傷つくのが怖いを解消する心理

傷つくのが怖いとは

傷つくのが怖い人生の大きな決断

傷つくのが怖くて「~したい」のに、できない

転職。留学。うまくいくかどうか不安

傷つくのが怖いあなたが依然として、「転職したい。でも、その後、仕事があるかどうか心配だ。再就職できても、そこでやっていけるかどうか不安だ」

留学したい。でも、留学したとしても、その後、どうすればいいんだろうか。就職先があるだろうか。もしかしたら、仕事をしたくないから、逃げてるんじゃなかろうか」

などと思い悩んでなかなか決めることができないとしたら、あなたは仮想の敵と戦っています。

「えっ、それって個人の問題でしょう。どうしてそれが、戦っていることになるんですか」

あなたがなかなか決めることができないのは、自分の「~したい」という感情と、「しなければならない」「してはいけない」や「どちらが自分にとって適切か」「どちらが自分にとって得か」といった思考とが対立していて、その両者で戦っているからです。

こんな縛りでどんどん怖くなる

例えば、「転職したい。でもそれがうまくいくかどうか、怖い」

ここには、二つの感情が存在します。

それは”したい”と”傷つくのが怖い”です。

この場合、「~したい」が”原初”の望みで、「不安だ。怖い」という恐れは、原初の望みによって引き起こされる感情です。

このときあなたが、原初の欲求ではなくて、副次的に生まれた「恐れ」のほうに軍配を挙げるなら、あなたは、行動しない選択をするに違いありません。

では、どうしてあなたは「行動しない」を選択してしまいがちなのでしょうか。

それは、「仕事を辞めたい」と「転職をしたい」という、二つの願いを混同しているからではないでしょうか。

そもそもあなたは、どうして「転職したい」と思い悩むのでしょうか。

問題にしたいのは、その「転職」という言葉です。

それは、今の仕事を辞めても、次に「必ず、仕事をしなければならない」と思い込んでいるからではないでしょうか。

それも「すぐに」と、思い込んでいませんか。

では、このときあなたが、「仕事をするかどうかは、私の自由なんだ」という「私の選択の自由」を心から認めているとしたら、どんな言葉になるでしょうか。

「今の仕事に対して、やりたいという意欲が感じられないから辞めたい」「職場の人間関係をうまくやっていくのが困難だから辞めたい」

というふうに、「転職する」ことと「今の会社を辞めるかどうか」とを分離させて考えることができるでしょう。

本当にしたいことだけ迷いなく

それらを分離させて考えることができるなら、「すぐに転職をしなければならない」という思考にはならないでしょう。

辞めた後、「しばらく仕事をしたくない」という欲求があれば、それを気持ちよく満たすことができるでしょう。

あるいは、「自分のやりたい分野を勉強したい」「専門的な技術を磨きたい」と思うかもしれません。

その間は、短期の仕事やパートでもいいと思うかもしれません。

あるいは、本当は仕事をすることそのものがつらくなっているとも考えられます。

もしそうだとしたら尚更、「転職する」ということよりも、まず「働きたくない」あるいは「働くのがつらい」という傷つくのが怖い人の願いを叶えることを最優先することが必要な場合もあるのです。

もしあなたが「思考」と戦うよりも、「自分の感情を優先できる人」であったなら、親に率直に自分の気持ちを伝えて、生活費の援助を申し出ることもできるでしょう。

もちろん、「とんでもない。そんなことはできませんよ」とあなたが反応するのは承知で言っているのです。

逆に、率直に言える人であれば、そのときは親に頭を下げて頼むことができるでしょう。

そして、それができる人であれば、「仕事をしなければならない」でもなく、「したくない」でもなく、「自分のために、働きたい」という欲求と意志を持って行動できる人となっているでしょう。

傷つくのが怖いけれど楽しく成功したい

これって、逃げてる?甘えてる?

仕事を辞めてしばらくゆっくりしたい

ここで少しイメージしてみましょう。

あなたは今の仕事にやりがいを見出せず、辞めたいと思っています。

まず、その仕事を辞めるかどうかは、心からあなたの自由です。

また、辞めた後、あなたが働くかどうかも「心から自由」です。

もしあなたがその自由を、実感できるぐらい味わえたら、次にどんな発想が浮かびますか。

「仕事を辞めて、しばらくゆっくりしよう」

そんな傷つくのが怖い自分を心から認めることができるでしょう。

もしこのとき、誰かが、「それは現実から逃げてるんだよ。現実が厳しくても、それに立ち向かって耐えることも必要なんじゃないか」

と一般的なアドバイスをしてくれたとします。

もしかしたら、その言葉に迷い始めるあなたがいるかもしれません。

それでも最終的に、「今の私は、今のこの気持ちを大事にしたいんです」

と、「自分の感情を優先する」ことを心から認めて、そう言えるぐらいに意志を持つことができたとしたら、あなたの未来が「”厳しい現実”に立ち向かって耐えるような状況」にはならないことを保証します。

無謀と決め付けるのは早合点

なぜならあなたが、副次的に引き起こされる”恐れ”よりも、原初の感情を大事にしようと決断することができれば、傷つくのが怖い人の自分を守ることができるようになるからです。

例えばあなたが、今の仕事を辞めて、「自分の望む仕事に挑戦したい」という欲求を持っているとしたら、今の仕事をしながらも、「自分の望む仕事」に関連することを少しずつやり始めているでしょう。

今の仕事を続けながら、自分の望む仕事に必要なものを勉強しているでしょう。

望む仕事につながる場所を訪れたり、つながる人とコンタクトをとったりしているでしょう。

このように、決して、無謀な行動に走ったりしない自分でいられます。

目標に向かって、急がず焦らず着々と、継続的に”楽しみながら努力する”ことができるのです。

繰り返しますが、この「着々と楽しみながら、継続的に努力する」というのは、楽に順調に成功するための”最高の法則”です。

あなたが、思考から発生する副次的な恐れよりも、原初の「~したい」という欲求を選択する自由を心から認められたとき、あなたはその法則を体験するに違いありません。

たとえ失敗しても前に進む強さ

もちろん、もしそれが充分に納得した上での決断だとしたら、すっぱりと辞めることもできるでしょう。

そのときは、自分が決断したことを後悔しない自分になっています。

そのために、仮にその選択が失敗に終わったとしても、それを認めることができるでしょう。

もっとも、長期的に俯瞰すれば、それが「失敗だった」とは言えない展開になることがしばしばです。

あなたの顕在意識とあなたが無意識に望んでいることにギャップがあります。

あなたの無意識は、あなたの顕在意識よりもはるかに俯瞰的、長期的な見方をしています。

あなたの短期的な目には失敗だと映っても、無意識の観点からは、決して傷つくのが怖いことは失敗ではありません。

むしろ、あなたの未来のために”無意識が仕組んだ”と言っても過言ではありません。

あなたの選択したことが、未来にどうなったか。

それを見届けることができるなら、未来において「失敗ではなかった」と気づくことになるでしょう。

傷つく人が怖い人は自分の才能に目を向ける

一見、失敗のように見えても違う

内定した会社は第四志望。これって負け組!?

「鶏口となるも牛後となるなかれ」という諺があります。

まさに、言い得て妙です。

大きな組織の中で最後尾にいて能力をくすぶらせるよりも、小さな組織であってもトップのほうにいて、自在に活躍できる場所にいたほうがいいというような意味です。

第三者から見れば、牛のほうが立派です。

もしあなたが、世間の目を気にしたリ、人の評価に拠り所を求めていれば、牛後であろうが、優れていると見える牛のほうを望むでしょう。

けれどもあなたが、「自分の能力を活かす歓びを味わいたい」と願っていたら、迷わず鶏口を選ぶでしょう。

例えば就職活動のとき、あなたは第一志望のA社には採用されず、B社でもC社でもなく、内定したのはD社だけだったとしましょう。

職種がまったく異なるわけではないのですが、傷つくのが怖いあなたとしては不本意です。

目先の合否に囚われているあなたは、A社にもB社にもC社にも採用されずにショックを受けています。

けれども、それは決して失敗ではありません。

”無意識のあなた”は、自分が望んでいること、経験したいことを知っています。

もろもろの思いを統合すると、あなたにとって相応しいのはD社だと、”無意識のあなた”が自分で判定したのです。

A社に落ちて落胆しているあなたは、どうしてA社でもなくB社でもなくC社でもなく、D社なのか、自分でもまだ気づいていません。

”顕在意識のあなた”はそうであっても、”無意識のあなた”は、未来の自分のために必要なものを知っていて、それを学ぶチャンスを得るために、D社を選んだということなのです。

全力を出せる環境はどっち?

この時点ではあなたは、自分の望みどころか、自分の才能にすら気付いていません。

それはまだ無意識の中で眠っています。

ここでもしあなたがD社に入社すれば、あなたの未来の姿として、あなたは自由に自分の発想を公表したり、恐れずに意見交換し合ったり、さまざまなアイデアを提案したりして、活き活きと仕事をしています。

周囲もそれを喜んで受け入れてくれています。

それはD社だからできることです。

”無意識のあなた”は、あなたが自分の才能に気付き、それを伸ばすにはD社が最適なのだと知っているのです。

このように、”顕在意識のあなた”の目に失敗と映ることでも、”無意識のあなた”の目には、希望への階段として映っているのです。

ではあなたは、顕在意識の望みが叶って、A社に入社したとしましょう。

規律と格調高さを重んじるA社では、あなたの発想は奇抜すぎると却下されてばかりいて、自信を失うかもしれません。

自由にものを言えば上司に生意気だという烙印を押され、ついには発言するのが怖くなるかもしれません。

あなたのアイデアはコストがかかりすぎるという理由で一顧だにされないかもしれません。

それでも認めてもらおうと意地を張れば、争いながら人を責めたり自分を責めたりして恐怖を増やしていくことになるでしょう。

あなたがA社に入社すれば、こんな傷つくのが怖い展開になっていくかもしれません。

「成功する・しない」は自分次第

もちろん、あなたが入社時は牛後であっても、次第に頭角を現して”牛口”になる可能性もあります。

入社時は傷つくのが怖い”鶏口”であっても、やがて”鶏後”になってしまう可能性もあるでしょう。

そういう意味では、どんな選択をしても、状況は自分次第でどうにでも変えることができるとも言えるでしょう。

もともと私たちは、どんな状況にあっても、未来を変え得る力を有しています。

そのとき失敗だと思っていたことが、もっとレベルの高い「成功の種」だったと気づくという例は枚挙にいとまがありません。

こんな現象も、私たちの無意識の力を物語るものです。

決して、偶然ではありません。

その都度、その都度の選択の違いによって、未来は変わります。

あなたは自分で、そのチャンスを作ることができるのです。

先の例で言えば、”無意識のあなた”がD社を選んだのは、A社よりもD社のほうが得るものが大きいと知っていたからです。

もしあなたがそんな自分の無意識の力を信じることができるなら、あなたは自然に”鶏口”どころか”牛口”になっていくでしょう。

しかもそのときは、”鶏口”であろうが”牛口”であろうが、どちらであっても気にならないぐらい「自由な自分」を満喫しているに違いありません。

傷つくのが怖い人が大切な人とのつながりを取り戻す

「相手の自由」を認められない

どうして、私の気持ちをわかってくれないの

大半の人が、相手の感情や欲求を認めたり、相手の自由意志を認めてしまうと、相手は際限なく増長して、どんどんわがままになったり身勝手になっていくと思い込み、それを恐れてねじ伏せようとします。

人は強制したり義務づけたり、規則で縛っていなければ、どんどん怠け者になっていって、仕事もしない責任も果たさない、だらしない人間になってしまうと信じていて、この上なく支配的になっていく人も少なくありません。

ところがその一方で、傷つくのが怖い自分自身は、自分の感情や欲求を満たしたい、自由でいたいと望みます。

相手のそれは認めたくないけれども、自分はそれを相手にも認めさせようとするような、矛盾した考えや行動をしているのです。

最近とみに、親子での相克が激化しています。

とりわけ目立つのは、”子どもは親に”自分を認めさせようとし、”親は子どもに”自分を認めさせようとするように、互いが相手にそれを主張し、要求しては一歩も引こうとしないために起こる争いです。

例えば子どもが、「俺がこうなってしまったのは、お前のせいだ。俺の過去を返してくれっ」と叫んだとします。

子どもがそんな気持ちに至るには、それだけの理由があります。

親が子どもをそうさせてしまったのも事実です。

けれども、どんなに子どもが過去を悔やみ、泣き叫んでも怒鳴っても暴れても、すでに過ぎてしまった過去を取り戻すことはできません。

親は、子どもの激高する姿に怯えたり、どうしていいかわからずに途方に暮れるばかりです。

「私をわかってほしい」の応酬

親がまだ、子どもを受けとめられればいいのですが、まず、その方法がわかりません。

受けとめ方がわからないだけでなく、傷つくのが怖い親自身もまた、子どもと同様に、「相手に認めてもらいたい」気持ちを強く抱いていて、歳をとってもその気持ちを解消できているわけではありません。

親は親で、戦ったり怯えたり恐れたり、苦しかったり悲しかったり、孤独だったりといったさまざまな経験をし、苦労しながら子どもを育ててきました。

そんな思いに耐えながら必死で生きてきた挙げ句、子どもに「自分の過去を返してくれっ」と叫ばれても、到底合点がいきません。

自分の苦労してきた過去を振り返ると、子どもに感謝されこそすれ、子どもに「悪かった」と頭を下げることなど、到底できないでしょう。

親は親で「認めてもらいたい」欲求を拳に握り締め、誰かにしがみつきたい心境でいるのです。

常識的には、子どもは自分が生まれて物心ついたときからしか記憶がありません。

親の人生を目撃していない子どもにとっては、親が自分を育てるためにどんなに苦労したか、あるいは若い頃どれだけ傷ついて生きてきたかなど、理解する術もありません。

にもかかわらず親は無謀にも、それらの過去をひっくるめて、子どもに「認めてほしい。わかってほしい」と要求します。

子どもも親も、こんなふうに相手に、「認めてほしい。わかってほしい」気持ちを爆弾のように抱えているので、ひとたび「わかってほしい」に火が点くと、互いに火花を飛ばして激しく燃え上がり、結果として傷つけ合ってしまうのです。

きっかけは「ありがとう」から

一言でいうと、お互いに傷つくのが怖い相手の生き方の自由を認めないことが、こんな相克関係を生んでいます。

「相手の自由」を認められないのは、その前に、「自分の自由」を認めていないからです。

もしあなたが誰かと「私の自由、相手の自由」を認め合うことができれば、「私と相手」が関わるときは、
「やってくれて、ありがとう」
「協力してくれて、ありがとう」
「話を聞いてくれて、ありがとう」
だけでなく、あなたが存在して、
「私の傍にいてくれて、ありがとう」

というふうに、すべて「ありがとう」という感謝になっていくでしょう。

「相手の立場に立て」と無理やり自分に強制する必要はありません。

物心両面で相互の自由が尊重されて、「強制されない。土足で心に踏み込まれない。傷つけられない」、こんな信頼できる関係であれば、思いやりの気持ちが自然と心の内側から滲み出してくるのです。

例えば親が、子どもに対して、

「本当に、ひどいことしてしまったね・・・。どれだけあなたを傷つけてきたかってことが、今ならわかる。

自分たちの生き方を無理矢理押しつけて、あなたの気持ちを踏みにじったし、あなたの意志を奪ってしまっていたんだと、やっと気がついたんだ。

気付いていないことも、まだたくさんあると思う。

謝っても取り返しがつかないのはわかっているけど、こうやって頭を下げることしかできないよ。

本当に悪かった・・・。

ごめんなさい。どうやって償えばいいかわからないけど、これから努力させてくれないだろうか」

などと詫びて努力し続ければ、子どもの反応は違ってくるでしょう。

何よりも、親自身が自分の非を認めて詫びること、改めることが、そんな親であった自分の心を救えるのです。

恐れが消えればたちまち心が開く

そのとき初めて子どもは、子どもとしてではなくて、「大人と大人」として「人間と人間」として、親を客観的に見ることができるようになっていくでしょう。

「確かに、親には、自分の知らない歴史があったんだ。自分が赤ん坊だった頃、幼い子どもだった頃自分の記憶にはないけれども、親は親なりに、”親”を一生懸命やってきたんだ。

自分と同じように迷ったり、苦しんだり悩んだりして生きてきた親の人生があったんだ」

などと、親としてではなく一人の人間として見ることができるでしょう。

仮に、自分を受けとめられない傷つく人が怖い未熟な親であったとしても、そんな親に対してさえも、どこかで理解を示している自分に気づくのではないでしょうか。

無断で心に侵入される恐れ、相手に攻撃される恐れ、傷つけられる恐れが消えていったとき、こんなふうに”近しい人”として相手に心を開くことができるものです。

恐れを抱かないで済む関係であって初めて、お互いを尊重し合えるのです。

その中に、満足があり幸せがあり、その延長線上に成功もあります。

それにはどんな選択をしようが、それを認め合う「私の自由、相手の自由」が不可欠です。

円はスタートがラストであるように、すべての成り立ちが自分を軸として、自分から始まり、自分に帰結するのです。