争いから降りる
敵と戦って勝てばうまくいくと思っている人は、その思いとは裏腹に、いくつもの恐怖を抱えながら生きています。
自分が戦いの被害者になっても、加害者になっても、さまざまな恐怖から解放されることはないでしょう。
そんな諸々の恐怖を手放すためには、「争いから降りる」しかありません。
もちろん「争いから降りる」というのは、”負ける”ということではありません。
相手に服従するということでもありません。
前記したように、「相手の敷地、自分の敷地」との境を明確にして、お互いにその所有を認め合い、無断で侵入しないということなのです。
争いを恐れて裏目に出てしまう
「人と付き合うのが怖いんです」という女性がいました。
警戒心が強くて、話をしていてもそれを感じます。
そんな彼女に、職場の同僚との問題が起こりました。
同僚が作成した書類にミスが多く、それを訂正していると、彼女の負担が増すばかりです。
彼女に、解決するための方法を尋ねると、「他の人に頼んで、注意してもらいます」と答えました。
「もし、他の人が、その同僚に注意したとしたら、あなたに対して、どんな印象を抱くと思いますか」
「反省してくれると思います」
「悪かったなあと反省して、あなたにごめんなさいと、詫びると思いますか」
カウンセラーにそう問い返されて、「あ、そうだ。自分のことを告げ口されたと思うんですね」と気がつきました。
そこで、カウンセラーは改めて、「これは、誰の問題でしょうか」と尋ねました。
「同僚と、私の問題です」
「そうですね」
怖がらずに話し合う過程を
このような場合、当事者同士が「一対一」で向き合って話し合い、具体策を出し合うことが望ましいのです。
すると彼女は、しばらく考えてから、「じゃあ”あなたができないんだったら、別の人に頼んでくれないかなあ”と、本人に言うのはどうでしょうか」と答えました。
これはどうでしょう。
もしこれが、相手と平和的に話し合った結果、結論として相手が自分で自覚して「できない」ということになったのであれば問題ないでしょう。
ただし、その前に”話し合う”というプロセスを省略することはできません。
結論として、「私は、できません」と、相手が自分のできないことを受け入れた場合は適切でしょう。
けれどもいきなり言ってしまえば、その言葉は、相手に、「どうせあなたはダメな人間なんだから、できないんだったら、さっさと他の人に頼みなさいよ」というようなメッセージを送ることになります。
他者を恐れている人は、自分が直接向き合うことを回避するために、自分の代わりにやってくれる誰かを探そうとします。
ところがそうやって、自分の問題を問題として自覚できないと、彼女のように間違った対応をしてしまい、かえって問題をこじらせてしまうような結果となりやすいのです。
彼女に必要なのは「自分の問題には、自分が向き合って解決しよう。自分の責任を果たそう」という勇気です。
もちろん、それは「すぐに、必ず実行しなければならない」と言っているわけではありません。
親子関係や家庭環境で、怯えてしまうような経験をしている人にとって、怖い相手と向き合って解決するというのはかなりハードルの高い話です。
それでも、少しずつ「向き合っていく努力」は不可欠です。
なぜなら、それが「自分を守る力」を身につけるということだからです。
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自分も相手も認め合いながら主張する
相手を認めることができない人の言い方
相手を否定して、相手の敷地を占領してしまうような勢いで攻撃してしまうのは、根底に、相手を認めない意識が潜んでいると、「君ができないと思うんだったら、早めにできないって言ってくれたほうが、僕たちは助かるんだよ」
などと、どんなに丁寧な言い方をしたとしても、言われたほうは問答無用に自分の能力を否定されたように聞こえるでしょう。
言葉をどんなふうに言い換えても、「相手の自由」を認めていないと、相手の敷地内を踏み荒らす語調や言い方になってしまうのです。
互いを認める人の言い方
他方、互いの自由を認め合う意識であれば、こんな言い方になるでしょう。
まずは、「相手の自由を認める」ことは基本です。
これは、裏を返せば「私は、私の自由を認める」ということです。
頭では誰でも理解できます。
しかし、その認めるということに、どれだけ”心が伴っている”か、これは、人によってレベルがあります。
「私の選択の自由」を認めている人ほど、「相手の選択の自由」も認められるでしょう。
私の自由を心から認めると、その分量だけ、争いから降りることができます。
さらにまた、相手の自由を心から認められると、その分量だけ、争いから離れることができます。
この原則を踏まえ、相手の生き方の自由を認めた上で伝えるとしたら、「私自身の問題として、私の仕事に影響している点を、解決したいんです。
だから、この点について、どう解決できるか具体的な案を出していきたいので、話し合う時間をとっていただけませんか」
という言い方になるでしょう。
相手の自由を認めるか認めないか。基本の入力設定が互いを認め合う意識であれば、言葉もそれに適った言葉が自動的に選択されていくのです。
このとき自分の意識は、相手のほうに向かってはいません。
自分の意識は、「自分自身の仕事の問題点」にピンポイントで絞られています。
ここが肝心です。
それ以外のことには意識が向かないので、相手の個人的な生き方や性格などを否定することもありません。
これが「争いから降りる」ための、非常に有効な方法です。
仕事の分担を同僚と分けるならば
「争いから降りる」には、まだ、足りないものがあります。
それが「責任」です。
自分の自由な選択には、その選択に関する責任が伴います。
お互いが「選択の自由」と「その選択の責任」を果たせてこそ、自分の人生から「戦うこと」が遠くなっていきます。
この例で言うと、例えば、「僕は、〇日までに、これを仕上げて提出しなければならないんだ」
「ああ、そうなんだ・・・」
「僕がやり繰りできる日程は、今週の木曜日までなんだけど・・・、やるよ」
「じゃあ、お願いするね」
「わかった」
「もう一点。もし、今週の木曜日までに仕上がらなかった場合、君に代替案はあるのかなあ」
「・・・そのときは、別の人に頼んでいいよ」
「わかった。じゃあ、木曜日までに仕上がらなかったら、他の人に頼むということで了解です」
こんなふうに、もしそれが、「できなかったら、どうするか。その代替案を出しておく」ことが、「責任」なのです。
人によっては、こんな方法は、厳しく聞こえるかもしれません。けれども、争いから降りるには、お互いの責任を明らかにすることが最も有効なのです。
相手のほうも言い争うよりはずっと楽だと実感するでしょう。
「私は、少しずつ、戦いから離れていこう」と決断すると、今まで「戦わなければならない」というふうに映っていた社会が、一変して見えるかもしれません。
実際に、戦うことから身を引こうと努力している人たちからは、「戦わないって、こんなにラクだったんですね」という声が届きます。
戦わなくても、「自分を守ることができる」のです。
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無用の罪悪感に支配されてしまう
本当は、やりたくないのに・・・
「させられている」という思いに囚われれば、憎しみや恨みすら湧いてきます。
そんなさまざまな感情が自分の中に渦巻けば、互いにひどい言葉を浴びせ合ったり、牙を剥いて争い合ったり、一方的にむごい仕打ちをしながら面倒を見るということになってしまいます。
それでも、精神的経済的に自立できていなければ、離れることもできません。
「くっついて争い合う」というのは、こういうことなのです。
さまざまなケースに出合うたびに、こんな責任の「肩代わり」が問題を複雑にし、こじらせてしまう元凶だと言わずにはいられません。
次に、これは「母親と息子」の関係である夫の問題、という捉え方をしましょう。
夫が解決すべき問題を、妻が肩代わりするから、問題がどんどん悪化していくのです。
妻は、義母の責任を肩代わりし、夫の責任の肩代わりをしています。
彼女が犠牲的に振る舞えば振る舞うほど、おのおのが「自分の責任」を自覚できずに、他者に依存していくことになります。
家族の誰もが、他者に自分の責任を押しつけて、「自分のことは自分でする」という基本を忘れていけば、責任を取る怖さや自信のなさから、いっそう依存的になっていき、争い合いながらもその状況にしがみつき離れることができなくなっていくでしょう。
相手の問題まで抱え込む
妻が争ってまで離れられない最も大きな理由は「罪悪感」です。
妻として、夫の世話を焼かなければならない。
母親として、子どもを愛さなければならない。
嫁として、その務めを果たさなければならない。
「しなければならない」と信じていれば、それをしないと罪悪感に襲われます。
けれども本来、相手のことは自分の責任ではありません。
「自分のことは自分でする」というのが基本です。
その責任も自分にあります。
自分の「自由」とその「責任」は、どこまでもセットになっています。
これを取り違えると、相手に自分のしたことの責任を押しつけたり、相手の責任を肩代わりして苦労したり、肩代わりできないからといって「罪悪感」を覚えたりするのです。
近い心理的距離の人ほど関係が歪みやすい
もとよりこれは、自分が感じる必要のない罪悪感です。
それは、自分の敷地内を荒れされ、物品を奪われていながら、「もっとよこせ」と要求されたら必死にそれに応えようとするだけでなく、果てには、相手の要求に応えられないからと「罪悪感」を覚えるようなものです。
親子や家族という身近な関係になると、どうしてもその近しさから、相手の敷地内に遠慮もなく踏み込んで荒らしてしまいがちです。
しかも、荒らしておきながら、その責任を放棄したり、相手に転嫁させたりしています。
お互いに相手の敷地を認めることができれば、どれほどの争いが消えてなくなることでしょうか。
どんなに罪悪感から解放されることでしょうか。
この基本がしっかりと自分の中に根づいていけば、親子であっても身内であっても、親しい間柄であっても、相手がしてくれたことにはすべて「ありがとう」と言いたくなるでしょう。
こんな基本を踏まえてこそ、お互いに感謝を持って「協力し合う、助け合う」という、ここちよいプラスの関わり方ができるのです。