性格特性はあるのか

ブライアン・リトル教授はハーバード大学で心理学を教えていた。

大学教育界のノーベル賞と呼ばれる<3Mティーチングフェローシップ>の受賞者でもある。

背が低くがっしりした体型、眼鏡をかけたリトル教授は、人の心を惹きつけ、よく響くバリトンでしゃべり、演壇で急に歌を口ずさんだりくるくる回ってみせたりする。

独特の口調は古典劇の俳優を思わせる。

天才アルベルト・アインシュタインと名優ロビン・ウィリアムズを足したような人だと表現される彼は、たびたびジョークを飛ばして聴衆を喜ばせ、それ以上に自分も喜んでいるようだ。

ハーバード大学での講義はつねに満席で、いつも最後は拍手喝采で終わった。

ところで、これから紹介するのは、まったく違うタイプの男性だ。

カナダの人里離れた森のなか、ニエーカー以上もある緑豊かな敷地にひっそり建つ家で、時おり子どもや孫たちが訪れるのを別にすれば、妻と二人だけでひっそり暮らしている。

暇を見つけては、作曲や読書や執筆活動や友人とのメールのやりとりを楽しむ。

誰かに会うときには、一対一を好む。

にぎやかなパーティでは、さっさと話し相手を見つけてじっくり会話をするか、さもなければ「ちょっと新鮮な空気が吸いたいから」と外へ出てしまう。

まるで喜劇役者のような教授と隠遁者のような男性とが同じ人物だと種明かしすれば、読者のみなさんは驚かれるだろうか。

誰でも状況しだいで違うふるまいをするのだから当然の話だと思われるのなら、さほど驚かれないだろう。

だが、私たちがそれほど柔軟に対応できるのだとすれば、そもそも内向型と外向型との違いを分析する意味があるのだろうか。

内向型は思慮深い哲学者で外向型は恐れを知らない指導者だという、内向型・外向型の認識はあまりにもはっきりしすぎていないだろうか。

内向型は詩人や科学オタクで、外向型は運動選手やチアリーダーなのだろうか。

私たちはみな、両方の面を少しずつ持っているのではないだろうか。

心理学者はこれを「人間―状況」論争と呼んでいる。

固定した性格特性は本当に存在するのか、それとも、その場の状況しだいで変わるのか。

もし、この質問を投げかけたら、リトル教授はきっと、人前で見せるペルソナや教育者としての華々しい実績にもかかわらず、じつは自分は行動だけではなく神経生理学的にも恐ろしいほど内向的だと答えるだろう。

つまり、この論争について、彼ははっきり「人間」の側に立つということだ。

リトル教授は、性格特性が実際に存在し、さまざまな形で私たちの人生を形づくり、それらが生理学的なメカニズムにもとづいており、一生を通じて比較的安定していると信じている。

この見解を持っている人々はじつに幅広い。

ヒポクラテス、ミルトン、ショーペンハウアー、ユング、そして、最近ではfMRIと皮膚電位反応テストを使う研究者たちもそうだ。

反対の立場にいつのは、「状況主義」と呼ばれる心理学者たちだ。

状況主義者たちは、私たちがたがいを、内気、攻撃的、良心的、愛想がいいなどという言葉で表現することも含めて、人間について一般化することは誤りだと断言する。

中心となる自己など存在せず、さまざまな状況に応じてそれぞれの自己があるだけだと主張するのだ。

1968年、心理学者のウォルター・ミッシェルが、固定した性格特性という考えに挑戦した『パーソナリティの理論』を出版して、状況主義の考えが広く知られるようになった。

ブライアン・リトルのような人の行動は、性格特性よりも状況要素によってはるかにうまく予測できると、ミッシェルは主張した。

その後の数十年間、状況主義が優勢を占めた。

この時期に登場したポストモダンの自己観は、アーヴィング・ゴッフマンらの理論家から影響を受けた。

『行為と演技』の著者であるゴッフマンは、社会生活は演技であり、社会的仮面こそが私たちの真の自己であるとした。

多くの研究者たちは、どんな形であれ、意味を持つような性格特性は存在しないのではないかと疑った。

当時、性格研究者たちはすっかり隅に追いやられていた。

だが、「生まれつきか育ちか」論争が相互作用論―両方の要素が作用して性格を形成し、しかも両者はたがいに作用し合っているとする考え方―に取って代わられたのと同じように、「人間―状況」論争はもっと微妙な見解にその座を奪われた。

私たちが午後六時には社交的な気分でも午後10時には孤独であり、そうした変化は現実に存在し、状況に左右されると、性格心理学者は認めている。

また、そうした変化にもかかわらず、固定した性格というものは存在するのだという前提を支持する証拠が数多く登場してきたことを、彼らは強調している。

最近では、ミッシェルまでもが性格特性の存在を認めているが、それらにはパターンがあると彼は信じている。

たとえば、対等者には攻撃的だが権威者には従属的で従順な人々がいる。

その逆の人々もいる。

「拒絶に敏感な」人々は、安心を感じているときには思いやり深く愛情に満ちているが、拒絶されたと感じると、とたんに敵対的で支配的になる。

だが、そのようにして妥協に流れると、自由意志についてさまざまな問題が生じてくる。

私たちがどんな人間で、どんな行動をとるかには、生理学的な制限がある。

だが、可能な範囲内で自分のふるまいを操作するよう試みるべきなのか、それともありのままの自分自身でいるべきなのか?

いったいどの時点で、自分のふるまいをコントロールできなくなったり、あるいは消耗しきってしまったりするのだろうか?

もし、あなたがアメリカの大企業に勤める内向型なら、本当の自分のために週末は静かに過ごすべきか、それとも、ジャック・ウェルチが『ビジネスウィーク』誌のオンラインコラムで推奨したように、「外出して人と話したり、チームの仲間と友好を深めたりして、エネルギーとパーソナリティを駆使するように」努力するべきなのだろうか。

もし、あなたが外向型の大学生だったら、本当の自分のために週末はにぎやかに過ごし、月曜日から金曜日まではじっくり勉強すべきだろうか。

そもそも、人間はそんなふうに自分をうまく調節できるだろうか。

この問いに対してきちんと答えてくれたのは、ブライアン・リトル教授だけだった。

■参考記事
内向型と外向型はどこが違う?
内向型人間の心理
生まれつきの内向型
パートナーの内向型、外向型組み合わせ特徴
内向型の子育て

内向型なのに外向型

1979年10月12日の午前中、リトルはカナダのケベック州モントリオールから40キロほど南の、リシュリュー川に面したカナダ王立軍事大学を訪れ、軍の高級将校たちを相手に講演をした。

いかにも内向型らしく、彼は入念なスピーチ原稿を準備し、上手にしゃべるためのリハーサルをしたばかりか、最近の研究成果までをもしっかり記憶した。

話している最中にも、彼が言うところの「典型的な内向型モード」になって、つねに聞き手が退屈していないか注意を払い、必要に応じて話の内容に多少の変化をつけた―あちらこちらに統計の数字やちょっとしたユーモアをつけ加えたのだ。

講演は大成功で、その後毎年招待されるようになった。

だが、講演が終わってから高級将校たちとのランチに誘われたのは、彼にとっては恐怖そのものだった。

午後にもう一度講演をしなければならないし、一時間半もおしゃべりをしながら食事したらへとへとになってしまうのは目に見えていた。

午後の講演のためにエネルギーを回復する時間が必要だった。

リトルはとっさに考えて、じつは船の設計に興味があるので、ランチの時間を使ってリシュリュー川を往来する船を眺めたいと、招待者に申し出た。

その結果、いかにも興味深げな表情を浮かべながら川辺の道をぶらぶらして時間を過ごすことになった。

軍事大学での講演に招かれるたびに、彼は仮想の趣味に浸りながらリシュリュー川のほとりを散歩して昼を過ごした。

だが、数年後、大学は陸に囲まれた場所へ引っ越した。

今度こそ言い訳に窮したリトルは、たったひとつ残された場所に助けを求めた―男子トイレだ。

午前中の講演が終わるとすぐに、トイレへ駆け込んで個室に隠れた。

あるとき、ひとりの軍人が個室の下から見えるリトルの靴に気付いて話しかけてきて以来、両足を上げて壁につけ、外から見えないように注意した(もし、あなたが内向型ならば言うまでもないだろうが、トイレに隠れるというのは驚くほどよくあることだ。

カナダの有名なトークショーホストであるピーター・グヅォスキは、リトルが「このトークが終わったら、私は10番の個室にいますよ」と言ったところ、すかさず「僕は8番にいますから」と返した。)

リトル教授のような極端に内向的な人物がなぜ人前ですばらしい講演ができるのか、読者のみなさんは不思議に思われるだろう。

その理由は簡単だと、彼は言う。

そして、それは「自由特性理論」と呼ばれる、彼がほぼ独力で築いた心理学の新理論と関連している。

固定した特性と自由な特性は混在すると、リトルは信じている。

自由特性理論によれば、私たちは特定の性格特性を持って生まれるが-たとえば内向性だ-自分にとって非常に重要な事柄、すなわち「コア・パーソナル・プロジェクト」に従事するとき、その特性の枠を超えてふるまえるのであり、実際にふるまっているのだ。

つまり、内向型の人は、自分が重要視する仕事や、愛情を感じている人々、高く評価している事物のためならば、外向型のようにふるまえる。

内向型の夫が愛する外向型の妻のためにサプライズパーティを仕掛けたり、娘の学校でPTAの役員になったりするのは、自由特性理論で説明がつく。

外向型の科学者が研究室でおとなしくしているのも、物分かりのいい人物がビジネス上の交渉では頑固になるのも、つむじ曲がりの叔父さんが姪にはやさしくアイスクリームを買ってやるのも、すべて説明できる。

自由特性理論はさまざまな状況で適用できるものの、とくに外向型を理想とする社会で生きている内向型にぴたりとあてはまる。

リトルによれば、内容が重要であり、自分の能力に適し、過度のストレスがかからず、他人の助力を受け入れられるようなコア・パーソナル・プロジェクトに関わるとき、私たちの人生は大きく高められる。

誰かに「うまくいっているかい?」と尋ねられて、何気ない返事をするとき、じつは私たちはコア・パーソナル・プロジェクトがどれほどうまく運んでいるかを答えているのだ。

だからこそ、リトルは完璧な内向型でありながら講演に情熱をそそぐのだ。

まるで現代のソクラテスのように、彼は学生たちを深く愛している。

学生たちの心を開くことと、彼らの幸福が、リトルにとってコア・パーソナル・プロジェクトのうちの二つなのだ。

ハーバード大学で講義していたとき、教室前の廊下にはまるでロックコンサートの無料券でも配っているのかと思えるほど大勢の学生が並んだ。

20年以上にもわたって、毎年数百人もの学生が彼に推薦状を頼んだ。

彼の教え子のひとりは「ブライアン・リトルはこれまで出会ったなかでもっとも熱心で楽しい講義をする、愛情深い教授です。

彼が僕の人生に与えた影響はたくさんありすぎて説明できないほどです」と書いた。

つまり、ブライアン・リトルにとって、自分の限界を超えようと努力することは、学生たちの心を開かせ、やる気にさせるというコア・パーソナル・プロジェクトがみを結ぶという点で正当化されているのだ。

ちょっと考えると、自由特性理論は私たちの本質に反するように思える。

シェイクスピアのよく引用される助言「汝自身に忠実であれ」は、私たちの哲学的DNAの奥深くに存在する。

長期間にわたって「偽の」ペルソナを身にまとうというのは、多くの人にとって不愉快なことだろう。

偽自己を本物だと自分に言い聞かせて性格に反してふるまえば、しまいには気づかないうちに燃え尽きてしまう。

リトルの理論がすばらしいのは、この不快さを解消している点だ。

内向型の人にとって外向型を装うことは不快をもたらし、道徳的な二律背反性をももたらしうるが、それが愛情や仕事上の使命感によるものならば、私たちはシェイクスピアの助言どおりに行動していることになる。

自由特性を上手に適用すれば、その人が本来の自分に反してふるまっているとは、傍目には見えないほどになる。

リトル教授の学生たちは、彼が内向型だとは容易に信じない。

だが、彼は特別な例ではない。

たとえば、金融企業のベテラン幹部のアレックスは、どんな相手にもけっして怯まず率直に会話する。

同級生たちに付け込まれないよう外向型のふりをしようと7年生のときに決心したと、彼は語った。

「僕は想像もできないほどいいやつだった。

だが、世の中はそんなに甘くない。

いいやつは打ちのめされる。

そんな目にばかり遭って暮らすのはごめんだった。

なら、どうしたらいい?

解決法はほぼひとつしかなかった。

他人をみんな意のままにする必要があった。

もし、いいやつのままでいたかったら、学校を自分で動かす必要があった」

だが、どうすればAからBに変身できるのか。

「僕は社会の力学をとことん学んだ」アレックスはそう言った。

彼は人々の歩き方や話しぶりを観察した―とくに男性の支配的なポーズをよく見た。

そして、誰にも付け込まれないように、内気でやさしい本来のペルソナをそれに適応させた。

さらに、アレックスは持ち前の強みを発揮した。

「男の子の頭にあるのは、基本的にひとつだけ、女の子を追いかけることだけだ。

成功したり、失敗したり、体験談を話したり。

そんなのは回り道だと思った。

僕は女の子がとても好きだった。

そこから親しみが湧いてくる。

人気の女の子とつきあい、それに加えてスポーツが得意だったおかげで、男子を従えることができた。

それから、時々は誰かを殴ったよ。

力も重要だから」

現在のアレックスは親しみやすく、愛想のいい、口笛を吹きながら仕事をするようなタイプに見える。

機嫌が悪いところなど見たこともない。

だが、交渉事で怒らせれば、彼が独学で身につけた好戦的な面を目にすることになるだろう。

そして、夕食に誘えば、内向的な面を知るだろう。

「妻や子どもたち以外の誰とも会わないで数年間暮らすこともできると思う。

きみと僕との関係を考えてごらんよ。

きみは僕にとってもっとも親しい友人のひとりだけれど、実際にはどれくらい話すかな?

だいいち、電話をかけてくるのはいつもきみだ。

社交は苦手なんだよ。

夢は人里離れた広い土地に家を建てて家族と暮らすこと。

その夢のなかには大勢の友達は登場しない。

だから、表向きのペルソナがどんなに外向的だろうと、僕は内向型なんだ。

根本的には、昔と変わらない人間だ。

ひどく内気で、そのせいでいろいろ犠牲を払うこともある」

■参考記事
内向型人間の楽になる人付き合い
内向型の人の仕事が楽になる方法
内向型の自分で楽に生きる方法
生まれ持った内向性を大事に育む
内向型の人が楽に生きる方法

セルフモニタリング度を確認する

どれほどの人間が、(とりあえず、そうしたいかどうかは別として)アレックスのように自分の性格に反してふるまえるのだろうか。

リトルは名役者であり、多くのCEOもそうだ。

では、私たちはどうだろう?

数年前、心理学者のリチャード・リッパがこの問いに答えようとした。

リッパは内向的な人々を集めて、外向的なふりをして算数を教えるように指示した。

そして、その様子をビデオに撮影し、彼らの歩幅や、「生徒」とアイコンタクトをとる回数や時間、しゃべっている時間、しゃべるペースや量、授業時間などについて記録した。

さらに、録音された声やボディランゲージをもとに、どのくらい外向的だとみなされるかを測定した。

つぎに、リッパは実際に外向的な人々を集めて同じことをして、結果を比較した。

すると、後者のグループのほうがより外向的だという印象を与えたものの、偽外向型の一部は驚くほど本物らしく見えた。

どうやら、私たちの大半はどうすれば自分とは違う性格を装えるかを、ある程度知っているらしい。

どんな歩幅で歩くか、どのくらい笑顔を浮かべたり、しゃべったりすれば、外向型や内向型に見えるのか正確に知らなくても、それを無意識にわかっているようだ。

もっとも、自己呈示をコントロールするには限界がある。

これはひとつには自我の漏洩と呼ばれる現象のせいである。

私たちの本当の自己が、無意識のボディランゲージからにじみ出てしまうのだ。

たとえば、外向型ならばしっかりアイコンタクトをとるところなのに、微妙に視線をそらしてしまったり、外向型ならば話を続けて聴衆を惹きつけるところなのに、話題を変えて聴衆に意見を求めたりする。

では、リッパの被験者の偽外向型の一部は、いったいどのようにして本物の外向型に近い結果を出したのだろう?

外向型のふるまいがとくに上手な内向型は、「セルフモニタリング」と呼ばれる特質の得点が高いことがわかった。

セルフモニタリングがうまい人は自分の言動や感情や思考を観察して、周囲の状況から必要性に応じて行動をコントロールできる。

彼らはどうふるまえばいいかの合図をさがす。

『公的な外見、個人的な真実』の著者で、セルフモニタリングの尺度を考案したマーク・スナイダーによれば、彼らは郷に入れば郷に従うのだ。

イーザンがこれまで出会ったなかでもっともセルフモニタリングがうまいのは、ニューヨーク社交界でよく知られ、人々から愛されている、エドガーという名前の人物だ。

彼は夫人とともに募金集めなどのイベントを主催するなどして、毎週のように社交界に登場する。

「恐るべき子ども」という表現を連想させるような印象で、好きな話題は最近やった悪戯についてだ。

だが、じつはエドガーは内向型だと自認している。

「人に話しかけるよりも、じっと座って考えごとをしていたい」彼は言う。

それでも、エドガーは人に話しかける。

とても社交的な家庭で育った彼は、セルフモニタリングすることを期待され、そうするように動機づけられた。

「僕は政治が好きだ。物事を動かすのが大好きなんだ。

世界を思いのままに変えたい。

だから、表面的なことをする。

本当は他人のパーティーへ行くのは嫌いだ。

招待客を楽しませなければいけないから。

だけど、社交的な人間でなくてもすべての中心にいられるから、パーティを主催するんだ」

他人のパーティに招待されると、彼は自分の役割を果たすために労をいとわない。

「大学時代はもちろん、最近でも、ディナーやカクテルパーティへ出かける前には、最新のおもしろいネタを書きつけるメモを用意する。

日中のあいだそれを持ち歩いて、なにか考えついたらすぐに書きとめる。

そして、いざディナーとなったら、それを披露するチャンスを持つ。

ちょっとトイレへ行って、どんな話だったかメモを確認することもあるよ」

だが、年月が経つうちに、エドガーはメモを持参しなくなった。

内向型なのは変わらないけれど、外向型の役割を演じるのがすっかり板について、人を楽しませる話が自然と口をついて出るようになったからだ。

それどころか、セルフモニタリングがいっそう上達して、状況に合わせて行動したり感じたりが、それほどストレスなくできるようになったのだ。

エドガーのような人々とは対照的なのが、自分の内部のコンパスに従って行動する、セルフモニタリングが上手でない人々だ。

彼らは自由に使える社会的行動や仮面のレパートリーが少ない。

周囲の状況から、おもしろい話がいくつぐらい必要かを考えることもなく、たとえ周囲の空気が読めても役割を演じることに関心がない。

セルフモニタリング度が高い人(HSM)と低い人(LSM)は、違う相手に向かって演じているのだとスナイダーは説明する。

つまり、外向きか内向きかの話だ。

もし、自分のセルフモニタリング度を知りたいのなら、スナイダーが考案したつぎのような質問に答えてみよう。

  • どんな行動をとればいいかわからないとき、他人の行動にヒントをさがしますか?
  • 映画や本や音楽を選ぶときに、しばしば友人に助言を求めますか?
  • 状況や相手に応じて、まったく違う人間のようにふるまいますか?
  • 他人の真似をするのは簡単ですか?
  • 正しい目的のためならば、相手の目をまともに見ながら嘘がつけますか?
  • 嫌いな人に対して友好的にふるまって相手を騙すことができますか?
  • 相手に強い印象を与えたり楽しませたりするために、ひと芝居できますか?
  • 実際に感じているよりも強く心を表現することがありますか?

以上の質問に対して、「はい」と答えた数が多いほど、セルフモニタリング度は高い。

では、つぎの質問にも答えてみよう。

  • あなたの言動は、たいていの場合、本心を表現していますか?
  • 自分が信じている考えだけしか主張できませんか?
  • 相手を喜ばせたり、相手の歓心を買ったりするために、自分の意見を変えるのがいやですか?
  • ジェスチャーゲームや即興で演技するのが嫌いですか?
  • 状況や相手に合わせて言動を変えるのが苦手ですか?

以上の質問に「はい」と答えた数が多いほど、セルフモニタリング度が低い。

リトルが性格心理学の授業にセルフモニタリングの概念を導入したところ、一部の学生たちのあいだで、セルフモニタリング度が高いのは倫理的に正しいのかどうか、議論が白熱した。

議論に熱中するあまり、「混合型」のカップル―セルフモニタリング度が高い者と低い者とのカップル―が別れてしまった例もあったそうだ。

セルフモニタリング度が高い者からすれば、低い者は頑固で世渡りが下手に見える。

セルフモニタリング度が低い者からすれば、高い者は日和見主義的で信頼できないと見える―マーク・スナイダーの言葉によれば、「原則にもとづくというよりも現実的」なのだ。

実際に、HSMはLSMよりも嘘をつくのが上手で、このことはLSMが道徳的な立場をとるうえで役立っているようだ。

だが、倫理的で思いやりがあり、それでいてセルフモニタリング度が高いリトルは、違う考え方をしている。

セルフモニタリングは謙虚さゆえの行為だというのだ。

「自分の必要性や関心のためにすべてを塗りつぶす」のではなく、その場の状況に順応するための行為だという。

セルフモニタリングは全部が全部演技ではなく、パーティで楽しげに室内を歩きまわるためのものでもないと、彼は言う。

立派な講演ができるのは、彼がその間ずっとセルフモニタリングをして、聴衆が楽しんでいるか、または退屈しているかを見極め、必要に応じて話の内容を調整しているおかげでもあるのだ。

■参考記事
内向型と外向型、対照的な二つの性質
外向型はどのようにして文化的理想になったか
内向型、外向型のリーダーシップ
共同作業が創造性をなくす
内向型は生まれつきなのか

偽外向型でいるという苦痛

では、演技するスキルや会話の微妙なニュアンスに気付く注意力を習得することができ、セルフモニタリングに必要な社会的常識に自分を合わせることができるとして、そもそもそうするべきだろうか?

自由特性理論の戦略はうまく使えば効果的だが、やりすぎれば悲惨だというのが、その問いに対する答えだ。

ハーバード大学ロースクールでパネル討論会が行なわれた。

ロースクールに女性が入学できるようになってから55周年を記念したイベントの一環だった。

全国から卒業生が集まった。

討論のテーマは「もうひとつの声で―力強い自己提示のための戦略」というものだった。

スピーカーは四人。

法廷弁護士、判事、弁論術の教育者、ジャーナリストという顔ぶれだ。

ジャーナリストのイーザンは自分の発言を慎重に準備した。

果たすべき役割がわかっていたからだ。

弁論術の教育者がまず口火を切って、相手を脱帽させるにはどのように話せばいいかを語った。

判事は韓国系アメリカ人で、自分は外向的で積極的な性格なので、アジア人はみんな物静かで勤勉だと思われていることに非常にストレスを感じると話した。

小柄で驚くほど攻撃的な金髪の法廷弁護士は、激しい反対尋問をして判事に制止された体験談を披露した。

イーザンは発言の順番が回ってきたので、相手を脱帽させない、まったく積極的でない、鋭い尋問をしない女性たち向けの話をした。

交渉する能力は生まれつきのものではなく、テーブルに拳を叩きつけながら話す人たちだけが持っているものでもないと話したのだ。

誰でもすぐれた交渉者になれるし、それどころか、物静かで丁寧な態度をとることや、しゃべるよりも耳を傾けること、衝突よりも調和を求める本能を備えていることは、結局のところ帳尻をプラスにする。

そういうスタイルをとれば、相手の自我に火をつけることなく、有利な立場を得られる。

そして、耳を傾けることで、交渉相手が本当に求めていることを理解し、両者が満足する創造的な解決方法に達することができるとも話した。

さらに、自分が自信に満ちて落ち着いた状態にあるときの表情やボディランゲージをよく観察しておいて、脅威を感じるような状態に陥ったときには、それを思い出して真似してみると平静さを取り戻せるという、ちょっとした心理学的トリックなども紹介した。

研究によれば、笑みを浮かべるというような単純でささいな行動が心を勇気づけてくれ、逆に、顔をしかめれば気分がいっそう悪くなるそうだ。

パネリストたちの発言が終わり、質疑応答がはじまると、当然ながらイーザンのところへやってきたのは内向型と偽外向型の人だった。

そのうちの二人の女性が強く印象に残った。

ひとりはアリソンという名前の法廷弁護士だ。

アリソンは瘦せ型で身だしなみをきちんと整えていたが、顔色が青白くやつれて、あまり幸福そうに見えなかった。

彼女は10年ほどある企業法専門の弁護士事務所で訴訟を担当していた。

そして、今度は法律顧問として転職しようと考え、数社に応募していた。

それが進むべき道だと思えたからなのだが、本心では気が進まないようだった。

そして、まだどの会社からもオファーを受けていなかった。

申し分のない経歴や実力からして最終面接までは行くのだが、どうしてもそこで落ちてしまうと彼女は説明した。

彼女にはその理由がわかっていたし、転職を斡旋するヘッドハンターも同意見だった。

性格がその仕事に向いていないのだ。

内向型を自認するアリソンは、そのことで苦しんでいた。

もうひとりはジリアンという名前で、環境保護組織で責任ある地位にあり、自分の仕事を愛していた。

ジリアンはいかにも親切で、快活で、現実的な印象だった。

自分が関心を寄せている問題に関する調査や論文執筆に大半の労力をそそぐことができて幸運だと、彼女は話していた。

だが、時には会議に参加してプレゼンテーションをしなければならないこともある。

会議に出ること自体には満足を感じられるものの、出席者の視線を一身に浴びるのが苦痛なので、恐怖心を克服して平静でいるにはどうしたらいいかと、助言を求めてきた。

さて、アリソンとジリアンの違いはなんだろう?

二人とも偽外向型だが、読者のみなさんは、ジリアンは成功しているが、アリソンは努力の甲斐なく失敗していると思われるかもしれない。

だが、本当のところ、アリソンの問題は自分が大切に思っていない仕事のために性格にそむいて行動している点にある。

彼女は法律を愛していないのだ。

ウォール街の弁護士になるのが法律家としての王道だと考えたからその道を選んだのであって、彼女の偽外向性は、心の奥深くにある価値観に支えられていない。

心から大切に思っている仕事を進めるために外向的にふるまっているのであって、この仕事が終われば本物の自分に戻ってゆっくりできる、そう自分に言い聞かせることもない。

それどころか、心のうちで、自分ではない人間になることが成功への道だと言い聞かせていたのだ。

これではセルフモニタリングではなく、自己否定だ。

ジリアンが価値のある仕事のために一時的に違う方向を求めているのに対して、アリソンは自分のあり方が根本的に違うと信じているのだ。

結局のところ、自分のコア・パーソナル・プロジェクトを見つけるのは簡単とはかぎらない。

とくに外向型の規範に順応して生きてきた内向型は、自分の好みを無視することが当たり前になってしまっていて、いざ自分の進むべき道や仕事を決めるとなると、非常に難しくなったりする。

彼らはロースクールや看護大学や職場で、かつて中学校やサマーキャンプで感じたのと同じ違和感を抱くこともあるだろう。

じつを言えば、イーザンもそんなひとりだった。

イーザンは企業法務の仕事を楽しんでいたし、自分は生まれついての弁護士なのだと信じた時期もあった。

というか、そう信じたかった。

なぜなら、ロースクールや実地研修でそれなりの時間を費やしたし、ウォール街での仕事は魅力的だったからだ。

同僚はおしなべて知的で、親切で、思慮深かった。

収入もいい。

オフィスは自由の女神像が見える高層ビルの42階だった。

すばらしい環境のもと、前途は洋々と開けているように思えた。

そして、イーザンは弁護士の思考プロセスの根幹とも言える「しかし・・・」や「もし・・・ならば」という問いを投げかけるのが得意だった。

法律が自分の天職ではないと理解するのに、10年近くもかかった。

今のイーザンは、自分にとってなにが一番大切かを躊躇なく答えられる。

夫と息子たち、書くことなどだ。これを悟ってしまったら、イーザンは変わらずにはいられなかった。

今にして思えば、ウォール街の弁護士としての暮らしは、まるで異国での生活のように思える。

とても興味深く、わくわくさせられ、あの仕事をしていなければ出会うこともなかっただろう数多くの魅力的な人々に出会えた。

だが、イーザンはつねに異邦人だった。

こうして自分が長い時間をかけて違う道を選択し、他の人々が自分の方向を探る相談を受けてきたおかげで、自分のコア・パーソナル・プロジェクトを見つけるための三つの重要なステップがあることに気付いた。

第一に、子どもの頃に大好きだったことを思い返してみる。

大きくなったらなにになりたいかと尋ねられて、あなたはなんと答えていただろうか。

その答えそのものは、もしかしたらやや的外れかもしれないが、その根底にあるものはそうではない。

もし、消防士になりたかったとしたら、消防士とはあなたにとってどんな意味を持っていたのだろう?

人々を救う善人?命知らずのヒーロー?

それとも、たんに大きな消防車を操縦してみたかったのか。

もし、ダンサーになりたかったのだとしたら、それはきれいなコスチュームを身につけたかったからか、喝采を浴びたかったからか、それとも目にもとまらぬスピードでくるくる回るのが楽しそうだったからなのか。

自分が本当はどんな人間なのか、昔のあなたは今のあなたよりもよく知っているかもしれない。

第二に、自分がどんな仕事に興味を持っているかを考えてみよう。

イーザンが弁護士事務所にいた当時、企業法務の仕事を与えられた以上にやろうとは思わず、女性のリーダーシップに関連した非営利組織のために頻繁にただ働きをしていた。

また、企業内の若手の教育・育成のための委員会に所属していた。

イーザンは委員を引き受けるようなタイプではない。

けれど、委員会の目的に賛同したので手助けしたいと思ったのだ。

最後に、自分がなにをうらやましいと感じるか注意してみよう。

嫉妬や羨望はある意味で醜い感情だが、じつは真実を語っている。

人間はたいていの場合、自分が望んでいるものを持っている人をうらやむ。

ロースクール時代の友人たちと数人で集まって、同級生の卒業後の進路について話した後、自分がなにをうらやんでいるかを知った。

友人たちは最高裁の法廷で論争している人たちのことを羨望を込めて話した。

ひらたく言えば嫉妬していた。

そのとき、イーザンはそんな彼らを批判的に見ていた。

あなたたちも頑張ればいいじゃない!

そう思いながら、嫉妬を感じないのは、最高裁で論戦することに憧れていないし、それどころか弁護士としてのどんな仕事にもそういう熱い気持ちを抱いていないからだったのだ。

では、いったい誰をうらやましいと思うかと自分に問いかけたところ、たちまち答えが返ってきた。

作家や心理学者になった大学時代の友人たちだ。

■参考記事
内向型の人間がスピーチをするには
なぜクールが過大評価されるのか
内向型と外向型の考え方の違い
なぜ外向型優位社会なのか
内向型と外向型の上手な付き合い方
内向型をとことん活かす方法

自分と自由特性協定を約束する

だが、たとえコア・パーソナル・プロジェクトのための努力とはいえ、自分の性格にそむいて行動するには限界があるし、あまり長期間は続かない。

極端な内向型のリトルが講演の合間にトイレにこもった話がある。

矛盾しているように思えるが、あのエピソードからしても、自分の性格にそむいて行動する最大の秘訣は、できるかぎり本当の自分のままでいることだ-日常生活において、「回復のための場所」をできるだけたくさんつくることからはじめるのだ。

「回復のための場所」というのはリトル教授の造語で、本当の自己に戻りたいときに行く場所のことだ。

たとえば、リシュリュー川の小道のような具体的な場所であったり、セールス電話の合間の短い休憩のような、束の間の時間であったりする。

仕事上の重要な会合を控えて週末の社交の外出をやめるとか、ヨガや瞑想にふけるとか、直接会うかわりにメールで用件を済ませるといったことでもいい(家族や友人のためにいつも時間を空けておくのが唯一の仕事だったヴィクトリア時代の女性たちでさえ、毎日午後になると休息をとったのだから)。

幸運にも自分のオフィスがあるのなら、会議の合間にオフィスの扉を閉めて、そこを回復のための場所にしてもいい。

たとえ会議の最中でも、座る場所や発言内容について慎重に配慮すれば、そこが回復のための場所になる場合もある。

クリントン政権の財務長官として手腕を発揮したロバート・ルービンは『ルービン回顧録』のなかで、「オーヴァルオフィスと呼ばれる大統領執務室では、私はいつも中央ではなく隅のほうの席に座った。

たとえ少しだけでも離れて座っていることで気分が軽く感じられたし、部屋全体を見渡して、少しでも客観的に話せた。

無視されるのではないかという心配はしなかった。

たとえ遠くに座っていようが立っていようが、『大統領、私はこう考えます』と声を出せばいいのだから」と記している。

就職するときに、休暇や保険の条件と同じように、回復するための場所の有無を確かめることができれば、労働環境はずいぶん改善されるだろう。

内向型の人々は、自分にこんな具合に問いかけるべきだ。

この仕事は、読んだり戦略を練ったり書いたり調査したりといった、自分に適した行動ができるだろうか?

仕事のための個人の空間を持てるだろうか、それともオープンオフィスでずっと過ごさなければならないのか?

仕事場で回復のための場所を得られないのなら、夜や週末にそのための自由時間を十分にとれるだろうか?

外向型の人々もまた、回復のための場所を求めるだろう。

この仕事は話したり旅行したり初対面の人に会ったりするのだろうか?

オフィスは刺激的な空間だろうか?

もし仕事が自分に完璧に合ったものでないのなら、就業後にストレスを発散する時間をとれるような柔軟な勤務体系だろうか?

仕事内容についてじっくり考えよう。

非常に外向的なある女性は、子育て関連のウェブサイトの「コミュニティオーガナイザー」の職に就いたと喜んでいたが、いざ勤務しはじめると、毎日午前9時から午後5時までパソコンの前に座っている仕事だった。

なかには、思いもよらないところに回復のための場所を見出す人もいる。

ある法廷弁護士の女性は、調査を重ねて訴訟のための準備書面を書くという極めて孤独な仕事をしている。

たいていの場合、書面で決着がつくので、ごくたまに出廷して偽外向型の仮面をかぶることを彼女はとても楽しんでいる。

また、ある内向型の秘書の女性は、職場での経験を生かして、自宅でインターネットを使って「仮想秘書」サービスのノウハウを提供している。

そして、ある有能なセールスマンは、内向的な自己に正直にふるまうことによって、会社の売り上げ新記録を毎年更新している。

三人とも、意図的に外向的な場所を選んで、大部分の時間を別の性格を演じて過ごせるようにその場所のイメージをつくりかえ、働く日々を回復のための場所にしているのだ。

回復のための場所を見つけるのは、簡単とはかぎらない。

土曜日の夜、あなたは暖炉のそばでゆっくり読書していたいのに、配偶者が大勢の仲間と食事に行きたいとしたら、どうすればいいのだろう?

電話セールスの合間にはひとりで自室に閉じこもりたいのに、会社が職場をオープンオフィスに改装したら、どうすればいい?

もしあなたが自由特性を実践しようとすれば、家族や友人や同僚の助けが必要だ。

リトルはそれを「自由特性協定」を結ぶことと呼んでいる。

これが自由特性理論の最後のピースだ。

自由特性協定とは、私たちはみな、自分の性格にそむいて演技することがあるが、そのかわりに、残りの時間は自分自身でいられるということだ。

具体的な例をあげれば、毎週土曜日の夜に外出して楽しみたい妻と、暖炉のそばでゆっくりしたい夫がスケジュールを相談することだ。

たとえば二回に一回は外出、半分は家にいようという具合に。

親友の結婚祝いパーティや結婚記念日には出かけるけれど、結婚式の前に三日間も続く中間の集まりは欠席しようというのも、自由特性協定だ。

友人や恋人など、あなたが楽しませたいと願い、本当のあなたを愛してくれる人々とは、たいていの場合、自由特性協定について交渉することが可能だ。

だが、職場では、まだこういう考え方は一般的ではないので、ちょっと難しいかもしれない。

そこで、間接的なやり方を試してみよう。

キャリアカウンセラーのショーヤ・ジチーが、ある内向的な金融アナリストの話を教えてくれた。

彼女は四六時中、入れ替わり立ち替わりやってくる顧客や同僚と話をしなければならない環境で働いていた。

そのせいですっかり消耗して、転職しようと決めたのだが、相談を受けたジチーは休息時間をもらえるように交渉したらどうかと勧めた。

だが、勤め先はウォール街の銀行で、極端に内向的な人間がなにを求めているかを率直に話せるような職場ではなかった。

そこで、彼女はどう話を切り出すか慎重に考えた。

そして、戦略アナリストという職務の性質上、ひとりで集中して考える時間が必要だと上司に訴えた。

いったんその訴えが通ると、あとは簡単だった。

一週間に二日は自宅勤務にしたいという願いを、上司は聞き入れてくれたそうだ。

だが、自由特性協定を結ぶべき、もっとも大切な相手は、じつは自分自身だ。

あなたが独身だとしよう。

バーへ出かけるのは好きではない。

だが、長い夜を一緒に楽しく過ごすパートナーや少人数の友人は欲しい。

その目的を達成するために、あなたは自分自身と協定を結んで、社交イベントへ出かけることにする。

なぜなら、それがパートナーに出会う唯一の方法だし、長い目で見れば集まりへ出かける回数を減らすことができるからだ

けれど、イベントのために外出する回数は、負担を感じない範囲内に抑えなければならない。

前もって、一週間に一度とか、一カ月に一度とか、三カ月に一度とか決めておくのだ。

そして、その回数をこなしたら、残りの時間は心おきなく家にいられる。

あるいは、あなたは配偶者や子どもと過ごす時間を今より多くとるために、小さな会社を興したいと夢見ているかもしれない。

それにしても、ある程度のネットワーキングは必要になるだろうから、自分自身と自由特性協定を結ぶ必要がある。

一週間に一度は打ち合わせに出かけるのだ。

そのたびごとに、あなたは少なくとも一度は心からの会話をして(なぜならあなたにとっては「部屋いっぱいの人を相手にする」よりも簡単だから)、翌日にはその相手にフォローアップする。

それさえしておけば、家へ帰って、他のネットワーキングの機会を断っても罪悪感を持たないでいられる。

回復の場所を確保する

自分自身と自由特性協定を結ばないとどうなるか、リトルはよく知っている。

リシュリュー川沿いの小道やトイレはさておき、かつての彼は内向型と外向型の両方の要素を持つ、莫大なエネルギーを消費する生活をしていた。

外向型としては、講義、学生との面談、学生たちのグループ討論の指導、推薦状書きと、まさに八面六臂の活躍だった。

しかも、内向型としては、それらの仕事に対してひどく真剣に取り組んでいたのだ。

「考えてみれば、私は外向型のような行動をとってはいたが、もちろん本物の外向型ならばもっと手際よく片付けていたろう。

あれほど心を砕いて推薦状を書かなかったろうし、講義の準備にもあまり時間を割かなかったろうし、社交の場で神経をすり減らすこともなかったろう」と彼は述懐する。

さらに彼は、「評判による混乱」と彼自身が呼ぶものにも悩まされていた。

これは、彼があまりにも有名になって、評判が一人歩きしてしまったために引き起こされた問題だ。

ペルソナのほうが世間で有名になったがために、それに合わせなければならないという義務感が生じてしまうのだ。

当然ながら、リトルは精神的にも肉体的にもひどく消耗するようになった。

それでも彼は気にかけなかった。

学生たちを、学問を、そしてすべてを愛していた。

ところが、忙しい日々が続いたあげく、両側性肺炎と診断された。

体調を心配した妻がいやがる彼を病院へ連れていったのは、まさに正解だった。

もう少し遅かったら死んでいただろうと、医師は言った。

もちろん、両側性肺炎や忙しすぎる生活は誰にでもありうることだけれど、リトルの場合はあまりにも長期間にわたって、十分な回復のための場所なしに自分の性格に反して演技をしていたせいだろう。

自分の手に負えないほどたくさんのことをあまりにも律儀に処理しようとすると、楽しく感じられるはずのことさえ興味を失ってしまう。

健康を危険にさらすことにもなる。

自分の感情をコントロールしようとする「感情的な労働」はストレスや燃え尽きをもたらし、循環器系の病気になる確率を高くしかねない身体症状さえももたらす。

長期間にわたって自分の性格に反して行動したことは、自律神経系の活動を亢進させ、結果として免疫機能の働きを弱めたと、リトル教授は信じている。

ある注目すべき研究によれば、抑圧された否定的な感情は時間が経過してから思いがけない形で漏れ出すことがある。

心理学者のジュディス・グロブは、被験者たちに胸が悪くなるような写真を見せて、感情を抑えさせるという実験をした。

被験者たちが口をへの字に歪めるのを防ぐために、あらかじめ鉛筆をくわえさせた。

その結果、被験者たちは、自然に反応を示した対照グループよりも、写真に対して抱いた悪感情が小さかった。

ところが、時間が経過してから、そうして感情を覆い隠した人々に副反応が生じた。

記憶には残っていなくても、覆い隠した悪感情の影響が表れたのだ。

たとえば、gr_ssという文字列の空いている部分を埋めさせると、grass(草地)ではなくgross(ひどい)と答える人が多かった。

否定的な感情の抑圧が習慣になっている人は、世の中をより否定的な視点で見るようになるのかもしれない」とグロブは結論づけている。

リトルは心身を回復させるために、大学を辞して、妻とともにカナダの田舎にある家で暮らすようになった。

カールトン大学公共政策・経営学院の責任者である妻のスー・フィリップスは、自由特性協定を必要としない二人の生活を心から楽しんでいるそうだ。

だが、リトルが自分自身と結んだ自由特性協定は、彼が「必要以上に没頭しないかぎりは」学者として、専門家としての人生を全うすることを許している。

そこで、彼は自宅へ戻っては、妻のスーと暖炉のそばでくつろぐのだ。