他人が許せない心理と対処法

他人の幸せが許せないとは、心の状態でいうところの「I’m OK,Youre not OK.」になっている人に向けたお話です。

この状態になっている人は、

私は正しい、間違っていない、あなたが悪い、間違っている

と思っています。

さらには、「自分は正しい」と思っているので、つい「許せない」「~するべき」が口癖になって、周りの人に「変わる」ことを求めます。

他人の幸せが許せない人はなかなか自分以外の人を認めることができません。

さらに、基本的に自分の価値観を正しいと他人の幸せが許せない人は思っているので、それに反する行動を他人がとると、激しく怒りを覚えたり、攻撃することもあります。

自分の能力が優れた部分では、人をバカにするような行動に出てしまうこともあります。

一方で、自分自身が思うようにならない苦手なことなどを他人から指摘されると、激しく反発したり劣等感を強く感じてしまいます。

この心の状態が続くと、他人の幸せが許せない人はイライラすることが多い。

人間関係が思い通りにいかないと不満に感じる。

「他人は自分のことをわかってくれない」「どうして、私だけがこんな目にあわなきゃいけないの!?」「こんなにがんばっているのに、誰も認めてくれない」

と他人の幸せが許せない人は他人を責めたり、攻撃して、つらくなってしまっている。

意地を張ると、本当の気持ちを抑圧することになり他人の幸せが許せなくなる

クタクタになって苦しくなる「岩と旅人の法則」

他人に対して「こうするべき」とか、「こんなことじゃダメよ、変わりなさい」といいたくなるときがありますよね。

そんなときは、相手を一生懸命変えようとしています。

でも、そんなことしても、なかなか変わりません。

たとえ変わったと思っても、変わったふりをされるのが関の山です。

場合によっては強制的にやったり、恐怖でコントロールしようとしますが、それではあまり幸せな結果は招かないような気がします。

この様子を「岩と旅人」にたとえてお話します。

ある日、旅人が歩いていると、目の前に、巨大な岩がありました。

旅人は、岩に向かって「じゃまだ、どけ」といいましたが、当然、岩はどきません。

言葉が通じないのかな、と思っていろいろと言葉を変えてみましたが、ぴくりとも動きません。

そこで旅人は、岩を押してみました。

でも、ぴくりとも動きません。

だんだん腹が立ってきて、「みんなの邪魔になるだろうが」と、蹴ったり叩いたりしましたが、岩には通用しません。

「どかないと爆破するぞ」と脅しましたが、動きません。

旅人は悔しくてしかたがない。

そして、とうとう本当に爆破してしまいました。

ところが、岩の一部が破壊されたことによって、もう十分通れるのに、他人の幸せが許せない人は旅人はまだ気が治まりません。

応援を呼んで、さらに岩を爆破し続け、疲労し、飛び散った破片で傷ついていきました。

その様子を見ながら、多くの旅人は、岩を避けて遠回りしていったり、岩の上を楽しみながらロッククライミングして乗り越えていく人もいました。

旅人が岩と戦っているのを遠くでお弁当を食べながら見ている人もいました。

他人の幸せが許せない旅人は、そんな人にも腹が立ちます。

「せっかく俺が、みんなのために岩を動かしてやってるのに!」と怒りが収まりません。

そして疲れて、とうとう座り込んでしまいました。

迂回したり、乗り越えていった旅人たちは、もうずいぶん遠くまで行ってしまったというのに・・・。

岩を動かすことは、変わらない他人を変えようとするようなものです。

他人を変えるのではなく、自分が、意地を張らずに、あえて遠回りしたり乗り越えたりすることで「本当の目的」に早くたどりつけるのかもしれません。

なぜなら、もともと他人の幸せが許せない旅人は、ただそこを通りたかっただけなのですから。

他人の幸せが許せない人はべき思考を手放すことで楽になる

相手と話が通じない訳がわかる「地図の法則」

「あなた、それはおかしいよ」といい合っている光景を、よく見ませんか。

職場で、友人同士で、家庭で・・・。

「ふつう、これはこうでしょ」

「こういうときはこうするべきでしょ」

とそれぞれの正しさを主張し合っている。

この場合、それぞれに、その人には、その人の心の中の「フィルター」を通した「べき」「ふつう」があるのです。

そしてお互いに他人の幸せが許せない人の「それはおかしい」となっているわけです。

べき思考にまつわる言葉で、
「目の前で起こっていることは、見る側の経験でしか理解できない」というものがあります。

つまり、自分の価値観というフィルターを通さずにものを見たり聞いたりすることはできないということです。

我々はすべてのものごとを、自分の過去の経験に照らし合わせて見聞きしているということです。

このフィルターとは、自分だけの価値観、自分だけの法律です。

そして、このフィルターを通したときに「感情」が生まれます。

このフィルターを、できるだけ粗い目にすることができれば、他人の言動にいちいち引っかからずに、ジャッジせずに受け止めることができます。

NLPという心理学の前提の中にも、「地図は現地ではない」というものがあります。

いくら精巧にできた地図であっても、それは必ず、地図の作製者の視点で作られたものだということです。

それと、「過去は現実ではない」と思っています。

自分にとっての過去は、自分にとって「だけ」の現実で、「自分が見た角度」の現実、「自分の立場で受け取った」現実であって、同じ出来事にかかわった人には、その人にとっての現実がある。

まったく違う過去を持っているということです。

同じものを見ても、同じようには見ていないのです。

同じ映画を見ても、同じ音楽を聴いても、同じ言葉を聴いても、同じものを食べても、同じ事件に出会っても人それぞれ感じ方は異なっている。

また、同じものを食べている二人が、同時に「おいしーねー」といっても、その人たちの中で、それぞれが何を感じているのかはわかりません。

仕事がよくできる人がいて、まわりは「すごいねー」といっていても、他人の幸せが許せない本人の中では納得できずに「あーだめだ」と思っているかもしれません。

逆に、本人は「あーすごい」と思っていても、まわりから「ダメだな」といわれることもあります。

つまり「過去」どころか、「今現在」も、「現実は、その人だけの現実だ」ということができます。

だから、実は「べき」や「ふつう」は、人それぞれまったく異なるんです。

なのに、他人の幸せが許せない人たちはそれをぶつけ合っている。

そして、いい争ったり、「自分の意見が通らない」と悩んでいるのです。

そこで、他人の考えを認める、とか、受け入れることができたら、悩みは消えていくのです。

つまり、自分と他人の「フィルターの違い」を認められたら、人間関係の悩みは消えていきます。

違いを認めるということは、「比較しない」ということであったり、「正しさを主張し合わない」ということです。

認める、受け容れる、ということ。

それは、他人を「尊重する」ということ。

それは、自分を「尊重する」ということ。

それができるだけで、驚くほど人間関係の悩みは消えていきます。

他人の幸せが許せない人は自分の価値観だけで話を理解するのをやめる

聴く、聞くの間の「禅問答の法則」

カウンセラーは、「聴く」ことと「訊く」ことが仕事です。

「聴いて」受け止め、「訊いて」答えを引き出す。

実際、「聴く」ことは、簡単そうに見えて、とても難しいです。

人の話を聞いていますが、実はそのとおりに聞けていないからです。

禅問答のようです。

たとえば、つらい目に遭って、それを話していただく他人の幸せが許せないクライアントは、「その人だけの現実」を持っています。

それがハタ目で見て、どう見ても「思い込み」であったとしても、その他人の幸せが許せない人の中では、それが「事実」です。

カウンセラーは、いろんなケースを体験したり、学べば学ぶほどに耳が肥えてきます。

心のことを学べば学ぶほどに、心も肥えてきて、気がつけば、わけ知り顔になったりすることもあるかもしれません。

すると、目の前の人の言動に対して「そうじゃないのに」「それはダメだよ」「あーあ、もったいない」なんていう思いが「自動的」に湧いてきます。

こればかりは、止めようと思っても止められません。

そして、ついついいってしまうこともあるかもしれません。

つまり、「自分の価値観」で、人の話を聞いてしまうのです。

これでは、「聞く」であって「聴く」になってない。

「聴く」というのは、相手の価値観に沿って、自分の価値観でジャッジしないで聞くということだからです。

「聴く」というのはとても難しいのです。

というより、本当の意味でのジャッジで聴くのは、たぶん無理です。

他人の幸せが許せない人の「聴く」ということは、そんなふうに、さまざまな自分以外の価値観に出会い、他人と自分の価値観の違いに気がついて、その違いを認めていく修行なのかもしれません。

あなたも、こういうことがありませんか。

  • 部下の報告をきいているときに、つい、許せなくてイライラする。
  • 相談相手の話に、口を挟んで説教じみたことをいってしまう。
  • 他人と話していて、すぐ「そうじゃない」と許せなくなりムカついたり、怒ってしまう。

そんなときは、他人の幸せが許せない人は「自分の価値観」だけでジャッジしながら「聞いて」ないかを考えてみてください。

すると「あぁ、あの人の中ではそうなんだ」「あぁ、自分の中ではそうなんだ」「あぁ、自分の記憶の中の現実は、自分だけの現実かもしれない」と思えるかもしれません。

他人の幸せが許せない嫌いな相手にも、言い分がちゃんとある

文句を言うと自分だった?「返り討ちの法則」

喧嘩になって「だいたいあんた、自分がどれだけひどいことしたか、わかってんの」なんていおうものなら、かなりの確率でこういわれることはないですか。

「そういうあんただってね、自分では気づいてないんでしょうけど!」

そう、これが他人の幸せが許せない人の「返り討ちの法則」です。

他人の幸せが許せない人は、目の前に見る嫌な人の言動のことを、自分のことだとはなかなか思えません。

これは、ごく当たり前のことです。

生まれて初めて、ビデオカメラに映っている自分の姿を見たとき、生まれて初めて録音された自分の声や歌を聞いたときの衝撃にも似ているかもしれません。

こんなの私じゃないって。

つまり、そのぐらい我々は、自分が周囲からどう見えているのかはわからないのです。

自分が無意識にどんな言動をしているかはわからないのです。

そんなことを忘れて、我々はついつい、目の前の人の言動に反応して腹を立ててみたり、正そうとしてしまうことがあります。

自分が相手を責めている時は、幸せを許せない相手も同じように自分を責めているのかもしれないということです。

「そういうあんただって」と指摘されて「そ、それは・・・」としどろもどろになるのです。

もしくは、他人の幸せが許せない人は「私には正当な理由があるのよ!」と、あくまでも自分を正当化しようとするでしょうか。

その人には、そうする理由があります。

他人の幸せが許せない自分にも、そうする理由があります。

幸せが許せないあの人は、自分が正しいと思っています。

自分も、自分が正しいと思っています。

どちらも、自分に自信がないこともあるかもしれません。

他人の幸せが許せない人はどちらが正しい、という戦いは永遠に終わりません。

「どちらも、正しい」

これが戦いを終わらせるのかもしれませんね。

他人の幸せが許せない人は知らずのうちに始めてしまった悪いところ探しをやめる

イライラが溜まって爆発する「幸せが許せないスタンプカードの法則」

我々は、心の中に「幸せが許せないスタンプカード」を持っています。

そして、「自分の思いや、いえなかった言葉を飲み込んだ回数」を数えているのです。

たとえば、同僚に対して何かいいたいことがあったとします。

でも、「傷つけるかも」「笑われるかも」「怒らせるかも」「喧嘩したくない」などの理由で飲み込みます。

いうより、いわないほうが自分は傷つきません。

すると、そこから幸せが許せないスタンプカードが始まります。

いいたい言葉を一つ飲み込んだことで、一つ他人の幸せが許せないスタンプを押したのです。

スタンプカードをもらったら、なんとなくためたくなりますよね。

だから、一つ目の幸せが許せないスタンプを押した瞬間から、スタンプをためようとして、相手を「観察・監視」し始めるのです。

「また、やるんじゃないか」と見張り始めるのです。

そして、相手がまた似たようなことをしたら、すかさず「ほら、またやったわ」と幸せが許せないスタンプを押します。

これを「偏見」といいます。

幸せが許せないスタンプを押し始めた段階で、相手のことを「偏見」で見始めます。

つまり、幸せが許せない相手が「何をやっても、そう見える」ということです。

その時点から「事実が歪み始める」のです。

もう、その人の何を見ても、悪いように見え始める・・・。

そして幸せが許せないスタンプを押すたびに「ほら、ほら」といいながら「悪いところ探し」を続けていきます。

幸せが許せないスタンプがたまってくると、イライラしたり、無口になって態度だけで表そうとします。

幸せが許せないスタンプカードには景品がつきものです。

幸せが許せないスタンプカードに最後の一つが押された時点で満タンになると、何かをもらえたり、金券が使えます。

幸せが許せないスタンプカードが満タンになるとどうなるか。

他人の幸せが許せなくて「キレる」「爆発する」のです。

「もう我慢できない」というセリフとともに。

いったんキレると、過去にためた幸せが許せないスタンプまで流れ出してきますので、なかなか収まりません。

つまり、キレたほうには、キレるだけの「たくさんの理由」があるのです。

でも、キレられたほうにはそれはわかりません。

「なんで、そんなことぐらいでキレるの?」となります。

それは、キレた人は、キレるまでその理由をいいたくないので、いわないからです。

他人の幸せが許せない人は満タンになってキレたときに、キレた理由、つまり過去のいろんな積み重ねてきた不満をいわれても、どうしようもないです。

「だったら、その時にいってよ」ということになります。

考えてみると最初の幸せが許せないスタンプを押した理由は、「傷つけるかも」「笑われるかも」「怒らせるかも」「喧嘩したくない」という、いわない側の「自分の都合」だったはずなんです。

しかしそれを認めたくはないし、かっこ悪くていいたくもないので、いつの間にか「あなたのために我慢したのよ」と、中身をすり替えてしまうのです。

つまり、幸せが許せないスタンプを押し続けることで、いつの間にか自分を「被害者」に、相手を「加害者」に仕立て上げていたのです。

幸せが許せないスタンプを押し始めたのは、あなたが「いわなかった」カラなのに―。

これ以上幸せが許せないスタンプをためないために大切なことは、思ったことを思い切って伝えてみること。

伝えるときに気をつけないといけないのは「相手を指摘・攻撃しない」ということ。

相手を攻撃するとき「あなたはおかしい」「あなたの言動に腹が立つ」と伝えるのは、攻撃です。

これは本音ではありません。

相手に思っていることを伝えるときは「私は、こういう理由で腹が立った。なぜなら・・・」と、自分が何かに勝手に期待していた、その期待をかなえてもらえなかった、という本当の気持ちだけを伝えることです。

そして、他人の幸せが許せない人にとって大切なのは、それを伝えたあとの相手の行動に期待しないこと。

相手には相手の都合と考え方があるのです。

他人の幸せが許せない人は「自分が本当はどうしてほしかったのか」をただ、伝えるだけ。

「認めてほしかった」
「優しくしてほしかった」
「大切にしてほしかった」

そんなことも心がけてみてください。

他人の幸せが許せない人の被害者思考は過去の思い込み

他人の幸せが許せない人に悪いことが次々と起きる「被害者の法則」

「私がこれだけやってるのに」
「こんなに我慢してるのに」
「私は悪くないのに」

という思いが湧くことはありませんか。

もし湧いているとしたら、他人の幸せが許せないあなたは完全に「被害者モード」に入っています。

先ほどの「幸せが許せないスタンプカードの法則」のとおり、いいたいことをいわないで心の中のスタンプがたまってくると、自分は勝手に被害者になっていきます。

他人の幸せが許せない人は「ひどいことをされる人」になるのです。

そして、他人の幸せが許せない人はやがて自分が被害者だということを、周りに「わかってほしい」「認めてほしい」ので、アピール活動に入ります。

アピール活動に入るためには「加害者」が必要です。

加害者がいないと被害者は成り立ちません。

そこで、幸せが許せないスタンプを押せる相手を探し始めるのです。

これが他人の幸せが許せない人の「他人のあら探し」です。

他人のあらを探しては、一生懸命幸せが許せないスタンプを押して、その幸せが許せないスタンプカードを人に見せて、

他人の幸せが許せない人は「私は何もしてないのに、こんなにひどいことされるんです」

「私のまわりはこんな人ばかりでつらいんです」

とアピールして回ります。

そうしながら、さらに次々と獲物(加害者)を探すという、不幸な旅に出かけていくのです。

そして結果として、自分のまわりが「信用できない」「敵だらけ」「他人の幸せが許せない」という状況を作り上げていくのです。

するとますます「被害者」のスパイラルになっていきます。

やがては、「どうして私はいつもこんな目に遭うんだろう」と、次は自分の欠点探しをする自虐スタンプに代わっていくのです。

この状態に入っている人のことを、「すねている」といいます。

「すねる」という行為は、他人の気を引くための一つの戦略です。

その多くは、子どもの頃にすねることでうまく望みがかなったというパターンを引きずっていたり、子どもの頃に何かの願いがかなわなくて誰かに腹を立てて、そのまま続いていることもあるようです。

そして、裏側にある「本当は〇〇をしてほしい」という思いをいいたくないから、態度で表そうとしているのです。

わかってほしい、ほめてほしい、優しくしてほしい、認めてほしい、かまってほしい。

そして、それがいえないからあきらめる、しらける、物分かりがいいフリ、という態度に変わっていきます。

ほかにも、いじける、意地を張る、ひねくれる。

そうやって、すねて他人の幸せが許せない自分が「心を閉じる」ことで、自分で壁を作り、相手との距離を作ります。

すると、周りの人は非常に扱いづらくなってきて、距離を置き始めます。

何をいってもすねてるわけですから。

つまり、他人の幸せが許せない自分が心を閉ざした(いわなかった・しなかった)ことで、相手の心も自分に対して閉ざさせた、ということです。

ということは、自分が心を開けば、相手も開くことになります。

これが自己開示なのです。

だから、自己開示とは、すねてしまった自分の心を開く練習なのです。

「もっと優しくしてほしい」
「もっと認めてほしい」
「もっとかまってほしい」

こういった「本当の思い」に気付き、それを伝えて、自分の心を開くのです。

ただし、自分の思っている「本当の思い」を伝えることは勇気が必要です。

ちょっと勇気を出してみませんか?

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びくびくする心理

他人の幸せが許せない人の克服法はすねるのをやめる

うまくいかないことばかりになってしまう「すねる再燃の法則」

どうして自分の人生には、つらいことやうまくいかないことが多くて、ひどい人がいつもいるんだろう。

だから、いつまでたっても人と打ち解けられないし、素直に喜びを表現できず、楽しめない。

そんなふうに思いながら生きている時期が多かった人もいると思います。

親に何かを買ってもらえない、何かの要望を聞いてもらえなかった。

いいことをしたのに褒めてもらえなかった。

さびしかったのにかまってもらえなかった。

いろいろな理由はあるのでしょうが、とにかくすねてしまう。

すねているときというのは、イメージ的には、毛布をかぶってうずくまっている状態です。

そして毛布越しに、「ほら、ケーキ買ってきたよ」と優しくされても「いらん」とつっぱねているのです。

本当はすごくほしいのに。

何度か「ほら、一緒に食べようよ」といわれても、意固地にすねているので、受け取れません。

そのうち、その人もあきらめて向こうに行ってしまうと、毛布の隙間から覗いて「あ・・・ほんとに行っちゃった」と、またすねます。

向こうでテレビがついています。

とても面白そうな番組です。

本当はとても見たい。

でも、他人の幸せが許せない人はすねてる手前、そっちに行けません。

「そんな低俗な番組みたくない」

そのうち、学校で楽しいことがあっても、今さらいえません。

他人の幸せが許せない人はそうやってすねてばかりいると、もう元には戻れません。

ちょっと気を許して喜んだりすると「あらあら、さっきまで泣いていたカラスが笑った」なんて冷やかされるから、意地でも笑いません。

でも、実は何もないのにすねているのは、ちょっとしんどい。

だから、「すねる材料」を「すねの火を絶やさないために」探し続けます。

他人の幸せが許せないこと、イライラすること、思い通りにいかないこと、うまくいかないこと、嫌な人・・・。

それらを燃料にして「すねるの火」を燃やし続けていました。

あなたもそうしていませんか。

さっさと消しましょう。

さっさと毛布をとって、みんなと遊びませんか。

ちなみに「すねる」を漢字で書くと「拗ねる」。

「手へん」に「幼い」と書くんです。

子どもの戦法っていうことですね。

他人の幸せが許せない人は強がり、負け惜しみを無くす

好意的な人を悪く思う「すっぱいブドウの法則」

ある瞬間から、今まで大好きだった相手を嫌いになってしまうことがあります。

急に相手に怒りを覚えてしまうことがあります。

相手の幸せが許せなくなってしまいます。

なぜ、そうなってしまうのでしょう。

イソップ童話に、こんな話があります。

キツネが山を歩いていると、おいしそうに実ったブドウを見つけました。

なんとか取ろうとして、キツネは何度もジャンプしてチャレンジしますが、ブドウは高いところにあって届きません。

するとキツネは、「ふん、どうせあのブドウは、すっぱくてまずいはずだ。別に最初から欲しくなかったのさ」と捨て台詞を残して去っていきました。

この寓話は、手に入れたくてたまらないのに、手が届かないもの(仲良くしたい、成績が欲しい、結果が欲しい、地位や名誉が欲しい、成功したい、もてたいなど)に対して、それらを、価値のないもの、自分にふさわしくないもの、必要のないものとしていったんあきらめることで、納得しよう、正当化しようとする人間の心理と同じものです。

これは、フロイトの心理学において「防衛規制」といわれています。

この、すっぱいブドウの場合、「本当は価値がなかったと思い込むことで、自分を傷つけないようにする」というパターンです。

これが人間関係の場合、仲良くしたかった人が振り向いてくれない、かまってくれないときなどにも「仲良くなる価値はない」と思おうとし、それが高じて、その人の悪口を言いふらしたりするような行動に出る人もいます。

親に愛してもらえなかった場合にも、「別に愛情なんて欲しくないよ」と、横を向き続けたりするのです。

「防衛規制」には、ほかにも、

・「自分は今、ブドウを食べたくないんだ」と自分の欲望を押し込め、強がりをいって納得しようとする。

人間関係の場合、もともと仲良くなりたくなんてなかったんだ、好きじゃなかったんだ、とその人の欠点を探して自分を納得させる。

・「自分は本当は、ブドウを食べたいんじゃなくて、リンゴを食べたいんだ」と自分の本当に欲しいものをすり変えて、納得しようとする。

人間関係の場合、本当はAさんではなく、Bさんが好きだったんだ、と違う人に置き換えて納得しようとする。

という行動に出ることもあるようです。

こういったパターンを続けることで、他人の幸せが許せないクセ、くじけグセ、あきらめグセがついてしまったりして、仲良くなるチャンスを逃してしまうこともあります。

だから、目の前の人と人間関係を築くことが、「今の自分にはできないんだ」という現実を受け止めてみてください。

つまり、相手を悪く思ったり、負け惜しみをいったりするのではなく、「できない自分」を認めるのです。

それができると、そこから初めて関係が始まるのかもしれません。

それは「できない自分」ではなく「今はできない」「今はやらない」というだけのことなのかもしれませんから。

そして「本当は好きなんだ」「本当はやりたいんだ」という気持ちもウソをつかずに認めてあげてください。

余談ですが、「甘いレモン」という話もあります。

せっかく苦労して手に入れたものだから、絶対に価値があるんだと思い込んで手放せなくなる、という心理です。

こういうのを、「執着」と呼ぶのかもしれません。

手放してみれば「あれ、私、何にこだわってたのかしら」なんてことに。

試しでいい、他人の幸せが許せない人は相手を許してみる

負けるが勝ちへ「吉本新喜劇の法則」

関西人の人の多くはご存知のようにお笑いの吉本新喜劇があります。

そこで、池乃めだかさんという方がおられます。

ちっちゃいおっちゃんです。

その小ささを武器にした、いろんな面白いことを見せてくれます。

なかでも面白いのが、新喜劇の中でヤクザ風の奴らにボコボコにされてから、された側のくせに、「今日はこのぐらいで勘弁してやるか」とか「ふっ、口ほどもない奴らめ」といって、大手を振って歩いていくシーンです。

すると、周囲の役者さんも大ズッコケします。

このシーンがお決まりですが面白いです。

これをカウンセリングに応用することができます。

「同僚の幸せが許せない」「上司が許せない」「お母さんが許せない」「いじめたあいつが許せない」ということで苦しんでいる方が多くいます。

「許せない」とまではいかなくても、なんとなく、過去に自分に対して理不尽なことをした人にわだかまりを持っている人も多いですね。

で、許せないということは・・・許したくない。

そして、彼らがどうしたいかというと、「許せないということを、相手に伝えたい」「その出来事のせいで不幸になっていると知らせたい」

つまり「自分で引きずっている」のです。

一方、相手はそうかというと、たぶんそんな出来事は忘れています。

飯食って、風呂入って、テレビみながらげらげら笑っているかもしれません。

で、他人の幸せが許せない自分だけが恨み、にらみ続けている。

なかには、思いあまって幸せが許せない本人に「許せない!」「許せなかった!」と伝える人もいます。

けれども、相手が「ごめん」「すまなかった」と謝っても、「本気でわかってるかどうかあやしいもんだ」と、まだすっきりしない。

謝ってくれるならまだしも、意外に相手は「え、そんなことしたっけ」「するわけないでしょ」と「覚えてない」ことも多いのです。

これでは、ますますすっきりしない。

こういうときに、どうするか。

少し離れたところにイスを置いて、その無人のイスに許せない相手が座っているところをイメージします。

そして、そのイスに向かって、いいたいことや文句をいいながら丸めたティッシュペーパーボールを投げつけます。

「ばかやろう」「なんでそんなこというんだ」「もっと親らしくしろ」「謝れ」などといいながら、どんどんどんどん投げます。

すると・・・初めて自分の「本音」に気づきます。

投げてみると、どんどんどんどん、セリフと感情が出てきます。

その「感情」をいかに他人の幸せが許せない自分が隠していたのかに気付きます。

それが「本音」です。

「本音」は、弱っちい感情です。

助けて、かまって、仲間に入れて、優しくて、置いてかないで。

甘えさせて、大好き、ホントは大好き。

そんなこと、弱くて、かっこ悪くていえない。

他人の幸せが許せない人はいえないから態度で示そうとしたり、意地を張ってみたりするのです。

散々投げつけたら、そこから「許し」の作業に入ります。

ボールをぶつけながら、前述の池乃めだかさんのセリフを使うのです。

「今日はこのくらいにしといたろか」

「しかたない、許してやるわ」

すると、「つい、うっかり」許してしまったりします。

でも、実はこれは、すごい勇気です。

幸せを許せない相手を許すのは、すごい勇気です。

自分にひどいことをした人を許すのは、すごい勇気です。

自分の価値観という法律の中では、極悪人の犯罪者です。

その犯罪者を無罪放免にするぐらいの勇気です。

でも、その「勇気」を出すことは、大きな人生の「決断」です。

「自分が幸せになる決断」をしたのです。

さあ、あなたも、「こだわり」という何かを捨てる決断が必要かもしれません。

●ポイントは「当時」の相手に向かってやることです

他人の幸せが許せない人は意地を張らず、素直に接する

人生の流れを阻む「ねじれの法則」

他人の幸せが許せない人は何かにすねたり、意地を張ったり、つまり素直になれずにいると、本来の流れを阻害してしまうことがあります。

必要なものが少ししか流れない。

もちろん、それをばねにして勢いをつけることもあります。

他人の幸せが許せない人は「怒り」「悔しさ」「反骨」のエネルギーをもとにして成功することも多くあります。

でも、それを長く続けるにはやはりどこかで無理やひずみが生まれてきます。

太いホースをイメージしてみてください。

そして、そのホースを少しねじってみます滝すると、水の流れが悪くなります。

その代わり、一部では、ねじったり狭めたりすることで、水の出る勢いが強くなったりして役に立つこともできます。

川の流れを見てみると、渓谷や上流の流れは、くねくねと細いところを流れたり、滝になったり、水たまりができたりと、スムーズに流れないところが多くあります。

でも、河口付近になると、ねじれもなく水は悠々と流れていきます。

その時期を卒業して、すねをとる。

つまり心のひずみやゆがみをとることで、たくさんの川の水を集め、豊かに、悠々と流れていくのかもしれません。

他人の幸せが許せない人は意地を張らずに、誰かに助けを求め、誰かの考えを受け止め、そろそろ許してあげる。

意地を張らずに、相手の才能を認め、自分の才能を認める。

意地を張らずに、誰かを信じて任せてみる。

意地を張らずに、誰かを助けてみる。

意地を張らずに、「ありがとう」と伝えてみる、「好き」と伝えてみる。

そんなところから、流れが豊かに変わり始めるのかもしれません。

意地を張らないのには、「勇気」が必要です。

意地を張っていた幸せが許せない相手を許す勇気です。

まとめ

意地を張ると、他人の幸せが許せない人は心の奥底にある本当の気持ちがわからなくなる。

他人の幸せが許せない人のべき思考はマインドコントロールされている証拠。客観視して、今すぐやめるべき。

自分の価値観は色メガネにすぎない。一度、客観視を。

幸せが許せない嫌いな相手の言い分にも耳を傾けてみる。訳があるはず。

ネガティブ思考は過去のマインドコントロールにすぎない。

すねるより、どうしたら問題を打開できるかを考える。

強がり、負け惜しみなどしてもいい方向にことが運ぶことはほとんどない。

意地を張らずに素直に他人と接すると他人の幸せが許せるようになる。