傷つける社会

余裕のない社会

現在のわが国は、国際的競争において生き残りをかけた闘いという状況に巻き込まれています。

この激しい競争のために、いろいろな面で余裕のない社会になっています。

これまでりっぱな業績をあげてきた中高年者自身さえ、自己価値をおとしめられる時代です。

関連記事

能力給の導入。

査定の厳しさ。

容赦のないリストラ。

会社自体存続できるのかという近い将来についてさえの不安。

関連記事

人減らしのなかで、自分と会社の生き残りをかけて、必死で働かなければなりません。

こうしたことから、新入社員の教育をする余裕、年長の者が下の者の面倒をみる余裕、一人前になるまでは仕事の出来も大目に見てやる余裕、多少のミスは許容して上の者が補足してあげる余裕、ときには酒を酌み交わしながら若い人に自分の体験を伝えてあげる余裕。

こうした若い人をじっくりと育てる余裕が奪われてしまっています。

若者は即戦力と見なされ、大きなプレッシャーのもとにいます。

関連記事

夢を持てない社会

仕事はつらいのが当たり前。

つらくとも、自分が一人前に成長するという希望をもって、仕事の成果に喜びを感じて、つらさを乗り越えてきた。

優れた先輩を目標に見て、先輩のようになれることを夢見てがんばってきた。

若者の傷つきやすさを嘆く大人は、自分たちはこのようにやってきた、と言うでしょう。

そのときに支えとなったのは、将来のイメージとしての希望であり、夢であり、仕事を通しての充実感や喜びでした。

ところが、現在は、仕事で夢や希望を得ることに大きな困難があります。

仕事のきつさは、喜びよりも大変さを感じさせてしまいます。

目標にしてきた先輩も出向を命じられ、自分の将来を見るようです。

関連記事

このように仕事に夢や希望を見いだしにくい社会であることから、現在の青年は刹那的な歓びや、自閉的な楽しみに夢や希望を持とうとする傾向があります。

しかし、そうした夢や希望は、外からの評価としての支えが与えられるものではありません。

自己満足や自分の中の確信だけがよりどころとなります。

このために、こうした夢や希望は揺らぎやすく、徹底的に努力と時間を傾注して悔いのないものとして位置づけることが困難です。

さらに、自己価値感の希薄な人は、そもそも自分を導く現実的で明確な夢や希望を持てません。

少なくない青年は、努力して悔いのない対象としての夢や希望、そのものを見いだせないでいます。

こうした状態のなかで、仕事の上で彼らに残るのは人間関係だけになります。

だから、彼らの関心は、仕事においてさえも人間関係が中心になりがちです。

関連記事

人から受ける忠告、批判、注意、叱責は、その内容を受け止めるのではなく、非好意の表現として受けとめがちです。

フリーターやニートの増大を、青年の労働意欲の低下によるとする考えがあります。

たしかにこの考えが当てはまる人もいます。

しかし、それが主要な原因ではないのです。

たとえば、日本青少年研究所が2003年に行った高校生の国際比較意識調査の結果を見てみましょう。

この調査のなかに、「将来自由気ままでいたいので、正式な就職はしたくない」

という質問項目があります。

これについて、「全くそう思う」「まあそう思う」と答えた日本の青年は日米中韓四カ国中もっとも低く15.7%でした。

これに対し米国の若者は57.9%という数値が得られているのです。

日本の高校生は他国の高校生に比し、むしろ定職に就くことを望んでいる率が高いのです。

フリーターやニートの増加を、彼らの内面の問題だけに帰すのではなく、日本の労働条件にこそ大きな原因があるととらえるべきです。

非人間的な労働条件への人間的な反発でもあるのです。

たとえば、成果主義や能力給などが、正当に能力を評価し報いるという美名のもとに導入されていますが、じっさいには体のいい給与の引き下げ策にほかならないことを、彼らは本能的に見抜いているのです。

入社試験、面接と懸命にがんばってみても、じっさいにはなんらかのコネを持つ人だけが選考されていく。

面接者の心ない言葉に何度傷つき泣かされることか。

運良く入社できても、完全週休二日制という会社案内のパンフレットは全くの空文。

毎日のサービス残業。

関連記事

傷つきながらも就職活動にがんばる学生たちと日々接する私たちには、こうした状況から、フリーターという選択をすることも理解できることなのです。