ひきこもり青年との関わり方

ひきこもり青年と親との生活の共有

家の手伝いを頼んでもよいか

二十四歳の長男、ひきこもり三年で家族とのコミュニケーションはふつうで、友人も少しいます。

犬の散歩とか、家の手伝いなど、強制的でなければ頼んでもかまわないでしょうか?

もちろんかまいません。

どうも誤解があるように思いますが、ひきこもっているご本人を腫れ物にさわるように扱うことには反対です。

きちんとした話し合い、つまり一方通行ではない、相互性のあるやりとりが可能であるなら、大概のことは話してかまわないと思います。

手伝いを頼んだり、何か困った点があれば注意したりなど、ごく常識的に接してよいのです。

ただ忘れていただきたくないこととして、いつも必ず、ご本人がそれを断る余地を残しておいていただきたいということがあります。

そのためにも、お願い事は「もし良かったら~してくれると嬉しいんだけど」という言い方がよいでしょう。

もちろんご本人がそれを拒否したり、無言で返事がなかったりした場合は、それ以上追求しないでください。

つまり、二度以上頼んだり、あるいは説得しようとしたりしてはいけないということです。

断られたらしばらく時間をおいて、またお願いすればいいでしょう。

これもいつも申し上げることですが、「くどさ」より「マメさ」が肝心です。

それから、家事を頼むさいに「今度からこれはあなたの仕事だから、任せるよ」などと決めてしまってはいけません。

何かをしてもらうことが目的ではないのです。

誘いもお願いも、すべて会話の糸口として意味があるのです。

してほしいことは必ず、その都度一回ずつ頼んでいただきたいと思います。

応じてくれた場合は、必ず「ありがとう」とお礼を言うだけではなく、してくれたことをきちんと評価していただきたい。

ただしこれも、ほめすぎは子ども扱いと変わりません。

親御さんの感謝の度合いに応じて評価していただくほうがよいと思います。

関連記事

「一生面倒を見てくれ」と言われる

三十歳になる息子は、ひきこもってもう八年目です。

最近は居直ったのか、ふてぶてしい態度で「もう僕は一生働かないから死ぬまで面倒見てくれ。親が死んだ後は収入がないと困るから、アパートを建てておいてくれ」などと言いはじめました。

どう答えればいいでしょうか?

「なにも期待はしないで」と言われた

娘から「なにも期待しないであきらめてくれ」と言われました。

しかし、あきらめろと言われても、そういうわけにもいかず、困っています。

こうしたご本人の言動が、本音から出たものかどうかをまず疑っておく必要があると思います。

長いひきこもり生活に倦んだご本人が、絶望的になるあまり、わざとふてぶてしく振る舞ってみせたり、居直ったような言動で親御さんを困らせるようなこともありえます。

また、そういう態度をみると、つい親御さんのほうも「これが本音だったのだ」と早とちりしてしまいがちです。

「何も期待しないで・・・」という言葉にしても、文字通り受け取る必要はないと思います。

これは「干渉しないでそっとしておいてくれ」という気持ちに近いのではないでしょうか。

しかし、そうは言いつつも、娘さんも将来のことは考えているはずです。

私の経験では、こういうことを言う人ほど、実は向上心を秘めていることが多いのです。

ですから、そういう言葉の上っ面に惑わされてうろたえないでいただきたいと思います。

何でも逆にとってほしいわけではありませんが、そういう言葉にはたいがいウラがあるものです。

それを想像できる程度の心のゆとりは残しておいていただきたいものです。

そういった前提のうえで、さて、こういう要請にはどう応えるべきでしょうか。

もちろん安易な約束は禁物です。

関連記事

どれほど不憫に思われようとも、このご本人の言葉どおりに約束してしまったなら、治療的介入はできなくなってしまうでしょう。

ですからたとえば、こんな答え方はどうでしょうか。

「それは約束できない。仕事をするかどうかはともかく、あなたにはまだ社会参加はしてほしいと願っている。

そのための工夫や努力に対しては協力を惜しまないし、あきらめざるをえない結果になった場合には、その時点でできるだけのことはする。

親の身勝手と思われるかもしれないが、でもまだいろいろな可能性が残っていると思う。

だから、できればあなたにもあきらめてほしくない」

もちろん、これは答え方の一例に過ぎません。

また、おそらくこうした回答は、ご本人をいらだたせる可能性もあります。

しかし私は、こちらの答えのほうが、ご本人の本音に近いであろうことを確信しています。

自分の人生を完全にあきらめきってしまうことなど、簡単にできることではありません。

治療的介入の余地を残しておくためにも、誠実かつ幅を持たせた回答を工夫してみてください。

関連記事

ひきこもり青年の親の行動

夫婦で話すと責任のなすり付け合いになる

両親が共通の態度・姿勢をとることの重要性は理解しましたが、夫婦で話し合いをしていると、どうしても、「母親の養育方針が間違っていたからだ」「父親の無関心が原因だ」という言い合いになってしまいます。

これはもっとも避けるべき「犯人探し」の論理です。

言うまでもないことですが、過去は取り返しがつきません。

「犯人探し」は答えのない問いであり、克服への試み上効果がないばかりではなく、きわめて有害な発想です。

長くひきこもっていると、ご本人も「自分がこうなったのは親のせい」という発想に陥りがちです。

ご両親のそうしたいさかいが続いていると、ご本人のこのような考えをいっそう強化する論理が満ちています。

とりわけ現在の不適応について、養育方針や幼児期のトラウマ、食生活から部屋の間取り、果ては前世の因縁に至るまで、ありとあらゆる「犯人」が候補にあがっています。

たしかに犯人探しはわかりやすい。

時には責任転嫁の論理にも使える。

このわかりやすさゆえに、ビジネスとして成り立っているわけです。

しかし「ひきこもり」の要因は複合的であると考えています。

そうである以上、単純素朴な犯人探しの論理で一件落着、と考えるわけにはいかないのは当然のことです。

「犯人探し」をしないとは、つまりは「後ろ向きにならない」ということでもあります。

現在の状態はそれはそれとして受け止めつつ、これから未来に向けて打つ手を工夫していこうという姿勢を、ぜひご両親で共有していただきたいと思います。

関連記事

家族は社会との接点を持つべきか

家族は社会との接点を失ってはいけないということですが、具体的には家族がまず相談に行くこと、と理解していいでしょうか?

ご家族と社会との接点のあり方には、いろいろな形がありえます。

しかし、ここでいちばん大切なことは、ご家族がひきこもってしまわないことでしょう。

ご家族がひきこもるとは、どういうことでしょうか。

これはご両親が世間体などを気に病んだあげく、ひきこもっているご本人を抱え込んで、誰にもそれを知らせずに身内だけでなんとかしようとして無理を重ねることを指しています。

しかし、ご本人ひとりの力では、ひきこもりからの社会復帰がきわめて困難であるように、ご家族の力だけでも、それはほとんど不可能ではないかと考えられます。

となれば、やはりご家族が十分な自覚を持って専門家に相談したり、講演会や勉強会に参加したり、家族会に参加して意見交換をしたりすることが大切になってきます。

ご家族と社会との接点回復というのは、そういう外へ向かっての働きかけ全般を指した言葉です。

関連記事

母親は家を出たほうがよいか

ひきこもりはじめて十一年になる三十三歳の息子がいます。

私が離婚をしたため、この数年間は母子の生活です。

いろいろ相談に行くと「母親は家を出なさい」と言われたり、逆に「あなた以外いないのだから見捨ててはいけない」と言われたりします。

どちらにしたらいいのでしょうか?

「家を出る」というのはほぼ「援助なしで追い出す」ことに相当し、「見捨てない」は「克服への試み」もしくは「現状肯定」に相当します。

「公正さ」という原則で考えた場合、このどれが間違いということはないと考えられます。

また、いずれの選択肢においても、「立ち直り」の可能性はあり得ます。

ただし、助言できるのは「克服への試み」を選ばれたご家族に対してのみです。

ほかの二つの選択肢については、これを教条的に当てはめた場合、自殺や慢性化などの危険性が出てくるため、とても「治療的」とは言えないのです。

「克服への試み」を選ばれたのでしたら、もちろん共同生活はこのまま続けていくことになります。

ただ、親子関係を見直したり、再契約したりということは必要になってくるかもしれません。

金銭の扱いを中心にして、現在の経済状況や将来の見直しなどをともに考えるという姿勢も重要になってきます。

年齢的なものを考慮しても、タイムリミットや福祉の利用などの可能性についても話題にしていい時期でしょう。

関連記事

ひきこもり青年の環境の変化がもたらすもの

ヘルパーの訪問を拒む

母親自身、長患いでほとんど寝たきり状態のため、週二回ホームヘルパーに来てもらっています。

ひきこもり十年の長男は昼夜逆転しており、ヘルパーさんの訪問をひどく嫌い、どんんなに家が汚くても、食事の用意ができないくてもいいから断れと私に強く迫ります。

長男の言い分を通したほうがいいでしょうか?

ひきこもりのご本人と、それを抱えるご家族の双方が援助を必要としており、しかもいずれか一つしか選べないような状況の時、まずご家族への支援が優先されるべきと考えられます。

ご本人を支えているご家族が先につぶれてしまっては、克服への試みどころか、共倒れになってしまいかねません。

ですから、ご本人がどのように言われようとも、お母さんの療養を最優先としていただくことが望ましいでしょう。

もしどうしても不満があるなら、ヘルパーの方と同等のサービスをご長男自身にしてもらうことを交換条件にしてもいいと思います。

しかしここは、ご家庭の風通しを少しでも良くすることが先決ですから、外部の人が必然性を伴って訪問していただくほうがよりよいわけです。

このため、ヘルパーさんの訪問はぜひ継続されることをお勧めいたします。

もしそれでも反対されるようなら、例外的なことではありますが、むしろご長男との別居をご検討いただくほうが無難かもしれません。

せめてお母さんの健康が回復されるまでは、別居生活で待機していただくわけです。

お母さんまで倒れてしまっては、克服への試みどころか今度の長期的展望まで持ちにくくなってしまいます。

まずはお母さんが安心して療養生活を送れる環境作りを最優先でなさっていただくことでしょう。

関連記事

母親が入院したら協力的になった

母親の私が手術のために入院したときには、付き添いをしたり買い物をしたりと、ずいぶんよくやってくれたのですが、私の体調が戻ると、ふたたび昼夜逆転の元の生活に戻ってしまいました。

また母親が入院したほうがいいのでしょうか?

ご家族の危機的状況に際して、ご本人が人が変わったように健気に働くということは、実はしばしばあります。

そのまま活動性が持続する場合もありますが、残念ながら、事態が改善すると元に戻ることのほうが多いようです。

ただ、せっかく一度は協力的になられたのですから、お母さんからは感謝の意を込めて、今後もできるだけ積極的にかかわる努力を続けられたほうがよいように思います。

ご本人の活動性を引き出すために、わざわざ再入院するという方法は、あまり意味がないと思います。

もちろんお母さんの体調がどうしてもすぐれず、病院からは入院を勧められて迷っている、といった状況であれば、入院の必要性に嘘はないわけですから、ためらわずに入院治療を受けられることをお勧めしますが、

よく「ひきこもりの人は日常に弱く、非日常に強い」という言い方をします。

これはとりもなおさず、危機的状況における彼らの能力や活動性をみてきての感想です。

もちろん、意図的に非日常を作り出すことはできません。

しかし、なんらかのアクシデントが起こったときに、それがひきこもっているご本人にとっては大きなチャンスとして活かせるかもしれないということは、いつも念頭に置いていただければと思います。

入院にしても事故にしても、ご家族にとっての危機的状況の時は、堂々とご本人にも協力を依頼できますし、実はご本人もそういう状況下でご家族の役に立つことを望んでいる場合が多いのです。

また、長年膠着状態にあったひきこもりのご本人とご家族が、これまでの関係性を見直し、ときには家族関係を再契約するような形にもっていくことも可能であるかもしれません。

ともかく「危機は常にチャンスを伴っている」ことを忘れずにいてください。