いつも自信がない人の自信のつけ方

「なんだかいつも自信がないなぁ」と思っている人、「何をやってもうまくいかない」「どうせ私なんか」と卑下している人がいます。

そういう「自信の無い人」って、案外、勘違いやすれ違いで「自分はできない人」「自分はダメな人」と思い込んでしまっただけだったりします。

本当は、もっと素晴らしいのに・・・。

どうせ出世すると思っている人の思考

この間、ある飲食店で面白い会話を聞きました。

若い大学生の集団でした。

そのうちの一人の男子学生がどうやら終電をのがしてしまったようです。

そこで別の男子学生が言いました。

「タクシー代、貸すよ。返すのは出世払いでいいから」

「おお~太っ腹!」とまわりから驚きと冷やかしの声があがります。

そしたら、その彼は続けて、「これくらい、いいんだよ。どうせ俺、出世する人間だから」と笑いながら言いました。

「俺は出世する人間」と思っている(前提の)人と、「俺は出世しない人間」と思っている(前提の)人では、とる行動が全然違う。

この彼は、まだ大学生のようですから、確たる実績があるわけではないでしょう。

でも、「俺はいつか出世する」と、ある意味では”理由なく”自分を信じているわけです。

そう自分を信じているから、人にためらいなくお金を貸せるのです。

これが、「俺はどうせ出世しない」と思っていたらどうでしょう。

出世払いでいいよ、と人にお金を貸せるでしょうか。

理由なんかなくていいから、「自分は出世する人間」と思うこと。

根拠なんてなくていいから、「自分は素晴らしい人間」と思ってみること。

「肯定の前提」で行動するのか、「否定の前提」で行動するのか。

「前提」の違いって大きいなぁと、あらためて感じた出来事でした。

自分はダメだという勘違いに気づく

自分の人生をずっと「自信がない」と感じて生きてきた女性がいます。

心のどこかで「自分には価値がない」「自分なんてダメだ」と思ってきたそうです。

なぜ、彼女は自信をなくしてしまったのでしょうか。

その女性には3歳上のお姉さんがいました。

そのお姉さんは、とっても頭がよかったのだそうです。

お姉さんは、中学時代、ずっと学年で一番の成績でした。

一方、妹であるその女性は、クラスで上位5人に入るくらいの成績でした。

ただ、お姉さんのように学年で一番をとったことはありませんでした。

親が「お姉ちゃんは、また一番だって。すごいね」とお姉ちゃんをほめると、「どうせ私は一番じゃないから」と思います。

「あなたも、もう少しがんばりなさいよ」と親から励まされると、「私なんか勉強してもお姉ちゃんにはかなわない」と思います。

お姉さんと比べていくうちに、しだいに彼女は、どんどん「自分はダメだなぁ」と思っていきました。

そして、そのうち、「勉強ができない自分はダメなんだ」と思うようになってしまった。

「勉強ができない」だけなのに、「勉強ができない自分がダメだ」と思うようになってしまったんです。

しかも「勉強ができない」っていっても、「お姉さんと比べて」できないだけです。

彼女は彼女で十分、クラスの子からは「勉強のできる子」だと思われていたのに。

お姉さんと「勉強」で「比べる」ことをしなければ、失わなくてよかった自信でした。

しかし、何度も「比べる」ことで、彼女は「自分はダメだ」「自分には価値がない」と自分を勘違いしてしまったのです。

そうなると、彼女がスポーツができたとしても、「スポーツができても意味ないもん」と、自分の長所まで見えなくなってしまうのです。

もともと「自分は素晴らしい」という自信があったのに、それを失ってしまう。

「自分はダメ」と、いじけて卑屈になってしまう。

これは、家庭などの狭い世界で、きょうだいなどの身近な存在と「比べられる」から、「否定される」から、だったりします。

だから、もし、あなたが「自信がないな」「自分なんてダメだ」と「否定の前提」で生きてしまったように感じたなら、「それは勘違い」と気づいてほしいのです。

「比べられた」ことや「否定された」ことで「自分はダメだ」「自分には価値がない」と勘違いしてしまっただけ、ということなんです。

親から指摘されたダメに反発する

我々は、親から「部屋が汚い子はダメ」「親の言うことを聞かない子はダメ」「明るい返事ができない子はダメ」「勉強ができない子はダメ」「友達と仲良くできない子はダメ」「宿題をやらないで遊びに行ってしまう子はダメ」とたくさんの「ダメ」を言われて育ったりします。

しかし、親が「ダメ」と否定することは、案外「いいかげん」なんです。

親が「ダメ」ということは、「親の価値観に合っていないだけ」だったりします。

片付けられた状態、整理整頓された部屋が好きな親は、子どもに「片付けられない子はダメ」と言います。

でも、多少散らかっていても気にしない親は、子どもに「少しくらい乱雑なほうが、子どもらしくていい」なんて言ったりします。

親の価値観や考え方しだいで、叱られたり、叱られなかったりするのです。

あるいは、親の「ダメ」って「気まぐれ」だったりもします。

大人にとって「都合の悪いこと」を、親は「ダメ」って言っていることもあるのです。

ふだんは「片付けられない子はダメ」と言っても、機嫌がいいときは「しょうがないなぁ」と片付けてくれたり。

機嫌が悪いと、ちょっとものをしまい忘れただけでも「片付けなさい!」って怒ったりする。

もしくは、親の「ダメ」って「愛情」だったりします。

子どものことを思ってのことだったりもするのです。

「片付けが下手だと学校で困るかもしれない」「大人になってからも困るかもしれない」、そう思って「片付けなさい。出したものはもとの場所にしまわなければダメでしょ」と子どもを叱る。

わが子が大人になって困らないように、うまく生きていけるように、心配して言っていることだったりします。

だけど、子どもにとって親の存在は大きいから、親のことが大好きだから、親の「ダメ」を必要以上に大きく受け取ってしまうことがあるんです。

親の「ダメ」って、ダメでなかったり、単なる気まぐれだったりするのに。

ためしに、あなたが小さい頃に親が言っていた「ダメ」を思い出してみてください。

そして、「それって本当?」と自分で自分に問うてみてください。

そして、その反対のことをしてみてください。

意外に大丈夫です。

幸せに生きていけるって、気づいたりします。

言うことを聞き過ぎるのは、好きであるから

シングルマザーのお母さんに育てられたシンジさん(仮名)という男性がいます。

彼は幼いころ、用事があって夜に一人で買い物にいったところ、お母さんから次のように注意されたことがあったそうです。

「近所の人が夜にあなたが一人でいるのをみて、非行に走ったんじゃないかってお母さんに注意してきたわよ。夜に出歩いちゃダメでしょ。近所の人や、世間の目があるから、いつでもちゃんとしていなさい」

シンジさんはそれ以降、「誰も見てないように思えても、誰かがみてるんだから、いつでもちゃんとしなきゃ」と思うようになりました。

その一方で「いつも誰かが自分を見張ってるんじゃないか」と周囲をうかがうようにもなっていきました。

それは大人になった今も続いていて、いつもどこかで見られていると思うとビクビクしてしまう、緊張してしまうのが悩み、とのことでした。

シンジさんのお母さんは、きっとシンジさんのことを思って「世間の目があるから、いつでもちゃんとしていなさい」と言ったのでしょう。

お母さんはお母さんで、「女一人で子どもを育てるんだから、立派に育てないと」という気負いもあったのではないでしょうか。

でも、シンジさんは「世間の目があるから、いつでもちゃんとしてなさい」というお母さんの言葉を、「世間から見てちゃんとしていないと、お母さんから愛されない」「世間から見てちゃんとしないと、自分はダメなんだ」と勘違いして受け取ってしまった。

しかも、勘違いをこじらせて、大きくしてしまい、大人になってからも「誰かが見ないか」なんて思うようになってしまった。

やがて、臆病で緊張しがちな性格を悩むようになってしまったのです。

なぜ、シンジさんは勘違いをこじらせて、大きくしてしまったのでしょう。

それは、「お母さんが大好き」で「お母さんを困らせたくなかった」からです。

シンジさんは、シングルマザーで苦労して育ててくれているお母さんを少しでも楽にしてあげたかったのでしょう。

「お母さんを助けよう」「お母さんの負担にならないようにしよう」とした。

そして、自分なりにできることを一生懸命探したんです。

そのなかの一つが「お母さんの言葉をしっかり守ること」だった。

お母さんが大好きで、お母さんを助けたかったから、人一倍、自分なりにできることをがんばった。

その結果、お母さんの言葉を人一倍勘違いして受け取って、こじらせてしまったんです。

こういう場合、シンジさんの悩みを解決するのに大事なのは、「お母さんの言葉を守らなくても、お母さんは、もう困らない」「お母さんの言葉を守らなくても、自分は見捨てられない」「もう、お母さんの言葉をしっかり守らなくてもいい」これに気づくことだったりするんです。

学校で習った正解を疑ってみる

自分で自分を信じるという意味での「自信」、「折れない自信」は、もともともっているのに、他人から「比べられる」「否定される」ことで失っていくとお話ししてきました。

「比べられる」「否定される」という意味で大きい存在が、「学校」です。

学校では、たくさんの「正解」を教えられます。

間違うと怒られたりします。

宿題やってこなかったでしょ、と言われて怒られます。

好き嫌いなく食べないとダメでしょ、と言われて怒られます。

隣の女の子いじめちゃダメ、なんて言って怒られます。

あるいは、かけっこで順位をつけられます。

国語で算数で、テストを受けて、点数をつけられます。

100点は「えらい!」、40点だと「情けない・・・」って。

学校って、ある意味、たくさん「比べられる」「否定される」場所でもあるんです。

そのとき、「比べられた」「否定された」ことを、「自分自身そのものを否定された」ように、大きく受け取ってしまうから、自信を失ってしまうんです。

「国語で30点」を先生はつけたけど、あなたに30点をつけたわけじゃないんです。

小学生のころ、「落ち着いて勉強できるか」や「片付けができるか」の項目に先生が「×」をつけたからって、あなた自身に「×」をつけたわけじゃないんです。

小さい頃の成績表が手元にあったら、見てみるのもいいかもしれません。

そして、「僕は40点をとったけど、僕が40点なわけではないんだ」。

「落ち着きの項目に「×」と書かれたけど、僕自身に「×」がつけられたわけではないんだ」と。

問題は自分にある

「問題」が起きたとき、自信のある人は、冷静に落ち着いて解決することができます。

一方で、自信のない人はどうでしょうか。

オロオロしたり、あせったり、あるいは怒ったりして、「問題」を大きくとらえがちです。

たとえば、Aさんの職場で人間関係のもめごとがあったとします。

Aさんは、こう言います。

「職場の同僚同士がすごくもめてしまって、本当に大変です。二人の間は、どうにもこうにもこじれてしまって修復しそうにありません。どうしたらいいんでしょう。今の僕の一番の悩みの種です。大きな問題です」

Aさんは、職場の人間関係のもめごとを「大きな問題だ」と感じています。

一方、同じ職場にいるBさんは、別のことを言います。

「職場の同僚同士がもめているけど、まぁ、そういうこともあるでしょう。時間が経てば頭も冷えるし、しばらく放っておきましょう。たいした問題ではありません」

どっしり構えて、まったく気にしていません。

Bさんは、職場の人間関係のもめごとを「問題ではない」と思っているのです。

AさんとBさん、同じ「職場の人間関係のもめごと」なのに、まったくとらえ方が違います。

Aさんにとっては「問題」でも、Bさんには「問題ではない」。

同じ「出来事」が起きたのに、人によって、その出来事が「問題」となったり、「問題ではない」となったりするのです。

だから、ある出来事を見て「問題だ!」と思ったときから、実はその問題は、その出来事を「問題だ、と思った人の問題」になるのです。

「問題が起きた」と思うとき、問題は目の前の「出来事」ではなく、実は「あなたのなか」にあったりするのです。

条件付けの肯定は自信を失わせる

前項では、ある出来事やある人物に関して「問題だ!」と思った瞬間から、「そう思った人の問題」になるというお話をしました。

前項のAさんは、「職場の人間関係のもめごと」を「問題」だと思っています。

それは、Aさんのなかに、「もめてはいけない」「もめる人間はダメな人間だ」という価値観・考え方があるからです。

その価値観・考え方に合わない人や出来事があると、「問題」だと思うのです。

だから、解決しようとします。

なんとか、もめごとを解消しようとします。

では、なぜ、Aさんは「もめる人間はダメな人間だ」という価値観・考え方をもってしまったのでしょう。

Aさんは、親から「お友達と仲良くしなさい。ケンカしないで」と言われて育ちました。

子ども心に、「仲良くできないとダメなんだ。ケンカするとダメなんだ」と思いました。

やがて「仲良くできない自分には価値がない」「喧嘩したら、愛されない」と思い込んだAさんは、自分を押し殺して「仲良くすること」「喧嘩するとダメなんだ」と思いました。

やがて「仲良くできない自分には価値がない」「喧嘩したら愛されない」と思い込んだAさんは、自分を押し殺して「仲良くすること」「喧嘩しないこと」で、親からほめられよう、認められようとしました。

その結果、とくに仲良くなりたくなくても、愛想笑いでごまかして仲良くしてみたり、嫌なことがあっても飲み込んで丸く収めようとしたり。

そして、こういうことを重ねていくうちに、Aさんは、愛想笑いをしたり、言いたいことを飲み込んで我慢する「クセ」がついてしまったのです。

そして、そのまま大人になってしまった。

「もめない自分でいるかぎり愛される」「もめない自分なら価値がある」と「条件付き」の肯定なのです。

これは、結局は否定なんです。

なぜなら、条件をはずしたら、「自分は愛されない」「自分には価値がない」ということになってしまうのですから。

もし、身の回りであなたが「問題だ!」と思う出来事が起きたとき、それはあなたのなかにある「否定の前提」に気づくチャンス、「条件付きの肯定」の「条件」を知るチャンスなんです。

「どうせ」「私なんか」と言うことをやめる

「自分はダメだ」と、否定の前提で生きている人がよく使う言葉があります。

「どうせ」や「~なんか」という言葉です。

「どうせ私は好かれていないし」「私なんかダメだ」と自分を低く見ているわけです。

すねているわけです。

けれども、そうやってすねていると、不思議なことに、その後も似たような出来事にずっと遭い続けます。

「どうせ自分は仕事ができない人間だ」と思っていると、「仕事ができない自分」を見せつけられる出来事ばかりが起こります。

仕事で失敗をして上司に怒られます。

同僚が自分よりもずっといい営業成績を収めたりします。

あるいは、思ったようにはなかなか仕事が進まず、「なんて私って要領悪いんだろう」と落ち込みます。

それで思うんです。

「私ってやっぱり仕事できないなぁ」と。

するとますます、「私なんか仕事できないし」と卑屈になります。

あるいは、「どうせ私は仕事ができない人間だから」とますますすねます。

いじけます。

自分の卑屈な気持ちをこじらせていきます。

これが、「自分は仕事ができない人間」という「否定の前提」があることで生じる現実です。

この現実は「自分でやめていい」のです。

それは「自分でしかやめられない」のです。

「できない」ことはあるにしても、「できない人間」と思い込んで、すねているのは「自分」です。

そうやって、すね続けていると、人生で損し続けることになってしまうのです。

だから、もう「できない人間」と思い込むのはやめよう。

だから、もう「自分は素晴らしい」と認めてしまおう。

「どうせ」や「なんか」という言葉を捨てて、さっさと「肯定の前提」で生きるスタートラインに立とう。

自分で自分に惚れる

「否定の前提」をやめるのは簡単です。

「自分には価値がある」「自分は素晴らしい」と、ただ、思うだけです。

でも、そうお伝えすると、「いやいや、それが難しいんです」という人がいます。

たとえば、人はさまざまなことで悩みます。

「上司は俺のことをわかってくれない」「夫が私のことを粗末に扱う」「職場の同僚が自分の悪口を言う」

だけど、悩みの本質というのは、”自分の素晴らしさを相手にわかってほしくて、もがいているだけ”のような気がするのです。

「上司に(自分の素晴らしさを)わかってもらえない」「夫が(素晴らしい自分のことを)粗末に扱う」「職場の同僚が(素晴らしい自分の)悪口を言う」というように・・・。

悩みというのは結局のところ「自分は素晴らしい」のに、そういうふうに扱ってもらえないから、「素晴らしい自分のことを、もっと大事にして!」とアピールして、もがいているだけなのではないでしょうか。

そう考えると、人間って、心の奥底では「自分は素晴らしい」ことに、とっくに気付いているんだと思います。

そもそもダメな自分なら、できなくても、粗末に扱われても、しょうがないですもの。

しかし、腹が立ったり、悲しくなったりするのは、自分が自分のことを「素晴らしい」と思っているからこそ、ではないでしょうか。

それならば、相手に「ね、ね、素晴らしいでしょ?」と同意を求めるのではなくて、まずは自分で、自分のことを「素晴らしい」と認めて、もっと大事にしてあげましょう。

だから、もう、自分のことを「素晴らしい」と早く認めてあげてください。

自信をつけなくても、実績を残さなくても、何もできなくても、そのままで、「そのままの自分が素晴らしい」のだと、まずは自分が認めるのです。

「自分って素晴らしい」「自分って最高だなぁ」と自惚れちゃえばいいのです。

「自惚れる」って「自分に惚れる」って書きます。

さっさと自分で自分に惚れてしまえばいいのです。

「上司からはわかってもらえなくても、自分は素晴らしい」「夫から粗末に扱われていても、自分は素晴らしい」「同僚から悪く言われても、自分は素晴らしい」と認めてしまえばいいのです。

だから、自分で自分をさっさと「素晴らしい」と認めてしまう。

このことが大事なんじゃないかな、と思うのです。

「私には価値がある、かも」と声に出す

「否定の前提」で生きてしまったと感じたときは、まず、「私は素晴らしい」「私には価値がある」「私は私が好き」って思ってしまえばいい、認めてしまえばいいというお話をしました。

でも、「いや、いきなり思えって言われても・・・」「そんな簡単に認められない」って言う人もいるかと思います。

だったら、ためしに声に出してつぶやいてみてください。

「私は素晴らしい」「私には価値がある」「私は私が好き」

心が落ち着くまで、何度でも声に出してみてください。

思えなくてもいいから、とりあえずつぶやくのです。

なかには、「『私は素晴らしい』って思っていないのに、『素晴らしい』なんて断定して言えません」って、そういう奥ゆかしい人もいるでしょう。

ならば、「かも」をつけて言ってみてはどうでしょうか。

「私は素晴らしい、かも」「私には価値がある、かも」「私は私が好き、かも」とそっとつぶやくだけでもいい。

これだけでも十分、効果があるはずです。

褒め言葉は受け入れる

面白いことに、自分を「ダメだなぁ」と思っているときでも、他人から見たら意外とできていることがあります。

自分一人が「ダメ出し」をしている状態です。

そんな状態でいると、たとえまわりの人が「すごいね!」って、本気でほめてくれても、自分は「そんなことない」と言い張ったりします。

そりゃあ、上を見たら、いくらでも上には上がいるでしょう。

でもまずは、相手から何かをほめてもらったら、「そうなんです」って受け取ることも、実はとても大事なことなんです。

人からほめてもらったら、とにかくその相手からはそう見えたんだから、素直にもらってみる。

「笑顔がいいね」と言われたら、「いえ、垂れ目なんです」なんて、言わなくていい。

「体がシュッとして細いねぇ」と言われたら、「ごぼうみたいで」なんて、言わなくていい。

ほめてもらったことは、「あぁ、ありがとう」って飲み込むことも、自信につながるんです。

「あ、気付いてなかったけど、私ってここがいいんだ」って、「自分は素晴らしい」と思えるきっかけになったりするんです。

だから、「頭いいね」「いい声だね」「かわいいね」とほめてもらったら、もう吐きそうになりながらでもいいから、とにかく飲み込んでみる。

褒められたことは、たとえ自分はダメだと思っていることでも飲み込んでみる。

これは、すごく大事なことです。

ほめられて育ったのに自信がないのは愛情不足

「褒められ上手になろう」と言っておきながらなんですが、「ほめる」って、一歩間違うと「折れない自信」からほど遠い自信をつくってしまうことがあります。

「ほめる」というのは、人を育てる場面においてとても大切なことです。

ただ、褒め方を間違えてしまうと、それがすべてではありませんが、相手の心に「恐怖心」を植え付けてしまうこともあるのです。

それが「何かできたときに褒める」という褒め方です。

たとえば、人は赤ちゃんのときに、「初めて食べた」「スプーンを持った」「ハイハイした」「立てた」「歩いた」といっては、まわりは大喜びして「できたこと」を褒めます。

それは成長してからも続きます。

「テストで100点をとったら、ほめる」「好き嫌いせずにごはんを食べたら、ほめる」「我慢しておとなしく大人の会話が終わるのを待っていたら、ほめる」「宿題をごはんまでにやったら、ほめる」「近所の人にちゃんと挨拶したら、ほめる」「お手伝いをしたら、ほめる」というように、「何か達成したら、ほめる」「いいことをしたら、ほめる」というように育てられたりします。

そうすることで、子どもはうれしくなって、どんどん成長する。

だから、褒めましょう、という理屈です。

でも、これには、ウラがあります。

この「ほめるとき」というのは、「ほめる人の価値観に合ったときだけ」なんです。

ほめる人にとって、思い通りになったときにほめる。

逆に言うと、ほめる人の思い通りでない場合には、ほめてもらえない、ということなんです。

すなわち、20点でもほめる親もいれば、99点でもほめない、100点が当たり前の親もいるんです。

しかし、子どもはほめられたくて、ほめられるのがうれしくて、努力する。

ほめられないと苦しくて、悲しくて、「私のどこが悪かったんだろう」と自分を責める。

「褒められた」「褒められた」「褒められた」が続いた後に、「褒められなかった」があったときに、「なんでだろう」「何が悪かったんだろう」「嫌われたのかな」「ダメだったのかな」と混乱し、恐怖に陥ってしまうこともあります。

たまたま「親の価値観に合わなかっただけ」、あるいは「機嫌が悪かっただけ」「運が悪かっただけ」なのに、「自分のどこかが悪いんだ」と勘違いしてしまうんです。

そして、「自分のなかのダメ探し」を始めてしまったりするんです。

そんな「褒め中毒」「褒め依存」が高じると、「ほめられないと価値がなくなる恐怖」「がんばりから手を抜けない」「できない自分は受け容れられない」という「副作用」が生じます。

他人の期待に応えることでしか、自分に価値を見いだせないようになってしまう。

これが、「たくさん褒められて育ってきた」ことの「副作用」による、知らない間についた心のトラウマです。

否定されずに、ほめられて育ったのに、自信がないという人。

こういうことが原因だったりします。

タイプやキャラで自分を決めつけない

「どうせ」や「私なんて」以外にも、すねている自分、こじらせている自分に気づく言葉があります。

それは、「タイプ」や「キャラ」という言葉です。

「私は気がきくタイプじゃない」「自分は弱音を吐くキャラじゃない」こう言って、自分で自分を決めてしまったり、枠にはめてしまったりする人がいます。

ある人は「そんなにしゃべるタイプではない」と、そう自分のことを思っていました。

「そんなにしゃべるタイプではない」という言葉を発していたとき、人間関係で悩んでいました。

人とうまく話せなくて、「面白くない自分はダメだ」という「否定の前提」があったんだと思います。

だから、ますます人とうまく話せない・・・という悪循環でした。

そんな自分を隠したくて、口数が少ないことを、自分の話をしないことを、「そんなにしゃべるタイプじゃないし」と言っていました。

しかし、いまや全国各地を飛び回って、多くのお客さんを前に話しています。

「え、どこがしゃべれないの?」と突っ込まれるくらいです。

では、なぜ「しゃべれないタイプ」とタイプを決めてしまったのでしょう。

我々は、今まで他人から言われたことや、自分がまわりの人と比べたこと、自分が感じたこと、自分が思い通りにできたことや、思い通りにできなかったことなどを総合して、「自分はこんなタイプ」という「セルフイメージ」を作り上げていきます。

いうなれば、自分という人間は、ある意味で「想像(イメージ)上の産物」なのです。

そして、いろんな過去の経験から「しゃべれないタイプ」「無口キャラ」「話し下手」「寡黙」などの「セルフイメージ」を自分のなかに作り上げたのでしょう。

そして、なんでそうするかというと、「しゃべれないタイプ」や「無口キャラ」というセルフイメージを作っておけば、楽なんです。

次に話しが弾まないことがあっても、人に誤解されることがあっても、「どうせしゃべれないタイプだから、しょうがない」「無口キャラだから、いいか」と言い訳ができるから。

「タイプ」や「キャラ」は、納得のいく「ダメ」の言い訳なのです。

ある意味で、自分で自分を守っている言葉なんです。

これ以上、傷つかないための言葉ともいえます。

あるいは、ダメな自分を隠す言葉だったりもするのです。

「タイプ」や「キャラ」という言葉を使って、殻にとじこもって「人と話すこと」を避けているのです。

そして、「キャラ」や「タイプ」という言葉の殻の中には、「人とうまく話せない自分はダメだ」「面白くない自分はダメだ」と思い込んで、すねている自分、卑屈な自分がいたりするんです。

だから、「タイプ」や「キャラ」という言葉を自分が使ったときは、その殻の中にいる「すねている自分」「卑屈になっている自分」「殻にとじこもって、逃げている自分」に気づくヒントでもあるのです。

けれども、「タイプ」や「キャラ」という言葉が、全面的にいけないわけではありません。

「こういうタイプだから」や「そういうキャラなんで」という言葉で、自分が楽になれたり、自分が無理しないで休めたりするんですから。

ときどきは、そういう言葉を使うのもありではないでしょうか。

ただ、その「殻」にこもっていてもいいけれど、ときどきは出ておいでよ、ってことなのです。

白黒つけない

「否定の前提」で生きると、人生が変わってしまう。

そう理解した人のなかには、「ダメな自分と思ってはいけない」とか、「できない自分と思ってはいけない」と、今度は「禁止」のイメージを思い描いてしまう人がいます。

でも、「思ってはいけない」とイメージしたとたん、それは、自分のなかに、強く強くイメージされてしまいます。

たとえば、大事なプレゼンで「失敗してはいけない」「失敗しては絶対ダメだ」と思えば思うほど、緊張して、パニックになって、結局失敗してしまう。

こういうことがあります。

それと同じです。

そうは「なりたくない」、そう「なってはいけない」と固執することで、かえって逆にそう思い描いてしまい、「そうなってしまう」のです。

だから、大切なのは、どちらかを「否定」しないこと。

どちらも「選べる」こと。

「してはいけない」をやめて、「してもいい」と、選択の幅を広げてあげることなのです。

「なってもいいし、ならなくてもいい」と、自分に選択の幅を広げてあげるのです。

そうすることで、否定イメージの呪縛から解放されます。

大切なのは、「あれは間違い」「こうすべき」と、白黒、善悪をキッパリとつけてしまわないこと。

結局のところ、この「善悪をつけること」が諸問題の根源だったりするんです。

あれもいいし、これもいいのです。

好きになってもいいし、好きにならなくてもいい。

ゆっくり様子を見るのもいい、素早く動くのもいい。

ダメな自分になってもいいし、ならなくてもいいのです。

まとめ

〇親から「ダメ」と怒られたことを、「それって本当?」と疑ってみる。

〇ある出来事やある人物に関して「問題だ」と思っているときは、自分のなかに問題がある。

〇「どうせ」「私なんか」という言葉は捨てて、すねるのをやめる。「肯定の前提」に変わるきっかけにしてみる。

〇さっさと自分を「素晴らしい」と認めて、大事にしてあげること。まずは「わたしは素晴らしい、かも」とつぶやくことから始めてみてもいい。

〇人からほめられたら、「ありがとう」と素直に受け取ってみる。