相手の発言を真に受けすぎるのも考えもの

人と会って別れるときに、「ではまた、さようなら」だけでは味気ない。

そこで、よく使われるのが「じゃあ、近いうちに飯でも食いましょう」というものだ。

これを略して、「チカメシ」という。

しかし、このチカメシはまったくあてにならない。

やたらとチカメシを連発する男がいたが、これはもちろん社交辞令にすぎない。

それを真に受けてはバカを見る。

本当に食事に行こうと思ったら、その場で具体的な提案が出るはずだ。

「昼食でいいけど、いつなら空いている?」

「来週の後半あたりはどう?」

こういう話になったら乗ればいいのであって、チカメシに対して「あいつは、いつも口ばかりだ」というのは野暮というもの。

三十代の女性が、英会話スクールの仲間と「みんなで海外でも行かない?」と盛り上がった。

女性は幹事を買って出て、旅行社でパンフレットを集めた。

だが、いざ具体的な日程を相談すると、仲間の態度がはっきりしない。

この時点で、「社交辞令だったんだ」と気づかなければならない。

みんな家庭があって、そう簡単に都合はつけられない。

「いいわね」「行きたいわね」と反応してくれたのは、一種の仲間内のサービス。

そのサービスに対して、「自分は旅行社へ行ったりして、色々調べたのに」と腹を立ててはいけないのだ。

そもそも、人はしょちゅう口だけの会話をしたりする。

そのときの気分次第で、いろいろなことをいうものだ。

「そんなこと、いったっけ?」

というセリフを口にしたことが、誰にだってあるはず。

もしかしたら、あなたの上司もコロコロいうことが変わるかもしれない。

仕事に関わってくると、これは困る。

上司自身、ボーナスが増えて気分がよければ、「お前の企画、次は絶対に通してやるからな」などと調子のいいことをいう。

ところが、その翌日、出がけに夫婦ゲンカをして不機嫌になれば、「あの企画、まだまだなんだよな」となるかもしれない。

それをいちいち真に受けていては、やっていられない。

人の言葉をすべて真に受けるのも世間知らずなのだ。

ある程度の距離を置いたほうが賢明である。

ところが、世の中には人の言葉に敏感すぎる人がいる。

とくに若者に多いようだ。

ある二十代の女性は、友人から「やせたね」といわれて考え込んでしまった。

実際には体重は変わっていない。

それなのに「やせたね」だなんて、何かイヤ味が隠されているのではないかと疑っている。

友人にしてみたら、そんなつもりはまったくない。

服装のせいなのか、すっきり締まって見えたので褒めただけかもしれない。

それにしても、一つの言葉で、ここまで話をややこしく考える必要もないと思う。

だが、このことを逆から眺めてみると、言葉は人によってさまざまな受け止められ方をするし、それによって傷ついてしまう人がいるのもたしかだ。

だから、不用意な発言をしてはいけない。

西洋の諺に「刀傷は治るが、言葉で与えた傷は治ることはない」というのがある。

悪気はなくても、誰かに言葉の刀を向けてはいないだろうか。

とくに、その人の体に関することは極力指摘しないほうがいい。

「あれ、風邪声だね。流行っているから気をつけてね」くらいならいいが、「顔色悪いね、大丈夫なの?」などと安易にいわないことだ。

こちらは心配したつもりでも、いわれたほうは「俺、どこか悪いのかな」と気に病むかもしれない。

あるいは本当に、何か重い病気と闘っている最中で、そのことは話題にしたくないかもしれない。

人の言葉と距離を置くのと同様に、自分の言葉をズケズケ相手に投げ込まないようにしたいものである。

「失敗談」は会話の呼び水に使える

「人には口が一つなのに、耳が二つあるのはなぜか。それは自分が話す倍、他人の話を聞かなければならないからだ」

ユダヤの格言である。

人に好印象を持ってもらったり、人といい関係を築きたいと考えるなら、まずはその人の話を聞くことから始めなければならない。

ところが、そのようなとき、私たちはつい「自分のことを知ってもらいたい」と思ってしまう。

それが距離感を間違えるもとになる。

私がよく利用するホテルのティールームで、知り合って間もないと思われる男女の客をたびたび目にすることがある。

お見合いのようなことをしているのかもしれない。

さりげなく観察していると、およそ聞き上手な男の少ないことがわかる。

多くの男性たちは、自分の仕事や趣味について話をして、「自分はどれほど価値があるか」をアピールしようとしている。

だが、頑張れば頑張るほど、女性のほうは引いているように見える。

もちろん、「相手の話を聞こう」としている男性もいる。

だが彼らは、次々と女性に質問攻撃をかけている。

「趣味は何ですか?」

「どんな仕事をしているんですか?」

などと真正面から聞かれても、長々とは語れない。

だから、すぐに会話が途絶えてしまう。

相手に、楽しいおしゃべり人間になってもらうには、「呼び水」が必要だ。

「そういえば、私もこんなことがあって」と、反応したくなる材料を投げてあげるのだ。

呼び水としておすすめなのが「失敗談」である。

失敗談を話すのは、自分の株を下げることにはならない。

何も「自分は仕事ができない」「自分にはろくな趣味がない」などというわけではない。

「仕事は好きで一生懸命やっていますが、昨日も上司から叱られましてね・・・」

「スキーには自信があったのに、初級者コースで見事にひっくり返っちゃって・・・」

このように自分の長所もさりげなく織り交ぜながら、ダメなところも披露できるのが失敗談だ。

こちらのダメなところを見せることで、相手もリラックスしていろいろ話をしてくれるようになる。

知り合ったばかりの男女に限らない。

上司と部下、夫婦、友人など、どんな関係においても、もっともっと「相手がしゃべりたくなる」環境をつくる必要がある。

これができないと会話下手になる。

外で仕事をしている夫は、家に帰って妻の話をロクに聞かない。

経験を積んだ上司は、まだ若い部下の話をろくに聞かない。

こうした積み重ねが、いつしか取り返しのつかない距離を生むのだ。

あるコンサルタントの調査によれば、折り合いの悪い上司と部下は、明らかに接触回数が少ないのだが、上司はそれに気づいていないという。

「どの部下とも同じように接している」と自分では思っていても、実際にはそうではない。

どうしても、えこひいきが出てしまうのだ。

会話が減っているということは、距離が離れていることそのもの。

相手がもっとおしゃべりしたくなるように、こちらから努力すべきである。

損得を計算する前に、とにかく人と会う

真面目で通っている三十代のビジネスマンが、グチをこぼした。

僕は遇鈍なんでしょうか。どうも要領よく人とつきあえません」

聞けば、彼の同期にやたらと「人との縁」に恵まれている人間がいるそうだ。

ちょうどいいタイミングで必要な人と出会ったりしている。

そうした縁がきっかけで出世していく同期を、うらやんでいるようだった。

その同期は要領がいいのではない。

日頃からまんべんなくいろいろな人と会っているのではないだろうか。

その結果、必要なときに、必要な人を頼れるようになっているに違いない。

つまり、彼の想像に反して、同期は愚直にやっているということだ。

何事であれ、「要領よくやろう」とすると失敗する。

とくに、人間関係において失敗しやすい。

あまり考えずにパッと動くことも必要だ。

誰かが人を紹介してくれるときには、その損得など計算せずに会ったほうがいい。

一度会ったきりで終わってしまう人がほとんどかもしれないが、それは、それでいいのだ。

とにかく会ってみなければ始まらない。

「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」という諺がある。

その馬がどういう馬か乗ってみなければわからないように、人ともつきあってみなければわからない。

だから、どんどん付き合ってみることである。

ところが先入観なのか、会う前から人を選別してしまう、という人が少なくない。

「その人と知り合いになっても、意味がなさそうだね」

「いや、そういう人はちょっと苦手だから」

せっかくの機会を自ら捨ててしまっている。

もったいないとも思う。

その人に会ってもあまりメリットがないということがわかっていても、時間が許すなら会うべきだと思っている。

なぜなら、多くの人と会うことで、「いろいろな人がいるんだな」ということがわかる。

「そーか、なるほど、そういう考え方もあるんだ」と思わず目を開かせられることもある。

その結果、さまざまな距離感も学べる。

それに勝る収穫があるだろうか。

人は、若い男も女も、おじさんもおばさんも、外見は似ているようでも、みんな違うのだ。

世の中には「いろいろな人がいる」ということを意外にわかっていない。

たとえば、多くの男は「女とはこういうものだろう」と一括りにして考える。

だが、一口に女性といっても、まさに千差万別。

「女というものはいない。それぞれの女がいるだけだ」といった人がいたが、その通りだと思う。

それと同じことが、あらゆる人間についてもいえる。

公務員にもいろいろいる。

経営者にもいろいろいる。

商売人にもいろいろいる。

先入観で一概に決めつけていては、いけないと思う。

人を見誤る。

よく「あの人は個性的だよね」などという。

それは、個性を表に出している人のことをいっているだけで、本当は誰もが個性を持っている。

そこを見ずに、「あの人は、他の人たちと同じようだから個性的ではない」などと判断するのは、まったく人間というものをわかっていない。

もっと近くに寄って、じっくり見てから評価したほうがいい、といいたい。

「私の会う人はすべて、必ず何かの点で私より勝っている。

私は常にその点をその人たちから学ぶことにしている」

といったのは、アメリカの思想家ラルフ・W・エマーソンだ。

こんなふうに思えたら、会ってムダになる人などいないのである。

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思い込みのズレは、早めに軌道修正すべき

上司が部下に仕事を頼んだ。

「明日の会議の資料、急いでまとめてくれ」

部下は「わかりました」と答えた。

ところが、いつまでたっても持ってこない。

業を煮やした上司が部下の席まで行ってみると、まだ手をつけられないままに置いてあった。

部下は他の仕事をしていた。

「何やってるんだ。急げといったじゃないか!」

怒鳴りつけられた部下はびっくりした。

本人は明日の会議に間に合わせるため、残業して仕上げるつもりでいたからだ。

こういうすれ違いは、よく起きる。

上司の気持ちはわからないでもないが、そもそも依頼の仕方が間違っている。

「急いで」というのがいつまでなのか、はっきりいわないから部下に伝わらなかったのだ。

上司は勝手に「頼んだ仕事は一時間以内にはできる」と思い込んでいた。

できた資料をさらに検討しようと上司は考えていたのだ。

一方、部下は「今日中でいい」と思い込んでいた。

思い込みのズレが、距離感のズレを生んでしまったのだ。

こうしたズレは、放っておかないで修正しなければならない。

お互いに仕事なのである。

修正するときには、感情的にならず理詰めで行うことが重要だ。

「私は、今日中に提出すれば、明日までには間に合うと解釈していました」

「いや、俺はもう一度、検討するので一時間以内を期待していたんだ」

こうしてはっきり口に出して、ズレた距離を擦り合わせていくことだ。

「言わぬことは聞こえぬ」という言葉にある通り、正しく伝えたいことがあるなら明確に口にすべきだろう。

仕事の依頼に限らず、私たちは自分の基準で、勝手に人に期待する。

そして、期待が外れるとがっかりしたり、相手を非難したりする。

「ここまではやってもらえると思っていたのに」

「私だったら、このくらいはやるのに」

そして、自分は「期待を裏切られた可哀想な人」であり、相手は「期待を裏切ったひどい人」となる。

だが、そんなオーバーな話ではない。

実際は、ただの両者の感覚のズレにすぎないし、修正可能なことが少なくない。

ある50代後半の妻は、まもなく定年退職を迎える夫に対して「何も期待していない」とあきらめている。

これまでも、「休みがとれたら旅行に連れて行ってくれる?」「お風呂場の電球を取り替えてくれる?」と、大小さまざまなお願い事を夫にしてきた。

そのたびに、夫は「わかった」と返事をするが、なかなか実現してくれなかった。

毎回イライラして待つ妻は、いつの間にか、旅行は友人と出かけ、電球は踏み台を出して自分で取り替えるようになった―。

このケースも、自分がしてほしい期待について、もっと明確に言葉にしておけばよかったのではないかと思う。

「今度のゴールデンウィーク、どこか行けそう?」

「ゴールデンウィークはゴルフが入ると思うけど、八月なら大丈夫」

「今日、出かける前に電球取り替えてくれないかしら?」

「そんなに急ぐのか?もう出なくちゃならない。今夜、帰ってからでもいいかい?」

こうしてズレを修正するだけで、気分もずいぶん変わってくる。

ムダにイラつかなくなるだろう。

「夫と妻はコインの両面のようなものだ。向き合えないくせに一緒にいなくちゃならない」

ヘマント・ジョシは、こういっている。

なかなか的を射ているが、感心ばかりはしていられない。

人間はコインではないのだから、その気になれば向き合える。

夫婦に限らず、人と人は、ときに感情を抜きにして、理詰めで向き合わなくてはならない。

それが、相手を「こうだ」と決め付けない一つの重要な方法である。