女性の魅力を引き出す心理

自分だけのキャッチフレーズをもつ

自分はいったい何を考え、何をしたいのか、社会のなかでどんな位置を占め、何をすることを求められているのか、この先どのように生きたいのか、どう生きるのが最も自分らしいのか、などといったことを踏まえて、「私はこういう人間である」というイメージが鮮明に描かれたとき、それがあなたのアイデンティティとなるのです。

今は、生き方に選択肢の多い、自由な時代です。
あれもしたい、これもしたい、ああいう生き方にもあこがれるけれども、こういう人生も捨てがたい、ということになりがちです。
ひとつの道を選択することは、他の可能性を捨てることになります。
たくさんの魅力的な生き方を前にして、余裕のある限り自己定義を先延ばしにしたい、複数の可能性を残したまま、もう少しフラフラしていたいという人が増えてくるのも当然のことだと思います。

大人はこうあるべきである、女はこうあるべきである、○○家の嫁はこうでなくてはいけない、というように伝統的価値観による拘束が強い時代と違って、現代はアイデンティティをめぐる迷いが生涯続く時代といってもよいでしょう。

自由があるぶん、迷いつづけなければならないのです。

ところで、自己イメージを構成するひとつひとつの要素は、成長とともに刻一刻と変わっていくにしても、全体を貫くキーワードのようなものをみつけることはできないでしょうか。

マスコミを通して、あらゆる商品のコマーシャルが流れてきます。
個々の商品の性能や見映えにはいくつもの特徴があるはずですが、それを片っ端から並べられては何も頭に残りません。
大雑把なものでいいから、何かコンパクトにまとまったキャッチフレーズがあったほうが、強く印象に残りやすいのです。

「プロの香り」と香りのよさを謳い文句にする缶コーヒー、「技術、頂点へ」と技術のすばらしさを強調する時計、「焼けたふりして、白い肌」と美容効果をアピールする女性用化粧品「森へ、つづく部屋」とリフレッシュ効果を訴えるリゾート・ホテル・・・。
雑誌をパラパラめくってみると、ありとあらゆる商品のキャッチフレーズが目にとびこんできます。

いくつもある自分の特徴のなかから、とくに自分にとって大切なもの、これを失ったら自分ではないというようなものをさがしてみましょう。

それは、性格や能力、勉強や仕事、趣味や特技など、何でもよいのですが、できるだけ内面との結びつきのあるものにしましょう。
「グラマーなピチピチギャル」「美形でもてるタイプ」のように外見的な魅力を無意識のうちにキャッチフレーズとして採用している人もいると思いますが、ちょっと危険なやり方です。
歳を重ね、容色が衰えかけたとき、大きな危機に見舞われることになりかねません。
自分を支えるものを失うことになるわけですから。

同様に、「○○君の恋人」「△△社長の妻」のように、身近な他人をもとにキャッチフレーズをつくるのも危険です。
恋人と一緒にいるだけが生きがいの女性は、しだいに色あせてしまうでしょう。
恋人との関係が壊れたときには、自分がなくなってしまいます。

恋人としてでも妻としてでもよいのですが、どんな人柄でありたいかという点を反映したキャッチフレーズでないと、魅力アップにはつながりません。

「周囲の人をホッとさせるあたたかさ」
「何事にもめげない根性の人」
「いつも笑顔で気持ちよく」
「ユーモア忘れぬゆとりをもって」

のような性格面をアピールするキャッチフレーズは、自己コントロール能力を鍛え、魅力アップに導いてくれるはずです。

「これさえしていれば幸せ」といえるものがありますか

「一日一時間でもいいから、小説を読めたら幸せ」
「毎晩詩作をする時間がとれるのなら、どんな仕事にも耐えられる」
「経済的に苦しくたっていいから、文章を書く仕事がしたい」
「儲からなくていいから、パンを焼いて暮らしたい」

のように、これさえしていれば幸せといえるものをみつけたら、それをキャッチフレーズにすればよいのです。
それこそ最高のキャッチフレーズになるでしょう。

独特の音楽で知られるシンセサイザー作曲家・喜多朗は、23,4歳の頃にシンセサイザーと出会い、「これだ」と思った。
以来、昼間は板前、日雇い労働、地質調査などのアルバイトをやりながら、夜はシンセサイザーの作曲に没頭したそうです。

「私には音楽があった。だからどんな苦労もできた。金はなくても心豊かでした」

アイデンティティの中心を物質的なものや肉体的なものに置かずに、内面的なものに置けば、可能性は限りなく広がり、どこまでも魅力的に成長していけるでしょう。

自分の内面的な貧しさにそれとなく気付きつつ、あえて何かに取り組む気力もない、空虚な自分と向き合うのは怖い。
そんなときは、物質的なものや社会的地位のようなものをキャッチフレーズとして採用することで、かろうじて自分を支えるということになりがちです。

最高級のブランドものを身につけることを誇る人、DCブランドやそのときどきの流行の見かけだけのアイデンティティで自分を支えようとしているのです。

それは、商品そのものの機能的特徴でなく、タレントの人気で売り込もうとする商品広告のようなものです。

どんなブランドを身につけるか、どんな流行を取り入れるかで自分の個性を表現するという面もたしかにあるのでしょう。
しかし、本人自らが苦心してつくりあげたキャッチフレーズと違って、内面的なその人らしさを感じさせません。

内面と切り離されたキャッチフレーズは、人を成長に導いてはくれません。
魅力的に装う術だけでは、中身はちっとも変わっていかないのです。

他人がもっていないもの、この世にただひとつしかない特注品にこだわったりするのも同様です。
流行を追うのと一見反対にみえるかもしれません。
しかし、持ち物で自他を差別化しようという発想は、中身は棚上げして包装紙で自分の価値を支えようとする点で、ブランド志向や流行の追随と何ら変わりはないのです。

女らしさ・男らしさ

みなさんのなかには「みんなから”女らしい”といわれる女性でありたい」というキャッチフレーズをもつ人がいるかもしれません。

私たちは普段の会話でもよく「あの人は女らしい人だ」「男っぽい人だ」というような表現をしますが、ここで女らしさとは何かについて、じっくり考えてみましょう。

女らしいといわれる女性がいます。
情熱的で、肉感的で、男性を挑発するような色気をムンムン発散している女性。
女らしいといわれる女性の一典型です。

おとなしくひかえめで、人に対する思いやりにあふれ、献身的に人の世話をする女性。

これも女らしいといわれるタイプです。

同じくおとなしい女性でも、わがままで気まぐれで、ちょっとしたことにも傷つく繊細さをもつところが女らしいとされるタイプもあります。

女らしさが全く感じられないといわれる女性もいます。

態度、しぐさ、言葉遣い、どれを取りあげてもがさつさが目立つ、がらっぱちタイプもそうですが、魅力的な女性でありながら、女らしさを感じさせない人もいます。
たとえば、すがすがしい少年のようなタイプです。

女らしい人、中性的な人、いろいろいますが、女性であるかぎり、誰もが自分のなかに女を抱えて生きているはずです。
女を感じさせないといわれるタイプの女性でも、自分のなかに眠る女を多少は意識することがあるのではないでしょうか。

もちろん、自分のなかの男の部分が気になってしようがないという女性だっていることでしょう。

女性であるからには、生物学的に女であることは否定のしようがない事実です。
いかに男女が対等に肩を並べる世の中になっても、筋肉や骨格といった肉体的な性差の存在は認めないわけにはいきません。

そんなことはない、女性だって身体を鍛えれば、そこらのヤワな男性よりずっとたくましい肉体をつくれる、と言われるかもしれません。
それはそうなのですが、同じように鍛えあげた男性と比べたらどうでしょうか。
陸上競技や水泳、スケートのような筋力スポーツをみるかぎり、最高記録の男女差は歴然として存在します。

これに対して、女性が心理的に女であるかどうかとなると、ちょっと微妙な問題です。

ボーヴォワールが「人は女として生まれるのではない。女になるのだ」と言ったように、心理的な女性性、いわゆる女らしさは、後天的に環境の力によってつくられるところが大きいと思われます。

世の中に広く浸透している女らしさ・男らしさのイメージがあります。

それが、女性が心理的な女らしさを、男性が男らしさを身につけるよう圧力をかけるのです。

女らしさ・男らしさのイメージに関する内外の調査結果をみると、女らしさおよび男らしさのイメージは、つぎのような要素から成っているようです。

女らしさ・・・気持ちがこまやか、優しい、控えめ、素直、文学や芸術を愛好する、清潔

男らしさ・・・積極的、意志が強い、論理的、独立心が強い、競争心が強い、働き者、指導力がある

やっぱり私は女らしいのだ、と納得する人もいるかもしれません。
そんな勝手に女らしさの内容を決めないでほしい、これでは私は男になってしまう、と抗議する人もいるでしょう。

女性が心理的な男らしさを身につけていたとしても、一向にかまわないのです。
ここで重要なのは、多くの人が女らしさ・男らしさに関して、上記のようなイメージをもっているという事実です。
そして、この線にそって、男女別のしつけがなされるということです。

女らしさはつくられるもの

私たちは家庭や学校をはじめ、あらゆる場面で、女性は女らしく、男性は男らしくあるようにとの圧力を受けて育ちます。

ある調査によると、生後十三カ月の乳児で、すでに母親への依存度に性差がみられます。

たとえば、母親との身体的接触は、15分間に男子が平均3.9回、58.81秒なのに対して、女子は8.4回、84.6秒というように、明らかに女子のほうが多いようです。

母親から身体的に離れているときも、その距離は女子のほうが小さいのです。

このような母親に対する女子の依存性、逆にいえば男子の自立性をつくるのは、それに先立って行なわれる親の側からの躾と考えられます。

その証拠に、先ほどの調査によれば、生後6カ月の時点で、母親の扱い方が男の子と女の子とで違っていたのです。
たとえば、母親は男の子に対してより女の子に対してのほうがよく話しかけるし、身体的にもよく接触します。

つまり、男の子のほうが放っておかれるのです。

別の調査によると、生後三カ月では、大部分の親はまだ中性的な玩具を与えていますが、9カ月になると、女の子では女児用玩具が三割、男の子では男児用玩具が一割を占めるようになります。

玩具以外にも、名前、衣服、髪型など、性別を意識させるものは無数にあります。

子育てを経験した人には、赤い服を着せていると、「女の子ですか?」と言われ、青い服を着せていると、「男の子ですか?」と言われるといった経験をもつ人が少なくないはずです。
私も、性別が判断しにくい子どもに話しかけるときには、無意識のうちに服の色を参考にしているような気がします。

ことばづかい、遊び方、行儀作法なども、性別により異なったものを期待されます。
こうして親をはじめとする社会的環境の圧力を受けることで、しだいに性別に基づいた自己イメージが形成されていくのです。
これがジェンダー・アイデンティティとよばれるものです。

ジェンダー・アイデンティティは、生後2~3歳くらいまでに確立され、子どもはそれに基づいて「らしさ」(女の子なら女らしさ、男の子なら男らしさ)を身につけていきます。

たとえば、5歳の子どもに自由に玩具を選ばせると、女の子の56%、男の子の76%が自分の性にふさわしいとされる玩具を選択するという実験結果があります。

性格や行動に関しても、女の子に対しては、生意気なことを言わずに従順であれ、礼儀正しく、身のまわりのことはきちんとするように、素直で優しくあれと働きかけます。
男の子には、元気よく外で遊ぶように、臆病にならず勇敢であれ、細かなことにこだわらず大胆であれ、強い意志をもって行動するようにと圧力をかけます。

(女性はこうあるべき、男性はこうあるべきという見方)に基づく扱い方の違いが、従順で優しい女性に、そして力強く行動力あふれる男性に仕上げていくのです。

こうして、積極的、攻撃的、冒険好き、野心家で、論理的、科学的で機械好きで、意志が強い男らしい男性と、繊細で人の気持ちがよくわかり、優しく家庭的で、感情が豊かで、臆病、ひかえめといった性質を備えた女らしい女性が多くなるのです。
もちろん、こういった女性や男性が多いところから、それに応じた社会通念ができあがったという側面も無視することはできません。

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女らしいうるおいを失った女性に魅力はない

いずれにしても、これら女らしさ・男らしさのイメージは、あくまでも平均像だということを忘れてはなりません。
女性で機械いじりが好きだったり、科学的思考が得意だったりする人もいれば、男性で文学・芸術を愛好する人がいるということに異議を唱える人はないでしょう。

同様に、女性でありながら、積極的で行動力があり、意志が強く、精神的にたくましい人もいれば、男性にも繊細で人の気持ちがよくわかり、きめ細かい心配りのできる優しい人はいます。

ところで、女らしさを多くもつ女性は、女らしさに欠ける女性と比べて、積極的、意志が強い、論理的思考に強いといった男らしさをもっていないのでしょうか。

女らしさ・男らしさに関する心理テストの歴史をみると、以前は一次元の尺度で測定されていたのが、しだいに二次元の尺度が用いられるようになっています。

ひとつのモノサシの一方の極に女らしさを、他方の極に男らしさをおくのではなく、別々のモノサシで女らしさと男らしさをとらえるわけです。

前者では、女らしさを充分にもつ人は男らしさをあまりもたないことになります。
それに対して後者では、女らしくて男らしくない女性や女らしさに欠けるが男らしさをもつ女性ばかりでなく、女らしさ・男らしさとも欠ける女性や女らしさ・男らしさをともに充分身につけている女性も出てきます。

さらに、女性も女らしさと同時に男らしさ(従来そうよばれている性質)をもち、男性も男らしさと同時に女らしさをもつという考え方が主流となってきました。

それぞれの性質をどの程度もつかは人によって異なり、それが個性となるのです。

できることなら、女性であれ男性であれ、好ましい女らしさと好ましい男らしさ(何が好ましい性質であるかは人によって意見の分かれるところですが)を開発してのが望ましいのです。

誤解のないように言っておきますが、男女とも中性化していくのがよいというのではありません。

女性も男性もなく、みんなが同じ性質を身につけるべきだというのでもないのです。

男女ともみな自分と似たような性格をもつ社会など、想像しただけでゾッとするではありませんか。

要は、女らしさ・男らしさの枠にとらわれすぎずに、自分の素質と理想にそって個性を伸ばしていけばよいということです。
たとえば、女性であれば、女らしさの枠内に閉じこもる必要はないのです。
男性的要素を強くもつ女性なら、世にいう男らしさを無理に抑えずに、積極的に力強く生きればよいでしょう。

その場合、最低限の女らしさを保ったほうがよいと思います。
バリバリ仕事をし、社会的成功を追い求めるのもよいのですが、あまりがさつにならない、攻撃的になりすぎない、人の気持ちに対する配慮を忘れないなど、男らしさのマイナス面にブレーキをかけるだけの女らしさはもちたいものです。

反対に、女性的要素を強くもつ女性は、堂々と女らしさに磨きをかければよいでしょう。

女性の社会進出が目立つ今日、いわゆる女らしさを大切にする女性は時代遅れでカッコ悪いとする見方が一部の女性の間にみられます。

男性的領域への女性進出は、女性のなかに眠る男性的要素の再評価をもたらしましたが、その勢いのなかで、女らしさの価値が不当に低く評価されるきらいがあります。

そうした風潮にさらされて、女らしさを無理に抑圧している女性は、せっかくの自分の長所を生かせずにいるのです。
自信をもって自分のなかの女らしさを解き放てば、よりいっそう輝くことができるはずです。

女らしさの開発は、けっして男らしさの開発を妨げはしません。
両方のよい面を発展させれば、人間の幅が広がり、より魅力的な女性になっていけるでしょう。

苛酷な男らしさの枠にがんじがらめにされて「もう我慢できない」とそこからの脱出を計ろうとする男性がいる一方で、その肩代わりをするにふさわしい女性が社会進出をめざしています。
心理的に女らしさがまさる男性もいれば、男らしさのまさる女性もいるのですから、個性が尊重される社会では、そうした逆転現象が一部に生じてくるのも必然でしょう。

ただし、女性には、女らしいうるおいを忘れないように願いたいものです。
すりきれて輝きを失った男性と同じ道をたどりたいというのなら仕方ありませんが、それでは男性社会の行き詰まりから何も学んでいないことになります。
当然、一部の男性の肩代わりはできても、魅力的女性からははるかに遠い存在になってしまいます。

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自分らしさを愛していますか

女性の魅力には、さまざまな要因があります。
それらが複雑にからみあって、個々の女性の魅力水準を決定しているのです。

でも、もし他の要因に大差がなければ、気力の充実した女性のほうが、生気の欠けた女性よりも魅力的であるにきまっています。

いえ、たとえ美人でスタイルがよいというように容姿がまさっていても、何かに夢中になったり全力を尽くしたりということのない女性は、どうも霞んで見えるものです。

気力のみなぎるいきいきとした表情は、外見がパッとしないとか、性格がちょっときつすぎるなどといった欠点をうっかり見逃させるほどの輝きを発します。

そんなことを言われても、学校の勉強は苦手でとても夢中になれないし、運動神経が鈍いから部活に燃えることもできないという人もいるでしょう。
あるいは、総合職の人と違ってコピーとり程度の仕事しか与えられないのだから、全力を尽くそうにも尽くしようがない、という人もいるかもしれません。

全力を尽くすべき対象は本業に限るという発想は、おそらく小・中学校時代に身につけたものでしょう。
学生の本業は学校の勉強であり、会社勤めの人の本業は会社の仕事であることはまちがいありません。

しかし、できる限り本業から気をそらさないようにという子ども時代の教育効果から、そろそろ自由になってもよいのではないでしょうか。

もう自分の判断にしたがって動いても、大きな間違いのない年齢に達しているはずです。
それに、そもそも学校教育の現状は、生徒ひとりひとりの個性を伸ばす方向には向かっていないのです。

最低限やるべきことをきちんとやっていれば、あとは趣味だろうが遊びだろうが本業と何の関係もない自分勝手な勉強だろうが、何をやってもかまわないのです。
どんな形でもいいですから、ひとつ自分の世界をつくってみませんか。

やりたいこと、自分の世界を持つ人には、心の余裕があります。

心に張りのある時間をもっていることが自信とゆとりを生み、人に対する寛大さを生みます。

会社の仕事以外のものに打ち込むべきだ、というのではありません。
仕事が夢中になる対象となれば、それは申しぶんのないことです。
ただし、その場合も、昇進・昇給など他人による評価の奴隷となって働いていると、いつか行き詰まるときがきますし、人間としての輝きも失われていくものです。

大切なのは、自分で自分を評価することです。
自分の仕事・自分の存在が職場になくてはならないものだということを周囲の人たちが了解してくれなかったら、それは寂しいに違いありません。
がんばってよい仕事をしたつもりなのに、それに見合った評価が与えられないときなど、腹立たしいほどに拍子抜けするものです。

しかし、考えてみると、周囲の人ひとりひとりの仕事内容や仕事ぶりに細かな関心を払い、その気持ちにつねに敏感であって、さらにタイミングよくほめたり励ましたりなど、ほとんど不可能なことではないでしょうか。
あなた自身どうですか、周囲の人ひとりひとりに対して、そんなふうに心配りしたり、タイミングよく反応したりしていますか。

なかにはそれができるだけの器量を備えた人もいるでしょうが、自分の仕事に専念していたら、それほどの余裕がないのが普通です。
多くの人は、自分のことで精一杯なのです。
自分のしたことに対する適切な反応を周囲の人に期待するのは、自己中心的な甘えというものです。

自分の仕事が何かの役に立っていることを自覚できれば、やる気も湧いてきます。
昇進や昇給で報われなくとも、前よりもうまくできるようになった、速くできるようになったなど、自分に力がついてきていることが実感できれば、さらにやる気が湧いてきます。

今はやりの派遣社員なども、昇進や昇給より自分の能力が生かせるところにひとつの魅力があるのでしょう。
たとえ短期間の仕事でも会社が自分を必要としている、特定の技能を売り物にいろいろな会社を転々としているうちに、プロとしての力がついてくる。
そんな思いが充実感を生むのではないでしょうか。

何かの役に立っていると感じることと、なんらかの技能に熟達し自分が成長しつつあると感じること。
この二つの少なくともどちらかがあれば、意欲をもって今の生活に取り組むことができるはずです。