コミュ障を克服する心理

コミュ障の人は覚悟をすれば人に煩わされないで生きられる

亀は、重い亀の甲を背負って生きている

同じように人間もトラブルは起きるという「亀の甲」を背負って生きている。

コミュ障の人は何をするのも相手があるから人間関係のトラブルは起きる。

現実の世の中で生きている以上、コミュ障の人はそれは覚悟しなければならない。

覚悟をするということは、自分が歩いていく道が見えるということである。

足を引っ張られたら引っ張られたでいい。

しかし自分の歩く道は変えない。

コミュ障の人でも覚悟をすれば、トラブルが起きた時に、「こんな人に自分の人生を煩わされたくない」と思える。

現実にはイヤな人がいて戦っていても、覚悟をすれば心の中ではそのイヤな人に煩わされないで生きられる。

欲求不満な人は嫌がらせが生き甲斐である。

嫌がらせでいちいち深刻に悩んでいたらコミュ障の人は生きていけない。

普通の人でも起きる時は起きる

通勤通学の電車が脱線する。

例外的であろうが、ニュースを見ていれば、住んでいる家に突然車が飛び込んでくるなどということもよくある。

自分が用心深く生きているからトラブルが起きないなどということはない。

それが現実の世の中で生きるということである。

例えばある人は最近酷い目に遭った。

家を購入した時である。

不動産の広告で「駐車場あり」となっている、ある中古物件を買った。

前の持ち主はクラウンを持っていた。

もちろん前の持ち主は正規に駐車場の権利を持って駐車をしていたのである。

しかし彼にとっては駐車場があることが家を買う絶対の条件であったので、不動産屋さんに念のために車庫証明の権限を持つ地元の警察の車庫証明の係りに聞きに行ってもらった。

買う家の航空地図、測量図、宅地と道路の関係などの資料を持って確認に行ってもらった。

そこで警察の車庫証明の係りの人が「このような状況であれば問題なく車庫証明を発行できる」と言ったと不動産屋さんが言うので彼はその家を買った。

ところがクラウンよりも小さい車を買って実際に車庫証明を出してもらうという段階になったら「不可」となった

不動産屋さんが嘘をついているか警察が嘘をついているかは知らないが、そういう被害に遭った。

そうなれば言った言わないの水掛け論で証拠がない。

ここで示したいことはどちらが嘘をついているというようなことではない。

「慎重にしたら、トラブルは起きない」などということはないと示したいのである。

そこまで慎重にしたのは、彼は不動産では何度も苦い経験をしていたから、慎重にしただけである。

ここで示したいのは、「あなたは何の間違いもしていません、手続き上、全く問題ありません」と公的機関に言われても、そこまで慎重にしてもトラブルは起きるということなのである。

駐車場のあることが絶対の条件でなければそこまで普通は確認しない。

「そこまで慎重にするのはおかしいよ」と言われるくらい慎重にしてもトラブルは起きる。

そこまで確認する必要がないくらい確認しても、トラブルが起きる時にはトラブルが起きる。

これ以上はできないというところまで確認をしながらも、買ってはならない家を買ってしまった。

高齢の彼にとっては大問題であった。

普通の人でも平穏無事の人生の保証は何処にもない。

現実の世の中で生きている以上何をどうしてもトラブルは起きる

いくら慎重になっても事は起きる。

コミュ障の人でも普通の人でもそこまで慎重にするのはおかしいよと言われるくらい緻密に慎重にしてもトラブルは起きる。

コミュ障のあなたに全く落ち度がなくてもトラブルは起きる。

普通の人でも石橋を叩いて渡っても事は起きるし、石橋を叩いて渡らなくても事は起きる。

先の駐車場の件でも、区役所の道路管理課に聞いたら「あなたの土地なのだから、あなたが税金を払っているのだし、あなたがどう使おうがあなたの勝手です」と言われたという。

たまたま身近な人の例でトラブルを説明しているが、同じように自分が乗った電車が脱線しないという保証は何処にもない。

普通の人でも自分が住んでいる家に、車の方が飛び込んでくることを自分が避けることはできない。

車の事故を起こそうとして起こす人はいない

道路交通法を守っていても事故は起きる。

9.11のテロの時に世界貿易センターにいた人はどうなるのか。

コミュ障の人でも普通の人でも他にもテロの犠牲者は沢山居る。

好きこのんでテロの被害に遭う人はいない。

飛行機事故で死にたいと思う人はいない。

自然災害は忘れた頃にやってくるが、コミュ障の人でも普通の人でも人間関係のトラブルは忘れないうちにやって来る。

普通の人でも生きている以上人間関係災害は常に起きる。

残念ながら人生は、自分が万全な態勢で生きていても災難に出会う

この世の中で生きている以上、どんなに努力しても平穏無事というわけにはいかない。

普通の人でも生きることそのことがリスクである。

人間社会ではトラブルは必ず起きる

腐った食べ物があればハエが来る。

美味しい物があれば虫が来る。

コミュ障の人でも普通の人でもお金があればあったでとんでもないトラブルがついてくる。

所得番付で上位になっても、心の自由がない。

コミュ障で心の自由がなくて自分が不幸だと、不思議なことに不幸な人が集まってくる。

そしてトラブルが起きる。

でもお金がなければないで、違ったトラブルの海になる。

この駐車場の問題が生じている真っ最中に彼は母が他界した。

そうなるともう家の問題どころではなくなる。

ある年齢まで来ると、権力よりも名誉よりもお金よりも何よりも穏やかに生きられればいいと思う

でもコミュ障の人でも普通の人でもこの現実の世の中で100%平穏無事に生きることを求めるなら死ぬしかない。

生きることそのことが大変なリスクなのである。

普通の人でも現実の世の中で生きるということは毎日大小さまざまなトラブルを解決するということである。

そして小さなトラブルを毎日キチンと解決していないと、それがいつの日か大きなトラブルとなって、日常の生活に降りかかってくる。

現実の世の中で生きている以上ラッキー、アンラッキーということがある。

それは避けられない。

ラッキーと思ったことがアンラッキーの始まりということもある

コミュ障の人は力がないのに、時流に乗ってしまった。

バブルと同じことはあっちでもこっちでも起きている。

たまたま上司と上手くいったためにコミュ障の人は社内でエリート・コースに乗ったが、何か不確かなものがある。

また、コミュ障の人は自信がないから見栄っ張りになる。

「あの上司が居るから、自分は出世できるだろう」とコミュ障の人はたかを括っていたら、その上司が失脚してしまった。

その結果、コミュ障の人は普通の人よりも出世できなかった。

周囲の人の恨みを買っているからである

しかし、コミュ障の人は局長に成れると思っていたら部長にもなれなかった。

それだけではない。

見栄っ張りの時期にコミュ障の人は周囲の人を傷つけている。

周囲の人は恥をかいた経験をいつまでも根に持っている。

そこでコミュ障の人は今度はやられる。

コミュ障の人は世話好きな人に悔しい思いをする人が多い

人生には「この人に出会わなければ、これほど苦しまなかったのに」という人との出会いがある。

コミュ障の人でも普通の人でもそうした無念の時がある。

でもそういう人と出会うのが人生である。

しかしその時には自分が出会った素晴らしい人のことを思い出して自分を慰めるしかない。

自分に災難を持ってくる「その人」と出会ってしまうのは、時には避けられない運命である。

そして、コミュ障の人は親切心から、あることに「イエス」と言ったがために大トラブルになることがある。

また、その時に「イヤだ」と言えば良かったという後悔がコミュ障の人はストレスになる。

その人に会ったことがコミュ障の人は不運。

出会った人がまずかった

それでも、コミュ障の人はめげてはダメ。

コミュ障の人はそれで病気になる。

イソップ物語に「メンドリとツバメ」という話がある。

メンドリが、ヘビのたまごを見つけました。

そして、だいじにあたためてかえしました。

ツバメがそれを見て言いました。

「なんというばかなことをするのです?大きくなると、まっさきにあなたを殺すものを育てるなんて。」

人を世話して、その人から裏切られるということは人間の世界にはよくある

世話をするコミュ障の人の方に、人を見抜く力がなかったということでもある。

人の世話をする時、特にコミュ障の人には相手の人柄を見てしなければ世話したことが災難を招く。

世話好きな人で悔しい思いをするコミュ障の人は多い。

何でもすぐ同じように暖めてしまうメンドリの習性の怖さである。

相手を見ないですぐに人に親切をするコミュ障の人はたいてい酷い目に遭っている。

自分のやさしい習性が災難を招くということがコミュ障の人にはいくらでもある。

しかしまた、こういうことを言うツバメの怖さもある。

ツバメはヘビと同じ性格をしているからそれが分かる。

もしメンドリがツバメの性格を持っていれば卵を暖めない。

冷たい人ならトラブルが起きないということがある。

誠実でやさしいコミュ障の人から人間関係のトラブルが起きる。

しかし有名な言葉ではないが、「やさしくなければ生きている意味がない」。

コミュ障の人が失敗する法則

ある本に、クライスラー社を立て直したアイアコッカが「トラブルを抱えた時」というテーマで講演したことが書いてあった

アイアコッカがトラブルをかかえて乗り越えたという話をするから聴衆は興奮する。

もう一つの理由はコミュ障の人が普通に生きていたら必ず騙される。

世の中には人を騙して甘い汁を吸って生きていこうという人が沢山居るのだから。

相手のあら探しをして相手を痛めつけて心を癒しているコミュ障の人も沢山居る。

人のあら探しをする以外に生き甲斐のない人で世の中はごった返している。

騙されない人は、自分が騙す人だからである。

ツバメと同じで、ヘビの恐ろしさが分かる。

「私は騙されたことなどない」という人は恐ろしい人である

こういう人にはコミュ障の人は近づいてはいけない。

自分が人を騙しているから、騙す人のすることが分かるのである。

だから騙されない。

だいたい世の中の法則は、得した人はずるい人、損した人はいい人、コミュ障の人。

「もしその人が善意の人でなかったら、酷い人間関係のトラブルは起きない」というコミュ障の人のことがよくある。

ある善良そのもののコミュ障の高齢者がノイローゼになった。

その原因は新しく引っ越してきた隣人との関係である

その隣人には小さい子どもが二人いた。

引っ越してくるなりいきなり「子どもを預かってくれ」とコミュ障の高齢者に言って夫婦はよく出かけた。

そのコミュ障の高齢者は足腰が弱っている上に腰痛を始め様々な体の不調に苦しんでいた。

しかし「隣の人は引っ越してきたばかりで大変だろう」とコミュ障の高齢者は老体にむち打って子どもの世話をした。

ところが子どもを預けて何処かに行くということはいつになっても改まらない。

それどころか子どもの方も自分からドンドンとそのコミュ障の高齢者の家に自由に出入りするようになってしまった。

そうなると親はコミュ障の高齢者に対して「お願いします」の挨拶もなくなった。

そのうちに家の中からお金がなくなり出した。

そんなこんなでコミュ障の男性の方の高齢者は病気になってしまった。

そこで思い切って奥さんは隣人に、「高齢で体がきつくて子どもの世話はできない」ということを遠回しに伝えた。

しかしいっこうに子どもの自由な出入りは改まらない。

ものもどんどんなくなり出す。

「夫が病気になっているので」と言っても態度は改まらない。

そこで遂にコミュ障の奥さんはお金がなくなるということを婉曲に言い出した。

するとその隣人夫婦は「隣人を疑うのですか?」と感情的恐喝が始まった。

疑われたということで、今度は自分達を被害者に仕立て上げ、「あなた達はそれでも人間ですか」というように感情的恐喝が酷くなった。

そうしてコミュ障の奥さんもノイローゼになってしまった。

この高齢者には隣人のするようなことが想像できなかった。

このコミュ障の高齢者が隣人と同じタイプの人間ならこんな事件は起こらなかった。

「隣人のために」と思わないで、断った。

そしてこんなトラブルは起きなかった。

質の悪い人は質の悪い人がすることが分かる。

だから酷い目に遭わない。

「人間関係のトラブルで酷い目に遭ったことがない」という自慢話をする人はしっかりした人ではなく、質の悪い人である。

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コミュ障の人に「人間関係のトラブル」はつきもの

自分が健康のために走っていれば人が走っているのを見て、健康のために走っていると思う

コミュ障の人は相手の行動の動機を、自分が同じようなことをする時の動機と同じだと解釈する。

自分がそのお店で買うのは安いからだとすると、人がそのお店で買っているのを見た時に、美味しいから買っているとは思わない。

自分が不倫をしているコミュ障の男性は、他の男が女性と居るところを見ると、不倫をしていると思う。

善意の人は相手のすることを好意をもって善意に解釈することが多い。

ところが世の中には悪人も多い。

現実の世の中はずるい人で溢れている。

この世俗の世の中でコミュ障の善意の人は他人のすることを良く解釈してしまう。

間違った解釈であることが多い

そしてここから大トラブルが発生する。

「私には人間関係のトラブルがない」などという人は善人ではない。

そういう人は「私は騙されたことなどない」という人と同じで、人の質が良くない。

とにかく「騙されたことがない」とか「人間関係のトラブルがない」とか言う人は、ずるくて冷たくて嘘つきである。

とにかく恐ろしい人である。

自分が巧妙に嘘をついているから、相手の巧妙な嘘が分かる。

泥棒を捕まえるには、泥棒を使うのが良いというのはその通りである。

金融庁が銀行の監査を間違いなくするためには、銀行の監査で金融庁を騙していた銀行側の人を、逆に金融庁に雇えばいい。

コミュ障の人のトラブル

ガラクタに執着していないか?

「憂きことのなおこの上に積もれかし、海原のごとき豊かな人生に」

そういう人生を築くことが大切である。

海原のごとき人生とは、今日食べていくお金があって「あー幸せ」という心境である。

お金にも名声にも愛にもコミュ障でない人には執着なし。

コミュ障の人は執着があるから悩みが出てくる。

ブランドの服を買おうとか、豪華な家が欲しいとかは、コミュ障でない人にはない。

お風呂だけで良い。

内面的に磨かれると衣装は一杯いらない。

そういう心境にならないとコミュ障の人は長い人生でやつれてしまう。

生きるということは悟りが開けて、ガラクタを捨てて身軽になることである。

今コミュ障で悩んでいる人は「私はガラクタに執着しているのではないか?」と心の中を見つめてみる。

トラブルが後の人生の宝となる

「トラブルが起きたらイヤだな」と誰でも思う。

しかしトラブルは必ず来る。

だからコミュ障の人でもトラブルが来たら、「ここでもう一歩強くなることかな」と受け止めるしかない。

後で振り返った時に、そのトラブルは違って見える。

辛くて苦しい時にはコミュ障の人は「これが後の人生の宝になる」と思えばいい。

多くのトラブルを抱えていながらも悩んでいない人がいる。

逆に何もなくても悩んでいるコミュ障の人がいる。

欲があればコミュ障の人は悩む。

執着があれば人は悩む。

欲が出てきた時にコミュ障の人の人生は行き詰まってくる。

しかしその欲の中でコミュ障の人は悟りを開く。

「あー、自分にはこんな執着があるのだ」と分かる。

それがコミュ障の人の悟りのきっかけとなる。

悪いことも、いいよ、おいで

何かトラブルは起きた方が良い。

コミュ障の人は明日はどうなるか分からない。

明日は何が起きるか分からない。

今日は辛くても、明日は幸せが来るかも知れない。

今日一日あればいい。

今日一日元気で生きられればそれで良い。

明日は明日の風が吹く。

コミュ障の人は心配していても解決はしない。

悩んでいてもコミュ障の人は解決はしない。

今日も動けばコミュ障の人は悩みが来る。

生きている証拠

コミュ障の人は正しく生きていてもトラブルが起きる時には起きる。

交通事故で「事故をもらう」という表現がある。

事故の嬉しい人はいない。

でも事故はこちらで起こさなくても、向こうから来る。

そして一度事故が起きたらもう二度と事故が起きないという保証はない。

「またやられた」ということがある。

それもまた自分の運命。

人はそれを乗り越えて偉大になっていく。

それを乗り越えてたくましい人になっていく。

5年前に「やだなー」と思っていたことは、今は乗り越えた

コミュ障の人は何かに揉まれないと、「たくましさ」には行きつかない。

あっちもこっちもトラブルだらけの時には、コミュ障の人は「私は、今揉まれている、磨かれている」と思うこと。

トラブルで磨かれなければコミュ障の人は輝かない。

「悪いことも、いいよ、おいで」という気持ちで生きていないと、コミュ障の人は暗いやつれた顔になってしまう。

ちょっと隙があれば「良いことを見つけちゃう」という精神がないとやつれる。

実際、電車に乗って周囲を見回すとやつれた顔の人があまりにも多い。

「もうこれ以上問題が起きないでくれ!」と叫んでいるような顔をしている人が多い。

しかしその人がコミュ障の人が社会的に責任のある立場にいる限り、人間関係のトラブルは必ず起きてくる。

最近トラブルが起きなくなったな、と思ったら、実は誰からも見放されていた、ということもある。

コミュ障の人は具体的にどうしたらいいか

例えば、大勢の人前で話をする時、声が震えてしまうことを気にしているコミュ障の人がいる。

そして、大勢の人の前で話をして声が震えることに気が集中し過ぎて頭の中が真っ白になり、何をしゃべるのか飛んでしまう。

そのコミュ障の人はその体験を期に、大勢の前でのスピーチから逃げるようになった。

会社で、他の人に代わってもらった、あるいは仮病を使って休んだ。

そのありとあらゆる手を使い、大勢の人の前でのスピーチから逃げて逃げて、そしてまた逃げた。

しかし、とうとう逃げ道がなくなりどうしようもなくなり、大勢の前でスピーチをすることになった

その声が震えてしまうそのコミュ障の人にとってのトラブルと向き合う時が来た。

そこで、そのコミュ障の人は、心臓バクバクで本番に臨んだ。

そしてその時がやってきた。

その声は最初は震えなかったが、途中から震えだし、それに気をとられ、言うことが真っ白になり、過呼吸ぎみにもなった。

そして、空白の時間が生じた。

しかし、その人はあきらめなかった。

少し時間を要したが体制を立て直し、止まってしまった所から話始めた

そのコミュ障の人は声は震えている。

そしてまた、言うことが真っ白になり、過呼吸気味になり、空白の時間が生まれた。

しかし、そのコミュ障の人は今度は一回目よりは短い時間で体制を立て直し、スピーチを再開した。

今度も声は震えたがあまり気にせず最後までたどり着いた。

そして、その人は次回のスピーチも声を震わせながら、なんとか最後までたどりついた。

そういったスピーチを繰り返していくうちに緊張がなくなっていった。

この人はトラブルに正面からぶつかって克服したのである。