我慢した敵同士の心理

我慢した敵同士、どちらも不幸に

深層心理では敵対している

ちょっとしたことで怒り出す、横暴な夫、我慢して従っているのに、感謝はない。

どうして夫は、感謝しようとしないのでしょうか。

カウンセラーは改めて、「我慢するというのは、どういうことだと思いますか?」

と聞いてみました。

それは、自分の「我慢している緊張した気持ち」を自覚してほしかったからです。

我慢して夫に従っているとき、「夫に心からしてあげたいという、肯定的な気持ちになっていますか?」

「いいえ」

これが彼女の気持ちです。

決して気分よく従っているわけではありません。

むしろ、我慢している緊張状態というのは、「戦っている」状態と言えるでしょう。

我慢する関係はお互いずっと満足することはない

夫は妻を強引に従わせようとして、妻は従いながら無言で反発するという方法で、戦っています。

その手段は違えども、お互いに戦っているのであれば、どちらかが降りない限り、その戦いはエスカレートしていきます。

同じ屋根の下にいて、お互いに相手に腹を立てて「口を利かない」という方法で戦うこともできます。

こんな状態になっているときは、相手を責めながら、それぞれに「自分が我慢している」という気分に陥っているでしょう。

こうなるとどちらが勝っていて、どちらが負けているのかわかりません。

仮に我慢していたどちらかの一方が明らかに勝っているとしても、「ああ、勝ってよかった。満足、満足」といかないのが、日常的なレベルでの争いなのではないでしょうか。

こんな観点から捉えると、どちらからも「相手が悪い」と見える。

しかも、仮に自分が優勢であったとしても、まず、”心から勝った”と満足することはない。

これが「我慢している関係で戦って勝つ」ということの実態です。

こんな「戦い合う関係性」をやめるには、我慢しているどちらかが先に戦いから「降りる」しかありません。

もちろんそれは、相手に黙って服従するということではありません。

それでは、元の木阿弥となってしまいます。

また、「降りる」ということは、負けを意味するものでもありません。

一言で言うとそれは、相手を敵と見なす敵意識や戦う意識から、我慢する自分の心がどれだけ解放されるかということなのです。

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まわりは敵と我慢する人

傷つけられるといつも怯える人

「戦いに勝とうとしている人」も「すでに戦いに敗れてしまっている人」も、我慢している人は他者に対して「自分を脅かす敵だ」と認識していることには変わりがないのです。

ベースにあるのは「敵」という意識であり、戦いに強い人の中にも弱い人の中にも”人に対する恐怖”があります。

つまり、我慢している人は戦いに勝っても負けても、「相手に、いつ攻撃されるかわからない。いつ裏切られるか分からない。いつ見捨てられるかわからない。いつ寝首をかかれるかわからない」

といったさまざまな恐怖を抱いているのは、勝者も敗者も同じということなのです。

これが、我慢する敵意識を抱いて戦う人たちの”実像”だと言えるでしょう。

我慢しなければ得られる

「でも、強い人間が勝つというのは、この社会のルールなんだから、しょうがないでしょう。恐怖を抱いているとしても、戦って勝つしかないし、奪い合わなければ、得られないんですから」

と言う人がいますが、本当に戦わなければ得られないものなのでしょうか。

あるときセミナーに集まった人たちに、「敵と戦って勝てば、何が得られるんでしょうか?」と尋ねました。

けれどもこの問いに、具体的に答えられた人はいませんでした。

「お金持ちになります」
「成功します」
「偉くなります」
「出世します」

これらのどれもが、具体的ではありません。

さすがに、戦って「幸せになれます」という人はいませんでしたが、「三角関係のとき、好きな人をゲットすることができます」

と言った人もいます。

これらは、本当に、戦えば得られるのでしょうか。

戦わなければ得られないものなのでしょうか。

最近とみに、「戦わないほうが、もっと早く、もっと簡単に望むものを手に入れることができる
というようにしか思えなくなってきています。

「人を自分の言いなりに従わせられたら、気分がいいじゃないですか」と、そんな自分になることに憧れる人たちもいます。

たとえば、近所では「腰の低い人、善い人」だと言われていても、家では横暴な振る舞いをして家族を震え上がらせる人がいます。

社会的には押しが強くて仕事ができると高い評価を得ていても、家族には煙たがられ、そっぽを向かれている人もいます。

こんな我慢している人は、結局は、「戦って勝った」結果、何を得ているのでしょうか。

誰も味方はいないし愛されない

人生においては「勝者」「敗者」という明確なラインは一切存在しません。

一般的な生活の中で、「完璧に勝つ」「完璧に負ける」ということがあるかどうか。

その「勝つ」ということの定義すらありません。

勝った状態というのは、どういうことなのか。

お金を持っていることなのか。

人から高く評価されることなのか。

人より優っていることなのか。

では、何に対して勝利すれば勝っているということなのか。

この「勝つこと」の定義そのものも非常に曖昧です。

勝ったという状態の中に「満足感の質や量」を問うならば、勝った状態というのは、上を見ても下を見ても無限にあるでしょう。

こんなふうに我慢した人間関係を突き詰めていくと、競技や業績や成績の中にある「優勝という完全なる勝者」のような満足感は、人生においては最初から”幻”なのです。

幻というのは、存在しないということです。

最初から「存在しない」のであれば、どんなに追いかけても求めても、我慢して勝とうとすることで恐怖におののくことはあっても、その人間関係に永遠に満足することはない、と言えるでしょう。

我慢して勝っても負けても、それが、「敵」という意識で戦ってたどり着く終着駅なのです。

満足という点で言えば、「人は敵だ」という意識そのものがすでに、多くの満足を放棄していると言えるでしょう。

言い換えるとそれは、「私は相手に好かれない。愛されない」と言うにも等しいものです。

敵同士が愛し合うことなど至難の業です。

どんなに相手が自分を愛してくれているとしても、我慢している自分自身が相手を敵だと認識しているのですから、自分の中に愛を感じる心がなければ、そこに愛はないのです。

すべからく、人は愛されること、あるいは愛し合うことを望みます。

「人は敵だ」という概念は、この「愛を得る」こととは正反対です。

最初から愛を得ることを我慢する人は拒否し、自分の周囲のすべての人が敵だという意識で社会に臨んでいれば、「私には、味方が一人もいない。私は誰にも愛されない」という孤立無援の気持ちになるのも無理からぬことではないでしょうか。

「相手は敵だ」という意識が強いほど孤独に陥っていくのは、落下の法則にも等しく当然だと言えるのです。

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敵という感覚をなくすには

もっと楽に生きるために

生命を守るために危機に反応する我慢する脳がある以上、戦うことをこの世から一掃してしまうこともできないでしょう。

けれども、自分自身に限って言えば、敵意識や戦う意識を減らしていくことは可能です。

なによりも、絶えず、「相手が、自分に危害を加えるのではないか」と脅え続けるというのは、辛いものです。

「戦って勝たなければ、自分の目標を達成することはできない」

「相手をやり込めてでも、相手を押しのけてでも主張しなければならない」というふうに、我慢して戦い続けるのも疲れます。

だからといって、「もう、我慢する戦いに疲れたから、人生を放棄してしまえ」となるのでは、生きていることが虚しくなってしまうでしょう。

自分も相手も尊重する関係

そんな我慢する意識から解放されていけば、随分と楽な生き方ができるでしょう。

それには、お互いを「尊重し合う」ことが基本原則です。

こんなふうに言うと、「そんな言葉は、誰だって知っていますよ。日本憲法の13条にも『すべて国民は、個人として尊重される』って謳ってありますからね。

そんな絵空事を言ったって争いはなくならないし、だいたい、敵である相手を尊重していたら、損するし、攻撃されるんだから、たまったもんじゃありませんよ」

などと言われてしまうかもしれません。

けれども、もしそう思う人がいるとするなら、それは、「自分自身を尊重できていない」からだと言えるでしょう。

ここでの「尊重し合う」というのは、漠然と「それぞれを個人として尊重しましょう」というような、観念的なことで終ってしまうような”尊重”ではありません。

もっと厳密に捉えて、より具体的なところに焦点を当てていきます。

しかもその尊重は、敵となる相手よりも、まず「自分を尊重する」という視点に立っています。

自分を大切にしているか?

この「自分を尊重する」という基本原理は、敵意識から生まれる自分の感情に苦しんでいる人ほど、重要です。

なぜなら、敵意識を抱いていると、相手や周囲を窺って警戒したり、外側の動向に過剰反応するなど、絶えず他人の目を意識することに囚われてしまうからです。

緊張しながら我慢して外側にアンテナを張ってしまうために、自分に関しては、まるっきり手薄になってしまいます。

他者は敵だという意識に囚われている人ほど、「自分を尊重する」ことをしらず、自分をないがしろにしてきた人であると言っていいでしょう。

相手を敵だと見なしている人たちの言動は、一見、傲慢そうに映ったり生意気に見えたり自信ありげだったりします。

けれども、そんな態度をとってしまうのは、元を正せば「自分を尊重できないでいる」からなのです。

もちろん我慢している人のその裏には、自分を大事にして生きてきた人たちには窺い知れない強い恐怖を抱えています。

中には、それを自覚できない人もいます。

自分と向き合うことが怖いと思っている我慢する人ほど、自覚することを避けたがるでしょう。

けれども、その結果、どうなるかは、これまで述べてきた通りです。