外見を気にしない女性はいないが心磨きも大切

美人はほんとうに得か

美容整形が花盛りで、ごく普通のOLや就職をひかえた学生が気軽に整形手術をする時代のようです。
より美しくなりたいという女性の欲望は、男性が想像する以上にすさまじいものがあるようです。

容貌が美しい女性は得をする、そんな信念をもつ女性が多いということなのでしょう。
たしかに美人が得をすることが多いという事実を否定するわけにはいきません。
それを裏付ける心理学的データはいくらでもあるのです。
そのいくつかをみてみましょう。

ある女性が書いたものだとしてエッセイを読ませ、その出来栄えを評価させるという実験があります。
その際、その女性の写真をみせます。
結果をみると、外見的魅力に富む女性が書いたとされた場合ほど、同じエッセイでも高い評価が与えられていました。

子どもの不品行の内容とそれをしたとされる子どもの写真をみせて、コメントを求めるという実験もあります。

それによると、男の子も女の子も、外見的に魅力的な子ほど寛大なコメントを与えられ、外見的にかわいらしい子の犯した不品行は不運のせいにされることが多かったのです。

たとえば、
「この女の子はとてもチャーミングで、行儀もよく、思いやりのある子のようですね。
この子なら大勢の友達のなかにはいってもうまくやっていけるでしょうし、人気を得ることでしょう。
・・・でも、誰にでも運の悪い出来事があるものです。
だから、この子の今回の残酷な行為もそれほど深刻に考えることはないでしょう」

のような具合に。
外見的魅力度の劣る子は、同じことをしてもはるかに厳しい態度にさらされます。

「この女の子はたいへんな問題児のようですね。きっと先生方を手こずらせていることでしょう。
・・・同級生と喧嘩することも多いでしょうし・・・家庭にあっても両親を手こずらせていることでしょう。
・・・まさにこのような子は問題児だといえるでしょう」
(共にクラインク『ファースト・インプレッション』より)

同じことをしても外見的魅力度の高い者のほうが好意的評価を受けるのです。
写真一枚でそんなに態度が変わるものなのかと、あきれる人が多いかもしれません。
しかし、人は一枚の写真から、その人物の性格や能力や生き方まで判断してしまうのです。

俳優にも、悪役が似合う俳優と善人の役が似合う俳優がいて、役者を起用する側もそのあたりを考慮に入れて配役を決めるそうですが、これなども、視聴者が俳優の顔でその中身まで判断することを想定しているわけです。

写真をみせて、その人物の内面的特徴について推測させるといういくつかの心理学的実験をみると、外見的魅力の高い者ほど活発、素直、愛想がよい、まじめなどの社会的に望ましい性格が付与される傾向が明らかにみられました。

職業上の成功に関しても、結婚への適性に関しても、外見的魅力に富む者のほうが肯定的に評価されました。

こうした心理学的実験は、写真に写った外見以外の要因(性格、能力、声、しぐさ、服装など)を全て排除することで、純粋に外見的魅力の効果を証明できたとされ、いろいろな場で紹介されています。

しかし、こうした実験のしくみは、どこかおかしいと思いませんか。

写真以外に手がかりがないのに、その人物に対する評価を求められた場合、他にやりようがないから外見的美しさという尺度に頼るということは考えられませんか。
他の要因を排除して純粋に外見の効果を調べるという実験のしくみ自体が、外見的魅力の効果を過大視させることにつながっているのではないでしょうか。

現実生活においては、顔写真しか知らない人とつきあうことなどないでしょう。
ここに、容貌はとても魅力的だが性格の悪い女性と、容貌はあまりパッとしないがとてもよい性格の女性がいるとしましょう。

周囲の人による評価は、当然後者のほうがよいはずです。
日頃のつきあいでその人柄をよく知っているのですから。
ところが、彼女らを全く知らない人に写真だけみせて、評価させたらどうでしょう。
前者のほうが好意的評価を受けるに違いありません。

結局、態度、しぐさ、性格、能力など、容貌以外の全ての条件が同じ場合に、容貌の魅力的な人のほうが得をするということがわかっているだけなのです。
現実には、容貌以外の全ての条件が同一などということはありえません。

こんなわけですから、魅力を構成する要因のひとつに固執せずに、いくつもの要因を広くみわたして、総合的に魅力アップすることを心がけたいものです。

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魅力的な女性の心理

どんな美人も「こころ美人」にはかなわない

男女の境界が薄れてきているとはいえ、男性は強くあることを、女性は美しくあることを相変わらず求められるところがあるのも事実です。

でも、男性も現代では、米俵をかつげるとか武芸に秀でるとかの筋力や闘争力の強さを求められているのではなく、心の強さを求められています。

女性の美しさの場合も、心の美しさを磨くことが求められるのです。

そうはいっても、女性として外見を気にしないわけにもいかないでしょう。

作家の宇野千代さんは、生まれつきの色黒をかなり気に病んだ時期があったそうです。
今なら小麦色の健康美という概念もありますが、色白が美人の条件とされた時代のことです。

「お嫁さんにしてくれる者なんかなくってもよい」
「顔のことなんか、夢にも気にかけないことにしよう」

などと悲壮な決意をするほど、色黒に対するコンプレックスは強いものだったそうです。

それがある日、白粉を塗ることで色黒が隠れることを知りました。
それ以来、化粧に凝るようになると同時に、コンプレックスも薄れていったそうです。
さらに彼女は、化粧で色黒を隠すだけでなく、顔の地肌を白くするために涙ぐましい努力をしました。

「まず、お釜に一ぱいの熱湯を沸かし、それをバケツに移して縁側に運び、双肌をぬいだ上半身を、モウモウと湯気の立つバケツの上において、フウフウ言いながら十五分間も続けて、湯気で蒸かしました。
こうして肌を蒸すと、肌の毛孔が全部あいて、毛孔の中に深く隠れていた色黒の原因になるものが、外へ出てしまう、と私は信じ込んでいました。
そして、たっぷりと蒸し終わってから、糠袋でゆっくりと顔をなで、幾度も幾度もぬるま湯ですすいで、―やっとお終い、という順序です。」
(『私のお化粧人生史』中央公論社)

この方法に効果があるのかどうか知りませんが、化粧で色黒という主観的欠点を隠すことで人生が明るく一変したというのはほんとうでしょう。
ただし、その後彼女が仕事ばかりでなく恋愛面でも大活躍できたのは、けっして化粧のせいだけでなく、内面からにじみでる人間的魅力あってのことだということは肝に銘じておきましょう。

不思議なことに、心の美しい人の顔は魅力的にみえるものです。

中身を知らない人物の顔写真は、客観的にみるしかありません。
各種の実験は、この次元で行なわれたものです。
それに対して、現実に付き合いのある人の顔写真は、主観的にしかみられないのです。
肉体的物質としての顔の背後に心が透けてみえてきます。
美貌の中に醜い心がみえれば輝きは失せるし、どうということのない顔でもそのなかに美しい心がみえれば自然に輝きが増してきます。

身体の整形手術より心の整形手術を必要とする人のほうが、はるかに多いのではないでしょうか。