普通であることの勇気

全ての人間が「特別によくある」ことなど不可能で、人間には得意不得意があるし、差が出てしまう。
天才などこの世にごく一握りしかおらず、誰もが優等生になれるわけではない。だとすれば、敗れたものは皆「特別に悪くある」しかない。

そう、まさにソクラテスのパラドクス、「誰一人として悪を欲する人はいない」なのです。
問題行動に走る子供たちにとっては、暴行や窃盗でさえも「善」の遂行なのですから。

そこでアドラー心理学が大切にしているのが「普通であることの勇気」という言葉です。

なぜ「特別」になる必要があるのか?
それは「普通の自分」が受け入れられないからでしょう。
だからこそ、「特別によくある」ことがくじかれたとき、「特別に悪くある」ことへと極端な飛躍をしてしまうのです。

しかし、普通であること、平凡であることは、ほんとうによくないことなのか。
何か劣ったことなのか。実は誰もが普通なのではないか。
そこを突き詰めて考える必要があります。

自己受容は、その重要な一歩です。
もし、あなたが「普通であることの勇気」をもつことができたなら、世界の見え方は一変するはずです。

普通を拒絶する人は、おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義でとらえているのでしょう。
普通であることとは、無能なのではありません。
わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです。