安心や感謝を与えることで安心や感謝が返ってくる

与えると返ってくるとは

「与える」とは自己犠牲的な姿勢ではない

孤独を「何か」で満たそうとしても「もっと、もっと」となるばかりで、かえって孤独になってしまいます。

なぜかと言うと、何かを得ようとするときには、常に「足りない自分」「満たされていない自分」を意識してしまうからです。

「今」との「つながり」を感じることが、「ひとり」を楽にする鍵だということです。

「今」とつながっているときは、何かを得ようとしていません。

何かを「得るために」という目的がついた時点で、「未来の結果」に目が向いていることになり、「今」とのつながりが絶たれてしまいます。

ですから、孤独を感じたら、何かを得ようとするよりも、与えることを考えたほうがよい、ということになります。

これは自己犠牲的な姿勢で生きていくという意味ではありません。

自己犠牲的な「与える姿勢」の正体は、「得る姿勢」です。

相手を褒めてあげたときに感謝してほしいと思っている人は、感謝を「得よう」としているのであって、ただただ温かい心を与えているわけではないのです。

このあたりの区別は簡単です。

相手から期待通りの反応が返ってこなかったときにムッとする、自分が「与えた」後の相手の反応が気になる、という人は、「得たい」人たちです。

一方、「与える」人は、与えている時点で心が温かくなっており、その結果についてはあまり重視しません。

よい反応が返ってくればもちろん嬉しいですが、嫌な反応が返ってきても、さほど気にはなりません。

例えば「ひとりでカフェに入ったとき(買い物時)、店員さんに一声かける」というものですが、「与える姿勢」の人の場合、店員さんから反応がなかったとしても、「ああ、知らない人から急にこんなことを言われて緊張してしまったのかな」「シャイな人なのかな」「まあ、若いし」などと考えることができるでしょう。

あるいは、単に「気にしない」という人もいると思います。

ポイント:「与える」人は、与えている時点で満足しており、結果は重視しない

安心や感謝は与えると返ってくる

自分が得たいものを与えてみる

与えるものは何でもよいのですが、自分が得たいものを敢えて与えてみる、という考え方はわかりやすいと思います。

自分が与えるものは、同時に自分にも与えられるからです。

例えば、とても温かい気持ちで何かに接すると、自分自身も温かい気持ちになっているものです。

このとき、方向としては確かに相手に向かって温かい気持ちを与えているのですが、自分自身も同じものを受け取っているということがわかります。

ですから、温かさがほしいと思っている人は、敢えて相手に温かい心を向けてみるとよいと思います。

そういう観点から、「大勢でいると平気だが、ひとりになると不安でお酒を飲み過ぎてしまう」というアルコール乱用のケースを例にとってみましょう。

「ひとり」の不安を解消するために必要なのは、「安心」です。

友人や知り合いに囲まれている状況では、「安心」を感じられるのでしょうが、ひとりになると寂しくなり「安心」を得られなくなるので、不安になって、その不安を感じなくてすむように、お酒をたくさん飲んでしまう、という構造です。

しかし、ここでも「得る」から「与える」に関心を移すだけで気持ちが楽になる可能性があります。

「安心を得たい」という「得る」方向の気持ちは、「もっと、もっと」とエスカレートしがちです。

それが、過剰な飲酒につながっているのでしょう。

しかし、「与える」ことに目を向けると、案外簡単に安心を手に入れることができるものなのです。

一人暮らしの部屋の中で、与えることのできる「安心」は何でしょう。

例えば、部屋の掃除をする、ということを考えてみましょう。

通常、私たちは掃除をする時、どちらかというと「散らかっている」「掃除が行き届いていない」「自分の書類が混乱する」という「足りないところ」が気になって、あるいは義務感や必要性に迫られて行うと思います。

不安でたまらないときには、「部屋まで散らかっている」「全然掃除が行き届いていない」と、何もできていない自分にもっと不安になるかもしれません。

あるいは、「ひとり」で掃除をする自分の姿に、さらに孤独を感じるかもしれません。

しかし、「いつもありがとう」「この頃あまり掃除してあげられなくてごめんね」「またきれいになった部屋で過ごしたいわ」というような感謝の気持ちを持って、部屋を愛おしく思いながら掃除していく、つまり「与える」心で部屋を掃除していけば、義務感から行う掃除とは全く違う感覚が得られると思います。

これは、部屋に「安心」を与えているということになります。

そして、「いつもありがとう。しょっちゅうはできないけれども、ちゃんと掃除してあげるから大丈夫だよ」というふうに「安心」を提供しながら掃除していけば、同時に、部屋をそんなふうに愛おしむことができる自分に安心していくことができるはずです。

ここでも、相手に与えるものは、そのまま自分も受け取ることができる、ということがわかります。

感謝の気持ちを持って接すれば、自分も感謝が持つ温かさを受け取ることができるのです。

また、部屋を安心させる気持ちで掃除をすれば、自分も安心を得ることができます。

あるいは、観葉植物や、ハーブなど食べられる植物に水をやっていくのもよいでしょう。

愛おしいと思いながら水やりをすると、自分も愛おしさを受け取ることができますし、植物の小さな成長に気付いてさらに温かい気持ちになるかもしれません。

自分が育てた植物を食べるときには、ジャンクフードをドカ食いするときと全く違う感じ方になることがわかると思います。

小さな寄付をしてみるのも、自分の小さな部屋からから、世界の遠く離れたところの人たちに何かを与えられる、すばらしい機会です。

額は少なくとも、つながりを感じられるはずです。

そして自分自身の心も温かくワクワクするでしょう。

コンビニに置いてある寄付金箱への匿名寄付であれば、文字通り全く見返りを求めないわけですから、自分の心を温める最強の手段にもなります。

しばらく話していなかった人に電話してみるのもよいでしょう。

これは、相手から「安心」をもらうためではなく、自分が相手に「つながっているよ」「気にかけているよ」という「安心」を与えるためです。

もちろん、そんな温かい気持ちで電話をすれば、自分自身も温かい気持ちになりますね。

相手がいろいろと愚痴を言ってきたとしても、「そうか、大変なんだね」と温かい気持ちで聞いてあげれば、自分が受け取るのは「愚痴の重さ」ではなく「温かさ」ということになります。

話題が愚痴であろうと何であろうと、自分に返ってくるのはその内容ではなく、「自分自身が相手に向き合っている姿勢」そのものなのです。

ポイント:「安心」を与えると「安心」が返ってくる

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感謝の気持ちを与える

孤独を満たそうと「何か」を求めても、「もっと、もっと」になるだけです。

しかし、ことの本質は、何かそのものにあるわけではありません。

実は、同じ「何か」をするのでも、その姿勢を「得る」から「与える」に変えるだけで、魔法のように孤独が解消されるものです。

そうは言っても、「与える」という概念がわかりにくいケースもあるでしょう。

もし「与える」がわかりにくければ、「感謝する」でもよいと思います。

「感謝する」ということは、感謝の念を「与えている」ということになるからです。

例えば、買い物。

「孤独の解消」を得ようとしてしまうと、買い物依存になって、どこまでも満たされない、ということになってしまいますが、買い物は貴重な「出会いの場」。

商品には、いろいろな人のアイディアが詰まっていますし、高価なものになれば、職人さんの心もこもっています。

買おうと思ったものとの出会い、自分のところに来てくれる喜び、そんなことを感じていれば、包装紙を開けずに放置したりせず、大切に使っていくことができるでしょう。

お金はかかっても、本当に愛せるものを少しだけ買いましょう。

それが、自分の生活を結果として守ってくれることになるのです。

この場合は、出会いに感謝し、ものにも感謝していることになります。

あるいは、アルコール。

飲酒そのものは、本来食文化と密接にかかわっているもので、薬物依存のように簡単に切り捨てるのも難しいですね。

お酒を飲むときに、それこそ人生をかけて作ってくださった杜氏さんへの思い、その原料となった米を作ってくださった農家の方への思い、などを思い描ければ、十分感謝できるのではないでしょうか。

そういう人たちは、自分たちが作ったお酒は、飲む人の人生を豊かにすると信じて日々仕事をしてくださっているもの。

まさか「発散」のために、罪悪感とともに乱用される、なんて思って思っていないでしょうね。

アルコールへのダラダラとした依存を断ち切るには、「我慢する」よりも、むしろ「思い切り高価なもの(希少価値の高いもの)を買ってみる」のも一つの手です。

どれほど原料を選び抜いているか、どれほど丁寧に手をかけられているか、どれほどの文化に支えられているか、などを考えてみるのです。

作られる過程を学び見学するのも役立つでしょう。

作っている方たちが、どれほどの愛着と誇りをもって作っておられるかがよくわかるからです。

そこまで「つながり」を感じれば、それをただゴミのように消費する、という意識からは離れることが容易になると思うのです。

ストレス食いはどうでしょうか。

「今日はストレス食い」と宣言できる場合は、ジャンクなものでも構わないと思います。

明日の体調は最悪、太る、ということを覚悟のうえで、儀式化して「ストレス食い」を行うのは、行事としてはよいと思います。

でもひとりの空間でそれをするのも難しいでしょう。

宣言する相手はいないし、自分に宣言しても、罪悪感にかき消されてしまうからです。

「今日は食べるしかない」と思ったら、できるだけ手のかかったものを探してきましょう。

地方特産のものなど、知識がつくものもよいですね。

「ふーん、こんなふうに考えて作られたものなんだ。しかも、おいしい」と思いながら食べることができたら、結果として食べ過ぎになるとしても、十分「ストレス→つながり」への転換ができていると思います。

ポイント:感謝の念を与えることで、ストレス発散が「つながり」の認識にかわる

まとめ

与える人は与えた時点で満足するので結果を待ちません。

欲しいものを与えてみるとそれが返ってきます。

例えば、安心を与えてみると、安心が返ってきます。

また、感謝を与えれば、つながりができ、人付き合いが楽になります。