他人の目が怖いを克服

他人の目が怖い心理

他人の目が気になって仕方がない

これまでに見てきたように、人付き合いにおいては誰もが「他人の目」を気にせざるを得ない。
初対面の相手やよく知らない相手に気を遣うのは当然だが、友達付き合いでも同じだ。

何か言おうとするたびに、こんなことを言ったら気分を害するだろうか、どんな反応が期待されているのだろうかと気になる。

何か言った後も、どんなふうに思っているのだろう、気分を害していないだろうか、期待に応えることができているだろうかと気になる。

楽しげに雑談しているときも、ほんとうに楽しいのだろうか、退屈していないだろうかと気になる。

だんだん親しくなってくるのは嬉しいものの、どこまで自分を出したらよいのか、つまらない人間だと思われないだろうか、飽きられないだろうかと気になる。

いつ頃から「他人の目」を気にするようになったかを尋ねると、中学生くらいから気になり始めたという学生が多い。
それは、認知能力の発達により、自意識が高まり、自分を見つめ、自分が人からどのように見られているかを気にするようになるのが思春期の特徴だからだ。

「他人の目」を通して自分自身を見つめるようになる。
ゆえに、「他人の目」が気になって仕方がないのだ。

友達と談笑していても、たえず自分がどう見られているかが気になってしまい、顔は笑っていても、心の中は楽しいどころか必死に綱渡りをしている感じになる。

とくに、うっかり自分を出し過ぎて相手に退かれた経験がある場合は、非常にぎこちなくなる。

友達付き合いを上手にこなしているように見える場合も、心の中では似たような葛藤が渦巻いている。

中学の頃、クラスの人気者で、アイドル的な存在とみなされていて、友達からは羨ましがられていたという学生も、じつはほんとうの自分を出せずに必死に演技をし続けなければならず、ものすごく生きづらさを感じていたという。

中学生や高校生の頃は、自分の価値はだれと一緒にいるかで決まるといった感じがあり、とくに好きではないけれどクラスの中心的な子と仲良くなろうと必死だったという人もいる。

そのおかげで無難に過ごせたけれど、あとで思い返すと何だか無意味な友達付き合いに必死になていた気がして、とても虚しいという。

他人の目から自由になれたらどんなに楽か

素の自分を遠慮なく出して、だれとでもすぐに打ち解け、仲良くなっていく人を見ると、羨ましくてしようがない。
そんな思いを抱える人も少なくないはずだ。

だが、羨ましいと思うこと自体、そのように遠慮なく素の自分を出せる人物とはまったく違う感受性をもっていることの証拠と言える。
それは本人も十分承知している。
できたらそんな自分を変えたいと思うこともあるが、そう簡単にはいかない。

こんなことを言っていいのかな、どこまで自分を出してよいのだろうなどと気にし過ぎることに対して、友達から「気にし過ぎだよ」「そこまで気にすることないよ」と言われる。
そんなことは百も承知だ。

でも、「気にするな」と言われて気にしないでいられるなら、だれも苦しんだりしない。
「気にし過ぎだ」「そこまで気にすることはない」と頭ではわかっていても、どうしても気になってしまう。
それで自由に振る舞えない。
だから苦しいのだ。

友達が親切で言ってくれたのはわかっているのだが、心の中でつい反発してしまう。
言葉では「そうだよね、気にし過ぎだよね」と言いつつも、心の中では「そんなことできるわけないじゃないか」「お前みたいな無神経な人間とは違うんだよ」「あなたみたいな能天気な人にわかるわけない」などと叫んでいる。

なぜ反発するのか。
そこには気にし過ぎずにうまくやっていける人に対する妬みもあるのだろうが、それだけではない。

他人の目から自由になれたらどんなに楽かといった思いがあるのは事実ではあっても、他人の目を気にせずにものを言う人に対する否定的な思いもある。
「あれでいいんだろうか。いや、良くないだろう」といった思いがある。

自己モニタリングができていない人に漂う異様さ

他人の目を気にし過ぎて自由に振る舞えないという人は、いわば自己モニタリングがうまく機能していないのだ。
自分で自分を縛りすぎてしまう。

一方で、他人の目を気にしない人も、自己モニタリングがうまく機能していない。
自分を客観視しようという姿勢がない。

同じように自己モニタリングがうまく機能していないといっても、その方向性は真逆と言える。

場の空気をまったく読まずに何でも思ったままを口にする人がいる。
そんなことを言ったら傷つく人がいるため、「それを言ったらまずいだろうに」と周りの人達が慌てているのに、そんな様子にはまったくお構いなしにさらに言葉を続ける。

これは止めないとまずいと思い、誰かが話題を変えても、また元の話題に戻そうとする。
気まずい空気になっているのにまったく気づかない。
仕方なく誰かが「それは言ったらダメでしょ」と口にしても、「えっ、どうして?なんで言っちゃいけないの?」と、まったく察することがない。

天真爛漫と言えば聞こえはいいが、人の気持ちにまったく配慮せずに言いたいことを言う身勝手さに周囲の人たちは呆れかえる。

だれかを傷つけるようなことでなくても、あまり他人に聞かれたくない話というのもある。
たとえば、電車の中などでは、あまりプライベートな情報はさらしたくないと思うのが普通だ。
特にスマホがあれば即座に検索でき、その場で発信できる時代である。
うっかり個人情報や個人の事情を話すのは危険だ。

それにもかかわらず、平気で自分たちの学校名や相手の名前、親の職業、住んでいる場所、最寄りの駅など、個人情報を平気で口にする人がいる。
相手が嫌がって話題を逸らそうとしたり、とぼけたりしても、「えっ、違ったっけ?引っ越したんだった?」などと確認してきたりする。

このように周囲の反応をモニターしながら自分の言動が適切だったかどうかをチェックするという姿勢がまったくない人は、周囲からは呆れた目で見られる。

周囲の反応を気にするタイプは自分自身が困惑し自由に振る舞えないのが苦しいわけだが、周囲の反応をまったく気にしないタイプは、本人は気楽ではあっても、周囲を困惑させるため、けっして適応的とは言えない。

他人の目から自由になったらどんなに楽だろうと思うことがある人も、そうした自己モニタリングの姿勢がまったくない人物を見ると、「ああはなりたくない」と思う。

呆れるだけでなく、ときにその無神経さに憤りを感じることさえある。

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他人の目と自己のあり方

相互に依存し合う日本的自己のあり方

人の意向や期待を気にする日本的な心のあり方は、自主性がないとか自分がないなどといって批判されることがある。
だが、それは欧米的な人間観に基づいた発想にすぎない。

心理学者の東洋は、日本人の他者志向を未熟とみなすのは欧米流であり、他者との絆を強化し、他者との絆を自分の中に取り込んでいくのも、ひとつの発達の方向性とみなすべきではないかという。

「(前略)われわれの中におそらく欧米人よりもはるかに強くある役割社会性や他者志向性を、脱亜入欧的な近代化で取り入れたタテマエのフィルターをはずして認識することが必要だと思う。

たとえば日本人の「他者志向性」は、自我の未発達と表裏一体を成すものと見えるかもしれない。
けれども他から切れていた方が成熟度が高いと見るのは、開拓社会的な価値観の視点に立ってのことではないだろうか。
自己が自己完結的になっていくのもひとつの発達の方向だろうが、他との絆が強くなりそれが自分の中に取り込まれていくのもやはりひとつの発達の方向で、価値的にどちらを上とはいえないのではないだろうか。」

そして、心理学者マーカスと北山忍による文化的自己観に言及している。
たとえば、自分の特徴をあげさせると、アメリカ人の多くは、積極的とかスポーツ万能といった自分自身の特徴をあげる。
それに対して日本人の多くは、社会的所属、地位、お母さん子、長男などといった、人との関係をあげる。

そこからマーカスと北山は、欧米文化においては個々の人間が本質的に離ればなれになっているものなのだという信仰があるため、だれもが他人から独立し、自分固有の特性を発揮するように求められるが、それは普遍的な価値観ではないとする。

日本のような非西欧文化では、自分自身を周囲との社会関係の一部とみなし、かかわりのある他者の思考、感情、行為をどのように知覚するかによって行動が決まる。
自分に独自性があるとしても、それは自分がどのような人間関係の中に位置付けられるのかも含めての独自性ということになる。

このような日米の人間観の違いを端的にあらわすものとして、マーカスと北山は、アメリカ的な独立的自己観と日本的な相互依存的(相互協調的と訳されることもある)自己観を対比させている。

独立的自己観では、個人の自己は他者や状況といった社会的文脈とは切り離され、その影響を受けない独自の存在であるとみなす。
それに対して、相互依存的自己観では、個人の自己は他者や状況といった社会的文脈と強く結びついており、その影響を強く受けるとみなす。

また、独立的自己観では、個人の行動は内的な条件によって決定されるとみなす。
それに対して、相互依存的自己観では、個人の行動は他者との関係性や周囲の状況によって決定されるとみなす。

さらに、独立的自己観では、自分の内的な能力を開発し、納得のいく成果を出すことが自尊心に結びつく。
それに対して、相互依存的自己観では、かかわりのある他者と良好な関係を築き、社会的役割を十分に担うことが自尊心に結びつく。

このようにアメリカ的な独立的自己観のもとで自己形成してきた人たちと、日本的な相互依存的自己観のもとで自己形成してきた人たちでは、自己のあり方が対照的と言ってよいほどに違っているのである。

人と人の間を生きる

他人の目を気にするというと否定的な響きになるが、「人のことに配慮できる」というと肯定的な響きになる。

欧米流に考えれば、他人の目に影響されて自分の言いたいことを言えないのは、個として自立していないとして否定的に評価されるはずだ。
だが、日本流に考えれば、他人の目を気にせずに自分の言いたいことを言う方が、人のことに配慮できないとして否定的に評価されることになる。

このように、日本流に考えれば、他人の目を気にするの忌むべきことではなく、むしろ必要なことなのだ。
なぜそうなのか。
そこで目を向けたいのが、「人と人の間」を生きているのだということのもつ意味である。

相手によって引き出される自分

最初の頃とイメージが違う。

そんなふうに友達から言われることがあるという人が多い。
親しくなってくるにしたがって、素の自分を出しやすくなってくるため、イメージが違ってくるわけだ。

でも、けっして初対面ではなくけっこう馴染んだ相手であっても、相手との関係性によって、出ている自分が違うということもある。
たとえば、高校時代の友達の前での自分と大学の友達の前での自分が多少違っているというのはよくあることだし、アルバイト先での自分や家族といるときの自分も、さらに違った様子を示しているのがふつうだろう。

親の前での自分と親友の前での自分はかなり違うのだが、いったいどっちがほんとうの自分なのかわからない。
クラスの仲間といるときの自分、部活の仲間といるときの自分、家族といるときの自分、バイト先での自分、その場その場で素の自分を出しているつもりなのにちょっとずつ違っているのが不思議だという人もいる。

自己概念の場面依存性という考え方があるが、ひと言で言えば、自分のイメージは場面によって違ってくるということ。

もう少し説明すると、場面によって出しやすい自分が違うということ。
言い換えると、自分というのはその場その場で相手との関係性によって引き出されるということである。

間柄を生きている人々は、いつも一定の自分を押し出せばよいといった感じに自己中心的に振る舞うわけにはいかない。
こんな自分を出したら相手はどんなふうに思うだろうというように、相手の反応を窺いながら、どんな自分を出していくかを決めなければならない。

よく知らない相手だと、その判断が難しく、どんな自分を出していけばよいかがわからず、緊張してぎこちなくなる。
だから初対面の相手が苦手なのだ。

それと同時に、相手に合わせて自分の出し方を決めなければならないため、場面によって違う自分が出ているのである。
僕たちの自分は相手によって引き出されると言ってよい。

人との出会いによって新たな自分に出会うと言われたり、友情や恋愛など深い関係の中で新たな自分を発見すると言われたりするが、それはまさに自分が相手によって引き出されることを意味している。

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他人の目が怖いを克服する

対人不安のある人の方が人付き合いがうまくいく

不安が強いなどといったネガティブ気分が対人関係を良好に保つのに役立つというと、すぐには信じられないかもしれないが、そのことは心理学の実験で証明されている。

この種の研究で言われているのは、不安なときの慎重さが相手に対する配慮など対人関係上のメリットをもたらし、ポジティブ気分は無神経な接し方や強引な接し方につながりやすいということである。
そう言われてみれば、なるほどと思えるのではないか。

心理学者のフォーガスは、不安などのネガティブ気分が多くの対人関係上の恩恵をもたらすことを実験によって証明している。
つまり、ネガティブ気分の人の方が、ポジティブ気分の人よりも、用心深く配慮し、礼儀正しく、丁寧にかかわれることが示されたのだ。

たとえば、頼み事をする際には、うまく受け入れてもらえるように、相手の気持ちに配慮して、適度に丁寧な頼み方をする必要がある。
そんなとき、不安の強い人の方が、用心深く相手の反応を予想し、礼儀正しく、洗練された頼み方をすることがわかった。

それに対して、ポジティブ気分の人は、礼儀正しさに欠け、自己主張的な依頼の仕方をする傾向がみられた。

隣のオフィスにファイルを取りに行ってもらう実験でも、ポジティブな気分の人よりニュートラルな気分の人の方が、丁寧で洗練された頼み方をし、さらにネガティブな気分の人の方がよりいっそう丁寧で洗練された頼み方をしていた。

このような実験結果からわかるのは、ネガティブな気分のときは慎重な心の構えになり、相手の気持ちを考えて、嫌な感じを与えないように自分のものの言い方を調整しようとするため、対人関係がうまくいきやすいということである。

さらには、意外かもしれないが、対人不安が相手の気持ちに対する共感能力と関係しているということもわかっている。

心理学者のチビ=エルハナニたちは、対人不安と共感能力の関係を検討する調査と実験を行っている。

その結果、対人不安の弱い人より強い人の方が、他者の気持ちに対する共感性が高く、相手の表情からその内面を推察する能力も高いことが証明されている。

このように、不安が強いということは、用心深さに通じる。
それが対人場面では、相手の心理状態に用心深く注意を払うといった心理傾向につながっている。
そのため、相手の気持ちを配慮した適切な対応ができるわけだ。

それに対して、不安があまりないと用心深くならず、対人場面でも相手の心理状態に用心深く注意を払うということがなく、相手の気持ちに関係なく自分の都合で一方的にかかわることになりやすい。

たとえば、対人不安の強い人は、人に何か言うときも、「こういう言い方をしても大丈夫かな」「こんなことを言ったら、感じ悪いかもしれない」「こんなふうに言ったら気分を害するかもしれない」「押し付けがましい言い方は避けなければ」「うっかりすると誤解されかねないから、言い方に気をつけないと」などと考え、言葉を慎重に選び、言い方にも非常に気を遣う。

一方、対人不安がない人は、相手がどう受け止めるか、相手がどんな気持ちになるかなど気にせず、無神経なことを平気で言うため、相手を不快な気分にさせたり、傷つけたり、怒らせたりして、人間関係をこじらせてしまうことがある。

こうしてみると、対人不安が強いのも悪くはないと思えてくるだろう。
対人不安のおかげで相手のことに配慮でき、人とうまくやっていけているという面もあることは見逃せない。
無神経なことを平気で言う人が周囲から浮いているのは、周りを見ればわかるはずだ。

受容的に話を聞く文化

人と話していて、相手の言うことがちょっと違うのではと思うときも、「それは違うと思う」と即座に反論したりせずに、とりあえず頷きながら聞くのがふつうだ。
海外の人たちとのやりとりにおいて、そうした姿勢が誤解を招くこともある。

心理学者、東は、日米比較研究の際に日本の研究者の態度がアメリカの研究者による誤解を招いたエピソードを紹介している。

それによれば、アメリカ側は、決まったはずなのに日本側が後から別の提案をするといってしばしば苛立つことがあったという。

日本人の感覚では、議論している際に、相手の言い分に即座に反対するのは非礼だという感覚がある。

たとえ納得がいかなくても、頷きながらしっかり聞いて、相手の言い分をよく消化して、その後で頭ごなしの否定にならないような言い方で反対提案をするものだという考えがある。
ところが、アメリカ側の受け取り方としては、ひとつの主張がなされ、その場で反論されなければ了解されたことになる。
そういう思考習慣の違いがあるのだということにお互いに気付くまでは、いくつかの行き違いがあったようだ。

東は、こうした行き違いには、より心理学的な理由もあったかもしれないとして、「アメリカ人は人の話を聞くときに頭の中を自分の考えでいっぱいにして聞くが、日本人はブランクな空間をつくって聞く」という雑談の中でのマーカスの発言を紹介している。

つまり、アメリカ人は、入ってくる意見に常に自分の意見を対置させ、いわばたえず「イエス」「ノー」とチェックしながら聞く態度を身につけているのに対して、日本人は、そうした門番を置かずに、とにかく入ってくる意見をそのまま頭の中のブランクの部分に取り込み、その後で頭の中の別の場所にしまってある自分の意見と照らし合わせるというのだ。

そのため、日本人が頷いて聞いていると、アメリカ人は自分たちの意見に賛同しているものと思い込んでしまう。
ところが、頷いて聞いている日本人は、そこのところは言葉としては理解した、とりあえず頭の中には入れたという合図を送っているつもりなだけで、べつに賛同したわけではなかったりする。

このような聞き方をするのも、相手の言い分をまずは尊重すべきと思っているからに他ならない。
そうした気遣いは、他人の目を意識する心に発するものと言える。

こうした気遣いの応酬が、お互いを否定せず、攻撃しない、穏やかで思いやり溢れる人間関係をもたらす。
自分の思うように自己主張する社会で争いごとが絶えないのも、他人の目を気にしないためと言える。

他人の目を意識することがマナーの良さにつながる

日本人観光客は、概して海外で評判がいい。
世界最大のオンライン旅行会社エクスペディア、ヨーロッパ、アメリカ(北米・南米)、アジアパシフィックのホテルマナージャーに対して、各国観光客の国別評価調査を2009年に実施している。
その結果、日本は九項目のうち「行儀のよさ」「礼儀正しさ」「清潔さ」「もの静か」「苦情が少ない」の五項目で1位となり、総合評価でも堂々1位、つまり世界最良のツーリストに選ばれている。

たしかに日本国内でも、外国人観光客が傍若無人に振る舞ったり、自分勝手な自己主張をするのを見るにつけ、日本人だったらあんな身勝手な主張をする人は少ないだろうなと思う。

海外から訪れた人たちの手記を見る限り、遠慮深く、礼儀正しく、攻撃的にならず、可能な限りものごとを平和に解決しようという姿勢は、はるか昔から日本人の中に根付いているようだ。

たとえば、ケンぺル、シーボルトと並んで長崎出島の三学者のひとりに数えられるスウェーデン人の植物学者ツュンベリーは、1775~76年に日本に滞在し、その後まとめた旅行記の中で日本の印象について詳細に記している。

それによれば、日本人ほど礼儀正しい国民はいないという。
幼い頃から従順さをしつけられ、年配者もその手本を示す。
身分の高い人や目上の人に対して礼を尽くすのはもちろんのこと、身分が対等の者に対しても、出会ったときや別れるとき、訪問したときや立ち去るときに、丁寧なお辞儀で挨拶を交わす。
そのように記されている。

また、日本で商取引をしているヨーロッパ人の汚いやり方やその欺瞞に対して、ヨーロッパ人だったら思いつく限りの侮り、憎悪そして警戒心を抱くのが当然と思われるような場面でも、日本人は非常に寛容で善良であることに、しばしば驚かされたとも記されている。

時代をさらに遡り、安土桃山時代に相当する1579年から1603年にかけて、三度日本を訪れ滞在したイタリア人宣教師ヴァリニャーノも、日本人はだれもがきわめて礼儀正しく、一般の庶民や労働者でさえも驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のようであり、礼儀正しさに関しては東洋の他の民族のみならずヨーロッパ人よりも優れていると記している。

日本人は、一切の悪口を嫌悪し、それを口にしないため、日本人の間には争い事が少なく平穏が保たれている。
子どもたちの間でさえ、聞き苦しい言葉は口にしないし、ヨーロッパ人のように平手や拳で殴り合って争うようなことはない。
極めて儀礼的な言葉をもって話し合い、とても子どもとは思えないような冷静さと落ち着いた態度が保たれ、相互に敬意を失うことはない。
これはほとんど信じられないほどである。
日本人は、さまざまな点でヨーロッパ人に劣るものの、優雅で正しく理解力があるという点においては、ヨーロッパ人を凌ぐほど優秀であることは否定できない。
そのような記述もある。

なぜ日本人はそれほど礼儀正しいのか。
それは、他人の目を気にするからだ。
「みっともないことはできない」「人から後ろ指を指されるようなことをしてはいけない」「無様な生き方はできない」などと思うからである。

他人の目を気にする日本人などと自嘲気味に言う人がいるが、他人の目を気にしない方が、よほどタチが悪い。
他人の目を気にしないことが、傍若無人な振る舞いにつながっている。

もちろんどの国民にも大きな個人差はあり、日本人にも身勝手な人物や人との争いごとが絶えない人物もいるだろうが、その比率が欧米人と比べてはるかに少ないのは事実である。
他人の目に見苦しく映るような行動はしたくない、みっともないことはできないといった感受性が、身勝手な行動にブレーキをかけていると言ってよいだろう。

それによって、世界で最も治安が良いと言われるほどに、社会の秩序が保たれているのである。