特別でなければという罪悪感

心もとなさ、頼りなさ、無力感などは、子どもの心にとどまっていることに大きな原因がある。

もう大人になったのだから、無力ではない。

大人なのだから、自分で考えて、自由に行動していいのだ。

子どもの心を卒業して、大人としての心に切り替えることが、無価値感から解放される道である。

もう、無力ではない

子どもの無力さの投影

子どもの頃に親との関係で形成された心は、大人になっても多かれ少なかれ残っている。

この心は、親を象徴する対象に接したときに現れる。

たとえば、上司や年長者、あるいは優れた同僚の前では気後れしてしまい、自分が卑小で無力になったかのように感じられる。

ある小学校教師は次のように話している。

「子どもといるのは楽しいし、子どもたちも自分を慕ってくれるので、仕事には満足しています。

でも、父母参観日がひどくつらい。

その数日前から胃が痛んで、当日の朝は吐き気がして朝食を食べられないほどです。

教師になってもう10年なので、指導にも自信を持っているつもりなのに、子どもの親の前では全く自信が持てないんです。」

責任を伴うことに過度に重荷を感じてしまうのも、自分のなかの子どもの無力さに起因することがある。

さらに、自分の中の子どもとしての無力さは、危機事態においてより明確に出現する。

突発的な出来事に対処しなければならないとき”テンパって”しまう。

批判されたり、詰問されたり、叱責されたりすると、子どもの頃のトラウマと重なって混乱が増幅されてしまう。

傷つき体験と無力感

成人へのアイデンティティの切り替えができた人でも、その後のつらい体験や過酷な体験で傷つき、それが無力さとして残ることがある。

ボクシングで世界チャンピオンになった人でさえ、かつて自分をいじめていた相手を見た瞬間、子どものときの心に戻ってしまい恐怖を感じた。

ピアノ演奏で失敗した体験を持つ女性は、消極的になり、他の人から見られることを恐れるようになった。

エレベーターで痴漢にあった人は、後ろに男性が来ると体がすくんでしまう。

会社で大きなミスを犯した人は、出勤しようとすると、激しい動悸や過呼吸などに悩まされるようになった。

こうした状態を引き起こしているのは、いずれもショックな出来事によって自分の無力さが脳に刻み込まれたためである。

類似の状況になると、無力な子どもの状態へと回帰してしまうためである。

幼い頃、「大きくて、強くて、なんでもできるのが大人」と思っていただろう。

自分は今、その大人なのだ。

無力感から来る状態に陥ったら、このことを思い出そう。

「自分は大人。もう無力ではない。だから大丈夫、乗り切れる」と。

自分の存在が申し訳なくなる理由

過度の罪悪感は子どもの心の残滓

幼い「いい子」は、「あれしていい?これしていい?」と、いちいち大人に許可を求める。

親に取り込まれた人は、大人になってもこれと同じような状態になっている。

「子どもの頃、自分が長女のせいでしょうか、妹たちと遊んでいても”私が遊んでいていいのだろうか。

共働きで疲れている母親に申し訳ない”という気持ちになることがありました。

今でも、友達と楽しく遊んでいるとき、なんだか悪いことをしているような気持ちがします。」

洋服を自分で買うとか、親に相談しないで何かを自分だけで決めると、悪いことをしたかのような気持ちになる。

まして、異性と付き合うのは親への裏切りのような気持ちになる。

罪悪感の起源は、善悪という道徳的判断によるものではない。

親の期待に応えられないとか、親の機嫌を損なうとか、親との関係によって作られる。

だから、罪悪感の背後には親に否認されることへの恐怖心がある。

幼い子どもは、親からひどい仕打ちを受けても、親が悪いと考えることができず、自分を悪い人間だと考える。

「こんな目にあうのは、きっと私がいけない子だからだ」と。

こうして大人になると、いつでも自分に非があるように感じられる。

「ごめんなさい」「申し訳ありません」「すみません」を多用する人にはこの傾向がある。

「”あなたたちのためにがんばっているのよ””親を悲しませないで””迷惑をかけてはダメ!”と、幼い頃よく親に言われていた。

そのため何をするにも”自分でがんばらなければ”という気持ちが芽生え、努力の末結果が出ないと”親に申し訳ない””出来損ないの私”と、自分を責めることが習慣になってしまった。」

罪の意識を持てば持つほど「いい子」とされた。

だから、罪悪感を持つことによって「親に応えられない私でも許される」と救われた気持ちになる。

このように罪悪感を持つのは、「罪悪感を持っているのだから許される」と、暗に許しを乞う心理である。

次のように書いた学生がいる。

「”常に客観的に自分を見ていて、自分のすることを責められているように感じやすく、犠牲者ぶることで自分の心が救われると感じる”というのはまさに自分のことで、びっくりしました。」

罪悪感とは自己非難することである。

過剰な罪悪感は、過剰な自己非難になり、自分に全く責任のないことでさえ自分を責めてしまう。

「ごめん、私が雨女だから」。

不都合なことが起きると、このように「自分が悪いから」と無意識のうちに考えてしまう。

子どもが大人になってからも、罪悪感を利用してコントロールしようとする親がいる。

ある女性は、母親に取り込まれて育ち、人間関係でつまずきがちである。

母親はそんな娘に、「早く自立しなさい」「早く結婚しなさい」としつこく言う。

ところが、娘がいざ決心して家を出ようとすると、「お母さんを一人にして、あなた平気なの?」と娘を責めて思いとどまらせる。

自己増殖する罪悪感

真面目で誠実な人は、その性格ゆえに不必要に罪悪感を拡大してしまうことがある。

それは、たとえば、周囲の期待に応えようとする責任感のためである。

自分に課された仕事を、責任をもってやり遂げる。

それにより周囲から評価され、信用を得る。

それが励みになり、いっそう仕事への責任感を強める。

このように仕事に打ち込んでいくほどに、職場での自我関与の領域が拡大していき、所属部署全体に暗黙の責任を感じるようになる。

このために、自分にかかわりのないトラブルにも、自分に責任があるかのような気持ちになってしまう。

また、責任ある行動により、その人に対する役割期待が形成される。

役割期待とは、周囲の人がある人に対して持つ、「このように行動してほしい」という期待のことである。

真面目な人ほど、この期待に応えることを責務と感じる。

その上、自分に寄せられた信用を失いたくないし、評価を貶めたくないという気持ちも働く。

こうしたことで、会社を休もうとすると、何かを裏切っているかのような罪悪感が生じるし、不安にもなる。

このように、過度の責任感や過度の罪悪感を持つようになるのは、大人になっても「いい子」でありたいという心理を引きずっているためである。

「いい子」でいようと思わない

健全で適度な罪悪感は、自主性や自己価値感をもたらす。

なぜなら、罪として意識しなければならない基準が設定されていることで、それを侵犯しない限り安心して自由闊達に動き回れるからである。

ところが、エリクソンが自主性の対極に罪悪感を置いているように、過度の罪悪感は自主性を妨害する。

指示や許しを得ることなく行動すると、罪を犯した気分になるので、自ら自主的に行動することを抑えてしまう。

また、過度の罪悪感は自分を服従者にしてしまう。

社会に出ると、罪悪感を利用することで他者を支配しようとする人がいる。

過度の罪悪感を持っていると、こうした人に利用されることになりがちである。

不条理な罪悪感で苦しむ必要などない。

そんな罪悪感で自分を非難することなど無用だ。

自分はもう大人。

「いい子」でいようなどと思わない。

誰の許しもいらない。

あなたは、もっと自由に行動していいのだ。

「特別でいたい」という願望の取扱法

自意識過剰は尊大な自己中心性

他の人と同じように行動できない。

あるいは、他の人と同じでは自分に満足できない。

こうした心理の背後に「自分は特別でなければならない」という意識がある。

なかには直接に特別であることを求められて育てられるケースもある。

「親が医者で、母親は家柄にプライドを持っていたため、小さい時から”あなたは特別な家の娘で長女なのだから、他の子とは違うのよ。

しっかり勉強して、医者になって家を継いでね”と言われていた。」

子どもに「特別でなければならない」という意識を持たせる親は、社会的地位へのこだわりが強い。

このために、小さいうちから越境入学させたり、私立学校に通わせたりすることがある。

子どもは地域の子どもたちから切り離されることになり、学校での限定的な交友関係しか体験できない。

このために、集団のなかで楽しむ能力が発達せず孤立しがちになり、自分は他の子と違って「特別だ」と感じる。

平等であることを楽しむのではなく、孤立した特別な存在であることで自分を誇示しようとする。

特別を求める親は子どもに高い達成基準を課す。

並の成績では満足せず、より高みを求める。

これが子どもに定着すると、完璧主義的傾向になる。

なんでも、いつでも、完璧を求め、完璧でないと失敗した気持ちになる。

特別な存在でなければならないとか、完璧でなければならないという意識があると、常に自分を他者との比較でチェックすることになる。

こうして他のすべての人が自分を見て評価している、といった自分を中心に置いた自意識過剰状態になる。

「資料を読んで最も印象的だったのは”自意識過剰は尊大な自己中心性”という言葉でした。

今まで私は他者の視線を気にしてしまい自分に対し生きづらい、かわいそうだ、などと感じていて、自分を中心に世界をとらえている自己中心的な人間だと感じたことはありませんでした。

この資料を読んで、”そうか、そういう考え方があるのか””そんな風に周囲の人は思っているのか”と、気づかされ、少し恥ずかしい気持ちになっています。」

優秀であったことの代償

子どもの頃から優秀であったがために「特別に優れた自分にならなければ」という呪縛にとらわれてしまう人もいる。

たとえば、勉強がよくできてその県の最上位のランクの高校を卒業し、有名大学に入学したとする。

大学では、同様なレベルの人たちの中に置かれるので、凡庸な位置しか占められない。

このことで、優秀な自分というアイデンティティが脅かされ、自信が揺らぐ。

ここで現実的な自分を受け入れてアイデンティティを修正できればよいが、そうでないと「皆と同じ自分では価値がない」「周囲の人より優れていなければ」という思いにとらわれる。

こうした人のなかには、就職しても周囲が自分に寄せているだろう特別な期待を想定して、それにふさわしい能力があることを見せなければと、躍起になる人がいる。

あるいは、仕事上で自信を得られないために出身大学のブランドによって自信と優越心を維持しようとする人もいる。

このように、「特別でなければならない」という意識は、優秀であるという子どもの頃の自己イメージを、現実的な自己イメージに転換できないことに原因がある。

「特別でなければ」という呪縛を解く

自分を特別視する心理特性で想起されるのは自己愛性人格である。

この人達は、なんら裏付けがないのに自分は賛美されるべきであり、特別に遇されるべき存在だという意識で行動する。

これに対して、これまで述べてきたような人達は「特別な存在にならなければならない」という意識で行動する。

自己愛性人格を喜劇的存在と捉えるなら、こうした人達は「ねばならない」の呪縛に苦しめられる悲劇的存在といえる。

この「特別でなければならない」という呪縛は多くの青年を苦しめ、青年期の精神障害に少なからずかかわっている。

このために、青年期の心理療法はこの呪縛を解いて、「特別でなくていいのだ」という自己受容をもたらすことが重要な課題になることが多い。

特別でなくてもいいとは、自分に満足できることである。

そのためには、外的自己への過度のこだわりを捨てて、内的自己に比重を置くことである。

自分が気持ちよいこと、楽しいこと、満足できること。

これらを大事にすることである。

特別を求める心は完璧主義的傾向につながると先に指摘した。

完璧を求める姿勢は、たった一つの正解(ベスト)があるとして、その正解を求める姿勢である。

たった一つの正解があるのは学校の勉強くらいなものであり、現実社会においてそんなものは存在しない。

「ベストなんて望まない。グッドで十分、ベターなら最高」、このくらいの姿勢でいいのである。