あまりにも幸せすぎるための不幸

「特定の男性と付き合うなんてわずらわしい」という二十代後半の女性

ある27歳の女性がこんなことを言いました。

「まわりの友達が彼をふったとか、ふられたとか騒いだり、意中の人に熱を上げたりしていても、私はとくに恋人がほしいと思うことがなかった。
素敵な恋人がいたらいいなと思うこともあったけど、そんなに切実なものではなかった。
でも、今の齢までその状態が続くとは自分自身思ってなかったし、私ってちょっとおかしいのかな、なんて思ったりもします」

同い歳の彼女の親友も言います。

「そろそろ結婚のことを考えなくてはと思うこともあるけど、その前提となる恋人がいない。
いざとなったら見合いでもいいけど、できたら恋愛がいい。
だけど、今さら知らない人と出会って、はじめはかなり無理して相手に合わせたり探りあったりして親しくなっていくなんて、考えただけで面倒くさい」

彼女たちは、とくに仕事が忙しくてデートする暇がないというわけではなく、職場にも独身男性はたくさんいるし、たまにみんなで会って楽しくすごす学生時代の仲間のなかにも男性が何人かいます。
でも、特定の男性と個人的に、しかも継続的に会うのはわずらわしいと言います。

残業はほとんどなく、帰りにときどき友達とお茶する程度ですから、平日の夜も日曜日もたいてい家族と一緒にすごすそうです。

二十代後半の女性が、休日を家のなかでブラブラしていたり、家族と出かけたりして過ごすというのはそうなのでしょうか。
男性の側からみればかなり魅力的な人たちなので、ちょっともったいなく思ってしまいます。

本人たちも恋愛する気はあるというのですが、恋愛というのは、人生のカリキュラムに組み込まれた科目のひとつみたいに、一定の年齢になったからといって義務のようにするものではありません。

そんな理性的なものでなく、頭でなく情で動くもので、わけのわからない衝動にせきたてられて激しく相手との一体化を求めるものです。

結局、彼女たちと話していてわかったのは、ふだん孤独感にさいなまれることがなく、居心地のよい現状から脱したいと切実に思うような動機がないということです。

同性の友達も家族も気を遣わなくていい相手だから、一緒にいて楽だと言います。
それはそうでしょう。
だから、友達とだべったり遊びに出かけたり、家族とショッピングしたりしていれば楽しく毎日がすぎるし、そうした現状にべつに不満はないのです。

「このままの状態がずっと続くとしたら、それはけっこう快適なのではないかしら」というわけです。

こう言われると「なるほど」と思わず納得してしまいそうになりますが、果たしてこんな状態がずっと続くものなのでしょうか。

恋愛の出発点は「孤独」を感じること

ここで恋愛についてあらためて考えてみると、恋愛とは、けっして最終的にひとつになることのない別々の人間と人間が、個として切り離されている寂しさから、たとえ幻想であってもよいから二人の間の溝を埋め、一体感を味わいたいと互いを激しく求める幻の橋かけ作業です。

そのもととなるのは、この世のいっさいから切り離されて存在する個の自覚に本質的につきまとう欠如感であり、それによる寂しさです。

家族のあたたかさに包まれて、自分を、そして個としての存在様式をとくに意識してこなかったのが、青年期になり自我のめざめとともに、自分は他の誰とも違う独自な存在であること、たとえ親でも自分の人生を肩代わりしてもらうわけにはいかないことに気付きます。

それまでは家族という一体感の幻想にひたって親と自分を同一視することが多かったのに対して、親と自分は別々の人生を一世代の時間的ズレをもって生きる存在であることを自覚します。

自分の人生を歩いているのは自分だけなのです。
だからこそ、その寂しさを自覚するからこそ、つながりをもてる同世代の特別な他者を必要とするのです。

つまり、家族に代わる同世代の絆を求めるのです。
その同世代の絆から新たな家族の幻想が生じ、やがてそこから一世代ズレて歩む個体が生じる。
それが発達心理学的にみて、ごく自然な人間関係の発達プロセスでした。

ところが、最近はこのように進行しないケースが増えてきたのです。

その背景にあるのが、家族、とくに親子の関わり方の変化ではないでしょうか。

世の中全体に厳しさというものがなくなっています。
家庭にも厳しさがみられず、甘い雰囲気が漂っています。
行動の制約が厳しく、古い価値観を押し付けてくる親元で、不自由で居心地の悪い思いをしなければならない家庭だからこそ、子は反抗し、自立していくのです。

若い世代の生き方にやたら物わかりがよく優しい親、大人の世界の価値観も揺れ動いているため「これが自分の生き方だ」と自分なりの価値観をぶつけることができない親は、子どもの自立を妨げます。

反抗さえさせてくれない、やわらかいクッションのような親というのは不気味な存在です。
自立心の芽生えた者にとっては、その手ごたえのなさはものたりなく、うっとうしいはずです。
ところが、近頃では、その物わかりのよい優しさのなかにぬくぬくとつかったまま、大人になっていく者が出てきています。

そもそも、自立に向けて心理的に親元を離れるということがないのです。

だから、切実に孤独を感じることもなく、わかりあえる異性との一体化による癒しを求めるエネルギーも湧いてこないのです。

優しすぎる父親が恋愛できない娘をつくる

原因としてあげられるのは、父性の弱体化です。
父性には、現実の厳しさを教え、成長に合わせて徐々に子を突き放し、鍛えあげ、やがて一人前に仕上げて社会に送り出すという役割があります。
ところが、自分自身に対する厳しささえ希薄化している父親には、父性の役割を充分引き受けることができないのです。

登校拒否・家庭内暴力や非行を親に代わって治すというので話題になった、戸塚ヨットスクールというのがありました。

その治療法は苛酷をきわめたものでしたが、子を突き放すことのできない父親に代わって、よその怖いおじさんとして立ちはだかり、自分の力で這い上がり解決するよりしようがない、そうしないと死ぬかもしれないというような極限状況に追い込むことによって、生きる力を目覚めさせるところに意義がありました。
実際に死者が出るような鍛え方には問題ありとしなければなりませんが、家庭における父性の欠如を如実に表す出来事でした。

父性に対して、母性には、無力な子をあたたかく包み、傷ついた子を優しく慰め、守り支える役割があります。
両者のバランスがうまくとれていればよいのですが、父性が弱体化した今日、そのブレーキを失った母性はともすると暴走し、必要以上にわが子をあたたかく保護し、やがて自立の力が芽生えはじめた子の足を引っ張っり、旅立ちの邪魔をします。
とても愛情深いやり方で。
子どもの方にも、優しく保護される立場を捨ててまで、厳しい荒波のなかに飛び出し、苦しみながら自立していくより、このままのほうが楽でいいという思いもあります。

それでも男性の場合は、男らしさの社会通念が自立を促しますから、親もとの居心地のよさに後ろ髪を引かれつつも自立への道を歩まざるをえません。
そうでないと、マザコンとか女々しいといった批判が突き刺さってきます。

女性の場合も、ひと昔前なら、年頃になったら嫁に出ないと世間体が悪いという社会通念がありましたから、親も子も、心理的にはともかく、まずは形のうえで分離せざるをえませんでした。

ところが、今ではそうした世間体による圧力が緩んだため、父性の弱体化と相まって、女の子を切り離す力が家庭内からも家庭の外からも発生しません。

つまり、女性の心理的な自立がとてもむずかしい状況にあるのです。

結婚はしたいけれども恋愛はたぶんしないだろうというニ十六歳の女性が、こんなことを言っていました。
「彼氏とか夫とかは取り替えがきくけど、父親はたった一人しかいません。
死んだらもう二度と会えないのです。
そのぶん大事にしたいと思うし、もし結婚して夫と父親とどちらかを選べという状況になったら、きっと父親を選ぶと思います」

たしかに、取り替えがきくものよりきかないもののほうが大切だ、という言い分は合理的で説得力があります。
でも、そうした合理的判断を吹きとばし、混乱させるような情熱の欠如には、なんだかやりきれない寂しさを感じます。

あまりに不幸な家庭に生まれ育つと、人間や社会に対する基本的信頼感が育ちにくく、人を心から愛することができなかったり、歪んだ愛し方を身につけたりといったことになりがちです。
でも、反対に、あまりに居心地のよい幸福な家庭に育つと、社会全体に甘い雰囲気が漂い切断機能が働かなくなった今日、愛情を求める飢餓感が生じず、恋愛ができないということになるのかもしれません。