本音が言えない人が自信を持つための心理

本音が言えない人が自信がつくための理解

人の批判が怖くて本音が言えない人がいる。

そういった本音が言えない人は人間関係で消耗してしまう。

それでは本音が言えない人はどうしたらよいのか。

その本音が言えない心理を詳しく考えてみたい。

本音が言えないとは

本音が言えない心理として、ノーと言っても好かれる人がいる。

しかしイエスと言っても本音が言えない好かれない人がいる。

なぜか?

「こんなに真面目に生きてきたのに、こんなに勤勉に努力してきたのに、こんなに頑張って生きてきたのに、何も悪いことはしなかったのに、善人のつもりなのに」。

だけど人生がどこかおかしい。

生きることに空しさがある、毎日なんとなくもの足りない

努力しても本音が言えない人は思うようには出世ができない。

あんなけしからん奴が出世をするのに。

自分の方が能力があるのに、なぜあいつがもてはやされるのか。

まわりには気に入らない人ばかりが威張っている。

なぜか自分は不運つづきだ。

その原因は何か?

人生の重荷を背負うことを逃げたに違いない、本人が意識していないとしても心はそれを知っている

人間の大きさとか深さとかいうものはどこで決まり、どこで出てくるのであろうか?

それは人生の重荷をどこまでも広く背負ったかという事で決まるのではなかろうか。

本音をどれだけ言うことができたか。

若者には若者のよさがある。

エネルギーがある

活力もある。

若い輝きもある。

しかし深さとか、大きさというものを感じさせない。

それはまだ人生の重荷を広く背負っていないからである。

広く人生の重荷を背負えば大きくなる

しかし人生の重荷から逃げる本音が言えない人がいる。

重荷から逃げたうえで本音が言えない人はどんなに真面目に生きてもどこかにうしろめたさがある。

本音が言えない人は自分が”修羅場”から逃げたことを心は知っている

どうしても堂々としたふるまいができない

広く人生の重荷を背負えば、その人は鍛錬されて心が大きくなる。

そして何よりも誇りが生まれる。

名誉とか、権力とか、財産とかが絶対に与えることのできない誇りが、静かにその人の心の中に生まれてくる。

それが人に安定感を与える

落ち着いた雰囲気というのはそこから生まれてくるのだろう。

人生の重荷から本音が言えない人は逃げて、あとで坐禅をして修養しても心の平静は獲得できない。

もちろん、ときにその重荷に本音が言えない人は押し潰されそうになることもある。

人生の重荷はものすごいストレスである

胃を壊すこともある。

吐き気で苦しむこともある。

体調が崩れてどうしようもなくなるときもある。

眠れない夜が続くときもある。

それはつらい夜の連続かもしれない。

最後にはやすらぎがある

本音が言えない人の名誉や権力はそのときにはやすらぎを与えてくれるかもしれないが、長期的には心の問題を何も解決してはくれない。

人生の重荷を背負うとは、もう本音が言えない自分の弱点ややましさを隠すことにエネルギーを使わないということでもある。

隠すことばかりエネルギーを使っていると、何も生産的なことをしないで、消耗して燃え尽きてしまう。

何かを隠して真面目に生きている本音が言えない人と、居直って真面目に生きている人とではストレスが違う。

何かを隠して勤勉に努力する本音が言えない人は疲れやすい。

しかし居直って勤勉に努力する人はそれなりの成果を上げる。

本音が言えない人は失うことを恐れてはいけない

失うものはもともと自分のものではないのだ

失うことを本音が言えない人は恐れていると、それだけでまた疲れてしまう。

いったん得ても失うときには失う。

親しい人間関係も名誉もお金も、失うまいとすればそれはストレスの原因になる。

失いそうになる時に人は悲鳴を上げる

本音が言えない人は苦しくてのたうちまわる。

しかし、しがみついてはいけない。

努力することはいい。

しかし、本音が言えない人はしがみついてはいけない。

執着は人を滅ぼす

一時の心の安心のために本音が言えない人はそれ以後の人生を破壊する。

元々人は裸で生まれてきたのである。

人は自分を出した時に強くなる。

努力しながらも、なぜかうまくいかない本音が言えない人は、あまりにも安易に人に好かれようとしたのである。

従順とか、ご馳走をするとか、お世辞を言うとか、喜ばす話をするとか、何かを与えるとか、そんな安易な方法で好かれようとした。

自分をさらけ出すという勇気は修羅場を呼ぶかもしれない

しかしそれが本当に好かれる方法であるときもある。

人生の重荷から逃げて本音が言えない人は人に好かれようとどんなに努力しても、好かれることはない。

本音が言えない人のその努力は無駄になるばかりではなく、ずるい人に利用されるだけのことである。

そんな努力はしないほうがいい。

人生の重荷を背負うことから本音が言えない人は逃げてしまうと、どんなに善人で、どんなに努力してもどこかにおびえたところがでてしまう。

善良に生きているのに、なんとなくびくびくしている人がいる

本音が言えない人はどこか自信がない。

本音が言えない人は穏やかさもない。

努力して優秀でも本音が言えない人は心は狭い。

本音が言えない人は人望がない。

修羅場から逃げたあとで真面目に生きる人はたくさんいる

しかし真面目さでは解決できないことはたくさんある。

あまりにも真面目過ぎる本音が言えない人は、真面目さで解決できないことを真面目さで解決しようとしているのである。

だから真面目がすぎてしまうのである。

逃げないでものごとに正面から向き合う、それはつらいことである

胃がただれるような感じがする。

おそらく本当に胃壁は胃液でただれてしまっているのだろう。

胃潰瘍を繰り返すかもしれない。

しかしどんなにつらくても心は落ち着く。

修羅場から逃げてしまえば、本音が言えない人はそのときだけは心理的に楽である。

本当に楽である。

しかし本音が言えない人は心は落ち着かない。

本音が言えない人はその落ち着きのなさが見ていてなんとなく不安な感じを人に与える

不安から安定しようと本音が言えない人は人に好かれようとする努力がはじまる。

本音が言えない人はそこまでして人に好かれようとするのは、心のどこかにやましさがあるからである。

逃げたことを本音が言えない人の心は知っている。

どんなに坐禅を組み、本を読み、水をかぶっても心は知っている。

どんなに真面目に生きても心は知っている。

しかしものごとに正面から向き合い、自分を出してしまった人は心が落ち着いている。

だから本音が言える人は人に好かれる。

人にご馳走しなくても好かれる。

人にいい話を持っていかなくても好かれる。

人の申し出を断っても好かれる。

本音が言えない人は自分の弱点を見せると自信がつく

生きることがつらい人は「人の強さ」「理想的な生き方」という意味を勘違いしている

自分の弱点を出せるということが「内面的強さ」を表していることなのである。

弱点のないことが強い人ではなくて、弱点が出てもその場で心理的に混乱しないということが強い人なのである。

生きることがつらい本音が言えない人は弱点がないことを理想の人として考えている。

だから本音が言えない人は生きることがつらくなってしまう。

生きることが辛いは尊敬されたくて必死の努力をしているのであるが、どうなったら尊敬されるかということがわかっていない

だから本音が言えない人は努力が実らないのである。

生きることがつらい本音が言えない人の願う「理想の人」を彼らが演じても、普通の人はその人を理想の人とは思わない。

弱点を隠して理想の人を演じても人は親しみを感じない。

自分の弱点が出ても、心の動揺がない人を見て「強いなー」とか「素敵な人だなー」とか思うのである。

生きることがつらい人の願う「理想の人」は心のない人である。

本音が言えない人は心のふれあいのない人である。

生きることが辛い人の願う「理想の人」はどこを切ってもその人らしさがない。

その人固有のものがない

その点を本音が言えない人は勘違いしているから、必死で生きながらも実りのない人生になってしまう。

だから「つらい、つらい」だけで本音が言えない人は人生が終わってしまう。

生きることが辛い人の願う「理想の人」には心がないから、その本音が言えない人の周りに集まる人も皆心のない人である。

心の酸欠状態である。

酸欠状態だから本音が言えない人は何かわからないけど「苦しい、苦しい」状態が続く。

しかしそこまで酸欠で心が苦しくなっていてもまだ本音が言えない人は「理想の人」には心がないということがわからない。

だから、自分の周囲にいる人にも心がないということがわからない。

自分が自分とふれあっていないし、他人ともふれあっていない

多少オーバーに言えば生きることがつらい本音が言えない人の願う「理想の人」とは人間としてきわめて不自然な人間である。

心理的に健康な人であれば、本音が言えない人とは誰でも「できれば付き合いたくない人」である。

弱点が出てしまってもそのことで、その人と付き合いたくないと普通の人は思わない。

逆に言えば本音が言えない人は他人の弱点を、そのようにやさしさのない眼でみているからこそ、自分の弱点をそのようにやさしさのない眼で見ているからである。

そういう本音が言えない人は、肝心の自分の可能性を開花させることにはエネルギーが残っていない。

アメリカの精神分析医カレン・ホルナイの言う「『べき』の暴君」に、自分自身が支配されなければ、他人にもやさしくなれる。

他人にやさしくなれれば生きることのつらさも消えていく

本音が言えない人は自分を冷たい眼で見ることが自分の人生をつらくしている。

さらにそのうえに本音が言えない人は相手に対する冷たい眼がある。

それがつらい人生という形で本音が言えない人は自分に帰ってくる。

ある夫婦である。

熟年離婚の後に悩みを抱えていた

奥さんは、ご主人はすでに自分に関心を失っていると思いこんでいた。

なぜなら奥さんがどこへ出かけてもそれについて何も本音が言えないご主人は聞かないからである。

しかし本音が言えないご主人のほうはなぜ聞かなかったかというと、嫉妬深い男と思われたくなかったからである。

本音が言えない内心は嫉妬心でつらかった。

しかし「男は嫉妬すべきでない」という「理想の男性像」にとらわれていたから聞けなかった。

するとストレートに本音が言えない人は嫉妬が出ないで日常生活の別の面に出る。

奥さんは掃除から日常のお金の使い方までネチネチと聞かれて嫌気がさしてしまっていた。

もしストレートに自分の感情を出していればご主人は嫌がられないでいたのである。

嫌がられるどころか奥さんは毎日がわくわくして「素敵な女」を演じていたに違いない。

ある「明るい人」が自殺した

周囲の人は「あの明るい人が!」と驚いた。

そして「信じられない」と言う。

その自殺した人は本音が言えない人であった。

その本音が言えない人は、好かれるために明るい性格を無理に演じていた。

しかし実は心の底では孤独で本音が言えない自分の無力を感じていた。

そしてその本音が言えない人は自分が無力な人間であるという感じ方を避けるために無理に仕事熱心であった。

人から好意を得ようと本音が言えない彼は明るく真面目にふるまってきた。

本音が言えない彼はつまり明るい性格は不安の防衛的性格であった。

本音が言えない彼は別の言葉で言えば、明朗と活発は躁的防衛である。

本音が言えない彼は本当は自分に自信がない

自信のなさを隠すために本音が言えない彼は社交的に明るく振る舞っていただけである。

妙にはしゃいだり、不自然に明るかったり、わざとらしい親しさをふりまく本音が言えない人がいる。

内面の本音が言えない人の自信のなさを、そのはしゃぎで隠しているのである。

そういう無理に明るい性格を本音が言えない人は演じても、何でも話せる親しい友達がいない

皆に好かれたい気持ちが強いから、本音が言えない人は極端なまでに周囲の人の期待に応えようとする

しかし本音が言えない人はどこかその明朗さは不自然なのである。

だが、活動的で実行力があるから社会的には偉くなった。

もしこの人が「実は俺は淋しくて本音が言えなくて自信がないんだ、だからついつい大きなこと言ったり、わざと明るくふるまったりしてしまうんだ」と自分に正直になれていたら、親しい人ができたであろう。

本当の自分の感情を表現できていればこの人は楽しく生きられたかもしれない

この本音が言えない人が好かれたいと思って明るい性格を無理に演じても、本当にその人を好きになる人はいない。

好かれたいと思っていつもニコニコしている本音が言えない人もいる

しかし「何か、あの人とは心が通じない」と誠実な人は思うだけである。

その無理をして明るさを演じている人も周囲には人がいたが、実際に気にかける人はひとりもいなかったのである

その本音が言えない人が自殺するほど苦しんでいても、周囲の人は誰も気がつかなかったのである。

友達と思っていた人は、心が通じる友達ではなかった。

本当の自分の感情を表現して友達でいられる人でないのなら、一緒にいたってしょうがない。

本当の自分の感情を表現したら、友達との関係は終わりと思うなら、もともとその友達との関係は幻想にすぎない

その人たちは自分の本音を隠すことで、自分を守ろうとしていた。

だが、真に自分を守るためには自分の本音を出すことだったのである。