条件付きの愛情

条件付きの愛情とは

「忠誠を誓う」という概念は、心の問題を考えるとき、大切なものである。

過保護の問題なども、この忠誠、条件付きの愛情という概念を入れて考えると実感がよくわかる。

たとえば過保護というと、条件付きの愛情、偽装された憎しみであるとか、保護と拒否が同時に存在するとかいろいろいわれる。

では、保護と拒否がなぜ同時に存在できるのかを考えてみます。

次のような一文がある。

「子どもたちが自分の支配に服するかぎり」

つまり過保護の場合、親が子どもをかわいがるのは、条件付きの愛情、「子どもが自分の支配に服するかぎり」においてなのである。

これを子どもの側からいうとどうなるか。

「自分が親に忠誠をつくすかぎり」保護を得られる、条件付きの愛情ということになる。

親にとって自分が都合のよい存在であり、自分が忠誠をつくしているかぎり、親は自分をかわいがってくれるという条件付きの愛情というわけである。

条件付きの愛情の心理

条件付きの愛情は親の側からすれば、忠誠を誓われることで、自分の委縮している自我の拡大を感じることができる。

条件付きの愛情は子どもの忠誠によって無力感を一時的に癒すことができる。

条件付きの愛情は傷ついた自尊の感情を一時的に癒すことができる。

条件付きの愛情は親の依存性が深刻であればあるほど、子どもの忠誠心は心地よいものとなる。

だから条件付きの愛情は依存性が深刻であればあるほど忠誠心を強く要求してくる。

条件付きの愛情はここでは、依存と忠誠が愛と錯覚される。

依存と忠誠の念が深ければ深いほど、愛は深いものと錯覚される。

依存と忠誠の念が深いとは、条件付きの愛情、いずれにせよお互いの求めあう感情の激しさをあらわす。

そしてその感情の激しさが愛の深さと錯覚されるのである。

条件付きの愛情、相補性というのはこのことである。

条件付きの愛情は互いに独り立ちできずに依存を深くし、その感情の強さが両者を愛の錯覚へと導く。

親と子のすれ違う思い込み

ところが、ここで子どもが何らかのきっかけによって「自分」に気付き、自己実現に向かいだしたとする。

たとえば、恋愛をしたとか、大自然とか芸術とか思想とかとの出会いによって思いもかけぬ大きな感動を得たとか、とにかくそのような契機をつかんで自分らしさに目覚めたとする。

親は、はじめは、条件付きの愛情でなだめたりすかしたりして子どもの自己実現を妨害する。

条件付きの愛情は人生はそんな甘いものじゃない、おまえはだまされている、まだ本当のことがわかっていない、おまえは疲れているんだ、休んだ方がよい・・・など、なんだかんだといって子どもの自己実現を妨害する。

このとき依存心の強い親は、条件付きの愛情でそういうことを本気で、必死になっていう。

このような親は、条件付きの愛情で子どもをだますことより自分をだます必要のある人間である。

もちろん本気とはいっても、条件付きの愛情は心の底の底では自分はウソをついているとは感じている。

ただ、条件付きの愛情は意識の上では何としてもそれを認めまいとする。

条件付きの愛情は「おまえは変わった」というとき、子どもが本当に悪い方向へ行っていると、親は思っていたりするのだ。