イライラをやめられないのはなぜ?
多くの人が、イライラしない自分になりたいと思っているはずです。
イライラする自分が好きだという人はいないでしょうし、イライラは損をする感情だということも知っていると思います。
イライラの「損」は、いろいろなところに現れます。
まず、イライラすることは、自分自身にとって不快でストレスフルなことです。
これは精神的な不愉快さにとどまらず、長い間イライラを抱え込むことで、心身の緊張を高め、うつを生み、身体の健康すら損ねる可能性があります。
イライラが対人関係に与える影響も計り知れないものです。
自分をイライラさせた相手に必要以上に嫌な態度をとってしまうこともありますし、関係のない周りの人に当たってしまうこともあるでしょう。
イライラはコントロールしにくい感情だからです。
周囲の人たちは、緊張したり、気をつかったりしてしまいます。
また、イライラしている人が一人いると、他の人までイライラし始める、などというのもよく見られる現象です。
イライラしている人を見ると、イライラしやすいのです。
人がイライラしている姿は「本来あるべき状態」とは違う、とも言えるでしょう。
イライラは「被害」を拡大させる
このあたりまでの「損」は、多くの人が認識していると思います。
しかしそれ以上に、イライラが自分の「被害」を拡大させる、ということによる「損」は重大です。
例えば、「コンサート中に誰かの携帯が鳴った」という不愉快な体験は一つの「被害」です。
でも、そんな「被害」に対して反応的にイラッとしても、それをすぐに手放す人とイライラし続ける人では、どちらのほうが「損」をしているかと言うと、もちろん、いつまでもイライラし続ける人でしょう。
同じように「コンサート中に誰かの携帯が鳴った」という「被害」に遭っても、いつまでもイライラし続けている人は、その「被害」だけでなく、その後の時間の質まで悪くなる、というさらに大きな「被害」に遭っているからです。
それなのにイライラを手放すのが難しいのはなぜ?
イライラをやめたいと思っている人は多いのに、イライラをやめるのがなかなか難しいのはなぜなのでしょうか。
実は、その理由は「イライラを手放すことによる『損』」にあるのだと思います。
私たちは、「イライラすることによる『損』」を知っている一方で、イライラを手放すことにも「損」を感じてしまうのです。
イライラは、「本来あるべき状態」からの逸脱に対して「コントロールできない感」を持ったときの感情です。
でも、「本来あるべき状態」からの逸脱という「被害」に実際に遭っていてそれをコントロールできない、ということは、「損」をしている、と言うこともできます。
つまり、イライラは、自分が「損をしている」ことを表す感情だということになります。
ですから、それを手放してしまうと、「損」をそのまま受け入れさせられるような気になってしまうのです。
マナー違反をする人に対してイライラするのをやめてしまうと、馬鹿正直にマナーを守っている自分が損をするように感じてしまいがちです。
列に割り込まれたというときなどは、自分の順番が遅れますので、目に見える実害もありますから、その感覚はわかりやすいでしょう。
「なんであの人だけ?」というイライラを持ち続けないと、自分の「損」がうやむやにされるような気になってしまうのです。
「損」という言葉がピンとこない方は、「正義」について考えてみてもよいでしょう。
人としてあり得ないと思うことをする人に対してイライラするのをやめてしまうと、まるで「悪」の前に「正義」が屈するような気持ちにもなるのだと思います。
「悪」を「悪」としてゆるさずにおくためには、自分がイライラし続けることが必要だという感覚を持ったことがある方は多いのではないでしょうか。
正義が損なわれることは社会(そしてそこで暮らす自分)にとっての損失だと考えれば、ここではこのような感覚もまとめて「損」と呼んでおくことにします。
これが、イライラから抜け出しにくい最大の理由でしょう。
イライラすることが自分にとって損だとわかっていても、イライラをやめるとそれ以上に損をするように感じてしまうのです。
「イライラを何とかしよう」系のアプローチがうまくいかない理由
今までに「イライラを何とかしよう」系の手法を学んだりしてきた方も多いと思います。
そして、そこで言われていることは理屈としてはわかる、小さいイライラのときには確かに手放せる、でもそれ以上になるとやはり難しい、ということが多いのではないでしょうか。
実はこれは、「イライラを手放すと損をする」という感覚そのものに正面から取り組んでいないからではないかと思います。
「イライラを何とかしよう」というアプローチの多くが、「イライラを手放すと損をする」という感覚には手をつけないまま、「イライラすることによる損」を考えてイライラを減らす、という姿勢をとっています。
ですから、「イライラすることによる損」が「イライラを手放すことによる損」を上回る程度の、小さなイライラのときには有効であっても、「イライラを手放すことによる損」が圧倒的な場合、つまり、強いイライラのときには、どうしても歯が立たない、ということになってしまうのです。
本当に救いが必要なのは強いイライラのときであるはず。
強いイライラこそコントロールが難しく、人生の質を大きく損ねるものだからです。
強いイライラを手放せるようになるためには、小手先の技術ではなく、「イライラを手放すと損をする」という感覚そのものを手放す必要があります。
イライラを手放しても損をしないのだということに納得できるよう、見ていきましょう。
ポイント:イライラを手放すと損をするという感覚に正面から取り組んでみる。
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イライラは被害者の感情
困っているのに何もできないときに抱く感情がイライラだということを考えれば、イライラしている人は、実は無力な被害者だと言えます。
イライラしている人は攻撃的な感じがするので「無力な被害者」と言われてもピンとこないかもしれませんが、人生を謳歌している人はイライラしていないわけですから、思い通りにいかないことを前にイライラするくらいしかできないのが実態なのです。
実際に、イライラしている人は「〇〇のせいで・・・」と感じていることが多いものです。
人にせよ、状況にせよ、「〇〇のせいで」自分がイライラする、と感じるのです。
これはまさに「被害者」としての感じ方ですね。
「〇〇のせいで・・・」は無力さを作る
「〇〇のせいでイライラする」というとらえ方の最大の問題は、自分のコンディションが完全に相手に委ねられてしまっている、というところです。
「〇〇のせいでイライラする」のであれば、自分をイライラから解放できるのは「〇〇」だけ。
「〇〇」が変わってくれない相手だったり現実だったりすれば、脱・イライラは絶望的です。
変わりうる相手だとしても、「いつ変わるか」「どう変わるか」など、全てが相手次第のことであり、その結果に自分が振り回される、という構造になってしまいます。
「〇〇のせいで・・・」と言っている人の見かけは攻撃的なのですが、その本質は攻撃というよりも無力さ。
自分のコンディションを自分で改善することもできず、相手が変わってくれるのを待っている、ということになるのです。
「お前のせいでイライラさせられている」というのはDVなどでもよく使われる暴力的な表現ですが、要は、「私は自分のありようをあなたに決められているだけの無力な存在です」という意味なのです。
「被害」と「被害者モード」を区別しよう
「〇〇のせいで・・・」というようなもののとらえ方を、ここでは「被害者モード」と呼ぶことにします。
これは、現実の「被害」とは別のものです。
「被害」というのは、実際に自分が被ったもの。
何をどれだけ失ったか、という「自分」に関する話です。
これは十分に、いたわれれたり賠償されたりすべき性質のものです。
「自分が失った」というのは「被害」なのですが、「〇〇のせいで・・・」という気持ちにとらわれると、「被害者モード」に入っていきます。
この時点で、話は「自分」ではなく「相手(〇〇)」についてのものになっています。
こうして見てみると、「被害」は「自分」を主語にした話、「被害者モード」は「相手」を主語にした話だということがわかります。
脱・イライラの第一歩は、「被害」と「被害者モード」を区別していくこと。
「被害」は「被害」として認めることが重要です。
「被害」を認めるということは、「被害」に遭った自分をいたわり、可能なことであれば「被害」を取り戻せるよう考える、ということです。
ここでの主役は「自分」になっていることがわかるでしょうか。
「被害」の主語は「自分」だということを先ほどお話ししましたが、「被害」を認める、ということは、自分を主役にする、ということなのです。
自分を主役としていたわり、自分の損失を埋めることを考えるのです。
一方、「被害者モード」に陥るということは、全てが逆になった話です。
主語は「相手」ですから、いつまでも主役は「相手」のまま。
「〇〇のせいで・・・」「〇〇さえあんなことをしなければ・・・」「〇〇が反省しない限り・・・」と、相手を中心に考えていくことになるのです。
主役は相手で、自分はその一被害者に過ぎない、ということになってしまいます。
「被害者モード」に陥ってしまうと、「自分」を中心に据えていたわることもできませんし、「被害」も取り戻しにくくなりがちです。
実は、「イライラを手放すことの損」として感じられるものは、「被害」と「被害者モード」を混同するところから生じる、とも言えます。
「〇〇のせいで・・・」と思っているため、イライラを手放してしまうと、「〇〇」がゆるされるような気になってしまうのです。
しかし、実際のところ、イライラを手放すのは「〇〇」とは関係のない話で、本来の主役である自分自身を快適にするだけの話です。
まずは自分の「被害」を認め、自分をいたわり立て直してから、「被害」を取り戻すことを考える、という手順を踏めば、イライラして「被害者モード」に陥っていくことなく、得られるものを得ながら前進することができます。
より不運な他人と比較することの問題
イライラ対策の手法の中には、「もっとひどい目に遭っている人もいるのだから」「自分は恵まれているのだから」という視点を提供するものもあります。
このアプローチが有効だという人もいるでしょう。
それはおそらく、自分の状況を相対評価することによって「被害」を認識することができた人だと思います。
「被害者モード」でただイライラしていたときとは異なり、実際に自分が受けた「被害」はどの程度のものか、ということを考えてみると、実は大したことではない、と気づけた人です。
「被害」の客観視ができたということです。
しかし、このような考え方は、必ずしも万人向けではありません。
「被害者モード」にとどまったままで、「もっとひどい目に遭っている人がいるのだから」と言われてしまうと、自分の感じ方が大袈裟で不適切であるような気になってしまうのです。
また、自分よりもひどい目に遭っている人に対する罪悪感も生じてきます。
イライラと罪悪感が入り交じった複雑な状態になることもあるのです。
脱・イライラのためには、「被害者モード」から抜け出すことが肝心なのに、罪悪感によって複合汚染されてしまい、ますます抜け出すのが難しくなってしまいます。
ポイント:「被害者」の主役は自分であり、「被害者モード」の主役は相手である。
イライラが続くと被害者体質が強まる
イライラし続けるということは「〇〇のせいで・・・」と、ずっと「被害者モード」で生きていくということ。
一つの「〇〇のせいで・・・」にとらわれ続けると、無力になり、他の問題にも「コントロールできない感」を持ちやすくなりますので、「〇〇のせいで・・・」がどんどん増えていきます。
「〇〇のせいで・・・」が増えていくということは、自分の裁量が減っていくということ。
「〇〇」が改善しない限り自分の状態もよくならない、という領域が増えていくと、自分で何とかできるところが減ってしまうからです。
それは、自分から力を奪い、不自由に縛りつけるものです。
本当は自分で何とかする力があるのに、「〇〇のせいで・・・」と思うクセがついていると、自分の力に気付かなくなってしまいます。
そして、本来であれば自分の力でさっさと状態をよくすることができるはずなのに、そんなことに全く気付かず、いつ変わるともわからない「〇〇」の変化を待ち続ける、ということになってしまうのです。
これがイライラすることの「最大の損」と言えるポイントです。
イライラによる損失は、その不愉快さや、時間の浪費などというレベルを超えて、自分自身の力を奪っていく、というところにその最も深刻な本質があるのです。
よく、「何でも人のせいにする」と批判されている人がいますが、それは本来批判されるような性質のことではありません。
誰よりも気の毒なのは、人のせいにしている本人だからです。
自分で自分の力を奪い、改善できる状況も改善不能のように感じてしまっている、気の毒な人なのです。
「人のせいにしている暇があったら自分でやりなさい!」と叱られている人もいますが、「自分でやる」といった前向きな姿勢は「被害者モード」からは生まれてこないもの。
まずは「被害者モード」から抜け出さなければ「被害」を取り戻すこともできないのです。
ポイント:イライラすることの最大の損は自分自身の力が奪われること。
イライラすることで自分は何を期待するか
イライラはかなりのエネルギーを要する感情で、イライラし続けると消耗してしまいます。
人は一般に、何かに対してある程度以上のエネルギーを傾けるときには、それなりの目標や理由があるもの。
「なぜイライラするの?」と聞かれた時に私たちが答えがちなのは「急いでいるのに電車が長時間ストップしたから」など「イライラが起こったきっかけ」なのですが、重要なのは、「なぜそのあともイライラし続けているのか」という視点です。
予想外のことが起こってイラッとするくらいは自然な反応だとしても、いつまでもイライラを自分の中に抱え込み、育て上げているのはなぜなのでしょうか。
「なぜ自分はイライラのエネルギーを手放せずにいるのか」という視点を持つと、脱・イライラへの道が開けてきます。
イライラすると「本来あるべき状態」に戻る?
イライラの原因の一つとして「現実を受け入れられない」ということがあるのですが、「本来あるべき状態」から逸脱している現実に対してイライラし続けることで、私たちは何を期待しているのでしょうか。
何がどうなってほしいと思いながら、イライラしているのでしょうか。
その「期待」を実際に意識している人はあまり多くないと思いますが、現実を受け入れられないときにイライラするわけですから、イライラのもとにある「期待」は、現実が「本来あるべき状態」に戻ってほしい、ということだと言えます。
しかし、これはかなり非現実的な期待です。
例えば、列に割り込まれたとき。
イライラし続けることで何が変わることを期待しているのか、と考えてみれば、それは、「割り込んだ人が、自分はマナーに反することをしたということに自ら気づき、謝罪して列から抜けること」でしょうか。
もちろん、それほどのデリカシーのある人ならもともとそんな行動をとっていないはずですから、イライラのエネルギーを向けても何も変化は起こらないでしょう。
変化が起こるとしたら相手側にではなく、自分側。
自分がイライラの中でどんどんストレスをためる、という変化だと思います。
このように、「期待していること」と「実際に自らがやっていること」の方向性が一致していないということも、「無力な被害者」の特徴の一つだと言えます。
なぜかと言うと、何かに主体的に関わろうとするとき、私たちは戦略を立て、手段を考えるものだからです。
つまり、自分の言動が目的に合っているかという「合目的性」を考えるのです。
しかし、停車している電車に対してイライラすることには、戦略も何もあったものではないですね。
まさに、「イライラするくらいしかできない」から、イライラしているだけなのです。
イライラしたとき、「イライラすることで自分は何を待っているのだろうか」という視点を持つだけで、「なんだ、馬鹿馬鹿しい」「エネルギーの無駄だ」と、イライラを手放せる場合もあります。
それは、この視点を持つということが、主体性を取り戻す重要な一歩となるからです。
ポイント:出口のないイライラトンネルの先に自分は何を期待しているのか、考える。
現実に「なんで?」を続けても、自分が傷つくだけ
イライラするとき頭の中にあるのは「なんで?」。
「なんで現実はこんななの?」という、現実を受け入れられない気持ちです。
つまり、イライラとは、「現実はこうあるべきではない」という思考から出てくる感情なのですが、現実に対して「なんで?」と問い続けることは、まるで、現実という固い壁に身をぶつけることで「変われ、変われ」と言っているのと同じこと。
壁はびくともしないのですが、身をぶつけている側はそれに気付かず、このままぶつかり続ければいつか壁が動くのではないか、と思っているようなものです。
しかし、現実は現実。
「変われ、変われ」とぶつかっていっても、そこに勝ち目はありません。
現実という固い壁は全く動じませんし、ぶつかればぶつかるほど傷むのはこちらの身体です。
イライラし続けるということは、そうやって、現実相手に不毛な闘いを挑み、ボロボロに傷ついていく、ということなのです。
そして、傷ついてボロボロになった身体で次の「現実」にぶつかると、すでに傷んでいる身体は、前よりも傷つきやすくなっています。
これが、イライラしているとイラッとしやすくなる、ということです。
常に満身創痍で、どんどん「損をする体質」になってしまうのです。
今までに、イライラし続けることで現実が変わったことがあったでしょうか。
多くの場合、その答えは「ノー」だと思います。
変わらぬ現実を前に、自分だけがイライラし続ける、ということがほとんどだったのではないでしょうか。
中には、不機嫌を相手が察して行動を変えてくれた、という場合もあったかもしれません。
ポイント:「現実はこうあるべきではない」とイライラしても傷つくのは自分だけ。
事態を変えることができる場合もイライラは効率的な手段ではない
イライラしている様子を見て相手が行動を変えてくれる、というケースは、実際にあることはあります。
ほら、イライラし続けると「被害」を取り戻せるではないか、と思うでしょうか。
しかし、これは、「いつも」「いつまでも」有効なことではないのです。
イライラすることによってかえって話がこじれることも少なくありませんし、イライラを使って相手をコントロールしてばかりいると、疲れた相手がだんだんと離れていったり、ついには不満を爆発させたりしてしまう、ということもあります。
実際に、相手に行動を変えてもらうための手段として、イライラは決して効率的なものではありません。
まず、不正確です。
イライラによって相手に伝わるのは、「現在不満がありそうだ」ということだけ。
どの行動を具体的にどう変えればよいのか、ということが、必ずしも正確に伝わるわけではないのです。
不満を悟った相手が行動を変えても、それがこちらにとって満足のいくものになるとも限りません。
また、イライラによって相手に行動を変えてもらうときには、エネルギーの無駄があるものです。
人が最も気持ちよく相手のために行動を変えようと思えるのは、どのように困っているのかを説明してもらって、きちんとお願いされるとき。
納得した上で「協力」を依頼されれば快く引き受けられる人でも、イライラをぶつけられると、変化に抵抗を感じることもあります。
イライラそのものが不愉快なので、相手のために気持ちよく行動を変えてあげたいと思えなくなってしまうのです。
イライラする相手にイライラする、ということもありますが、そんなときには自分の行動を変えるどころか、相手を変えたくなっていますね。
「もっと気持ちよく頼んでくれればやる気になるのに」「もともと助けてあげるつもりだったけれども、責めるような言い方をされたから、やめた」などということもよくあるものです。
こうして考えてみると、人に行動を変えてもらおうと思ったときの「本来あるべき状態」とは、「どのように困っているかを説明して、きちんとお願いすること」なのですね。
「自分」を主語にしてお願いする
相手に行動を変えてほしい場合、そのポイントは「自分」を主語にしてお願いすることです。
「あなたのせいで・・・」「あなたが・・・だから」という姿勢でいる限り、人は「自分が責められた」と思って防衛的になりますが、「私が困っているから助けて」と言われれば、「そうか、それはかわいそうに」と思いますので、可能な変化を起こすことができるのです。
「自分」を主語にすることとは、「被害」と「被害者モード」の区別と関連があります。
つまり、「自分」を主語にしてお願いする、というのは、自分の「被害」を取り戻すための方法なのです。
一方、イライラは「被害者モード」の感情。
イライラによって相手が変わるのは、イライラされるのが怖かったり不愉快だったりするためであって、イライラしている本人のためを思ってのことではないのです。
「イライラされるのが嫌だから行動を変えた」というだけの話で、主役は「本人」ではなく「イライラ」。
ですから、それは不本意なものであったり、一時的なものであったりし、長期的に見て関係性の改善にはつながりにくいのです。
イライラによって人をコントロールするのは、一種の暴力とも言えるものです。
イライラから実際の暴力が起こってくることもあるのですから、これは決して大袈裟なとらえ方ではないでしょう。
イライラという「暴力」が怖いから相手に従う、というときと、「私が困っているから助けて」と言われて「そうか、それはかわいそうに」と思うときとは全く違う心境になりますね。
思いやりから行動することが難しくなりますし、恐怖や面倒くささに支配されることが続くと、やがて燃え尽きたり、怒りが育ってきたりしてしまうのです。
ポイント:相手を責めるのは得策ではない。助けて、と自分を主語にしてお願いする。
イライラの解消は、力のある主役になること
自分をイライラさせる相手にお願いする、と聞くと、「そこまでへりくだるのか」「そんな必要はない」とイラッとするかもしれませんが、ここで「あなたのせいで・・・」から「私が困っているから助けて」という話に切り替えることは、自分がへりくだるという話ではありません。
その本質は、主語を「相手」から「自分」に変えること、つまり相手から主役を奪い返す、ということなのです。
自分をイライラさせる相手を主役にしたまま、それを脇で支えるのも変な話ですよね。
イライラを手放すということは、「無力な被害者」をやめて「力のある主役」になる、ということ。
「被害者役」を返上することなのです。
すると、「イライラするくらいしかできない」のではなく、他の選択肢も持ちながら、もっと自由にのびのびと自分らしく気持ちよく生きていく存在になることができます。
実際に「被害」がある場合でも、力のある主体として、その問題に対処していくことが可能になるのです。
このような考え方は、「被害」と「被害者モード」を混同している間には思いつかないものですが、本当に損をするのは「被害」が取り戻せないときであるはず。
「被害者モード」に陥ってしまうと、自分の力を奪い、事態を改善する可能性の芽すら摘んでしまいますので、「被害」はかえって取り戻しにくくなります。
ですから、「イライラを手放すと損をする」というのは一つのトリックなのです。
そのトリックは、「被害」と「被害者モード」を混同するところから生まれます。
イライラしている先に道が開けることはありません。
イライラの解消には、単に不愉快さから自由になる以上の意味があるのです。
ポイント:被害者意識は「脇役」の感情。「お願い」をして、「主役」になろう。
注意ではなくお願いのほうが安全
「自分を主語にしてお願いする」ことは、効率だけではなく、安全にも関わる話です。
イライラしていると、相手に対してとる行動は「批判」「注意」ということになります。
しかし、そのような行動をとった場合、相手によってはひどい反撃を食らう可能性もあります。
これはある程度は仕方のないことです。
注意されるということは、基本的には傷つく体験となるからです。
人によっては、「人格否定された」と受け止めることもあります。
こちらにとっては「正当な注意」であっても、「攻撃された」と思った相手が反撃してくることに不思議はありません。
そもそも、イライラしているときには、実際に心の中で相手の人格を否定している場合も少なくありません。
相手の行動だけに焦点が当たっていれば「どうやって改善するか」というところに目が向くと思いますが、イライラしているときには、その行為者である相手に対して「いったいどういう神経をしているのか」という、人格否定的な思いを持っているからです。
「注意」をするとキレる人でも、「お願い」であれば聞いてくれることが多いもの。
つまり、主語を「相手」ではなく「自分」にしてお願いする、ということは、自分の安全を確保することにもつながるのです。
ただイライラをぶつけては反撃を食らうのを止められない、というサンドバッグみたいな存在ではなく、自分で自分の安全を確保することができれば、いかにも力のある主体ですね。
ポイント:「お願い」は、自分が攻撃されない安全な方法でもある。
どんなときでも「イライラしないほう」を選ぶ
イライラは「被害者モード」に陥っていることを示す感情。
ということは、イライラしているときは、自分が人生の主役でなくなり、単なる無力な存在として、自分の幸せを別の何かに委ねているとき、ということになります。
今後生きていく上で、一つの判断軸を「イライラしないほうを選ぶ」というところに置いてみると、人生の質が上がるでしょう。
つまり、判断に迷ったときは、「イライラしないほう」を選択する、というふうに考えてみるのです。
これは安易なようでいて、本質的な選択です。
自分が主体となって力のある存在として生きていくのか、それとも無力な被害者として、ただただ周囲に振り回されていきていくのか、という違いを作るからです。
もちろん、「イライラしない方を選ぶ」というのは、「被害」について泣き寝入りをする、という意味ではありません。
前述したように「被害」は「被害」として認め、自分をいたわり、改善する必要があること、改善できることは、そうしていけばよいのです。
その際も、イライラしていないほうが、冷静に戦略を練ることができますし、自分の言動をうまくコントロールすることもできるはずです。
まずはイライラを手放した上で、改善のための効果的な方法を考えていけばよいのです。
一般には、「怒るべきところで怒らない」のは、負け犬のように思われているでしょうが、実際は全く逆です。
よく、イライラを抱えた人に対して「ガス抜きが必要」などということが言われますが、要は、「適当に怒らせてうまく飼い慣らしておけばよい」という程度の扱われ方だということですね。
誠意を持って事態を改善しようという姿勢からはほど遠いものです。
そんな扱いに甘んじるのではなく、イライラを手放して初めて、本当の意味で勝つ、つまり思い通りに、質の高い人生を送ることができるのです。
ポイント:決めごとの判断軸を「イライラしないほう」にすると、人生の質が上がる。