焦燥感に駆られる人の気が楽になる心理

まず、いても立ってもいられない程の強い焦燥感に駆られる人は、なるべく早く心療内科や精神科にかかることをおすすめします

現在では焦燥感を鎮静する便利な薬がたくさんあります。

ただし、個人によって効き方は様々だと思います。

次に、焦燥感の原因となっていることと向き合って、その原因を解消していくことをおすすめします。

辛いですよね。

以下はその焦燥感の仕組みや解消法を心理的な面で述べたものです。

よろしければ、参考にしていただければ幸いです。

焦燥感に駆られてしまうのは、恥ずかしがり屋の人が怖くて怖くて自己主張などできない環境で育ってきたからである。

焦燥感に駆られるとは

焦燥感に駆られる心理について述べてみると、

たとえば表現した感情が親の気に入らないものであったときどうなるかと思うと、恐ろしくて自己表現できない。

「えー、あの人スゴーイ」と自分の尊敬の感情を表現したら、劣等感が深刻な父親の逆鱗にふれて、夜中の二時三時まで責め苛まれたら、もう自分の感情を表現するのは怖い。

飼っていた犬が死んで悲しくて立ち直れなくなった。

そのときに父親から「男のくせに、犬が死んだくらいで、そんなに悲しむのは、男のクズだ」と言われた。

焦燥感に駆られる人はそこからもう悲しみの感情は表現できなくなる。

その恐怖が大人になっても感情的記憶のなかにしっかりと記録されている。

なかなか消えない

何か言おうとしたときに、焦燥感に駆られる人はその感情的記憶がよみがえり、もう怖くて言えないのである。

焦燥感に駆られる人は何か言おうとしたその瞬間、体のなかに恐怖がよみがえる。

だから焦燥感に駆られる人は自己主張も自己表現もできない。

そして自分のなかに閉じこもる。

心を閉ざしてしまう焦燥感に駆られる人は、小さい頃の恐怖のシステムに支配されているのである。

恐怖感も、その恐怖の体験のあとで癒されるものがあれば、あとには残らない

しかし焦燥感に駆られる人は、恐怖のあとに癒しは何もなかった。

母なるものを持った母親がいれば恐怖のあとに癒しがある。

体験したことのない人がなかなか理解できないのが、焦燥感に駆られるこの恐怖のシステムである。

ある有名人である。

招待先で帰り際に「車を用意してあります」と言われた。

すると自分の車があるのに、「いえ、自分の車がありますから結構です」と言えなくて、自分の車をそこにおいて、招待してくれた側の用意した車で帰ってきたということがある。

「車を用意してあります」と言われた瞬間、焦燥感に駆られる人は断って嫌われる恐怖が体に走るともう何も言えなくなる。

焦燥感に駆られる彼は小さい頃、相手の好意を断わったときに、恐怖の体験をしている。

それが感情的記憶となって、大人になっても自動的に「ありがとうございます」と言っている。

気がついたら言っている。

馬にある音を聞かせたあとに床に電流を流す。

それを繰り返すと電流を流さなくなっても、馬は音を聞くと蹄を上げる。

「事実上、この馬は、過去においては適切であったが、すでに無意味となった行為に固執する」

馬が蹄を自動的に上げてしまうように、焦燥感に駆られる人は人間も自己表現をしようとした瞬間に自動的に恐怖が走って黙ってしまう。

権威主義の親の前で自己表現できる子はいない。

よくいじめられた子どもに「言い返せばいいじゃないか」と言う人がいるが、それは言い返したときの恐怖の体験をしていない人が言う戯言である。

そもそも権威主義的な家庭に育てば「言い返す」などという文化はない。

権威主義的な家庭というのは従順以外には何も許されていないのである。

従順、服従が最高の美徳である。

いつも気持ちは萎縮している。

いつも怯えている。

従順が美徳のなかで育った焦燥感に駆られる人がいる。

その萎縮した気持ちは、そう簡単に消えるものではない

これは、自分を表現することが許された環境で育った人にはなかなか理解できない。

同じこの世に生まれても、自分の感情や意見を表現することを励まされる子もいる。

ある人は地獄のなかに生まれたのであり、別の人は天国のなかに生まれたのである。

ある人にとってはこの世は地獄であり、別の人にとってはこの世は天国である。

小さい頃、恐怖の体験をした人でないと、「怖くて言えない」という心理はなかなか理解できない。

自分の意に反したことを相手が言ったときには、従順を強いられた焦燥感に駆られる人は自分のなかに閉じこもる以外に方法がないのである。

焦燥感に駆られる人が自分の中に閉じこもることがどれほど不愉快で苦しいことかは、想像ではなかなか理解できない。

それは深い絶望と孤独の感情である

自分の気持ちを汲んでもらえない悲しさと怒りとが絡んだ複雑な感情である。

焦燥感に駆られる人は矛盾した感情が同時発生して、自分自身がどう対応していいかわからない。

したがって閉じこもる以外に方法がない。

焦燥感に駆られる人は、こうしてどのくらい自分の正当な攻撃性を抑圧しているかわからない。

攻撃性を抑圧することで、その焦燥感に駆られる人が無意識の領域で払っている代価は大きい。

つまり、無意識の領域で焦燥感に駆られる人は自信を失っていく。

したがって焦燥感に駆られる人は社会的にどんなに成功しても自信がない。

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焦燥感に駆られる人の「看守」と「囚人」

恥ずかしがり屋の人は、小さい頃から「看守と囚人」という人間関係で生きてきた

囚人は看守に迎合しているが、看守を心の底では好きではない。

ジンバルドーの看守役と囚人役の実験がある。

みんな心理テストを受けて健全とわかった。

看守役は最初は横柄に振舞っていたが、そのうちに囚人たちに対して残忍になって、サディスト的な態度をとるようになった。

囚人のほうは感情的な苦痛、無力感、そして究極的には愚かなほどすべての規則に順応するということで、そうした力の示威に反応した。

囚人は反発すれば罰せられる

権威主義的な親に対する子どもの反応はこうしたものであろう。

焦燥感に駆られる人は、小さい頃から看守と囚人の関係のなかで生きてきているのである。

だから焦燥感に駆られる人は従順であることは当たり前である。

迎合が焦燥感に駆られる人は身についてしまっている。

ひとりのなかにこの両方を持つのが、極端にシャイな焦燥感に駆られる人であるとジンバルドーは言う。

日本ではいじめられる人といじめる人とが同じ人間であることが多い

小学校でいじめられた人が、中学校ではいじめる側にまわることで恨みを晴らしている。

焦燥感に駆られる人は実際は囚人なのに、「なりたい自分」は看守である。

恥ずかしがり屋の人は「理想の自分」と「実際の自分」との乖離が大きい。

だから焦燥感に駆られる人は毎日がものすごくストレスに満ちている。

焦燥感に駆られる人はイライラしながら相手に従順になっている。

恥ずかしがり屋の人は人と対立することを恐れている

自分の意見を言えない。

焦燥感に駆られる人は相手の意見と自分の意見が違ったら困る。

人と対立することが焦燥感に駆られる人は気まずさを招く。

そこで気まずい思いをするくらいなら、焦燥感に駆られる人は意見を言わないほうを選ぶ。

自己主張など気が引けて出来ないからと言って、自己主張したい内容自体がないわけではない。

言いたいことはある

焦燥感に駆られる人は心の底ではふつうの人よりもわがままだから、言いたいことは普通の人よりもたくさんある。

実際には焦燥感に駆られる人は普通の人よりもわがままなのに、表面的にはふつうの人よりも従順に振舞う。

そこで焦燥感に駆られる人は心の中は普通の人よりも不満である。

しかしその不満を焦燥感に駆られる人は言えない。

ただ長いこと意見を言わないでいると、焦燥感に駆られる人は自分の意見がわからなくなる。

そして理由はわからないが、焦燥感に駆られる人はただなんとなく不満になる。

「言わない」ことを選択した焦燥感に駆られる人達

恥ずかしがり屋の人について「言えない」という表現をここまで使ってきた。

しかし正確に言うと焦燥感に駆られる人は「言わないということを選択している」のである。

焦燥感に駆られる人はたしかに意識の上では「言えない」のである。

「言おう」としても「言えない」。

しかし無意識のところまで考慮に入れると、焦燥感に駆られる人は「言わないということを選択している」のである。

つまり、あることを意識の上では言おうとしたけれども、焦燥感に駆られる人は無意識にある恐怖感に動かされて言わなかった。

「言うこと」と「言わないこと」との選択で、焦燥感に駆られる人は無意識の領域にある恐怖感に従って「言わないこと」を選択したのである。

「あなたがなんらかの行動をしたとします。すると、そのたびに自分のしたことの動機となった考えを強めています」という『自己創造の原則』の著者であり、アメリカ精神科医として名高いジョージ・ウェインバーグの主張からすれば、無意識の領域にある恐怖感は、言いたいことを言わないたびに強化されている。

したがって恥ずかしがり屋の人は、恥ずかしさを改善するよりもどんどん恥ずかしがり屋になっていく

そのことはギルマーティンの調査を見ればわかる。

年をとった恥ずかしがり屋の人のほうが、若い恥ずかしがり屋の人より強度の恥ずかしがり屋である。

私たちは意識の上で安全を求めて行動する。

しかし無意識の領域ではその代価をきちんと払っている。

無意識に払う代価という問題を私たちは考えない。

だからこそオーストリアの精神科医ベラン・ウルフが言うように、幸せも不幸せも複利で増えていくのである。

それは先ほど述べたジョージ・ウェインバーグの「人間の行動はその背後にある動機を強化する」という主張とも一致する

私たちはビジネスでは取引先をどこにするかを選択するし、選択していると思っている。

買い物に行けば、価格を選ぶか、品質を選ぶかを選択する。

どこのお店で買うかも選択している。

これらのことはだれでも選択していると思っている。

つまり意識の上でも選択している。

私たちはレストランに入ればメニューを見て、何を食べるかを選択する。

このときには、だれでもラーメンを食べるか、カレーライスを食べるかを選択していると思っている。

しかし私たちは、何気ない日常生活ではいろいろなことを選択していないと思っている。

ところがやはり選択しているのである。

それはいま書いたように無意識の領域まで考慮に入れれば、選択しているということである。

焦燥感に駆られる人の無意識下に存在する不満

恥ずかしがり屋の人は「不満を言えない」

なぜか?

それは焦燥感に駆られる人はみんなから気に入られたいからである。

気に入られるために焦燥感に駆られる人は自己主張ができない。

みんなにいい顔を焦燥感に駆られる人はしてしまう。

しかし心の底では焦燥感に駆られる人は不満である。

ものすごいストレスが焦燥感に駆られる人はたまる。

したがって、焦燥感に駆られる人が黙っているからといって満足しているわけではない。

八方塞がりになって焦燥感に駆られる人は黙っているだけである。

不満は日に日に心の底に蓄えられていく

そして焦燥感に駆られる人は相手に向けられない攻撃性が自分に向けられる。

だから、うつ病になったり不眠症になったりするのである。

本人がそれに気がついているときもあるし、気がついていないときもある。

しかし、ふつうの人よりも不満は吐けていない。

チュービンゲン大学の教授であったクレッチマーは、体験にともなう感情などを発散し、放電する性格の能力を「伝導能力」と呼んでいる。

恥ずかしがり屋の人は、そのたまった感情を処理する「伝導能力」がない

焦燥感に駆られる人は小さいころから自分を抑えることで気に入られる習慣が身についてしまっている。

そこでいつまでも焦燥感に駆られる人は言いたいことを我慢する。

だが不満であることには変わりはない。

その不満が無意識の領域に追いやられていることもあるし、意識されていることもある。

小さい頃から人に迎合したつきあい方が焦燥感に駆られる人は身についてしまっている。

そこで心の底には不満が積もりに積もっていく

焦燥感に駆られる人は毎日毎日、不満が心の底に堆積していく。

本人が気がつかないうちに焦燥感に駆られる人はその不満は計りしれないほどの量になっている。

それがその焦燥感に駆られる人の性格に影響を及ぼさないわけがない。

焦燥感に駆られる人は何もかもが不満なのである。

何もかもが焦燥感に駆られる人は癪の種である。

人のすることは焦燥感に駆られる人は何もかも腹が立つ。

無意識まで考慮に入れれば、焦燥感に駆られる人は人がそこに立っているだけでも腹が立つ。

それをすべて我慢している。

焦燥感に駆られる人が抑うつ的になっても不思議ではない。

上司に気に入られようと思って焦燥感に駆られる人は自分の感情を抑える。

自分を抑えて焦燥感に駆られる人は上司にとって都合のいい部下になる。

逆に上司が部下に気に入られようとして自分のわがままを抑える。

自分を抑えることで部下にとって都合のいい上司になる。

恋人に気に入られようとして焦燥感に駆られる人は怒りを抑える。

配偶者に気に入られようとして焦燥感に駆られる人は感情を抑える。

自分を抑えるといっても、相手のことを思いやって自分を抑えるわけではない

焦燥感に駆られる人は相手から嫌われることを恐れるから自分を抑えるのである。

恐怖感を持てば焦燥感に駆られる人は心を閉ざす。

そしてこの恐怖感と、そこから生じた不満は、その焦燥感に駆られる人のコミュニケーション能力を破壊する。

コミュニケーション能力がなくなれば、焦燥感に駆られる人は努力しても報われない。

相手の為と思ってしたことが、相手の癇にさわることになる。

そうなればやってもやっても報われない

焦燥感に駆られる人はそこで怒り心頭に発する。

そうなっても焦燥感に駆られる人はやはり怒りを抑える。

行き場を失った怒りは自分に向けられる。

こうして人は「うつ」になる。

ジンバルドーは、「恥ずかしがり屋の人はうつ病になりやすい」と言うが、まさにそのとおりであろう。

焦燥感に駆られる人の助けのない人生

恥ずかしがり屋の人は助けを求められない。

恥ずかしがり屋の焦燥感に駆られる人、それは小さいころから自分ひとりで生きてきた人。

焦燥感に駆られる人は何をするときも、だれも助けてくれなかった。

小さい頃から焦燥感に駆られる人は自分ひとりの力で生きてきた。

周囲にはだれも頼れる人がいなかった。

思いやりの心を持った人が焦燥感に駆られる人の周囲に一人もいなかった。

人が自分のことを助けてくれるという感覚がないままに焦燥感に駆られる人は大人になった。

だから人と協力して何かをするという習慣が焦燥感に駆られる人はない。

人に助けてもらう習慣が焦燥感に駆られる人は身についていない。

そして、それがつらいことだという意識もないままに焦燥感に駆られる人は生きている。

じつは恥ずかしがり屋の人はものすごく頑張って生きてきたのである

焦燥感に駆られる人は本当は自分に自信を持っていい。

「私はたいしたものだ」と自信を持っていい。

普通の人にはとうていできないことをしてきたのである。

恥ずかしがり屋の焦燥感に駆られる人は、褒められると照れてしまう。

それは自分は褒められるに値しないと思っているからである。

褒められると焦燥感に駆られる人は自己イメージと違うから違和感がある。

焦燥感に駆られる人の自己イメージはすごく悪い。

しかし、その自己イメージが間違っている。

これを「自己無価値感妄想」と呼びたい

それは誇大妄想と正反対の妄想である。

恥ずかしがり屋の人は、自分が生まれ育った環境を考えれば、「自分は凄い」と思っていいのである。

焦燥感に駆られる人は事実すごい。

だれにも助けてもらえないで、焦燥感に駆られる人はひとりでここまで頑張って戦って生きてきたのである。

だれがここまでできるか。

ギルマーティンの調査によれば[成長期にひとりも助けてくれる人がいなかった]という質問に対して「恥ずかしがり屋の大学生」は90%、「恥ずかしがり屋の大人」は100%の人が「いない」と答えている。

恐ろしいことである。

それに対して「自信のある大学生」では、「三人から四人」と答えている人が59%もいる。

[十代まで情緒的助けと励ましがあった]については「恥ずかしがり屋の大学生」で8%、なんと「恥ずかしがり屋の大人」では0%である。

「自信のある大学生」は53%である。

そしてさらに恐ろしい結果がある。

[現在頼りになる人がいる]ということに対して「恥ずかしがり屋の人」は0%。

「自信のある大学生」は100%。

0%と100%である。

信じられないような恐ろしい数字である。

恥ずかしがり屋の人は、弁護士なしで裁判官の前で検察から訴えられているようなものである。

ジンバルドーは、恥ずかしがり屋の人は、母親でさえもが宗教裁判官であるとさえ述べている。

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焦燥感に駆られる人は自分のイメージをつくりなおす

恥ずかしがり屋の人が自信を失うのは、人間は誰でも同じ人間環境のなかで成長してきたと思うからである。

焦燥感に駆られる人はその前提で他人と自分を比較して自信を失う。

人間は同じ環境に生まれているのではない。

焦燥感に駆られる人は、自分の生まれ育った人間環境を考えて、「よくここまで生きて来たなあ」と自分の努力に感嘆してよいのである。

それは十分に賞賛に値する。

恥ずかしがり屋の人に必要なことは、自分についてのイメージを変えることである。

自分は賞賛に値しないというイメージを変えることである。

たしかに世の中には情緒的に成熟した人がいる

心理的に健康な人がいる。

自己実現している人がいる。

社会に貢献している人がいる。

それらの人を賞賛することはよい。

たしかに立派な人たちである。

しかし、それらの人は小さいころ信じる人がいた。

母性的保護を得て成長した

子どもの研究家として名高いボウルビィの言葉を使えば、愛着人物の有効性を信じて成長した。

それに対して焦燥感に駆られる人には、小さいころ母性的保護がなかった。

母なるものと接しないで焦燥感に駆られる人は生きてきた。

[あなたの母親はあなたを産むときにダイエットしていた]か?

これに対して「恥ずかしがり屋の大学生」で44%、「恥ずかしがり屋の大人」で47%。

「自信のある大学生」では0%である。

子どもを恥ずかしがり屋にした母親は、子どもを産むときも自分をスラリと見せようとする気持ちが強くて、子どものために食べるということをしない。

[産む時の苦しみの話を母親がする]ということに対しては、「恥ずかしがり屋の大学生」で12%、「恥ずかしがり屋の大人」で16%。

「自信のある大学生」では0%である。

だいたい母親が子どもに産みの苦しみを話すということは異常である。

恥ずかしがり屋の人の母親は、残念ながら母なるものを持った母親ではなかった

弱点を責めることはあっても、努力を認めてくれる人ではなかった。

焦燥感に駆られる人の周りには、責める人しかいなかった。

それでも恥ずかしがり屋の焦燥感に駆られる人は今日まで反社会的にもなることなくいきてきたのである。

それは十分、賞賛に値することなのである。

小さい頃から焦燥感に駆られる人は批判にさらされて生きてきた。

そして焦燥感に駆られる自分はダメな人間であると思い込まされて成長した。

人に頼らなければ生きていけない弱い人間だと思って生きてきた

これは自己無価値感妄想である。

人に頼らなければ生きていけない弱い焦燥感に駆られる人間なのに、周囲には頼れる人がいない。

困ったときに焦燥感に駆られる人は助けてくれる人がいない。

そうした人間環境のなかで生きてくれば自己執着は強くなる。

焦燥感に駆られる人は助けてくれる人がいないのだから、自分で自分を助けなければならない。

迎合も八方美人も望ましいことではないが、恥ずかしがり屋の人が迎合するのは当たり前である

焦燥感に駆られる人は八方美人になるのも当たり前である。

母性的保護がなくて助けてくれる人がいない人間環境のなかで成長すれば、焦燥感に駆られる人が自己執着が強くなるのは、雨が空から降ってくるのと同じように自然なことである。

恥ずかしがり屋の焦燥感に駆られる人はいま、自分が自己執着の強いイヤな人間であることを認めることである。

しかしそれにもかかわらず焦燥感に駆られる人は「私は賞賛に値する」と信じてよい。

人間の価値は社会的価値だけで決まるものではない。

社会的に価値がなくても、人間として価値のある人はたくさんいる。

逆に社会的に価値があっても、人間として価値のない人もたくさんいる。