内向型人間の心理

内向型人間は、燃料補給のためにプライベートな場所を必要とする人々、主なエネルギーを外界以外から得ている人々、通常、内省する時間を必要とし、発言する前に考える人々である。

ここでは、彼らが何者でないかについて論じようと思う。

彼らは、臆病者でも、はにかみ屋でも、自己に埋没した一匹狼でもない。

また、必ずしも、シャイであったり反社会的であるわけでもない。

わたしたちの社会は内向型の人を正しく見ていない。

なぜなら、彼らを見るときは、まちがった前提というレンズを通しているからだ。

内向型人間のほとんどは、自分自身の気質を理解していない。

なぜなら、内向性に関してあやまった考えを抱いて、育ってきたからである。

さあ、ゆがんだレンズを研磨して、矯正しよう。

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内向型の有名人もたくさんいる

まず、内向型が世間を避けるシャイな人々であるという神話を打ち崩したい。

一般に信じられているのとは逆に、有名人の多くは内向型人間だ。

そして、その人たちはどう見ても壁の花とは言い難い。

賞取り女優、ジョーン・アレンは典型的な内向型だ。

彼女は成功を収めたが、人目を引く華々しさとは無縁である。

彼女は、副大統領に扮した《ザ・コンテンダー》での演技で、アカデミー賞の主演女優賞にノミネートされ、《ニクソン》と《クルーシブル》で二度にわたり助演女優賞にノミネートされている。

また、ブロードウェイではトニー賞を一度、さらにオフブロードウェイ賞も一度取っている。

アカデミー賞にノミネートされたことについてたずねられ、彼女はこう答えた。

「オスカーをもらうことは、わたしの人生の目標ではありませんが、母は大喜びするでしょうね」彼女の主な関心は、めったに巡り合えない優れた脚本を獲得することにある。

《ザ・コンテンダー》の役柄に自身の性格のどんな面を投影したかをたずねられ、彼女はこう答えた。

「プライバシーは私にとって非常に重要な問題です。私はとてもプライベートな人間なのです」その深みのある演技で知られる彼女は、ブロードウェイを離れず、長いこと映画に出ようとしなかった。

本人はその理由をこう述べている。

「どうも自分は、速いペースに適していない気がするのです」彼女は、ゆっくりだけれども着実な自分自身のテンポを評価するようになり、自らの制作会社には、「リトル・バイ・リトル(少しずつ)」という名をつけた。

内向型のなかには、いやでも注目の的となる人もいる。

たとえば、イギリス王室のウィリアム王子の生活を考えてみよう。

彼は自分のことで騒がれたり、写真を撮られたりするのが嫌いで、王室の他の人々よりプライバシーを求める気持ちが強い。

「注目されると落ち着かないんだ」さまざまなインタビューで王子はそう述べている。

「ゆったりタイプ」と評され、ある友人は「彼はふつうの男になりたいんだよ」と言ったとされる。

王子は、ウィルズとかウィリアムと呼ばれるのが好きだという。

飢えたマスコミに王室の人々を投げ与えることで有名な宮廷の高官らも、王子が、公的生活の重圧に耐えられるよう力になろうとしている。

王室担当の記者たちはしばしば彼の知性、感受性、内省的な性格について書く。

またこの王子は、ダイアナ妃が離婚に際し、妃殿下の敬称を捨てる決意をしたことに影響を与えたと報じられた。

「あなたがなんと呼ばれようとぼくはかまいません」彼は皇太子妃に言ったという。

「あなたはいつまでも、ぼくのお母さんですから」

彼については、最終的に王冠を拒絶するかもしれないという心配さえある。

彼はその職に就くことで、過剰な注目を浴びるのがいやなのだ。

もしも王になったら、彼は数々の内向型の強みを王座で発揮することだろう。

孤独を愛することで知られたアルバート・アインシュタインは、環境がいかに残酷に内向型人間を傷つけ、その潜在能力を損なうかを示すいい例である。

デニス・ブライアンはその著書『アインシュタイン―天才が歩んだ愛すべき人生』(三田出版会)で、1800年代のドイツの学校教育が、アインシュタインにとっていかにつらいものだったかを物語っている。

「彼は打ち解けない無口な少年―傍観者だった」と。

事実、アインシュタインは、丸暗記ができないことやその奇異な行動ゆえに、精神に障害があるか、”頭が鈍い”かだと思われていた。

彼は、他の生徒たちのように質問にきびきびと答えることができず、ためらってばかりいた。

仮にドイツの学校にずっといたら、優れた物理学者にはなれなかっただろう。

幸い(皮肉にも)、父親に事業の才覚がなかったがために、一家はイタリアへ移ることとなった。

アインシュタインの妹のマーヤは、たった六カ月で兄がすっかり変わったことに、驚きの目を見張った。

「あの神経質で打ち解けない夢見る少年が、辛辣な冗談を言う、愛想のいい社交的な若者になったのです。原因は、イタリアの空気?温かな人々?それとも、投獄から脱出できたせいでしょうか?」彼女はそう言って不思議がった。

後にスイスの学校へ進学したとき、彼は最初、そこにドイツの学校のような息苦しい雰囲気があるのではないかと案じた。

しかし「アルバートは、その自由闊達な雰囲気に胸をおどらせた。

教師らは学生らとさまざまな事柄について―ドイツの学校では考えられないことだが、政治についてさえ―こだわりなく論じ合い、教室を吹っ飛ばされないかぎり、学生らが自ら化学実験を考案し、実践することを奨励した」晩年、アインシュタインはこう言っている。
「わたしはすごく利口なわけじゃない。ただ、いろいろな疑問に人より長めに取り組んだだけだよ」内向型の人は、適切な環境のなかでのみ、その才能、たとえば、集中して探求する能力を、発揮できるのである。

内向型の人は、決して壁の花ではない。

しかし彼らをステージ中央へ押しやるものは、外向型の人々とは異なる場合が多い。

内向型の人は、自分にとって意義ある仕事を探求することで、あるいは、非凡な才能とか特殊な状況下で、脚光を浴びるのだ。

彼らも束の間は、名声のもたらす華やかさを楽しむかもしれない。

だが同時に、それは彼らのエネルギーをひどく消耗させるだろう。

ジュリア・ロバーツは、元気のよい内向型人間として知られている。

「タイム」誌のインタビューで、彼女は、映画の撮影中は昼休みのほとんどを寝て過ごしていると述べた。

「そうすると、一日の残りは、はるかにいい人でいられるの」内向型の有名人の多くは、その華やかさから遠ざかる時間をつくらねばならないのである。

そのほか内向型の有名人を挙げてみると・・・

  • エイブラハム・リンカーン(アメリカ合衆国第十六代大統領)
  • サー・アルフレッド・ヒッチコック(映画監督)
  • マイケル・ジョーダン(バスケットボール選手)
  • トーマス・エンジン(発明家)
  • グレース・ケリー(女優)
  • グウィネス・パルトロウ(女優)
  • デイヴィッド・デュバル(ゴルファー)
  • ローラ・ブッシュ(元アメリカ合衆国大統領夫人)
  • ビル・ゲイツ(ソフトウェア業界の草分け)
  • キャンディス・バーゲン(女優)
  • クリント・イーストウッド(俳優、映画監督)
  • チャールズ・シュルツ(ピーナッツ・シリーズを描いた漫画家)
  • スティーヴ・マーティン(コメディアン、俳優、文筆家)
  • ハリソン・フォード(俳優)
  • ミシェル・ファイファー(女優)
  • キャサリン・グラハム(ワシントン・ポストの元オーナー)

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内向型の人はわがままで人嫌いではない

さて、ここで、内向型の人によく投げつけられるふたつの非難に注目してみよう。

すなわち、内向型の人は自己中心的だ、そして、非社交的だというものだ。

内向型の人がときに、自己に埋没しているように、あるいは、周囲に無関心に見える理由は簡単だ。

内向型の人は、「もう手一杯」となると、外部の刺激を締め出してしまう。

なぜなのか?

わたしたちには、外での体験を自分のなかの体験に照らし合わせる必要があるからだ。

それは、新たな情報を古い情報と比較し、理解しようとする試みである。

わたしたちは考える―あの経験は自分にどんな影響を与えたんだろう?

内向型人間は自己中心的であるどころか、むしろその正反対であることが多い。

内部の世界に集中して、自分が感じ、経験していることを深く考える能力は、外部の世界と他の人間を理解する助けとなる。

自己中心的と見えるものが、実は、他人の身になって考えることを可能にする天分そのものなのである。

外向型の人もまた自己に集中するが、その方法は異なっている。

外向型の人は社交好きで、他人といっしょにいたがるが、それは結びつきを感じるためであると同時に、刺激を受けたいからでもある―「私を参加させて」「わたしに挑戦して」「反応するための何かを与えて」というわけだ。

外向型の人は、内向型の人ほど多くの刺激を内部で発生させないので、それを外部に求めなくてはならない。

おそらくこれが、外向型の人が内向型の人をけなす理由なのだろう。

内向型の人は、彼らを怒らせる。

なぜなら、出し惜しみしているという印象を彼らに与えるからだ。

また、内向型の人は、彼らを恐れさせる。

なぜなら、無駄話もしなければ、彼らの求めるかたちの人付き合いもしないからだ。

ここで思いいたるのが、内向型の人に対するもうひとつの大きな偏見―内向型は社交嫌いだという考えだ。

内向型の人々は、非社交的なわけではない。

ただちがうかたちで人と交わっているだけなのである。

内向型の人は、多くの付き合いは必要としないが、より親密な強い結びつきを好む。

他者とかかわることは、内向型の人から大量のエネルギーを奪い取る。

そのため内向型の人々は、あまり社交にエネルギーを使う気になれない。

無意味なおしゃべりを喜ばないのもそのためだ。

内向型は、自分に栄養とエネルギーを与えてくれる中身の濃い会話を好む。

そういった会話は内向型の人々に、幸福の研究家の言う”快感のヒット”をもたらす。

中身の濃い考えを反芻しているとき、わたしたちは満足感や喜びといった快感を味わう。

なお省エネルギーは、内向型が他者に大きな関心を持ちながら、ときとして仲間に加わるよりただ見ている方を好む理由でもある。

外向型の頭脳は、人混みのなかにいたり、スタンドでひいきのチームに声援を送っていたりするだけで、多少の”快感のヒット”を放つ。

脇で静かにすわっていれば、彼らは退屈のあまりしぼんでしまうだろう。

外向型人間は、外での活動をエネルギー源とするため、街に出て、花から花へ飛び回るのが好きだ。

彼らは言う―何か刺激をちょうだい、そうしたらつぎへ行くから。

もう一度繰り返しますが、これはただ、社会とのかかわりかたが違うだけであって、そのほうがいいということではない。

自分の気質のために、人に非難されることはない。

あなたがちがっているからといって、外向型の人に迷惑がかかるわけではないのだ。

自分を責めるのはもうやめよう。

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話し上手は世渡り上手

外向型人間は、多数派なので、各社会における内向性に対する見かたを左右してしまう。

外向型人間の気軽なおしゃべりは、内向型人間を萎縮させる。

このため内向型人間はよけいに、自分はしゃべらないほうがいいのだと思いがちだ。

『性格の心理学―見解、研究、および、応用』の著者で、シャイに関する研究の第一人者であるベルナルド・J・カルドゥッチ博士は、こう述べている。

「我が国の創立者たちは、その信仰ゆえに排斥された人々だ。
そのため彼らは、全国民に自らの考えを発言する自由を与えるべく力を尽くした。
今日、われわれは大胆さと個性を高く評価している。
話す者は大きな影響力を持つものと認められ、模範とされる。
我々は、話す能力、勇気、率直さを大いに重んじている」

興味深いのは、ここで言われる”個性”が外向的な人間の特質を指していることだ。

話術は、欧米のほとんどの社会で、重視されている。

テレビ番組でも言葉による一騎打ちを主眼としたものの人気が高い。

内向型の人は、話すための話はしない。

発言するときは、自分の考えを口にする。

ときには、それさえも差し控えることがある。

ある日、Aさんが数人の同僚と午後のお茶を飲みに出たときのこと。

頭のいい無口な女の子、Bさんがこう言った。

「わたしは、一回のセミナーでふたつしか意見を言わないことにしているの」

「まあ、そんなことやめてよ」みんないっせいに言った。

「わたしたち、あなたの意見を聞きたくてたまらないんだから」

Bさんはひどく驚いた。

仮にそのときセミナーでの自分の方針に触れなかったら、彼女はこうした反応を得ることもなかっただろう。

内向型の人にありがちなことだが、彼女は自分ばかりが時間をとりすぎてはいけないと思っていたのだ。

AさんたちはBさんに、みんな、彼女の貴重な意見を聞きたいのだと言い聞かせた。

この国は、いかにも自信に満ち、決断力がありそうな弁の立つ者を高く評価する。

内向型の人は、わたしたちが大いに尊ぶこうした”リーダー・タイプ”とは、まさに正反対の特性を見せることが多い。

このことは、内向型と外向型の間に、誤解と批判に満ちた溝をつくり出している。

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内向型が外向型を不安にする三つのポイント

内向型の人がときとして自分をひどく異質に―まるで宇宙船でよその星に着陸してしまったかのように―感じ、始終、誤解を受けるのには、いくつか理由がある。

内向型の人は、自分や自分の行動を表に出さない。

だから、よそよそしく、謎めいて見えることがある。

それに、これまで見てきたように、多くの社会は外向型の長所を賛美するし、多くの外向型人間は内向型の人がこの世にもたらす贈り物に疑いの目を向ける。

悲しいことに、内向型の人は自らの貢献を認識さえしていない。

文化に深く根づいた認識は、言語に織り込まれる。

言語は、わたしたちの抱いている、また、わたしたちをとらえている価値観や信念を反映するのだ。

類語辞典ウェブスターズ・ニュー・ワールド・シソーラスでは、「内向型人間」はこうなっている。

「・・・ふさぎ屋、自己観察者、エゴイスト、ナルシスト、隠遁者、一匹狼、単独行動者」これを見たとき、森のちっぽけな小屋に潜む爆弾魔ユナボマーを想像させる。

同じ辞典で「外向型人間」はこう定義づけられている。

「・・・他人指向の人、社交家、パーティーの花形、目立ちたがり屋」外向型人間は、悪く言われてもせいぜいこの程度なのである。

外向型人間の疑いを招きうる内向型人間の特質をいくつか見てみよう。

このリストに目を通す際、覚えておいてほしいのは、混乱を招く要因はそれだけではないということだ。

つまり内向型人間は、エネルギーの満ち干ゆえに、一貫性がないように見えるのである。

ある日はバッテリーが充分充電されていて、おしゃべりで社交的、別の日は疲れ果てていて、ほとんど口をきかないという具合だ。

このことは、さらに周囲の人々を混乱させ、とまどわせている。

内向型の人の傾向は―

  • エネルギーをなかにためこむ。そのため、他人にわかってもらいにくい。
  • 考え事に没頭する。
  • なかなか口を開かない。
  • 人なかを避け、静けさを求める。
  • 他の人が何をしているかを忘れてしまう。
  • 人と会うことに慎重で、厳選した活動のみに参加する。
  • 気軽にアイデアを出さない。多くの場合、周囲が意見を求めなくてはならない。
  • ひとりで、または、邪魔されずに過ごせる時間が足りないとイライラする。
  • 慎重に考え、行動する。
  • 表情や反応をあまり見せない。

このリストを見れば、外向型の人にとってなぜ内向型の人が謎めいて見えるのかは明らかだろう。

内向型と外向型の間には、主に三つのちがいがある。

それは、大きな誤解へと広がるひびを生む。

考えがまとまるまでは話さない

外向型の人は考えながら同時に話す。

彼らにとって、これはなんでもないことだ。

それどころか、声に出して言うことで、物事がよりはっきり見えてくるのである。

これに対して、内向型の人は考える時間を必要とし、よく知っていることでないかぎり自発的には発言しない

外向型の人には、内向型人間が用心深く、あるいは、受動的に見える。

外向型の人は即興的にしゃべることに慣れているため、寡黙な内向型に対しては不信感を抱きがちだ。

内向型の人がためらいがちに話していると、外向型の人はイライラする。

さっさと吐き出しちまえ、と彼らは思う。

なんで、こいつは自分の意見にもっと自信を持たないんだ?

いったい何を隠そうとしているんだ?

外向型の人は内向型の人を、情報や意見を出し惜しむ人間として受け止めかねない。

たとえば、ある会議のあと、内向型のAさんは外向型の知人の何人かに聞かれたことがある―なぜ考えていることをちゃんとみんなに話さないの?

なぜ話し合いに加わって、意見を述べないの?

どういうわけで隠し事をしているなどと思われるのか、Aさんにはさっぱり理解できなかった。

しかし、Aさんは「謎めいている」と言われたこともある。

こちらから言わせてもらえば、Aさんはいざ発言するときは、なんでも腹蔵なく話している。

ところが、口を切るまでがおそろしく長いので、外向型の人にしてみれば、わざと何かを隠しているように見えるらしい。

内向型の人が考えをまとめ、意見を述べるまでには時間がかかる。

外向型の人はこの点を理解しなければならない。

しかし、内向型の人が熟慮のすえに考えを固めたときや、話題となった事柄について深い知識を持っていたときは、要注意だ。

おとなしかった内向型人間の舌はすごい勢いで回りだすだろう。

アピールが下手

発言をしぶっているように見えたり、ゆっくり話したりするとき、内向型の人は、外向型の人を惹きつけることはできない。

外向型の人は(ときには内向型の人までも)こう考えるだろう-この人には耳を傾けるに足る考えなど何もないのだ。

内向型の人は割り込むのが嫌いなので、発言するときも、声が小さかったり、ひかえめだったりする。

また、内向型の人の発言内容は、一般的な会話のレベルより深い場合がある。

そのため、周囲の人は居心地が悪くなり、その言葉を無視してしまう。

あとで、別な人が同じことを言って多数の反応を得ることもある。

かくして、その内向型の発言者は、透明人間のような気分になる。

これは彼らにとって、いらだたしく不可解な現象である。

内部で精神の歯車が噛み合ってギシギシ回っていても、内向型人間の多くはそれをまったく表に出さない。

社交の場では、その表情は無感動、または無関心に見える。

だが、圧倒されているか、ほんとうに無関心か(話が軽すぎるとそうなる)でないかぎり、彼らはつねにみんなの発言についてあれこれ考えている。

たずねられれば、ちゃんと意見も述べるだろう。

あるセラピストは長年の経験から、内向型のクライアントたちに何を考え、何を感じているのか、たずねる習慣を身につけた。

ほとんどの場合、彼らはそれまでの話し合いをさらに発展させるような発言をする。

しかし顔が無表情なので、そのときまでは、彼らが話に身を入れているのかどうかさっぱりわからないのである。

内向型の人が目を合わせなかったり、聞いているそぶりを見せなかったりすると、集団の他の面々はその人を除外しにかかるかもしれない。

慎重さが外向型のやる気をそぐ

内向型人間は、たいていの外向型人間のいやがることをする。

これが、外向型が内向型に不信感を抱く三つ目の理由である。

内向型の人々は彼らに、ぐいぐい突き進む前によく考えてみてはどうか、などとすすめる。

ペースを落とし、計画を立て、結果を考え、じっくり検討してから行動に出てはどうか―内向型人間にそう言われると、外向型人間はびっくりする。

彼らにはすでにプロジェクトの結末、たとえば、裏庭に植えられたばかりの新しい花々などが見えている。

早くも園芸店へ行き、色とりどりの苗を買う気になっているのだ。

彼らは競走馬に似ている。

もしも引き留めようとすれば、ヒンヒンいななき、手綱を引っ張る。

これとは対照的に、ペースの遅い内向型は立ち止まって、薔薇の香りを楽しみたがる。

「まずすわって裏庭を眺めて、何をどんなふうに植えればいいか考えようよ」と彼らは言う。

内向型を進ませようとするのは、亀を急がせようとするようなものだ。

たとえお尻に火をつけられても、彼らのペースは上がらない。

内向型と外向型はときとして、たしかにお互いの気に障る。

無理に外向型になれと言われても困るだけ

絶えず外向型と比べられながら育つことは、内向型人間に非常な悪影響を及ぼしかねない。

内向型の子どものほとんどは、表立って、あるいは暗に、おまえはどこかおかしいのだという考えを吹き込まれて育つ。

彼らは非難されていると感じる―「なぜさっさと質問に答えられないんだ?」それに、さげすまれている、とも―「こいつはあまり利口じゃないんだな」セラピストがインタビューした内向型人間は、五十人中四十九人までが、あるがままの自分を非難され、さげすまれてきたと感じていた。

しかし五十年目の牧師のCさんはちがった。

ある講演で、Cさんがごくさりげなく、自分は内向的な人間だと言うのを聞き、セラピストはインタビューを彼に申し込んだ。

自分の内向性についてなぜあれほど堂々と語れるのか、それをさぐり出したかったのだ。

やがてわかったのは、彼は家族全員が内向型の家に育ったということだ。

そのため彼は、陸に打ち上げられた魚のような気分を一度も体験したことがなかったのである。

自分自身を受け入れる素地が早期から育まれたおかげで、Cさんはバランスのとれた内向型人生を築きあげていた。

この例は、わたしたちの素質を伸ばす環境がいかに重要かを物語っている。

あいにく、ほとんどの人間は、内向的な特質を受け入れ、伸ばすような家庭では育っていない。

内向的な子どもたちはたいてい、大声ではっきりと、おまえはどこかおかしいのだ、と吹き込まれて育つ。

ある研究では、内向型と外向型の人々が、理想の自分として外向型と内向型のどちらを選ぶかを三度問われた。

また、彼らは、理想のリーダーとして、外向型と内向型のどちらを選ぶかも問われた。

結果は三度とも同じだった。

内向型の人の文化の偏見を反映し、内向型、外向型のどちらもが、理想の自分にも理想のリーダーにも外向型を選んだのだ。

わたしたちは、外向型人間を持ち上げ、その要求を満たす文化のなかで生きている。

「自分たちは外向的であるべきだ」と確実に教え込まれているのである。

間違った押しつけが罪悪感と羞恥心を作る

あるセラピストがセラピーを行なってきた、知的で内向的なクライアントのなかには、自分には生まれつき欠陥があるのだ、脳のどこかが欠けているのだ、と思っている人が大勢いた。

さらにまずいことに、彼らは罪悪感と羞恥心を抱いていた。

罪悪感と羞恥心という言葉は、しばしば混同して使われるが、このふたつの感情は、ときとして区別がむずかしいものの、まったく別物だ。

羞恥心とは、タールのように体にべったり貼り付いた、苦痛に満ちた強い屈辱感である。

それは、ありかたにかかわっている。

自分には価値がない、とか、生まれつき欠陥がある、などと思うとき、人は羞恥心を抱く。

その結果、生まれるのは、無力感と絶望感だ。

羞恥心は、殻にこもり自分を隠すよう、わたしたちを駆り立てる。

羞恥心を表す言葉はたくさんある。

「穴があったら入りたい」「床がぽっかり割れて、わたしを飲み込んでくれればいいのに」羞恥心はみじめな気持ちだ。

それは、自分の内部の世界を周囲の人々と分かち合う喜びを、踏みつぶしてしまう。

そして内向型の人たちは、こう感じる―うっかり自分を見せると、ひどい傷を負ってしまう。

ずっと隠れていたほうがいい。

羞恥心は混乱を招く複雑な感情であり、それを誘発するには特定の条件が必要だ。

稲妻が空を裂き、雷鳴が轟くために、特定の大気の状態が必要なのとよく似ている。

羞恥心を味わうためには、まず、きわめて個人的な何かを他人の目にさらしたいという気持ちがなくてはならない。

たとえば、友人に自分が非常に誇りに思っている何かを見せることを想像してほしい。

これが、羞恥心を引き起こすのに必要な”大気の状態”である。

あなたは自分を差し出し、注目してもらおうとしている。

仮に、賞賛でなく、しかめっ面や、嫌悪、怒り、非難、軽蔑の眼で報いられたら、それは身を隠したいという強い感情を引き起こすだろう。

これがすなわち、”羞恥心”である。

羞恥心はあらゆる人に影響を及ぼすが、内向型人間にとってこれは二重の打撃となる。

辱められた場合、内向型の人には心を鎮める余力がほとんどないからだ。

内向型の人たちは、その先長いこと、殻にこもって、出てこないかもしれない。

これは、みんなにとって大きな損失だ。

罪悪感は羞恥心よりはるかに単純な感情である。

それは、わたしたちの行動にかかわっている。

罪悪感は、盗み食いをしようとして見つかったときのような気持ち-悪いことをしたという、心をさいなむ嫌な気持ちだ。

内向型の人々は、人を傷つけたとき罪悪感を抱く。

あるいは、規則を破れば、つかまるのではないかと不安になる。

罪悪感にうながされ、わたしたちは、自分の悪い行いを告白し、償いをしようという気になる。

あまりに罪悪感が強いと、内向型の人は殻にこもってしまいかねない。

彼らが罪悪感を抱く理由はたくさんある。

内向型の人の多くは、より広い視野をもって人間同士のかかわりを見ている。

そのため、自分の言動が他人にどんな影響を与えるかをひどく気にするのだ。

また、内向型の人は、自分にとって迷惑なこと―たとえば、邪魔されることなど―は、他の人にとっても迷惑だろうと考える。

彼らは非常に観察力が鋭いので、自身のささいな失敗についても罪悪感を感じる。

多くの場合、実際にはそうでないのに、人に悪いことをしたと心を悩ませる。

そのうえ、他の人を傷つけるのを恐れるあまり、よけいに外の世界と距離を置くこともあり、そうすることで、自分自身の日々の充足感を減少させてしまう。

それによって社会もまた、内向型の人々の貢献を受けられなくなる。

罪悪感と羞恥心の解消法

罪悪感と羞恥心の処理のしかたを学ぶことは、内向型の人にとって重要である。

そうしないと、わたしたち内向型人間は、多くの時間をみじめな気持ちで過ごすことになりかねない。

自分自身を軌道にもどすために、つぎの治療法を活用しよう。

●罪悪感を覚えたら、自分がほんとうにだれかを傷つけたのかどうか確かめる。

内向型の人は、傷つけてもいないときに人を傷つけたと思いがちだ。

たとえば、内向型の人は他人の邪魔をするのを好まない。

突然、会話に入っていき、だれかの言葉をさえぎってしまったら、罪悪感を覚えるかもしれない。

しかし多くの人は、割り込まれるのを気にしてはいない。

だから、自分がだれかを怒らせたと思いこむ前に、まずその相手に確かめてみよう。

たぶんその人は、あなたが想像していたような気持ちにはなっていない。

こんなふうに自分に言おう―「私はなかなか会話に入っていけなくて、Dさんの言葉をさえぎってしまった。でも大丈夫。彼女は気にしていないようだ」

●ほんとうにだれかを傷つけてしまったら、誠意をもってあやまり、それから先へ進む。「ああ、ごめんなさい。お話の途中だったわね。何を言おうとしたの?」罪悪感の主な解毒剤は、謝罪することだ。

人はだれしも過ちを犯す。

自分を許そう。

●べっとりするいやな気持ち、羞恥心を覚えたら、何がそれを誘発したのか突き止める。

たとえば、同僚のだれかに会議で何かたずねられ、返事をしたいのになんの答えも頭に浮かばなかったなら、それがあなたの羞恥心の引き金となっているのかもしれない。

あなたは、「穴があったら入りたい」と思う。

「私はダメ人間だ、頭がよくない」などと考える。

はい、そこまで。

自分のこう言おう。

「あれは、脳の働きかたの問題にすぎない。わたしはつねに即答できるたちじゃないんだ。アインシュタインもそうだった。同僚には、その件についてはよくよく考える必要があるから、あとで返答する、と言えばいい」

そして、このことはもう忘れること。

羞恥心の主な解毒剤は、自負心である。

あなたにはなんの欠陥もない。

そのことを言い聞かせよう。

あなたはどこもおかしくない。

ただ、脳の働きかたがちがうだけなのだ。

熟考は有益だ。

ありのままのあなたでいるのは、いいことなのである。

自分のエネルギー・レベルを知る

内向的であればあるほど、あなたの過去には、ありのままの自分に罪悪感や羞恥心を覚えるケースが多かったにちがいない。

それにおそらく、誤解されていると感じることも―また、自分を誤解することも―よけいにあったことだろう。

こういった経験は、あなたを消極的にしてしまったかもしれない。

過度の引きこもりを避けるテクニックはふたつある。

ひとつは、前述の罪悪感と羞恥心の解毒剤をうまく使いこなすこと。

二つ目は、自分の気質の熱を測れるようになることだ。

体温計の水銀の位置を読み取るように、自分のエネルギー・レベルを自由に測れるようになろう。

エネルギー・レベルは、毎日、測ることができる。

また、ある一日や一週間、または、人生全体を調節し、エネルギーの需給バランスを維持することも可能だ。

そうすることであなたは、消耗したり思考停止におちいったりしにくく、周囲からの非難やさげすみにも強い、自信に満ちた内向型人間になれる。

ぜひ試してみよう。

たとえば、ここしばらく叔母さんが滞在していたとしたら?

一週間にわたり、機銃掃射のごとくしゃべりまくる叔母さんが、家じゅうくっついて歩いていたとしたら?

いまのあなたはどんな状態だろう?

腕がだるい?

耳鳴りがする?

体がくたくた?

足が鉛のよう?

もしそうなら、エネルギーを回復するために、今週の予定にはたくさんの休憩時間を組み込もう。

逆に、週末いっぱい、静かな自宅に閉じこもっていた場合は?

全身、エネルギーがみなぎっている?

頭の中はやりたいことでいっぱい?

何か始めたくてうずうずしている?

ならば、これは先延ばしにしてきたことをするいい機会だ。

当然ながら、あなたのエネルギー・レベルがこんなに明快であることはめったにない。

そこで、目盛りを読み取るために、自分自身につぎの質問をしてみよう。

  • 精神的エネルギー・レベルはいま、どれくらいだろう?わたしは覚醒しているのか、朦朧としているのか、それとも、脳死状態なのか?
  • 肉体的エネルギー・レベルはいま、どれくらいだろう?わたしはへとへとなのか、元気なのか、それとも、溌剌としているのか?
  • いまのわたしは、刺激過剰だろうか、それとも、刺激不足だろうか?
  • 一人の時間必要だろうか?
  • 外の刺激はいまのわたしのためになるだろうか?(例 友達と会う、博物館に行く)

心身のエネルギー・レベルをチェックする練習を積めば、あなたも自分自身の気質の熱を測れるようになる。

そうなったら、たとえば、だれかに中華料理を食べに行こうと誘われたようなときも、前より自信を持って返事ができるだろう。

充電できているならオーケーすればいいし、燃料不足ならことわればいい。

罪悪感や羞恥心を抱くことも、自分は永遠に外に出ないのでは?

などと案じることもない。

燃料タンクがいっぱいの次回には、自分がお誘いを受けるのがわかっているからだ。