失ってわかるもののありがたさ

失ってわかるもののありがたさとは

雨の日があって晴れる日があるから、晴れる日がよい。

それが神経質者にはわからない。

ただ神経質者は、晴れているのになぜかつらい。

彼らはステーキしか知らない。

ところがあるとき病気になる。

病気になれば梅干しとおかゆが体によい。

それがわからない。

神経質者はささやかな楽しみを知らない。

常に一億円の宝くじに当たらなければおもしろくない。

これが神経質的要求である。

ただどんな要求が通ってもなぜか生きるのはつらい。

神経質者はとにかく、つらい気持ちを相手のせいにする。

しかし相手のせいにしても人生の問題は解決しない。

彼らは「人生は容易であるべきだと思っている」時点で疲れ果てている。

嫌われることを恐れて無理しすぎ消耗したのである。

人は残念ながら、失うとありがたさに気がつく。

来る日も来る日も苦しみ悩んでいたある人が、ある人から「あなたは持ちすぎている」といわれた。

しかしその悩んでいる人はその言葉の意味が理解できなかった。

その悩む姿を見て、その人はさらに「あなたは欲張りだから」といった。

しかし悩んでいる人はその言葉の意味も理解できなかった。

病気にならない人に「健康のありがたみをわかれ」といっても無理である。

それはわからない。

もちろん頭では理解できるかもしれない。

しかし日々の生活で、自分の健康に感謝をする気持ちになることはない。

満員電車で通勤するときに「ありがたいなあ」という気持ちになることはないだろう。

電車に乗れるということはすごいことなのである。

ひとりでは動けなくなれば、そのありがたみは身にしみてわかる。

まして満員電車に乗れるなどということは、自分の体が自由に動かない人にしてみれば、ものすごいことである。

しかし満員電車に乗って通勤している人には、なかなか理解できない。

あるがん患者のケアをしている医師から次のようなことを聞いた。

言い尽くされた言葉であるが、誰もがそのときまで100%は理解できない言葉の一つが、『健康のありがたみ』という言葉である。

ある人が夜、酒を飲んで新橋駅のプラットホームから落ちた。

運悪くちょうど電車が来て、両足を失った。

足を失ってはじめて自分がどれほどいろいろなものをもっているかに気がついたのである。

「私には手がある」と絵を描きはじめた。

私の叔父は足を失って幸せになれた。

もっているものに気がついた。

足の自由を失う前に、手が自由に動かせることがどれほどすばらしいことか、叔父は理解できなかった。

健康のありがたみがわかれば、幸せになれる人はごまんといる。

心の悩みに苦しんでいる人は、肉体的苦しみを軽く考えている。

体が健康であることのありがたさを忘れている。

「患者が自分の生命に意味と価値を与えてくれるような一つの物をはっきりと意識すればするほど、彼自身の人格は前進し、またそれと共に彼の個人的な苦境は体験の背後に退いて行きます」

逆にいえば、「自分の生命に意味と価値を与えてくれるような」ものが意識できなければできないほど、目の前の苦しい体験にとらわれてしまう。

「困難そのものよりも、そこからいろいろな想像をふくらませることで心配したり臆病になったりしてしまうのです。中略。そういう考え方のパターンが出来上がってしまうと、そこからなかなか抜け出せない」

「私たちは、他人が掘った轍の中にはまりこんでは、その考え方に従えずに苦しんでいるのです」

がんになってはじめて、「がんになる前の自分がいかに幸せであったかに気がついた」といった人がいる。

しかしがんになる前に、がんではない自分の幸せには人はなかなか気がつかない。

がんになっていろいろな苦しみを味わって、はじめてその苦しみから解放されていた自分の幸せに気がつく。

ではどうするか。

それはがんになったいまでも、もっているものはたくさんある。

そのことに気がつくことであろう。

手が自由に動く。

しかし人は手が自由に動く幸せに気がついていない。

その生活の便利さに気がついていない。

そうしてがんになった自分がいまもっているものに一つひとつ気がついて、「そのことに感謝していくしかない」であろう。

それこそ「ない」ものではなく、「ある」ものに注意をするということである。

無気力になるような人は「目が見えることが、いきていくうえでありがたいことだ」といくらいわれても、なかなか気持ちのうえではわからない。

ある前立腺がんの患者が手術をした。

手術は成功したが、尿漏れに悩まされるようになった。

そして手術が成功しているのに、すっかり落ち込んでしまった。

しかし、そのときに知人から、同じ手術の結果を聞かされた。

知人のほうは手術後排尿困難におちいってしまっていた。

その知人は彼の尿漏れの話を聞いて、「よかったな」と彼のために喜んでくれたという。

そのときに彼ははじめて自分の幸せに気がついた。

自分のまわりでおきていることを皆あたり前のことと思っていた自分の傲慢さに気がついた。

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健康であることの大切さ

卑怯な人にだまされたことで、くやしくて眠れなかった人がいる。

ところがふとしたことで不眠症はなおった。

いまの自分の人間関係に感謝する気持ちが出てきたのである。

こんないい人たちと自分は生きていたのだと、いまつきあっている人たちに感謝をする気持ちが出てきた。

平穏に生活しているときに、「あなたはいい人を友だちにもっている」といくらいわれても、しみじみと感謝をする気持ちにはなれない。

しかし、ひどいだまされ方をすれば、その気持ちは出てくる。

人は、だまされたときにくやしい。

そういうときに「いい人を友だちにもっている」ことに、しみじみとした感謝の気持ちをもつことができれば充実した人生を送れる。

失うことなしに「ある」ことに感謝することはない。

それが自分自身を失って生きている人である。

もうひとり卑怯な人にだまされたことで、悔しくて眠れなくなった人がいる。

そして高齢になってからあるとき、ふとしたことで、不眠症がなおった人がいる。

その人は八十歳をすぎて死を意識するようになっていた。

そしてあるときに自分の人生を振り返り、「私を幸せにした人、不幸にした人」と、二種類に分けて考えた。

残念ながら「私を不幸にした人」のほうが多かった。

「私をだました人」のほうが多かった。

しかしそのときふと、「もしあんな人たちのように、人をだます人生を送っていたら、死ぬ前にきっと、自分は自分の人生を後悔するだろうなと感じた。

そして「ああ、自分はあんな卑怯な人生を送らないでよかった」と思った。

そして死を前にして自分の人生を後悔するという最大の苦しみから解放されていることに気がついた。

もともと人間はそれぞれ苦しい宿命を背負って生まれてきている。

苦しむことでその背負っている宿命を乗り越えることができる。

神経質者はその逆をいってしまった。

苦しみから逃れようとがんばった。

そして不幸は続いた。

彼らのしたのは無意味な努力である。

足が不自由なときに優越を求める。

無駄な努力である。

そして足が自由であれば苦しまなくてよいと解釈する。

この解釈が自罰である。

足が自由でも苦しみはある。

親が心理的に健康な人でも苦しみはある。

苦しみから逃げるとさらに大きな苦しみにおちいる。

それをしてしまったのがアルコール依存症をはじめとするいろいろな依存症である。

くやしさに苦しめられているときに、理解しやすい気持ちが復讐心である。

しかし、くやしさの苦しみから解放されるのは、復讐心の反対の感謝の気持ちである。

それでは、なぜ人は当たり前のことに感謝ができないのか?当たり前のことに感謝する人と、感謝しない人の違いはどこから生まれるのか?

それは、その人が自分自身で生きているかどうかである。

その人が自分として生きているかどうかである。

他人の仮面をかぶって生きている人、他人が不当な重要性をもってしまっている人、人生の重心が他人にいってしまっている人、他人のお気に入りになるのに努力している人、そういう人たちは、当たり前のことから生きる意味を感じ取ることはできない。

「自分自身であることの権利を信じつつ、敢えて目標を定め意図を明確にするならば、人生を心配ごとで曇らせるようなことはないでしょう。

人生にはあなた本来の資質に反するような義務はないのです。

あなたがあると思い込んでいるだけなのです」というシーベリーの言葉を実行できている人かどうかである。

これが実行できないなら、当たり前のことになれて幸せを感じることができないで、死ぬまで生きている不満に苦しみ続ける。

「よくも、あそこまで俺をひどくだましてくれたな」と、そのだました人に心を奪われて、くやしいだけの人生を送る人もいる。

それに対して「私も多くの人にだまされたけど、逆にまた心から誠実に私を愛してくれた人もいた」と、感謝の気持ちをもてる人もいる。

それは自分自身で生きられた人である。

「もし自分自身であり得ないのなら悪魔になったほうがましだ」とまでシーベリーはいうが、もし自分自身であり得ないのなら、くやしさでやつれ果てることは間違いないだろう。

そして自分自身として生きる以外に感謝の気持ちをもつことはない。

生きる意味を感じることはない。

自分でない自分で生きる人は、心の底に敵意をもつ。

自分が自分自身を裏切ったからである。

デューク大学の心理学者のジョン・ベアフットは、1950年代にノース・キャロライナ大学の医学部または法学部に在籍中、MMPIという心理テストを受けた医師と法律家について研究を行った。

「二十五年にわたる追跡調査期間に、敵意で高得点を挙げた医師の冠動脈疾患の罹患率は、得点の低かった医師の四ないし五倍にも上った。

それどころか、二十五歳の時点で敵意で高得点を挙げた者のなかで、医師では14パーセント、法律家では20パーセントが五十歳までに死亡していた。

これとは全く対照的に、得点の低かった者で50歳までに死亡していたのは、医者では2パーセント、法律家では4パーセントにすぎなかった。

法律家についてさらに研究を進めた結果、敵意のもつどのような側面が将来の高い死亡率に結びつくのかが明らかになった。

それは人間一般に対して不信感をもっていること、頻繁に怒りを感じること、あからさまに攻撃的な態度を取ることの三つの側面である」

敵意は、あらゆる死因によって死亡する危険性の高さを示している。

人間には社会的偉業と、心理的偉業とある。

社会的に貢献した人はたしかに偉大である。

しかしくやしさを乗り越え、感謝の気持ちをもった人は人生の偉業を成し遂げた人である。

まとめ

大切なものは失ってからわかる。

健康のありがたさがわかれば幸せになれる人がたくさんいる。

人間関係の環境が変われば今までの人間関係のありがたみがわかる。

背伸びしない等身大の自分で生きなければ幸せにはなれない。