心理的距離のとり方が上手な人

内輪で群れていても、自分は広がらない

普段は、お互いに自分の世界で生きているので忘れているが、何かの拍子に「彼、どうしているかな」とか「あの人は、いま何をしているのだろう」などと、友人のことをふと思い出すことがある。

「どうしているかなあ」と気になって、電話をかけて声を聞く。

無理して会うことはしないが、話をすれば変わらない相手を感じてホッとする。

そんな友人関係が、一番良いのではないかと思う。

本当にウマが合う友人とは、なかなか出会えないものだ。

ものの考え方や趣味が合う人はいるだろうが、感性まで合うかというと難しい。

傍から見ると、「なんで、あの人とあの人が仲がいいのかわからない」というケースも少なくないが、本人同士は感性の部分で通じているのだろう。

だから、誰に理解してもらえなくても、自分が「あの人好きだな」と思える人とつきあったらいい。

すべて、自分の好き嫌いで決めていいのだ。

ただし、あえて世界を狭くする必要もない。

嫌いなタイプを会うのもイヤと完全にシャットアウトしていたら、活動範囲も小さくなってしまう。

いつも同じ相手とばかりつるんで、同じ話題に花を咲かす。

変化がない分、ラクで居心地はいいかもしれない。

しかし、こんな仲良しクラブは、客観的に見ると狭い世界である。

好きな人としか交流しないというのでは、ミネラルウォーターを注いだ金魚鉢の中で泳ぎ暮らしているようなものだ。

「水清ければ魚棲まず」という諺があるように、整いすぎた環境は人をダメにする。

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世の中には、さまざまな人がいる。

そうした人たちと、ほどほどの心理的距離感で渡り合っていくためには、ある程度「清濁併せ呑む」度量が必要になる。

ときには、「何だ、コイツ」というような人間ともつきあってみる。

そういう人を、「変なヤツだ」「嫌なヤツだ」と決め付けるのではなく、「こんなヤツもいるよな」と認めてみる。

すると、「案外、面白いヤツだ」と思えてくるかもしれない。

それだけで、十分な収穫といえる。

いわゆる「顔の広い人」は、うらやましがられる。

あなたも、そういう人になりたいと望んでいるかもしれない。

顔が広い人というのは、結局のところ、いろいろな人間と無難につきあうことができている人だ。

内心では抵抗を感じていたとしても、それを表に出さずに受け入れることができているのだ。

仕事を円滑に運ぶためにも、顔の広い人になる練習は積んでおいたほうがいい。

とはいえ、年中ぶつかり合っている社内の人間などでは、「苦手なタイプともつきあおう」としても無理が出るかもしれない。

そういうタイプの人とは、当たり障りのない関係のままにしておく。

それよりも、新たにスポーツクラブに入るとか、趣味の集まりに参加するなどして、自分とは違うタイプの人間と積極的に交流すればいい。

そうした場での人間関係なら、深く考えずにすむ。

「やっぱり、どうしてもダメだ」と思う人がいても、その人となるべく顔を合わせない状況を選べばいいだけだ。

無理のない範囲で、少しずつ少しずつ自分の交際範囲を広げていく。

そのうちに、苦手なタイプが減ってくるだろう。

「自分は、こういう人ともつきあっていけるんだ」という自信は、さらに自分のキャパシティを広げてくれる。

いまはまだ、つきあえる人の範囲が半径30メートルであっても、やがて50メートルにも100メートルにも広がっていくはずだ。

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約束の優先は「相手」よりも「順番」で

「私と仕事、どっちが大事なの?」なんてことを聞くような女性がいる。

それは次元の違うもので、比べること自体が間違っている。

しかし、女性にそんな質問をさせる男もダメだ。

たぶん、しょっちゅう「ごめん、いきなり仕事が入っちゃってさ」とデートの約束をすっぽかしているのだろう。

世の中「仕事だから」といえば、どんな約束も反故にしていいと思っている人はたしかに多い。

仕事が大切なのは当然だが、そんなことはわかったうえでつきあっていくのが人間ではないか。

数人でときどき飲みに行く仲間である。

他愛もないバカ話をして楽しい時間を過ごしている。

しかし、そのうちの一人とはだんだん疎遠になっていくだろうと思っている。

たびたびすっぽかすからだ。

彼は、約束の段階では、いつも大乗り気でいる。

「いいね、必ず行くよ」

しかし、当日になって電話が入る。

「どうしても断れない急な仕事が入っちゃって」

この繰り返しである。

そのたびに、幹事はお店に「すみません、一人減るので・・・」と謝ることになる。

みんな大人だから何もいわないが、「もう、あいつは誘わなくてもいいんじゃないか」と考えているのが分かる。

そこにいる誰もが、彼と同じように忙しく仕事をしている。

忙しいが、あえてそんなことはいわない。何とか都合をつけて集まっているのだ。

ある三十代の男性は、友人との集まりに遅刻ばかりしている。

いつも四、五人で会うのだが、その男だけが平気で一時間以上も遅れてくる。

理由は「大事な仕事が残っていたから」だ。

二人で会うのであれば、待たされた一人に迷惑をかけるが、複数なら自分1人くらい遅れても問題はないと思っているのだろう。

あなたの周りにも、こういう人間が一人や二人いるのではないか。

彼らは、約束事に質の違いがあると思っている。

彼らにとって、恋人や友人との約束は、仕事のそれよりもランクが低いのだ。

約束は順番で判断する。

どんな個人的な約束であろうと、つまり、単なる飲み会であろうと、彼女とのデートであっても、先に入ったほうを優先する。

約束のある日に仕事の依頼が来たら、「その日は予定があるので、申し訳ないが別の日で考えてください」と正直にいう。

もし、それでダメだというなら、他の人に依頼がいくだろう。

その仕事は、自分でなくてもいいのだ。

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本当に自分を必要としてくれているなら、相手は調整してくれる。

何も「プライベートのために仕事を犠牲にしろ」などといいたいのではない。

「約束というのはそういうものだ」ということだ。

「急に仕事が入ったら断ればいいや」というような不誠実さで、人と約束してはいけない。

「この日に約束を入れるのであれば、仕事はちゃんと調整しよう」という覚悟を持てということだ。

それが、人との正しい心理的距離を保つ基本である。

もちろん、上司から「重要な話があるので、ちょっと時間が取れないか」などと、突然持ち掛けられた場合は別だ。

ときには、あとからの用事を優先せざるを得ない状況も生まれる。

しかし、それはきわめてイレギュラーな例であり、常態化させてはいけない。

約束事をあまり重要視しなくなったのは、もしかしたらスマホのような便利なものが普及したのも影響しているかもしれない。

「ごめん、遅れちゃう。先に行ってて」とメールすれば、それですんでしまうと思っている。

しかし、本当はすんではいない。

こんな友人関係は壊れやすい。

もし、相手がスマホを忘れていたらどうなのか。

充電が切れていたらどうなのか。

それは相手が悪いのだろうか。

そんなことはないはずだ。

「何事でも人々からしてほしいと思うことは、人々にもその通りにせよ」

聖書の有名な一節である(マタイによる福音書)

約束事にいい加減な人は、それによって相手がどういう気持ちになるかということに鈍感すぎる。

そうした鈍感さは、仕事の場でもいかんなく発揮されるだろう。

プライベートの約束を反故にして仕事を優先させているという人は、実は大した仕事をしていないのかもしれない。

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相手の立ち位置が変わっても、変えてはいけないこと

同じ工業高校を出て、大学に進まず就職した二人の青年がいる。

一人は部品メーカーで働き、一人は公務員になった。

大学に進まなかったのは、ともに家庭の事情だ。

二人は高校時代から気が合い、無二の親友として就職後もたびたび会っている。

いまは、どちらも独身で収入も似たようなものだ。

しかし、いつかは置かれた環境に違いが出てくるだろう。

部品メーカーの彼の口癖は「必ず独立してみせる」だ。

いずれ一国一城の主になり、誰にも真似ができないような精巧な部品をつくろうと意気込んでいる。

もしかしたら大成功して大金持ちになるかもしれない。

もちろん、逆に大失敗してどん底生活を送る可能性もある。

そうした変化が起きたときに、二人は心理的距離感を変えることなく付き合えるだろうか。

本当の親友なら、付き合えるだろう。

そのとき、友人関係の本音が見えてくる。

世の中には環境が突然変わってしまった人はたくさんいる。

ものすごく羽振りがよかった社長が、倒産で会社も自宅も家族も失った。

スポーツ万能で女性にモテた快活な男が、突然倒れて車椅子生活になってしまった。

長く生きていれば、思わぬことがいろいろ起きる。

しかし、それによって彼らの価値が変わるわけではない。

自分にとっては大事な人たちだ。

だから、私から彼らに対する心理的距離を変えるようなことはしない。

声をかけるのを遠慮したりするのは失礼なことだと思っている。

逆のケースもある。

投資の世界で大儲けし、いわゆるセレブになった知人がいる。

住んでいる家も乗っている車も、私などとは無縁の世界だが、だからといって何も気にすることはない。

これまで通りつきあっている。

相手の自分に対する態度も昔のままだ。

同じ人間同士、それが当たり前のことではないか。

ところが、世の名には、立場によって心理的距離感を変えてしまう人が少なくない。

ある三十代の女性は、最近離婚した。

それを機に親友とも疎遠になった。

その親友夫婦はとても仲がよく、夫は高名なデザイナーとして世界を飛び回っている。

そんな幸せそうな親友を見ているとつらくなるだけだから、電話もしなくなった。

「友人の苦難に同情することはだれにでもできるが、友人の成功に同感するには、大変優れた性質が必要だ」

皮肉屋のオスカー・ワイルドはいっている。

人の不幸をあれこれ詮索したり、自分よりいい暮らしをしている相手に卑屈な態度をとったりするのは、人としてみっともない。

もちろん、心理的距離感を変えない仲にも、気遣いは必要である。

趣味のダイビングで仲良くなった四十代の男性グループがあった。

彼らは、たびたび一緒に海外の海で潜った。

しかし、そのうち一人の状況が変わった。

小学生の娘が重い病気にかかり、治療費の捻出にも苦労している。

「悪いが、しばらく遠出はやめておくよ」

その話を聞いた残りのメンバーは、彼をダイビングに誘うのをやめた。

だが、自分たちのダイビング旅行は続けた。

そんなことまで遠慮したら、彼がイヤがると思ったからだ。

そして、相変わらず連絡は取り続け、飲み会があれば声をかけた。

彼が出席してもしなくても、それにこだわらずに声をかけた。

会えばお互いの家庭の話題も出る。

そんなときは、彼も自分の子どもの様子などをふつうに話した。

ただ、彼の娘の病状などを根掘り葉掘り聞いたりはしない。

誰がいい出したわけでもなく、何となくそれがルールになっている。

相手の環境が変わった時は、こう言う心理的距離感がいい。

本当に気を使うことができる人は、使っていることを感じさせない。

必要以上に人の変化に敏感に対応しようとする人は、実は鈍感なのである。