いい子症候群

いい子症候群の心理的悲劇

いい子症候群で真面目な人の苦しみ

いい子症候群の哀れみを訴える人を見れば誰でも「これは嫌な人だ」と思う。

「いい人」とは思わない。

この種のいい子症候群の人が何らかの挫折をしても人は「なぜ?」と驚かない。

しかし真面目さも、哀れみも、ともに人の気を引くための手段であるということにはかわりがない。

いい子症候群の哀れみを訴えることで、人の好意を得ようとしている女性を人はどう思うだろうか。

いい子症候群の彼女は自分のことを口にし過ぎる。

それはジョージ・ウェインバーグによると彼女が自己憐憫に陥っている証拠である。

いい子症候群の彼女はいつまでも自分の哀れさを言うだけで、「これから自分がどうしようか」ということを言わない。

この女性のように哀れさを訴えていれば何とかなると思う人もいれば、いい子症候群の真面目でありさえすれば何とかなると思う人もいる。

こういういい子症候群の人達は、そうしていれば誰かが自分を愛し保護してくれると思っている。

両者とも受け身である。

いい子症候群は自分の力でこの人生を切り開いていこうとする意欲に欠ける。

いい子症候群になるほど真面目なビジネスパーソンは、自分は真面目でなければ他人の気を引けないと思っている。

それは人から好意を得るための真面目さである。

いい子症候群は人から受け入れられるための真面目さである。

同じように、この女性も自分は哀れみを訴えなければ他人の気を引けないと思っている。

自分を信じている人は、まず他人の気を引く必要を感じていない。

つまり問題は、挫折する「いい子」の真面目さは、何のための真面目さかということである。

挫折するいい子症候群の真面目さは、自分の人生の目的を達成するための真面目さではない。

いい子症候群の彼らは真面目であることで愛を求めているのである。

真面目にしているとき、いい子症候群の彼らの心の中は「私を愛して」と叫んでいる。

この点についてだけ言えば、いい子症候群の哀れみを訴える女性と同じである。

挫折するいい子症候群の真面目なビジネスパーソンも、会社から保護してもらうための真面目さであることが多い。

そこで日本のビジネスパーソンはいい子症候群の真面目であるが、会社に不満なのである。

いい子症候群の人は会社から保護してもらうために真面目にしているのに、期待した保護が得られない。

いい子症候群の人はそこで不満になる。

それが進んで、会社に神経質に愛情要求をするまでになるいい子症候群のビジネスパーソンもいる。

つまりこんなに働いているのだから会社は私をもっと優遇すべきである、と思うことである。

もちろん仕事熱心、真面目であることの動機は、人の好意を求めること、人から好かれること、人の保護を求めることなどの動機ばかりではない。

そうした動機のほかにもまだ動機はある。

いい子症候群の彼らは、心の底のまたその奥底で、自分が愛されるに値しない人間であると感じている。

つまりいい子症候群の自分が孤独なのは、自分は愛されるに値しない人間だからと思っている。

いい子症候群の自分に対する絶望感である。

だからこそいい子症候群の人は愛されるためには、仕事を熱心にする必要がある。

それはいわば憂鬱な熱心さである。

それは、いい子症候群の自分は愛されるに値しない人間だという感情を味わうことを避けるための熱心さである。

いい子症候群の自分が無力な人間であるという感じ方を避けるために、仕事熱心で真面目に振る舞う。

世間の評価を気にして真面目に振る舞っているいい子症候群のビジネスパーソンもいる。

あるいは見栄を張っているいい子症候群のビジネスパーソンもいる。

そうしたいい子症候群のビジネスパーソンは、世間の物笑いにならないように真面目に仕事をする。

いい子症候群の彼らにとって生真面目に仕事をすることが安全なのである。

そのような不安からいい子症候群の自分を守るために生真面目になる。

ここに逃避のメカニズムとしての仕事熱心が生じてくる。

このいい子症候群の仕事熱心は、仕事が好きで仕事熱心な人とは違う。

好かれるための行動はしない

相手に愛されよう、好かれよう、保護されよう、同情されようとするときに、真面目になる人ばかりではない。

中には自分の弱さを誇示して愛されよう、好かれようとするいい子症候群の人もいる。

「いい子」にとって大事なことは、いま自分は何をしたいかわかるようになることであり、自分がすることを自分で決められる人間になることである。

いい子症候群の人は好かれるために無理をしないことである。

そして何よりもそれらの行動の根本にあるのは、いい子症候群の自分の孤独感だということを理解することである。

「いい子」は、生きるのがこんなに苦しいのは状況や環境のためではなく、寂しさから人に好かれることばかり考えて自分を見失っているからだと気づくことである。

「いい子」は、人に好かれるために無理をし過ぎた。

いい子症候群のビジネスパーソンが自分の能力をオーバーするような仕事を引き受けて燃え尽きるようなものである。

「私は真面目に生きてきた、私は必死になって努力してきた、それなのにいいことは何もなかった、ただただつらいだけだった」ということになってしまうのは、自分を見失っているからである。

「いい子」は、確かに必死になって努力してきた。

しかし一体「誰のために」努力してきたのか。

もう一度真剣に考えることである。

決して人の幸せのためではない。

「いい子症候群」は、忙しいのに人に無理して会うということがある。

しかし、もし断ったら嫌われると思って、その人に会うというのなら、それは相手への思いやりから会うというのではない。

それは嫌われるのが怖いというだけの話でしかない。

いい子症候群の人は「偽りの自分」を守るためである。

幸せの敵は、このように偽りの自分を守ることである。

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「いい子症候群」から抜け出すために

イエスマンには決してならない

「いい子」はいつも無理をして親切にしている。

いい子症候群の人は今していることが5日後にどういう結果をもたらすかを考えないで、行動してしまう。

いい子症候群の人はいま相手に「ハイ」と言ってしまうことが、一カ月後にどのくらい大きな負担になるかを考えないで「ハイ」と言ってしまう。

いい子症候群の人はいま相手にいい顔をすることで、1年後にどのくらい消耗するかを考えないでいい顔をしてしまう。

いい子症候群の人はだからいつもその負担で相手とのつきあいが嫌になっているのである。

また「いい子」は相手を見ていないから、自分が今「ハイ」と言うことが相手にとってどれだけメリットがあるかを考えないで、「ハイ」と言ってしまう。

相手は軽い気持ちで頼んでいるのかもしれない。

断っても相手は何も感じないかもしれない。

それなのに「ハイ」と言って重い負担を背負ってしまう。

相手はそれほど必死で頼んでいるわけでもない。

試しに聞いてみようかぐらいにしか考えていないかもしれない。

だから「いい子」が背負いきれないような重い負担を背負って、その人のために頑張っても、その人はそれほどありがたいとは思わないことも多い。

そこで相手は、頼みごとをやってもらってもそれほど「いい子」に感謝をしない。

そこで不満になる。

だからいい子症候群の人は表面的には親切そうに見えても、実は相手に不満なのである。

期待した感謝の気持ちが得られないからである。

いい子症候群の人は気に入られるための行動が、期待した効果を表わさない。

それどころか逆効果になることの方が多い。

虐待を許しておいて、努力しても報われない。

自己蔑視している人は、他人が自分を虐待することを許すとカレン・ホルナイは言う。

なぜならそのいい子症候群の人自身が、虐待されることに心の底で同意しているからである。

馬鹿にされた扱いをされることに、その人が心の底で同意している。

いい子症候群の自分で自分を軽蔑しているがゆえに、自分を大切に扱ってくれることに違和感がある。

だからこそいい子症候群の人は質の悪い人に対して献身し、やさしい人から離れていくのである。

いい子症候群の人は自らすすんで、ずうずうしい人間の鴨になる。

いい子症候群の人は不誠実な人間にすすんで利用される。

自分を軽蔑しているいい子症候群の人は、利用されやすく、騙されやすい。

「私は真面目に生きてきた、私は必死になって努力してきた、それなのにいいことは何もなかった、ただただつらいだけだった」ということになってしまうのはそこに原因がある。

生きることそのことがつらいいい子症候群の人は、確かに必死になって努力してきたであろう。

しかし一体「誰のために」努力してきたのか。

いい子症候群の人は心の底では嘲笑している人から気に入られるために頑張ったのだ。

何で自分だけがこんなにつらいのか

今の立場がふさわしくない。

「燃え尽き症候群」を提唱したアメリカの心理学者ハーバート・フロイデンバーガーの言葉をかりれば間違ったボートに乗って、懸命に漕いでいる人がいる。

カメが砂場に行っている。

そして「こんなに苦しいのに誰も助けてくれない」と怒っている。

カメは自分がいる場所を間違えているのであるが、しかしそれに気がついていない。

なぜ自分を出さないのか。

それは「自分をこう思ってもらいたい」ということと、「自分の現実」とが違うからである。

いい子症候群の人は好かれたいけれど、自分を出したら嫌われると思っている。

いい子症候群の人は何で自分だけがこんなにつらいのか?

それは自分がいるべき場所を間違えているからである。

カメが陸に上がっている。

それはカメの自己疎外である。

カメがカメではなくなっている。

自己疎外されたいい子症候群の人が、「何で自分だけがこんなにつらいのか?」と叫ぶ。

無益な努力は何も自己疎外された人ばかりではない。

その女性は45歳で離婚している。

子どもは別れた夫の方にいる。

いい子症候群の彼女の主張する離婚原因は「夫の借金」である。

夫は、「借金したお金を何に使ったかを言わない」と彼女は言う。

そしていい子症候群の彼女は5カ月前から45歳の男性と同棲を始めた。

20歳の息子と18歳の娘は夫と暮らしている。

離婚して彼女が家を出たあとでは、娘が夫の妻役を担っている。

そしてとうとう娘から「もう無理」と言われた。

「なぜ子どもは借金をした夫と暮らすことになったのか?」と彼女に聞いてみる。

子どもは「このままでいたい、家を変わるのが嫌だ」と言ったと彼女は言う。

「なぜ離婚したのか?」と何度か聞いてみる。

「夫は子育てに参加してくれなかった」と言うだけである。

この言葉はおかしい。

なぜなら子どもは母親の離婚後も夫と暮らしている。

そもそも母親と一緒に出ていかなかった。

自己不在な人

このいい子症候群の女性の言うことには矛盾が多い。

「20年間の結婚生活で、不満を蓄積していた」といい子症候群の彼女は言う。

いい子症候群の彼女は結婚当時「家族って何だろう?」と思い出したと言う。

いい子症候群の彼女は、この家族が嫌だった。

離婚後1年して考えると「私自身がいい妻でなければならなかった」と言う。

そのプレッシャーである。

こうある「べき」なのに、こうではない自分がいる。

これが彼女の言い分である。

いい子症候群の彼女には生活に満足感がなかった。

心が満たされることがなかった。

いい子症候群の彼女は、実は「自分の方が、子どもと夫から愛してもらいたかった」。

いい子症候群の彼女の過去はどうなっていたのか。

彼女は長女。弟がいる。

小さい頃、わがままでなく、「いい子」だった。

お母さんと手をつないで歩きたかった。

学校は嫌だった。

学校に行くのは嫌だった。

いい子症候群の彼女は心理的に未解決な問題をたくさん抱えている。

要するに結婚はしたけれども、彼女は妻と母親という役割の負担に耐えられなかった。

自分が頑張っていかなければいけない。

「子どものため」だと思ってきた。

しかし子どもは言いたいことを言う。

寂しくもなり、悔しくもなり、自分はは何のために苦労をしてきたのだと悩み始めた。

彼女は子どもが好きではないから、子どもが嫌いだから、このように悩み始めたのである。

「何で自分だけがやらなければいけないのか?」と彼女は思う。

自分は母親であるという意識がないから「子どもは勝手なことばかりやって」と子どもに対する不満が募る。

いい子症候群の彼女は心理的に親になっていない。

いい子症候群の彼女は自分の立場がわかっていない。

いい子症候群の小さい頃、自分は勝手なことをしていない。

そこで勝手なことばかりしている娘がうらやましい。

そこでいい子症候群の人は娘に「勝手なことばかりやっている」という性格を付与して、娘を責める。

娘に対する妬みから「勝手なことばかりやっている」娘を責める。

娘が、アルバイトで働いたお金を「自分にご褒美」と言った。

いい子症候群の彼女は、「私は自分にご褒美がなかった」と言う。

いま同棲している男性とうまくいっていない。

いい子症候群の彼女はいま行く場所がない。

いまさら元の夫の所に戻れない。

もし彼女が「娘は、自分の小さい頃と違って、こういうことができてよかった」と思える母親なら、行く場所がある。

いい子症候群の彼女は、何かを買うと、「こんなに買っちゃって」と思う。

「娘がこんな娘でよかった」と思う母親なら、行く場所がある。

いい子症候群の彼女はそう思えないから、今はどこにも行く所がなくなる。

ここまで愛情がない女性である。

最後まで夫と娘を餌にする。

今、「おさんどん」をやらせている娘に申し訳ないと思う。

娘に窮屈をさせているのが可哀想だと言う。

しかし、これをさせているのはいい子症候群の彼女である。

いい子症候群の彼女には「私は」がない。

子どもがいて、夫が借金問題を起こしているときには、普通なら妻は夫を家から出す。

いい子症候群の彼女のように女が家を出るときには、逃げた先に獲物があるときである。

いい子症候群の彼女は「子どもは置いてきた方が楽だ」と心の底では思っている。

この本当の感情を意識から無意識に追放している。

「夫が借金するから別れた」といい子症候群の彼女は思いたい。

借金を口実にして離婚を正当化したい。

いい子症候群の自分に都合いい解釈をする。

「子どもは勝手なことばかりやって」と不満を持つのは、トランスフォームである。

つまり過去の不満を今に移し替えている。

自分が勝手なことばかりやってみたかった。

でも表面的に「いい子」だった。

辛さの理由を認めると、楽になれる

いい子症候群の彼女が「私はわがままで、夫と子どもを捨てて、好きな男に走った」。

そう認めれば、苦しいけれども道は拓ける。

現実を認めれば苦しいけれども、苦しみは救済と解放につながる。

いい子症候群の彼女は「夫が借金するから別れた」という「苦しみの原因の身代わり」をつくって、苦しみから逃げた。

こうして苦しみから逃げていると、いい子症候群の人はいつになっても離婚という過去から縁を切れない。

いい子症候群の人はいつになっても苦しみは救済と解放につながることがない。

いい子症候群の彼女は自分の母親と妻という立場がわかっていない。

オーストリアの精神科医ベラン・ウルフの言うノイローゼである。

そのいい子症候群の彼女は、いま同棲している45歳の男性と離婚とは関係ないとウソを言う。

いい子症候群の人は自分を良く見せようとする。

他人によく見せても何の意味もない。

ノイローゼの努力、それは無意味で無益な努力である。

彼女は小さい頃の「いい子」から始まって45年間、何の意味もない努力を続けてきた。

やっても意味のないことを45年間し続けてきた。

消費社会では、この努力を続けている人があまりにも多い。

ベラン・ウルフはノイローゼ患者の十戒ということを書いている。

「あらゆる神経症的な行動とあらゆるノイローゼは、次の十の主要な特徴を持っている」

その9番目に「無益」ということをあげている。

ウルフがあげている例としては、ある婦人が息をうんとのみ込んで自分のお腹を膨らませた。

そして夫に妊娠したと思い込ませた。

実際は妊娠していないのに、妊娠したと夫に思い込ませても何の意味もない。

神経質的プライドの強い人は、自分が幸せになろうと努力するのではなく、人から幸せと思われるための努力をする。

どんなに劣等感に苦しんでいてもよい。

人から自信のある人と思われればよい。

いい子症候群の自信のある人になろうとは努力しない。

しかし自信のある人と見られる努力は必死でする。

まさに無益な努力である。

いい子症候群人は人生に行き詰ったから無益な努力をするのだろうが、無益な努力をすることで、さらに行き詰まりは深刻になる。