内弁慶を克服する心理

内弁慶の人が気が楽になる初め

内弁慶の人は「まずかまわれたい」から始まる。

内弁慶の人は「まず愛されたい」から始まる。

それが満たされないと、内弁慶の人は死ぬまでその欲求にこだわり続ける。

それが満たされないと、自己実現とか、社会への献身とか、人を愛するとか、そうした欲求にしたがって行動することはできない。

なかには愛されないで成長して社会に献身する内弁慶の人がいるかもしれないが、それは献身することで「愛されたい、認められたい」からである。

なによりも内弁慶の人は「まず愛されたい」「まずかまってもらいたい」がすべての行動の動機である。

それが満たされてはじめて内弁慶の人は次の欲求に基づく行動が可能になる。

すべての行動の動機は「かまってもらいたい」である

しかし期待するように内弁慶の人はかまってもらえない。

内弁慶の人はそこで不満になる。

その欲求不満がその内弁慶の人のすべての言動や感情の基礎にある。

ベースが内弁慶の人は欲求不満である。

その欲求不満のベースの上に他の人々の行動が、その内弁慶の人に影響する。

ある他人の言葉にイライラしたり、つまらないことで心配したりするが、その基礎は欲求不満である

内弁慶の人は欲求不満がベースにあるということは、別の表現をすれば憎しみの感情がベースにあるということである。

それがフロイトやフロムの言う幼児期の母親への愛着であり、内弁慶の彼等はそれが満たされていないということである。

また心の土台とか心の土壌とかいうものである。

世間では内弁慶の夫の不機嫌を理解できなくて悩んでいる奥さんは多い。

夫がなぜいつも家で不愉快そうにしているのか、奥さんは理解できない。

夫は会社から帰って来て、奥さんの一言で急に機嫌が悪くなる。

そして夫はなかなか機嫌が直らない。

奥さんからすると機嫌が悪くなるようなことを言っていないつもりである

しかし内弁慶の夫は機嫌を悪くして黙り込んでしまう。

あるいは酷い場合には内弁慶の夫は夕食のテーブルをひっくり返して怒る。

そうなると内弁慶の夫はもう怒りで周りは見えない。

なぜそこまで極端な怒りの反応を内弁慶の夫はするのか。

それは奥さんが「夫が帰ってきた」と思うからである。

心理的に言えば夫が帰ってきたのではない。

小学生がランドセルを背負って帰ってきたのである

母親が子どもを迎えるように内弁慶の夫を迎えなければいけない。

現実の世の中にはこんな奥さんはまずいない。

そこで奥さんの迎えの態度で内弁慶の夫の心が傷つく。

内弁慶の人がすぐイライラするのは、根に憎しみがあるから

よく根クラとか根アカとか言う

根クラの人でも笑うことがあるし、喜ぶことがあるし、元気なこともある。

また根アカの人でも悲しむことがあるし、泣くこともあるし、落ち込むこともある。

それと同じで内弁慶の人は根が憎しみの感情であっても、嬉しいときはある。

しかしそういう内弁慶の人は嬉しくても土台は憎しみである。

つまり基本的欲求を内弁慶の人は満たされていない。

また内弁慶の人は根が憎しみであるから、人の言葉にすぐに傷つく。

人が期待したように動いてくれないとすぐにイライラする

人の何気ないその場の些細な言葉に内弁慶の人は苛立つ。

内弁慶の人は根アカの人なら聞き流してしまいそうな、何でもない言葉に凄く不愉快になる。

言ったほうは半分冗談で言ったような言葉に、内弁慶の人は深く傷つき、落ち込んでしまう。

「根が明るい」とか「根が暗い」とかいう言葉でもいいし、ベースが明るいという言葉でもいいし、土壌が暗いという言葉でもいい。

とにかくそれはその人の基本的なパーソナリティの在り方である。

その時々の笑顔とか涙とかいうのではなく、もっと基本的なところにあるその人の心の傾向である

内弁慶の人の憎しみの土壌の上に咲いた花と愛情という土壌の上に咲いた花では、同じ花でも色が違う。

同じバラが咲いても色は違う。

美しさが違う。

同じ言葉を言って、同じ行動をしていても、その人の周囲への影響力は違う。

それが人望である。

会社でもあまり優秀ではないけれども人望のある上司と、優秀だけれども人望のない上司がいる。

言っていることに違いがあるわけではない。

でも部下が従ったり従わなかったりする。

また同じ上司の同じ言葉に、ある部分は不愉快になり、別の部下は不愉快にならない

心に余裕のある人と、心に余裕のない人の違いと言ってもいいし、パーソナリティーの違いと言ってもいいが、やはりその人の根の違いである。

心の土台の違いである。

根は見えない。

木が高いか低いかは見えるが、根がどのくらい深いかは見えない。

根がどのくらいしっかりとしているかは見えない。

自分が立っている土台、それをしっかりと意識できている人と、意識できていない内弁慶の人では、毎日の気持ちが違う。

周囲の人から受ける影響が違う

根がしっかりとしていない内弁慶の人は、周囲の人の言葉に影響されて、すぐに心が動揺する。

内弁慶の人は毎日が心理的に不安定である。

周囲の人の態度で、内弁慶の人はすぐに怒りが込み上げてきたり、やる気がしなくなったり、何となく悲しくなったり、急にはしゃいだりする。

根がしっかりとしていない内弁慶の人というのは、ベースが憎しみの人である。

その内弁慶の人の心の中を部屋にたとえれば、ガスが充満しているような人である。

いつ爆発するか分からない。

「なぜあの人の言葉で、自分はこんなにも落ち込んでしまうのか?」と自分の心理分析ができれば、道は拓ける

しかし内弁慶の人は不愉快になったとき、怒り心頭に発したときに、原因を他人に求めているだけでは、いつまでたっても、不快な日々がなくなるわけにはいかない。

ただ怒り心頭に発したときに、内弁慶の人は自分の現実に直面するよりも相手を責めている方が心理的には楽である。

そこで道が内弁慶の人は拓けない。

もし「あー、自分の心の不満を外化しているだけのことだな」ときがつけば、先は明るい。

内弁慶の人は自分に原因があっても、自分を責めてはいけない

原因をどこに求めるかということと、それを責めることとは違う

内弁慶の人は原因が自分であると分かっても、自分を責めてはいけない。

自分を責める必要はまったくない。

誰も好きこのんで不愉快になっているわけではない。

不愉快になりたくないけれども、内弁慶の人は不愉快な気持ちに悩まされるのである。

それは車の事故と同じである。

大切なのは、「なぜ事故を起こしてしまったのか?」という原因追及である。

そしてそれを反省し、そうしないように努力することであろう。

睡眠不足で居眠り運転なのか、他のことに気をとられての前方不注意なのか、スピードの出しすぎなのか、いろいろと原因があろう。

イライラしたときも、落ち込んだときも同じことである

「あー、もともと自分は自分に対して怒りを持っていたんだな、だからこんなにあのことにイライラするのだな」と内弁慶の人は気がつけば、解決の道を歩き始められる。

内弁慶の人はつまりイライラの原因は相手の態度ではなく自分のパーソナリティーの核であると気がつくかもしれない。

怒りや憎しみが自分のベースにあるからだと内弁慶の人は気がつくかもしれない。

それを直すには内弁慶の人は一朝一夕にはいかない。

しかしそれを直し始めるスタートを内弁慶の人は切ることである。

怒りや憎しみが心のベースになるには、怒りや憎しみがベースになってしまう原因がある。

心のベースが憎しみの内弁慶の人も、好きこのんでそうした人間環境の中でいきてきたわけではない。

そうした人間環境の中で今までよく生きてきたと自分の努力を認めることはあっても、自分を責めることではない

今現在自分のパーソナリティーがどのようなパーソナリティーであってもそれを責めてはいけない。

内弁慶の人はただその事実を認めなければ、先は拓けない。

自分はひねくれたパーソナリティーであるとか、歪んだパーソナリティーであるとか、素直でないとかいう事実を認めなければ、内弁慶の人は先は拓けない。

毎日イライラしているとすれば、内弁慶の人は何らかの原因があるのだから。

たとえば人を内弁慶の人は猛烈に批判する。

「あいつは物事を矮小化する、ダメな男だ、がっかりした」と内弁慶の人は批判する。

その人の心の中の怒りが、その批判的解釈を通して表現されてきているだけという事が多い

不安な内弁慶の人は自分の気持ちが安定するように周囲の世界を解釈する。

「あいつはやり方が汚い」と解釈すれば自分の気持ちが安定するとなれば、その内弁慶の人は「あいつは汚いやつだ」と言う。

「今の政府は間違っている」と解釈すれば自分の気持ちが安定するなら、多くの人は「今の政府は間違っている」と言うだろう。

「子どもの担任の先生は教え方が下手だ、えこひいきをする」と解釈すれば自分の気持ちが安定するなら、その保護者は「子どもの担任の先生は教え方が下手だ、えこひいきをする」と言うだろう。

そしてその理由を見つけようとすれば、たいていのことに理由を見つけることはできる。

周囲の人をも含めて自分を取り巻く世界を、内弁慶の人は自分の心が安心するように解釈する。

それが「脅威志向」の高い内弁慶の人である。

「脅威志向」の高い人、それは周囲の世界に脅威を感じている内弁慶の人である。

「脅威志向」が高くパーソナリティーが不安定な内弁慶の人は、当たり前であるが「ひるまないで、まっすぐに世間に立ち向かうことができない」。

「ひるまないで、まっすぐに世間に立ち向かうこと」が怯えていないということである。

そしてオルポートは、偏見はこうした態度の副産物だと言う。

内弁慶の人の怒りの底にある欲求不満

人は母なるものを求める

満たされる人もいるが、満たされない人もいる。

満たされない内弁慶の人は基本的なことが欲求不満だから、見るもの触れるもの、すべてに腹が立つ。

怒りを抱えて生きている内弁慶の人は多い。

内弁慶の人は人の言葉に腹が立つ。

人の言葉に内弁慶の人は怒りを感じる。

しかし怒ったときにも内弁慶の人は実はその「言葉そのもの」が怒りの原因ではないことが多い。

同じ言葉を聞いても、基本的愛情欲求が満たされている人は腹が立たないかもしれない。

乾燥した林にガソリンがまかれている。

ライターで火をつけたら林が燃えさかる。

しかしもし林が雨で濡れていれば、ライターで火をつけても燃えさからない。

ガソリンがまかれていなければ火はつかない。

ライターが言葉。

同じことである。

基本的愛情欲求が満たされている人と、満たされていない人では、同じ言葉に対する反応は違う

基本的愛情欲求が満たされていない内弁慶の人は、他人の言葉に勝手に「不当な重要性」を与えてしまう。

マズローは、神経症は欠乏の症状だと言うが、基本的愛情欲求が満たされていない内弁慶の人というのは、まさに欠乏状態である。

そしてこの欲求不満で怒っている内弁慶の人はまだいい。

無気力になる人というのは、自分の欲求不満を抑圧してしまった内弁慶の人である。

つまり内弁慶の人は自分の愛情欲求が満たされていないという事にさえ気がついていない。

自分が母なるものを求めているということにさえ気がついていない。

無気力になるような内弁慶の人は、自分が何を求めているかがわからないという人が多い。

自分の人生の目的が分からない上に、自分自身がどういう人間だかが分からない

そうなれば心の底では内弁慶の人はイライラして毎日が不愉快である。

そういうときに、内弁慶の人はただ修行とか忍耐とか言ってひたすら我慢するのは、決して望ましいことではない。

内弁慶の人はいつまでたってもイライラはなくならない。

自分はなぜこんなにイライラするのか、自分はなぜ何もやる気にならないのか、自分はなぜすぐにこんなに不愉快な気持ちになってしまうのか、等々を内弁慶の人は考えることが大切である。

好きなことが分からない、何のために生きているのか分からない、ほっとすることがない、生きていることが自分にぴたっとこない、人生の目的が分からない等というときには、多くの場合には、その内弁慶の人は自分が母なるものを求めているのだということに気がついていないのである。

母なるものを持った母親のもとで育った人にはそういうことはない。

しかし母なるものを持った母親どころか、子どもにまったく無関心な母親のもとで育ったときには、母なるものに対する欲求は満たされていない。

ましてや子どもの嫌いな母親のもとで育ったときには、そうした欲求はまったくみたされていない

少しでも満たされていれば、自分の欲求不満に気がつく。

しかしまったく満たされていないときには、内弁慶の自分の中にそういう欲求があることにすら気がつかない。

その内弁慶の人が本当に求めているものは母なるものである。

しかしその自分が本当に求めているものが分からないのだから、内弁慶の人は好きなものも、自分の人生の目的も分からなくて当然である。

そして何となく不安で、何となく焦っていて、内弁慶の人は日々不愉快で、何か疲れて、毎日イライラして頭にくることばかりである。

しかもその頭にくることさえ抑圧している内弁慶の人の場合には、そうした感情さえ意識できていない。

内弁慶の人はなぜ人間関係がうまくいかないのか

母なるものを求めても、それが満たされない

内弁慶の人はそして恐怖感からそれを無意識の領域に追いやる場合もある。

そこでまた新しい問題が内弁慶の人は発生する。

意識と無意識の乖離である。

そうなれば内弁慶の人は感情鈍麻をはじめ、さまざまな心の病が出てくる。

母なるものを求める基本的欲求が満たされないと大人にはなれない。

幼稚なことをしたときに、その内弁慶の人に「もっと大人になれ」と言っても、それは無理である。

基本的欲求が満たされることが自我の確立ということである

基本的欲求が満たされないでいると、内弁慶の人は何をしても不満になる。

内弁慶の人は正常な人間関係を長く維持できない。

目の前にいる人は恋人であって、内弁慶の人は母親ではないと頭では分かっている。

目の前にいる人は友達であって、内弁慶の人は母親ではないと頭では分かっている。

しかし、どんなに分かっていても、内弁慶の人はそれで欲求不満が解消できるわけではない。

どうしても眼の前にいる人に、母なるものを求めてしまう

しかし目の前にいる人は母親ではないから、母親の役割を演じることは難しい。

母なるものを求めている内弁慶の人に「求めるな」と言うことは、お腹の空いている人に眼の前に美味しいものを出して、「『食べたい』と思うな」と言っているようなものである。

内弁慶の人はどうしても不満になる。

我慢できても内弁慶の人はそれは一時のものでしかない。

長くなれば内弁慶の人は不満になる。

それと同じで、長くなれば人間関係でも相手に不満になる

相手は内弁慶の自分の求めているものを与えてくれないからである。

相手は自分の母親ではない、恋人だと頭で分かっても、内弁慶の人は母なるものを求める気持ちがなくなるわけではない。

傷つきやすい人は、たとえば根がナルシシスト。

内弁慶の人は人の何気ない言葉ですぐに傷つく。

その言葉がその人を傷つけたというよりも、その内弁慶の人はもともと傷つきやすい気持ちになっている。

同じように気むずかしい内弁慶の人は、欲求不満の塊である。

気むずかしい人も、その言葉で不愉快になったのではない

内弁慶の人は根がもの凄い欲求不満なのである。

不満で、不満で、内弁慶の人は不愉快で不愉快でたまらない。

そうした心理状態の中で、ある一言がその内弁慶の人にもの凄い影響力を持つ。

母なるものを求めて内弁慶の人が得られない欲求不満。

だからその何でもない一言がその内弁慶の人に深刻な打撃となる。

もともとが欲求不満で、内弁慶の人は他人の言葉にピリピリと反応するような心理状態になっている。

ガスが部屋に充満していれば、マッチを擦ると、爆発する。

マッチが爆発の原因であるが、同じマッチを擦っても、別の部屋なら爆発は起きない。

その中に「現実の自分」と「理想の自分」の乖離からくる不満がなければ、内弁慶の人は何でもない人の言葉に怒りを爆発させない。

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内弁慶の人のマイナス感情は自分を知るチャンス

相手の言葉で不愉快になったときに、相手の言葉そのものが不愉快な言葉であったのではなく、自分だから不愉快に感じたと解釈するのが正しいことが多い

不愉快な気分でやりきれないときに、内弁慶の人は自分の面白くない感情を分析して自分を解明することである。

自分が分かってくれば、自分の周りに起きていることも納得できることが多い。

「自分を知ることと他人へのトレランスとが関連することを研究は示している」

自分が分かれば相手も分かるから、相手に寛容になる。

内弁慶の人は元気がないのなら「自分はなぜ元気が出ないのか?」と自分を分析してみる。

不愉快な気分とか抑うつとかイライラとか怒りとか不安とか、内弁慶の人のいろいろなマイナスの感情は自分を知るチャンスである。

「何で自分はこんなにイライラするのか?」と自分を分析していけば、そこに自分の心が見えてくる

「何で自分はこんなに落ち込むのか?」と自分を分析していけば、内弁慶の人はそこに自分の心が見えてくる。

内弁慶の人は「何で人の批判がこれほどこたえるのか?」と自分を分析していけば、そこに自分の心が見えてくる。

アルバート・エリスは、愛されて育った人と愛されないで育った人の違いを考慮に入れないで一般的にイラショナル・ビリーフ(非合理的な考え方)ということを言っている。

すぐに腹を立ててはいけない、いつもイライラしてはいけない、簡単に傷ついてはいけない等々は、母なるものを持った母親を体験していない内弁慶の人にはイラショナル・ビリーフである。

そんなことができるわけがない。

母なるものを持った母親を体験している人には、それらのことはイラショナル・ビリーフではない

そういう人間になれるように努めるのが当たり前で、それは非現実的なほど高い基準ではない。

デビッド・シーベリーは「不幸を受け容れる」と言っているが、私たちは自分のマイナスの感情を受け容れることも大切である。

内弁慶の人はとにかくいったん自分のマイナスの感情を受け容れる。

それを認める。

そしてその後で自分を生産的な構えに変える。

マイナスの感情をプラスの感情に置き換える。