人間関係がしんどいから解放される心理

人間関係がしんどいと感じている人は「内づら」が情緒的に成熟していないということである

人間関係がしんどいと感じている人は、その原因がわからないで苦しんでいる人が日本の人の中には多い

人間関係がしんどいと感じている人はもちろん女性にもいるし本質的には同じであるが、数としては男性が多いようである。

仕事で忙しい忙しいといいながら、奥さんをほったらかしにして夜の街で飲み歩いている人間関係がしんどいと感じている男性は多い。

あるバーの女の子が、「どうして男の人ってこんなところで高いお金をだして飲んでいるんでしょうね。

バッグでも奥さんに買ってあげて早く帰ればいいのに」と言っていた。

会社の女性や、愛人やクラブの女の子にはいい顔をし人間関係がしんどいと感じている人は、ニコニコしてプレゼントをしながら、奥さんにはプレゼントなどしない。

それを「釣った魚にエサはやらない」というような言葉でごまかす。

しかし実は人間関係がしんどいと感じている人はそうではない。

自分の内側の人になった途端、人間関係がしんどいと感じている人はその人に対して感情がデッド・エンドにつきあたってしまうのである。

感情の出口がわからなくなり、自分が自分でなくなり、どう生きてよいかわからない。

外側の女性に対するような明快な感情を人間関係がしんどいと感じている人は抱けなくなってしまう。

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あるテレビドラマで中年夫婦の心理を描いたものがあった

中年夫婦の心理がよく描かれている。しかし何のことはない。

夫が妻をうっとうしいと感じているだけのことなのである。

中年の夫婦の心理ではなく、大人になっても自己の個別化がなされていない人間関係がしんどいと感じている人々の一般的心理である。

日本の男性には、自分が育ってきた家に対してはっきりとした感情の整理ができていない人間関係がしんどいと感じている人が多い。

人間関係がしんどいと感じている人は明快な憎悪も明快な愛情もなく、愛憎両立している反抗期の青年のような未成熟なところがある。

家族への感情が出口を失い、「人間最後は一人」などといっている作家がいるが、そういう人間関係がしんどいと感じている人がそうである。

身近な人に対する明快な感情を失って、どう生きてよいかわからないで最後の悲鳴が、「人間最後は一人」と叫んでいるのだ。

人間にとってはじめての内側である家に対して、両価的な屈折した感情を整理できないかぎり、いつになっても人間関係がしんどいと感じている内づらのわるい不機嫌は直らない。

内づらという言葉を内面と書くことはみごとである。

「内づら」がわるいとは、その人間関係がしんどいと感じている人の「内づら」が不快で屈折しているということである。

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「内づら」が情緒的に未成熟なのに、結婚してしまい、親になってしまったら、人生は地獄である

人間はおそらく本気で反抗するならば、その反抗を通して自我境界が鮮明になってくるのであろう。

その本気の反抗を通して自我は確立され、自他の対峙、自分と他人との関係も成立してくる。

そうした意味で日本の、人間関係がしんどいと感じている内づらがわるくて外づらがよい男性は本気で家に反抗したことがない。

人間関係がしんどいと感じている人は自分を所有した家と本気で戦い憎悪したことはない。

いつまでも人間関係がしんどいと感じている人は二重拘束から逃れることができず、憎悪しつつもどこかに憎悪に対する罪責感があるのではないか。

生まれて以来人間関係がしんどいと感じている人は拒否されつつ、その拒否されていることを感じることすら禁止された。

憎悪しようにも、人間関係がしんどいと感じている人はその憎悪に心の底のどこかで罪責感がある。

多くの人々は中途半端の反抗をして、疑似成長し、結果として自分の内側に入ってくる人間に対してうっとうしさを感じるようになっている。

内づらのわるい不機嫌な人間関係がしんどいと感じている人は、おそらく家を憎悪したことはあったのかもしれないが、そのときでも、家の人によく思ってもらいたいという感情が心の底に残っていたのではないだろうか。

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憎悪しつつも、やはり愛情を求めているという幼稚な青年の反抗期を何となく過ぎて社会的には大人になってしまった

だが残念ながら人間関係がしんどいと感じている人は心理的にはまだ子どもなのである。

人間関係がしんどいと感じている人が本気で憎悪するということは、自分を所有し支配した家から情けをかけてもらうことを願う気持ちはひとかけらもない、ということである。

そうでなければそれは憎悪ではなく「すねている」ということである。

すねていたのでは人間関係がしんどいと感じている人はいつになっても自我の確立はない。

いつになっても人間関係がしんどいと感じている人は自他は未分離のままで自我の個性化はない。

自分を所有した家を本気で憎悪した者だけが、他者に明快な愛情を抱くことができるのである。

そしてその本気の憎悪を通して、本当の許しに到達できる。

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人間関係がしんどい人は”中途半端”がいちばんよくない

中途半端は精神によくない

これはアメリカの心理学者デヴィッド・シーベリーが基本にしている考え方の一つである。

偽相互性のもとに保たれた自分の生家を憎悪し、その家を捨てきれた者だけが、他者を愛することができる。

偽相互性のもとに保たれた自分の生家に中途半端な感情を持つ人間関係がしんどいと感じている人は、結局大人になってから、内側の世界に入ってきた人間に対して愛憎半ばする感情の袋小路に陥ってしまう。

人間関係がしんどいと感じている人は甘えているし、依存心が強いから、うっとうしいと思いつつ離れられない。

うっとうしいと思いつつ人間関係がしんどいと感じている人は嫌われたくない。

家庭内離婚という言葉がある

このような人間関係がしんどいと感じている人達の何割かは、今述べたような感情の袋小路の世界で生きている人々ではないだろうか。

「・・・荷風は生涯、女を玩賞することはあってもそれを愛することはできない人であった。

女に対する彼の感情にはどこか生命的な気力が欠けているのであるが、それはおそらく、彼が生家に対して明快な愛情も明快な憎悪もともにもてなかったことの照り返しなのである」(『不機嫌の時代』より)

私たちの中には情緒的に成熟した両親のもとで健全に育つことのできた人もいる。

しかしそれはまったくの運であって、自分で選べるものではない。

しかし人間の偉大さは、情緒的に未成熟な両親のもとに生まれ育っても、自我の形成ができるということにある。

その条件が、人間関係がしんどいと感じている人は生家に対する感情をごまかさないということである。

生家に対する感情をごまかすと、自我の基盤がなくなってしまう。

生家に対する感情をごまかして、「女房と畳は新しいほどよい」とか「釣った魚にエサはやらない」などと神経症的なことを言い続けて生きる人間関係がしんどいと感じている人もいる。

もっとも身近な内側の人との関係が両価的であるかぎり、その人間関係がしんどいと感じている人は外側でどのような人にめぐり会い、どのような幸運にめぐり会っても、本質的に情緒不安定である。

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人間関係がしんどいと感じている人は幸せな心の支えとなるような人間関係を持てない

荷風はどんなに素晴らしい芸妓とめぐり会おうが、彼の心理は本質的に情緒的に不安定である

人間関係がしんどいと感じている人は外側でどんな幸運に見まわれようと、「出口なし」という状況が変わるわけではない。

生家に対する感情をごまかす人間関係がしんどいと感じている人は、基礎工事をせずにビルをつくっているようなものである。

立派なビルの最上階に大きなフロアーがあるが人間関係がしんどいと感じている人は、残念ながら地震つづきの土地の上に立っているようなものであろう。

外側の人とどんなにうまくいっていても人間関係がしんどいと感じている人は、それで内側の人間に対する「やり場のない感情」が消えるわけではない。

そこから情緒不安定に一時目を背けることができても、人間関係がしんどいと感じている人はたえず心の一番底には、どぶ川の臭気のように何かただよっているものがある。

そういう人は幸せな結婚生活を送れないか、幸せな結婚そのものができない

ある人間関係がしんどいと感じている男性の話である。

男性は結婚もしたい。

男性はそして好きな人ができる。

男性はところが結婚の話になるとすぐに不機嫌になる。

男性はとたんに内づらがわるい。

男性はいざ結婚の話になって、それがこわれると「ほっと、安心をする」。

男性は「僕は、本当に好きな女は誰かわからない。好きだかどうかわからない」という。

問題は相手の女ではない。

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人間関係がしんどいと感じている男性自身の自我の確認の問題である

男性は「あなたって魅力的ね」といわれると好きになってしまう。

人間関係がしんどいと感じている人はつまり相手の言葉でしか自我の確認ができない。

自分で自分の自我の確認ができない人間関係がしんどいと感じている男性は、相手が自分の内側に入ってくると、その自分の気持ちをどうすることもできない。

男性はだから、結婚の話になると、相手との関係で自我の確認が不確かになり、すぐに不機嫌になる。

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