来事が、自分の身に起き、この倦み疲れた生活から救い出してほしいという願望をひそかに抱いている。

演技性の人の最大の才能は、非日常性を作り出すということにある。

日常的な常識や予想を裏切り、意表をついた行動に出ることで、相手を呆気にとらせ、理性を麻痺させ、非日常的な気分にさせてしまう。

非日常とは、普段は抑圧している願望が、解放を求める瞬間でもある。

人生において滅多に経験しない特別な出来事が目の前に起きることによって、常識的な理想の呪縛や批判を解除し、まるで救世主や天使が現れたかのような気持ちにさせるのである。

意表をつく行動は、危険や世間体を顧みない急接近であったり、無防備に自分をさらけ出す行動であったり、特別な贈り物や演出であったりする。

オノ・ヨーコはいかにしてジョン・レノンを射止めたか

後にジョン・レノンの妻となるオノ・ヨーコが、ロンドンにやってきたとき、前衛芸術家としてニューヨークでは多少名前が知られていたものの、ロンドンでは無名に近い存在だった。

ヨーコには、二人目の夫であるトニーと幼い娘がおり、ほとんど無一文に近かったため、家賃を払う金もなく、知人宅に泊めてもらっていたような状況だった。

そんなヨーコが、なぜ世界的トップスターであり、妻も子もいて幸せに暮らしているジョン・レノンのハートを射止め、我が物にすることができたのだろうか。

まずヨーコがしたことは、前衛芸術家として、ショッキングなパフォーマンスでロンドンっ子の度肝を抜いたことだ。

評判になって、あちこちのパーティに呼ばれたり、有名な画廊から個展の話が舞い込むようになる。

その画廊には、ジョン・レノンも出入りしていることを知ると、ヨーコは、そのチャンスを逃さなかった。

ヨーコとジョンの出会いは、すべて計算し尽くされた、ヨーコの演出によるものだったという。

真っ白な画廊に黒ずくめの衣装をまとったヨーコは、ジョンと交わす目線の角度まで考えていた。

ヨーコの方が高い位置にいて、ジョンからはヨーコを見上げることになったのだ。

まるで救世主が降臨するように、ヨーコは、ジョンの前に降り立ったのだ。

ジョン・レノンの名前を聞いても、ヨーコは特別に反応せず、一人の無名の男に接するように接した。

有名人としてちやほやされることになれきっていたジョンには、かえってヨーコの反応が新鮮だったに違いない。

ジョンは、その日以来、ヨーコに関心を向けるようになったのである。

だが、ジョンの関心は、まだ興味深い女流芸術家がいるという域を越えないものだったに違いない。

積極果敢な攻勢をかけ続けたのは、ヨーコだった。

ヨーコは、偶然を装ったり、仕事にかこつけたりして、ジョンに会おうとした。

あくまでも新進の芸術家というスタンスで、自分の仕事をジョンに紹介したり、自分の作品集にジョンの寄稿を依頼したりした。

ジョンは気軽に、作品集への寄稿に応じたが、これはヨーコからすれば、してやったりだっただろう。

ジョン・レノンという大物スターに、自分の作品の賛辞を書いてもらえるというだけでも、途方もない成功だったが、ヨーコはそれだけでは満足しなかった。

その作品集が完成して、ジョンのスタジオで手渡すと、ジョンは好意的な感想を言ってくれた。

その反応を見るや、ヨーコはすかさず、ある話を持ち出す。

新たな個展を計画しているが、資金の問題があるというのだ。

実は、個展の計画などなく、その場でヨーコが思いついた話だったのだが、ジョンは必要な五千ポンドの資金を出そうと気軽に申し出る。

そこから二人の関係は、大きな一歩を踏み出すことになる。

関連記事

助けるほど思いは強まる

願い事をして、聞いてもらうというかかわりの持ち方も、親密な関係を深めていく上で、極めて有効な方法である。

困った人から助けを求められるということが、保護本能をかき立てるだけでなく、実際に支援することによって、さらにその思いが強化されていく。

ウェブスターの小説『あしながおじさん』は、施設で暮らす孤児の少女が、進学を諦めかけたときに、名も知れぬ男性が支援を申し出るというところから始まる。

支援を受ける条件は唯一つ、定期的に手紙を書くことだった。

名前も知らず、わずかに垣間見た姿と言えば、男性が立ち去りかけたときに映った長い影だけで、少女は、男性のことを「あしながおじさん」と呼び、学校での様子を手紙に書き続ける。

いつしか少女も、そして、男性の方も、互いを愛するようになる。

手紙という自己開示を通じて、開示する方もされる方も、親密な絆を感じるようになっていったのだろう。

単に孤児と支援者の関係ではなく、互いが特別な存在となっていったのである。

オノ・ヨーコに話を戻せば、ジョンが資金援助を申し出た時点で、自分に特別な好意を抱いていると確信したに違いない。

だが、実際には、ジョンはそこまで積極的な気持ちだったわけではないだろう。

あくまで新進の芸術家を応援したいという気持ちだけだったのかもしれない。

それに、ジョンは、子どもたちや家庭のことを大切にしていた。

それを犠牲にしてまで、危険な関係に進んでいくことは、考えられないことだったに違いない。

そんな状況で、いかにしてヨーコは、ジョンを動かしていったのか。

それは、なりふり構わない積極攻勢だった。

頻繁な手紙や電話。

そして、自宅にまで押しかける。

そこでは、ジョンが妻子と暮らしていた。

あるときは、ジョン一家が乗っている車に、ヨーコが無理やり乗り込んだこともあった。

妻が怪しんで、一体何者か問うと、ジョンは「頭のおかしい芸術家なんだ」と答えたという。

そう言って素知らぬふりをしたジョンだったが、その実は、常識など超えたヨーコのスタイルに、いつしか自分の救済者を見いだしていた。

ジョンの中には、平穏な家庭生活を守りたいという気持ちとともに、それに倦み、解放を求める気持ちが混在していた。

ヨーコは、ジョンの中で抑えられていた後者の気持ちに火をつけ、それをジョン自身に代わって実現していったのである。

妻子を押しのけ、割り込んでいく厚顔なパワーがなければ、その”偉業”は決して成し遂げられない。

道徳や倫理観に縛られない者だけが、それをなしえる。

それは、反社会性の特性に通じる魅力でもある。