人見知りの人はなぜこんなに頑張っているのにうまくいかないのか
人見知りのあなたは「自分」を好きでいられるか
初対面の人と接する時など、恥かしいという人見知りは原因として自信がないということがあげられる。
その自信を形づくるのが日々の日常生活をどう生きているかであり、ここでは人見知りを克服する方法として日々の生き方と自信を視点に見ていくこととする。
シーベリーは「他人のためにやたらあくせく骨を折って、尽くしたうえにあいされなくなってしまう人がいるという謎に満ちた矛盾」にきがつくことがありませんか、と質問している。
シーベリーの本にクラレンス・ワトソンという人物が出てくる。
人見知りの彼は妻の依頼に折れて、無理をして妻の弟を自分の事業に招いてやった。
彼はそれをただの親切だと思った。
また、彼は妻の母親を同居させてやった。
それも自然なことだと思った。
母親というものは、なるべく子どものそばにいたいからである。
心の底では無理がある
彼は自分の心の底を無視して、立派な人としてふるまう。
おそらく人見知りの彼は、妻をはじめとして周囲の人に感謝してもらいたかったのであろう。
それを支えるべく人見知りの彼はあくせくと働く。
しかし人見知りの彼は無理をしているから、家でいつも機嫌がいいわけではない。
仕事でも人見知りの彼は消耗する。
期待ほどの感謝が人見知りの彼は得られないと不満を感じる。
状況はしだいに人見知りの彼は悪化していく。
彼の重荷は極限に達する。
そして妻は、そうした状況に消耗し、機嫌の悪い人見知りの夫に愛情を感じなくなっていく。
彼が新しい責任を背負い込むたびに妻の愛情は失われていった
人見知りの彼は姑から憎まれたくなかった。
義理の弟から人見知りの彼は憎まれたくなかった。
妻からも人見知りの彼は憎まれたくなかった。
彼の困窮の真の原因はなんであろうか。
仕事と家庭の重圧と人見知りの彼は解釈している。
しかし、真の原因は人見知りの彼の心のなかにある。
家のなかでは誰からも頼られ、好かれるべきであるという人見知りの彼の義務感であり、昔から頼られたいという願望である。
夫らしさを人見知りの彼はまっとうしようとする。
それが人見知りの彼の能力を越えているし、適性にもかなっていない。
そして背負い込まなくてもいい他人の責任まで人見知りの彼は背負っていつもイライラしている。
家庭の雰囲気をつくり、子どもにも悪い影響を与えている
立派に見せようと背負った荷物のために、やつれて魅力がなくなる人見知りの人がいる。
シーベリーは、犠牲は誰のためにもなんのためにもならないと述べている。
犠牲を口にしつつ、犠牲を演じる人見知りの人は不誠実な人である。
自分を好きになれば、人から好きになってもらうために自己犠牲を演じない。
自分を好きな人は、その人のために働くことを犠牲とは感じない。
だからこそ、その人のために尽くしつつ、心の輝きを失わない。
「私がこんなに努力しているのに、どうしていろんなことがうまくいかないのだ」という怒りを持っている人は多い
たとえば、人見知りの人は親は「こんなにしてあげているのに子どもは問題を起こす」などと怒る。
あるいは子どもに家庭教師をつけて「こんなにいい教育をあたえているのに成績が上がらない」などなどである。
今度は子どもに人見知りが連鎖する
こんなに家庭のことを大切にしているのに、人見知りの子どもが非行に走る。
家庭内暴力を人見知りの子どもは起こす。
子どもは成績が下がる
子どもは落ちこぼれる。
人見知りの子どもはいつも家で不満そうな顔をしている。
そんなときに親は「自分はこんなにしてあげているのに」と怒る。
「お前達はいったい何が不満なのだ!」と人見知りの親も不満になる。
以前、三人の子どもが非行に走った人見知りの親が「私は家庭を大切にしていた、家族旅行もよくしていた、それなのに」と嘆いた。
確かに親からしてみれば、家庭を大切にしていたのであろう
同じようなことは、あっちの家庭でもこっちの家庭でも起きている。
普通の親が酒を飲んで遊んでいるのに、自分は遊びをしないで家族旅行をした。
そのほかにも他の同僚と違っていつも家にはやく帰ってきた。
それなのに人見知りの子どもはまともに育たない。
そうなれば「どうしてお前たちは」という気持ちになろう。
「よその子はお前たちよりも条件が悪いのにあんなにまともに育っている、お前達はどこか考え方がおかしい」と怒る気持ちもわかる。
そして「私は子どもを甘やかしすぎたのではないか」と反省する結果にもなる。
確かに普通の人よりも努力をし、普通の人よりもつらさに耐え、普通の人よりも真面目に生きながらも、なぜかいろいろなことが普通の人よりもうまくいかない人見知りの人がいる。
普通の人よりも家族を大切にし、普通の人よりも家族のために努力をし、それでいながら人見知りの子どもは間違いを起こす。
普通の人が普通に生活をし、子どもも普通に育ち、普通に人間関係もうまくいっている
それなのに普通の人よりも努力し、普通の人よりも忍耐した人見知りの人の人生が、なぜか挫折の連続となる。
人見知りの人は普通の人よりも子どもに恵まれた環境を与えた。
それなのにその人見知りの子どもが問題児となる。
登校拒否をする、恋愛で問題を起こす、ひどい男に娘が捕まる、友達ができない、不良仲間に入る。
「あれだけいい環境を与えたのに・・・」とむくわれない努力に人見知りの親は悲鳴をあげる。
努力しなくてもむくわれる人は人見知りする人とどこが違う?
ある女性は、自分は誰よりも真面目に生きてきたと主張する
人見知りの彼女は誰よりも真面目に努力をしてきたと主張する。
それなのに人見知りの彼女の子どもはつぎつぎと問題を起こした。
彼女は「私は何も悪いことをしていないのに、なぜ私の人生だけがこんなに不運なのだ」と嘆く。
しかしなんとかそれを乗り切って人見知りの子どもを結婚させた。
ところがすぐに離婚をしてしまった。
彼女は離婚して戻ってきた人見知りの娘を抱えて再び「私は何も悪いことをしていないのに、なぜ私の人生だけがこんなに不運なのだ」と前にもまして嘆くことになる。
彼女は再び周囲の人に頭を下げて人見知りの娘の就職を世話した。
ところが就職したと思ったら、職場の人間関係がうまくいかず、人見知りの娘はその職を辞めてしまった。
しかし家にいる人見知りの娘は、親にすまないと思っているかと思うとそうではない。
そこまで人見知りの娘は親に迷惑をかけながらも、毎日が不満なのである。
娘のことで思い余って、遂に人見知りの彼女は心を壊す。
彼女の人生がなぜここまでトラブル続きなのであろうか。
夫は夫で外で浮気が絶えないということもあった
人見知りの彼女は子どもと夫のことが重なって心を壊したのである。
夫も人見知りの彼女には満足していなかった。
要するに人見知りの彼女は普通の人以上に生真面目に努力をし、普通の人以上に必死の努力をし、それで不幸の連続だったのである。
さらに人見知りの彼女の子どもは母親に不満なのである。
彼女はそれだけ子どものために働きながら子どもは「もっとしてもらえない」ことに不満を感じる。
娘は「なぜこれをしてくれないのだ」と母親に不満を感じる。
それは夫についても同じである。
それだけわがままにしていながらも人見知りの奥さんに不満を感じるのである。
しかし、世の中には逆の人もいる。
それほどつらい努力をしているわけでもないのに、女性として楽しい毎日を送っている人もいる。
母親として必死に頑張っているようでもない
それでいて子どもは皆まともに成長し、幸せな一家をつくっている。
男性の場合でも同じである。
父親は結構飲んだくれで外で遊び歩いていながら、娘は素敵な女性に成長している。
その上、その飲んだくれの父親を尊敬し、大切にしている。
父親の誕生日には手づくりのプレゼントを忘れない。
特別の教育を受けたわけではないが、娘は満足して生活をし、父親が歳をとったら自分が世話をするつもりでいたりする。
父親の側についても同じことが言える
あまり稼ぎがないのに奥さんも子どもも結構満足している。
父親は燃え尽きるほど働いてはいない。
適当に働いている。
それでいて子どもは全員まともに成長している。
こんなケースも多い。
いったいなぜこんなことが起きてしまうのであろうか。
不公平と言えば、これほど不公平なことはないように思える
子どものことで悩んでいる人見知りの人は皆、前者である。
人見知りの人は生真面目で、努力家。
親は一生懸命働き、高い授業料を払って人見知りの子どもを私立の学校に行かせている。
それなのに子供が大学に行ったら無気力になってしまった。
人生を人見知りの子どものために捧げ、それでいながら家庭の中はなに一つうまくいかずに子どものことで悩み続けている。
人見知りを克服するのに大切なのは「何をしたか」ではなく「どうすごしたか」である
一口に言って、うまくいかないケースは子どもとの心の触れ合いがないのである
「子どものためにこれだけのことをした」と言う人見知りの親の言うことは、皆「かたち」である。
「こころ」がない。
子どもと家族旅行に行ったというのはあくまでも家族旅行という外側の経験である。
その外側の経験に伴う内側の心の触れ合いがない。
皆でうちとけて楽しくキャッキャと騒いでいたのか、それとも恩着せがましい親を恐れてお行儀よくしていたのかという「こころ」の在り方の違いである。
子どものことで悩んでいる人見知りの親は皆、こんなことをしてあげた、あんなことをしてあげたという外側の経験を延々と述べる。
高い授業料を払って塾に行かせてあげた、高いセーターを買ってあげた、高いおもちゃを買ってあげた、こんな高級なレストランにも連れて行ってあげた。
すべて「かたち」である。
そのときに子どもが「こんな表情でこんな事を言った、こんな笑顔をした、こんな顔をして嬉しがった、こんな格好をして走っていた」などという、外側の経験に対しての内側の「こころ」の説明はない。
言うことはすべて、こんなに働いて、こんなにいい学校に行かせてあげたという、外側の「かたち」である。
子どもの側からすれば、こんないい学校に行ったという外側の経験である
授業料の高い私立の学校に行かせたかもしれない。
しかし、人見知りの子どもがどんなときに淋しがっていたかには関心がない。
子どものために人生を捧げながら子どものことで悩んでいる人見知りの親は、人見知りの子どもが淋しいときにその子どもの話を黙ってうなずいて聞いていたかどうかは記憶すらない。
子どもの背中を見て人見知りの子どもの淋しさを感じることなどいっさいない。
口をついて出てくることはすべて経験の外側の「かたち」である。
「こころ」さえあれば、倒れるほど働いて高いセーターを買ってあげる必要はないのである。
高給なレストランに連れて行ってあげる必要もないのである。
少ない給料のなかで「今月はこんなセーターが買える」と、皆で安物のセーターを買えることを楽しみにしていられればそのほうが人見知りの子どもには嬉しい。
それが「こころ」である。
そのセーターをとおして親と子どもの心の触れ合いがあればそれでいい。
高給なレストランに行かなくても子どもはまともに育つ
「今日のエビはこんなに大きいよ」と、たとえ安いレストランでも、皆で楽しく食事をすることが「こころ」があるということである。
「きっとこんなおもちゃをあの子は喜ぶだろうなあ」、そう思いながら安いおもちゃ屋を歩くことが「こころ」あるということである。
そういう「こころ」があれば、燃え尽きるまで働いて高給なおもちゃを買わなくても子どもはまともに育つ。
子どものことで悩んで相談する人見知りの親が言う「あの子は元気でした」という説明も同じである。
「こころ」のない人見知りの親は、子どもの表面の華やかさだけを見ている。
表面の華やかさと対照的な子どもの背中の淋しさに気づいている人見知りの親はいない。
元気な「かたち」の説明で、その内に秘められた「こころ」の説明はない。
子どもが登校拒否になったとき、子どもが非行に走ったとき、子どもが家庭内暴力を起こしたとき、「こんなにしてあげているのに」と人見知りの親は理解に苦しむ。
そんなときに、今まで人見知りの自分のしてきたことはすべて「かたち」ではなかったのかという反省がない。
そんなに与える必要はなかったのである。
「こころ」と「かたち」が理解できない人見知りの人は燃え尽きる
「かたち」だけで「こころ」を無視する人の悲劇は何も親子関係だけではない。
「かたち」だけの人見知りの人は、「かたち」だけを与えることで人を自分のまわりにひきつけておこうとする。
心のふれあいがないまま人と接する。
だから、人見知りの人は人間関係をうまくしようと努力するわりには周囲に誠意のある人は集まらない。
むしろ逆に誠意のない人が集まる。
倒れるまで働いて周囲の人に与えれば与えるほど、人見知りの彼らはずるい人に囲まれる。
その人から何か具体的な利益を得ようとする人達ばかりが集まる。
「こころ」の理解できない人見知りの人は必死になって周囲の人に何かを与えようと努力する。
与えることで人から好意を得ようと努力する。
しかし、そのような結びつきは、環境が変わればすぐに消える結びつきである。
金の切れ目が縁の切れ目という言葉がそれを現わしている
ある有名人の話である。
どうしても「こころ」と「かたち」ということが理解できない人見知りの人であった。
必死になって周囲の人にご馳走し、お土産を渡し、贈り物をし、困っている人にはお金を渡し、やたらにいろんなものを買ってあげた。
収入はかなり多かったが、すべて周囲の人に使った。
その人見知りの人は体を壊すまで働いた。
周囲の人に尽くした
人見知りの彼はその結果、燃え尽き、神経症にまでなってしまった。
そうなると、今まで周囲にいた人は誰も人見知りの彼のことを見向きもしなくなった。
周囲にいた人は質の悪い人間ばかりで、具体的な利益を得られなくなると、人見知りの彼のそばにいる意味がないと考えたのである。
皆から見捨てられた人見知りの彼は「俺はこんなに一生懸命皆のために働いたのに」と自分の人生を恨んだ。
人見知りの彼は確かに自分を犠牲にして必死で働き、周囲の人に与えた。
しかしそれはすべて「かたち」なのである。
「こころ」がなかった
人見知りの彼の周囲にも、利己主義者ではなく心の温かい人間はいたのである。
誠意のある人間はいたのである。
しかし彼はそのような心の温かい人間を人見知りの自分から切っていった。
実は人見知りの彼は人々から愛されるためにそんなに働く必要はなかった。
彼は人々から愛されるためにそんなに与える必要はなかった。
彼は頑張った
必死で頑張った。
人々から好意を得ようと、倒れるまで働いた。
人見知りの彼は心の底では淋しかったのである。
彼の背中を見ると、表面の華やかさとは正反対の淋しさが滲み出ていた。
そしてさらに気の毒なことに、周囲の人々は人見知りの彼から恩恵をこうむればこうむるほど「もっと、もっと」大きな恩恵にあずかろうとするようになる。
そしてなんと、人見知りの彼からいろいろな恩恵をこうむりながらも、彼に対して不満を感じるのである。
それは「私よりあの人のほうがもっと得している」と思えるからである。
人見知りを克服すれば「楽しい人生」は手に入る
彼は自分の人生を恨むが、彼は何もこのような悲惨な人生を送らなくてもよかったのである
人見知りの人は「こころ」と「かたち」があるということを理解できれば、もっと人生を楽しめたのである。
彼が「こころ」を理解できれば、腐った肉にたかるハイエナのような人間は人見知りの彼の周囲に集まらなかったに違いない。
彼が「こころ」を理解できれば、与えなくても人見知りの自分のことを好きになってくれる人がいることに気がつくことができたに違いない。
そうすれば、彼は体を壊してもなお働き続ける必要はなかったのである。
燃え尽きるまで働く必要はなかったのである。
楽しい人生を送りながら、皆に好かれて快適な生活を送れたはずである
彼はなんの苦労もしなくても、何かあったら人見知りの彼のことを心配し、彼を助けてくれる人に囲まれていたかもしれないのである。
自分の周囲にハイエナばかりを集めてしまうのは、人見知りの彼の側にも責任がある。
人見知りの彼が「かたち」ばかりを人に与えたからである。
彼は周囲の人と「こころ」を共有しないで、「かたち」を与えて周囲の人の好意を買ったである。
だから人見知りの彼は燃え尽きるまで働いて、最後には皆に見捨てられたのである。
「こころ」を与えていれば周囲にはハイエナは集まらない
ハイエナは具体的な利益を求めてうろうろしているのであるから。
この有名人ほどひどくはないが、これと本質的に同じことをしている人見知りの人は世の中にはたくさんいる。
苦労して人の為に生きながら、最後まで幸せになれない人見知りの人がいる。
死ぬまで犠牲的役割しか果たせない人見知りの人がいる。
苦労するだけの人生である。
夫で苦労する人見知りの妻は子どもで苦労する。
「こころ」を共有できればそんな苦労はしなくてもいいのである。
それらの人は皆無理をしている。
実際の自分以上に自分を見てもらいたいという欲求が強すぎる
そこで、人見知りする人は自分が相手にしてあげられること以上のことを無理してもしてあげようとする。
人の為に働いて苦労するだけで、最後は悲惨な結果に終わる人見知りする人は、自分の能力以上のことを周囲の人にしてあげようとしている。
それで体を人見知りする人は壊すのである。
あるいは無理がたたって人見知りする人は心理的に消耗してしまう。
無理をするから人見知りする人は心配事も多くなる。
その結果人見知りする人はノイローゼになったりもする。
「かたち」ではなく「こころ」を共有することで、等身大の自分で相手と接することができるので、緊張もしなくなり、人見知りも克服されていく。