引っ込み思案で社交が苦手

口下手もひとつの理由

積極的に人に話しかけることができない。

みんなと話しているときも隅っこで笑いながらただ聞いているだけになってしまう。
自己アピールの時代といわれるだけに、そういった内気なタイプの人は、取り残される不安に脅かされることになりがちです。

学校でもまじめ人間は人気がなく、かつて人望を集めた勉強やスポーツのできるタイプより、ジョークがポンポンと出てくるおもしろタイプが人気がある世の中です。

もっと面白い人間にならなければとの焦りもあるでしょう。

周囲を見回せば、表情豊かに身振り手振りを交えていきいきと話す人がいます。
声の抑揚にも豊かな表現力が感じられます。
その人がしゃべると、映画や小説の場面も、共通の知人がドジなことをした場面も、ものすごい臨場感をもって迫ってくるのですから、思わず話に引き込まれてしまいます。

つまり、座の中心になりやすい人物です。

そういう人物と比べて、自分の存在感の薄さをみじめに思うこともあるかもしれません。
でも、これもひとつの個性なのです。
おもしろい人として世の中にデビューする人もいれば、あったかい人、落ち着いた雰囲気の人として売り出す人もいます。
人それぞれなのです。

引っ込み思案で口下手な人が、無理しておしゃれな会話術を身につけることもないでしょう。
穏やかに聞き役に回ればよいし、話すチャンスが与えられたら、スマートに話せなくても思ったことが伝わるようにていねいに話せばよいのです。

軽妙な語り口は場を盛り上げるのにまさに好適なわけですが、朴訥で誠実な話し方にも長所はあります。
前者は、遊びの場で一緒にいると楽しい人という印象を与えます。
でも、人柄に魅力がなければ、まじめにつきあう相手でなく、ただの遊び相手としかみなされません。
なかには、口がうまいというだけで軽薄とみなされてしまい、悩んでいる人もいるのです。

後者は、人柄や能力をしっかり磨いてさえいれば、一緒にいてホッとできる人物、信頼できる人物とみなされます。
ときに、口下手なだけなのに、好人物と勘違いされる人もいるほどです。

要するに、問題は人間の中身ということになります。
話し上手と口下手は、自己アピールの方法が対照的だというだけで、どっちが得とか損とかいうのではないのです。
人はみな相手の中身をみてつきあい方を決めるものです。

引っ込み思案は何のハンディにもならない

津村節子の小説『春の予感』の主人公蕗子は、極度に内気な女性として描かれています。

地方から上京し、化粧品会社の美容部員として客に化粧の指導をしながら化粧品を販売しています。

積極的に人と付き合うタイプじゃないので、東京では友達がなかなかできません。

日曜日もどうすごしてよいかわからず持て余し気味の、ちょっと不器用な女性です。

客の気持ちをうまく誘導していろいろ買わせてしまう先輩のやり方をみては、自分はとてもあんなふうにできないと自信をなくします。

引っ込み思案だし、あまり必要でないものをむやみにすすめるのも悪いと考えてしまう自分は、接客には向いていないと思ったりします。

でも、蕗子の不器用な誠実さは、周囲にけっして悪い印象を与えはしません。

無愛想で気難しい会社の寮の同室者も、やがて心を開き、自信を失いがちな蕗子を、「そんなことないわよ。どんな仕事でも、誠実さが一番大事だわ。
口先だけの商売をしたら、はじめは成績が上がっても、長くは続かないものよ」

と励ましてくれるようになります。

でも蕗子は自信がありません。
東京でただ一人の異性の友人・茂に対しても、自由にふるえません。
東京案内してあげると言われ、自分も期待していないわけではないのに、電話できないのです。

「元気でやっている?呼び出してくれれば東京案内して上げるって言ったのに、ちっとも連絡がないから、どうしているかと思って―」
「有難う。でも私なんか連れて歩いても面白くないでしょう」
「そんなことないよ。遠慮していたの?」

ディスコや映画に誘われても、
「ごめんなさいね。私と一緒にいてもつまらないでしょう」
「そんなことないよ。君は、ほかの連中にないところがあって、面白いよ」

という具合になり、ほかの連中ということばに大勢の女友達の存在を感じ、ますます自信をなくしてしまいます。

茂とのつきあいに積極的になれない蕗子ですが、じつは茂と会い、話をするのを心から楽しみにしているのです。
そんな蕗子に茂は本気でひかれていきます。

「『きみ、きみは遊び相手として面白い女の子だと自分のことを思っているのかい?』
そう言われて、蕗子は言葉もなくうつむいた。
確かに自分は会っていて面白い女の子でも、遊んで楽しい相手でもあるまい。
そんな自分のために、時間をさいてくれと言うのは虫がよすぎるだろう。

『ぼくは、あの連中ときみとを一緒になんか考えていないよ。
きみは真面目で、けなげで、上等な女の子だよ。
そんな君が、好きなんだよ。
友達としてではなくてね』」

この小説の結末はハッピー・エンドとはいかないのですが、引っ込み思案で社交が苦手というのは、何のハンディにもならないのです。
そう思うことで、引っ込み思案からくるハンディは乗り越えられます。

大切なのは、社交ではなく親交である

口下手人間は人を説得する仕事には向かないと思われがちですが、有能なセールスマンは内向型の口下手人間が多いといいます。
理由は簡単です。
縁日の屋台で売っている玩具程度なら口車に乗せられて衝動買いもするでしょうが、大きな買物や契約となるとどうしても慎重にならざるをえません。
そんなとき決め手となるのは、相手がいかに信頼に足る人物か、口先のうまいお調子者でないかという点です。

また、社交が苦手で、パーティ、懇親会、コンパなどと名のつくものには気おくれして出られないことを気に病む人がいます。
それもべつにかまわないのではないでしょうか。
無理に参加して気疲れするのもつまらないでしょう。

社交のむなしさについて、実存心理学者ロロ・メイは『失われし自我を求めて』のなかで、つぎのように言っています。

「(社交で)大切なのは、話されている内容それ自体ではなく、なにかが、たえず話されているということである。
沈黙は、大きな罪悪なのである。
というのは、沈黙は孤独と恐怖を招くからである。
自分の話すことにあまり多くの内容をくみとったり、深い意味を含ませてはならない。
すなわち、あなたは、自分の口にする言葉について、理解しようとしないとき、かえって有効な社交の機能を果たすからである。」

そして、孤独を恐れるあまり自分が社交的に受け入れられることを求め、無意味な社交にうつつを抜かしている現代的特徴を批判しています。

大切なのは、社交でなく親友です。
人間は一人では生きていけません。
生きていく力を与えてくれるのは、広く浅い人間関係でなく、深い人間関係なのです。

社交家をめざす必要はありませんが、親友のひとつや二つはもちたいものです。
その際、引っ込み思案、口下手、社交が苦手などといった性質は、全くハンディにはならないでしょう。

持続的な深い関係で問われるのは、もっと内面的な性質、つまり、誠実さ、思いやり、向上心などになります。

これが乏しい人こそ、悲劇的末路をたどることになるのではないかと心配すべきです。