完璧主義を止める

なぜ完璧主義になるのか

完璧主義をやめるには、まず「私たちは本質的に社会的な存在だから、その癖は社会現象」だと理解しよう。

他者との関係を通して人格という重要な面を満たすのだから、私たちはみんな社会的存在なのだ。

もちろん、人間一人ひとりは個人的存在だが、人間関係によって大きなまとまりをつくる。

健全な「ほんとうの自分」とは社会的自己をいう。

社会的自己として自分を見た場合、最もすばらしい瞬間とは、ほかの人と調和しているときだ。

一緒にやるべきことに向かっている、ダンスに興じている、チームでスポーツをしている、誰かの著書を読んでいる、ピクニックやパーティに行くといったときには、深い充実感があることに気づくだろう。

もちろん、自分だけの満足のために何かを経験し、達成することはある。

だが、それらの真の意味は、他者と共有してはじめて発揮される。

たとえようもなく美しい夕日にうっとりしたら、家族や友人にそのことを話したいと思うのが当然だ。

表彰されたり、会社で年度最高の売り上げを達成した、ホームランを打った、見事なブルーベリー・パイを焼いたといった、あなたにとって意味深い出来事について話してもらえなかったら、相手は寂しいし、満たされない気持ちになる。

裏切られたとさえ感じるかもしれない。

また、他者とのかかわりで生活が成り立っているという点で、私たちはみんな社会的存在だ。

よくも悪くも、直接あるいは間接に、私たちは人生にかかわる人たちとダイナミックな共同社会をつくっている。

亡くなった人も、生きている人も、他者はあなたに絶えず影響を与えていて、意識、無意識の中の記憶を通じて、生き続けていく。

「今ある自分になったのは自分ひとりの力ではない」という点でも、私たちは社会的だ。

誰もが、家族や友人そして世間から、自分が人間であり、考え、創造し、言葉を使い、社会の一員として、もって生まれたスキルを伸ばすことを学んできた。

また、人間の価値や行動、達成度といったものを判断する基準を教わるのは世間からだ。

そうした基準がなかったとしたら、自分に対する期待を何におけばいいか考えられないだろう。

まさにそこが、完璧主義の始まりだ。

他者が定めた基準に自分を完璧に合わせようと、懸命になるのだ。他者とは、人生を完成させる力になる人、影響を与えながら私たちの中に住みつく人、あるいは説明のつけようがない絆で結ばれた人たちだ。

結局、完璧であろうとすることは、そうした人たちを喜ばせることによって自分自身が喜びを感じることだ。

無意識の社会的努力そのものといえる。

人に「受け入れてほしい」という欲求

完璧主義をつらぬく社会的な力と、完璧主義から解放されるために精神的に変わろうとする力は、どちらも「人に受け入れてほしい」という深い欲求そのものだ。

私たちは、子供の頃からいい人になるように訓練されてきたため、やれることは何でも手がけ、大切な人々にいい印象を与えて、彼らを近づけておこうとする。

自分自身を受け入れるように教わる代わりに、社会的に受け入れられるよう訓練されてきたので、失敗すると傷ついてしまう。

・フレッドはパーティで上司の友人三人に会ったが、名前を覚えていないのに気付いて慌てた。
恥をかかずにどう彼らから離れるか、おどおどしながら数分を過ごした。

・ジェニファーは夫の会社のスタッフを大勢招待することになり、安いワインを探した。
「最近ジンファンデル(黒ブドウ)の白ワインを出してくれる家はないな」とささやく声を耳にした彼女には、その夜は最悪の結果になった。

・テッドは朝礼のスピーチの準備を念入りにした。
何人かは、役に立ったと言ってくれたが、出だしでつまずいたことが、その週の間中、彼の頭から離れなかった。

・クレオは最近出会った男性が気に入ったのだが、彼の好みはほっそりとした女性だという。
そこで彼女はダイエットを始め、週に六日も重量挙げやエアロビクスで汗を流した。
ところが彼は、「じつはポッチャリした女性と付き合っている」と彼女に告げた。

心理学者の話では、「受け入れてほしい」という強烈な願望を抱くのは両親の影響が大きいという。

子どものころでも反抗期でも-たとえ親は亡くなっていたところで―変わらないその徹底した願望は、赤ちゃんのころ親に抱かれ、愛された絆を取り戻そうとしている印かもしれない。

また、何かを達成したときに、親や先生、大好きな叔父さんたちからほめられたといった、心温まる思い出がもとになっているかもしれない。

逆に、子ども時代のからかいや拒絶、過剰な期待感や批判といったつらい思い出が原因なら、心の傷を消し去ろうとか、けっして楽しくはない癒やしの方法を探そうとしている場合もある。

幼児期の育ち方がどうであれ、誰でも価値ある人間として受け入れられたいという欲求がある。

こうした自然のニーズは、いい人になろうとする訓練によって深刻で歪んだものに変わる。

その結果、受け入れられたい願望と人のよさが結びついたら、いずれすべての人間が完璧主義者になってしまうかもしれない。
まわりの人たちを喜ばせさえしたら、彼らに受け入れられて、自分は満たされるだろうと思ってしまうのだ。

受け入れられたいという思いは何も特別ではないし、自然なものだ。

が、いい人になる訓練を受けてきた私たちは、すでに受け入れられていても、自分が大切に思う人たちには「ぜったい」によく思われなくてはならないと考えがちだ。

社会に受け入れられ、成功するために世間や親が教える、たとえようもなくすばらしい人間をイメージし、そうなって社会から一目おかれたいと、ひたすら自分をけしかける。

果てしない努力を続けたあげく、ほんとうの自分でいることも、その喜びも、そがれてしまう。

これは最も深刻な間違いだ。

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なぜ、完璧主義がいけないのか

いい人が勘違いしている「完璧主義」とは次のようなものだ。

  • 不可能なことをしようとする、ばかげて無益な試み。
  • 必要以上に心配が大きくなり、ストレスが悪化する。
  • 失敗すると死にたくなる。
  • 大事な時間とエネルギーの無駄遣い。
  • ほんとうの友情が育たない。
  • 懸命に喜ばせようとする相手を、やがて恨むようになる。
  • 命にかかわる病気を引き起こす。
  • けっして満足することのない状態に陥る。
  • 自分はだめな人間だと思い、きびしい自己批判をする。
  • 自分の人生を他人に預ける。

最期の項目はとくに強調したい。

自分の人生を築くのは自分しかない。

それは人間の特権であり、責任でもある。

社会が基準を決め、他人が意見を言うのはいいとしても、彼らが私たちの人生を決定づけ、やるべきことすべてを支配するのは間違っている。

反対や拒絶を恐れて、他人にコントロールされれば、必要以上に自分を否定していしまい、こだわりのない人間関係を築けなくなる。

これだけは、はっきりさせておこう。

自分自身の中や社会での達成基準をもったり、高いゴールを目指して努力するのは間違いではない。

完璧であろうとする次の状態が問題なのだ。

  • 自分のイメージを汚すまいとして消耗する。
  • 他人の期待にこたえる準備がないと感じる。
  • やることすべてにわたって、「完璧かどうか」が気になる。
  • 自分自身に非現実的な基準を押し付ける。
  • 失敗したり認められなかったりすると、努力は無意味だったと考える。
  • ほんとうにやるべきことのためではなく、完璧さを保つことに大事な時間を奪われる。
  • 自分が貴重だと思うことや理想に目をつぶり、妥協する。
  • 完璧でないと気に病んでいることを隠すために、アルコールや薬物に依存する。
  • 自分自身も大切な相手もけっして満足させることはない。
  • 自分がやっていることをけなす結果に終わる。

完璧主義のわなに陥らないようにすることは、自分の責任だと理解することも大切だ。

もともとは社会や他人から押しつけられた基準かもしれないが、彼らに自分の行動をコントロールされ続けるとしたら、それは自分がそう仕向けているのだ。

他人は、あなたを完璧主義から救ってくれない。

あなた自身でするべきことだ。

完璧主義から抜け出す方法

どうやったら、完璧主義という呪文が解けるのだろう?

まず、決意することは、いちばん貴重な能力の一つだ。

この二つをさっそく始めよう。

いつも完璧でいようとすることは間違いだと心に決める

完璧主義というのは敗北主義者の間違いだ。

誰かを喜ばせようとする自分を変えたいと思わないうちは、何もかわりはしない。

「人を喜ばせるための人生なんて途方もない間違いだ」と自分に言い聞かせよう。

その言葉を幾度も繰り返し、じっくりとかみしめ、自分の内にしみ込ませてしまおう。

この間違いをやめにしようと決める。

この方法は一見やさしく思えるが、実際に決意を行動に移さないうちは、まだ自由になれない。

完璧をめざす癖を治すには、二度とそれを繰り返さないと選択することが鉄則だ。

この選択は、すすむべき道への大切な第一歩になる。

まとめ

完璧主義の始まりは世間の評価に頼ってしまうことからだ。

他人に受け入れられたいという欲求は誰しもが持っている自然なものだ。

完璧主義は社会や世の中に決めつけられたものであるとしても、それを変えるのは自分自身だ。

完璧主義を止めるには、完璧主義は間違っているものだと何度でも自分に言い聞かせ、それを実行することだ。