自分が異質だという感じを強く持つ人は、「普通の人は・・・」という表現をよく使います。
そして、「普通の人であること」に対して嫉妬や羨望を覚えます。
ところが実際には、普通の人、誰にでも起きることを過度に強く感じているだけなのです。
普通の人はまばたきは誰でもしますし、口につばがたまれば飲み込みます。
普通の人でも人前に出れば緊張しますし、あがります。
これを過度の自己意識のために、過大に評価しているだけなのです。
また、考えてみれば「普通の人」など、どこにもいないのです。
いろいろな面を持ったAさんがいます。Bさんがいます。Cさんがいます。
それぞれ違いを持った人がいるだけなのです。
これを「普通の人」と過度に一般化してしまうために、一人一人の人を、ありのままに見ることができなくなってしまい、それぞれの人が違うという点での、これらの人と自分との共通性を見失ってしまうのです。
自分が他の普通の人と異なるというこの異質性の感覚は、否定的な自己意識です。
このために、普通の人を羨ましがる自分がいることで他の人が嫌になるのではないか、周囲の人に迷惑なのではないか、といういわれのない負い目に結びつきがちです。
ですから、普通の人を羨ましがる人は集団生活などでは、ただひたすら迷惑をかけないようにと行動します。
家族の中においてさえ、こうした普通の人を羨ましがる意識をもたされている人がいます。
迷惑を掛け合ってこそ家族であるのに。
普通の人を羨ましがる、過度の自己意識は一人のときにも働きます。
このため、普通の人を羨ましがる人はいつでも自分を見ている自分がいて、なにをしてもどこか気がかりで熱中できないということになります。
普通の人を羨ましがる過度の自己意識は当然、身体にも向かいます。
そのため、普通の人を羨ましがる人は身体的なちょっとした変化にも過度に敏感になり、ささいな身体の不調を重大な病気の兆候としておそれる心気症的な傾向を持ちがちです。
普通の人を羨ましがる人は否定的な自己意識と過度の自己意識とが結びついて、自分の身体から嫌な臭いが出ているのではないかという、体臭恐怖や口臭恐怖を引き起こすこともあります。
こうしたことで悩む普通の人を羨ましがる人は、他の人よりも臭いが強いというわけではありません。
ところが普通の人を羨ましがる本人にそう言っても、「いえ、じっさいに臭いがします」と受け付けません。
人間が生物として持つあらゆる臭いを消さなければと考えているかのようで、普通の人を羨ましい自分という存在への色濃い不信を反映しているのです。
普通の人を羨ましがる過度の自己意識は、無関係のことを自分に関係づける傾向も生み出します。
普通の人を羨ましがる人は他の人が嫌っているとか、うわさしているとか、仲間外れにしているなどです。
被害妄想的なこうした関係づけは、断片的な出来事を普通の人を羨ましがる自分に否定的に関係させてしまう誤解で成り立っています。
たとえば「好意の会釈」を「あざ笑った」と解釈し、普通の人を羨ましがる本人を仲間に迎えるために今の話を中断すると「自分の悪口を言っていたのだ」と解釈してしまうのです。