社会的感情のない人

社会的感情のない人とは

社会的感情のない人は虐待的反応の主な源

社会的感情のない人は、他人から承認や称賛を得るために、ひたすら、かつ痛ましい努力をする。

この努力が自己執着的努力である。

社会的感情のない人は本当に相手の立場に立って相手のために具体的な努力をするわけではない。

社会的感情のない人の自分に無理をしてする努力は、極めて情緒的な独りよがりの努力である。

だが自己消滅型の社会的感情のない人は同時に人を恐れているし、かつ虐待されることを恐れている。

この恐れを動機とした努力は、社会的感情のない人の自分を守る動機であるから、報われない。

下記は、アメリカの著名な精神科医、カレン・ホルナイの自己消滅型の人の説明である。

彼らの虐待的反応の三つの主な源は何か。

1.本当に望まれていない注目やサービスを押し付けることで、虐待されることに身をさらす。

2.密かに期待した報酬がないと、つまりリターンがないと、虐待されたと感じる。

「こんなことまでしてくれたの、ありがとう」と言ってくれることを期待していた。

その感謝がなかったので虐待されたと感じてしまう。

それほどまでに、自分のしたことのリターンを求めていたということである。

3.理想の自我像が傷つくと、虐待されたと感じる。

問題は客観的に事実として虐待されているのではなく、自己消滅型の人が虐待されていると感じているということである。

それだけ愛情欲求が激しいということである。

要するに三つとも、自己消滅型の人がどれほど激しく愛情を求めているかということの証拠である。

そしてそれゆえに被害者意識に悩まされる。

「俺のことを大切にしてくれない」「私のことをわかってくれない」「皆で私をいじめる」「僕だけが損をする」等々。

社会の中での自分の位置を確認する

精神科医アルフレッド・アドラーは、人間が健康に生きるための社会的感情の必要性を強調している。

社会的感情について説明すると「自分が社会の中で生きている」という感情を持っていることである。

社会的感情の本質を具体的に述べると、思いやり、人の幸せを喜ぶ、人の悲しみに心が痛む、共感能力、人と協力する、同情する、助け合う、動物を殺せない、動物の虐待をしない。

社会的感情がない人の典型がナルシシストである。

社会的感情のないナルシシストは、相手に関心を持って相手を気遣うことがない。

社会的感情のない人は友達のために友達を気遣い、関心を持つことがない。

彼らは社会の人に対しても同じである。

社会的感情のない人は交番のおまわりさんに、商店街のおじさんに、お年寄り達に挨拶し、社会に眼を向けることがない。

社会的感情のないナルシシストは、自分がよく思ってもらうための挨拶はするが、コミュニケーションとしての挨拶はしない。

社会的感情のない人は相手を気遣う場合でも相手に関心があるわけではなく、相手から自分がよく思ってもらうための気遣いなのである。

やはり自己執着的対人配慮である。

社会的感情という人間関係

また、「これをするのに、この自分はふさわしいか」を考えられる人が、社会的感情のある人である。

そういう人は、社会の中の自分の位置がわかっている。

他人と自分の関係がわかっている。

だから努力が報われる。

社会的感情とは、人との関わりがあるという感情である。

相手が何を喜び、何を嫌がっているかということが理解できることである。

社会的感情を持った努力は、頑張った甲斐が出てくる。

頑張っただけ幸せになれる。

自分の体力から考えて、自分が登れる山は高尾山なのにヒマラヤに登ろうと頑張るから、努力が報われない。

努力が報われない人がいる。

それは努力が、人と関わりのない努力になっているからである。

「結構、頑張ったんだけど」という社会的感情のない大人は多い。

しかしその頑張りは、人と関わりのない頑張りである。

社会的感情のない人は相手の立場に立った見方をしたうえで頑張っていなかった。

例えば自分が好きになった人がいる。

ところが相手が嫌がっていることがわかる。

「これをすると相手が嫌がる」ということがわかって努力をする人がいる。

そういう人の努力は報われる。

好きな人ができた。

相手を待ち伏せている。

それには時間とエネルギーがいる。

情熱もいる。

しかし待ち伏せされることを、相手は嫌がっているということがわからない。

そういう社会的感情のない人の努力は報われない。

相手が嫌がることをすれば、どんなに頑張っても、努力は報われない。

社会的感情のない人は頑張っても、頑張っても人生の問題は解決するどころか、どんどん膨れ上がっていく。

そこで「私ばかりつらい目にあう」と、的外れのことを言う。

ある女性が熱湯に手を突っ込んで、「ほら、私はこんなにあなたを愛している」と、言ったという話がある。

この女性は愛を伝えたいが、愛の伝え方がわからないのである。

社会的感情のないナルシシストは、こうした自己執着的愛の表現をする。

それがうつを引き起こすこともある。

自分が必死になって愛を伝えているのに、期待した反応が返ってこないときには、熱湯に手を入れているのと同じである。

社会的感情のない人は熱湯に手を入れて、「ほら、こんなに愛している」と言う。

そんなことをされても、相手は嬉しくない。

こういうことをする人は、まさに社会的感情のない人である。

投影性同一視とは社会的感情がないということである。

この人のために努力をすれば、好かれ感謝をされるのに、この人を無視して、あの人のために頑張る人がいる。

だから社会的感情のない人は努力は報われない。

社会的感情のない人は他人の本当の気持ちがわからない

自分が気になっていても、相手は気になっていない

人との関わりを感じるから、他人に貢献しようとする感情が生じる。

社会的感情とは、人のために働きたいという感情である。

思いやりとか、助け合うとかという気持ちである。

人に対する思いやりがある人とない人では、エネルギーの消費の方向が違う。

手紙ひとつ書くにも、相手に対する思いやりがある人はエネルギーがいらない。

そうでなければ手紙ひとつ書くのも億劫になる。

社会的感情のない人はエネルギーがいる。

心に葛藤があると相手は見抜けない。

「蛙の面にションベン」という諺がある。

こちらは相手にすごいことをしていると思っている。

そして、「相手は、まいっただろう」と推測をする。

「相手は、悲しんでいるだろうか、落ち込んでいるだろうか、それとも怒っているだろうか」等々といろいろと推測をする。

しかし、相手はまいってもいないし、悲しんでもいないし、落ち込んでもいないし、怒ってもいない。

人はだいたい自分を基準にして相手の気持ちを判断する。

しかし大抵は推測違いをする。

相手と自分は違うから。

ハーヴァード大学のエレン・ランガー教授(心理学)は、このようなことを動機混同と言っている。

そして社会的感情のない人は「あーだ、こーだ」と相手の気持ちを推測して消耗する。

こちらがいろいろと推測をして消耗しているときに、相手は何も考えていない。

こちらが「したこと」を、相手は忘れていることもある。

いやこちらが「したこと」を、相手は気がついていないこともある。

こちらはすごいことを「している」つもりでいるが、相手にはゼロのこともある。

だから相手から見ると、何もしていないのと同じである。

それなのに、社会的感情のない人はこちらは相手のことが頭から離れない。

こちらは、「このあと、相手に対してどういう態度をとろうか」と悩んでいる。

しかし、相手は何も悩んでいない。

こちらのことを考えてもいない。

対策を考えているのは、こちらである。

そして、社会的感情のないこちらはどんどんと消耗していく。

相手は、こちらが推測をする相手ではない。

実際の相手と、こちらが思っている相手とは違う。

こちらは相手がネコだと思っている。

しかし実際にはナマズである。

ネコと思って接していて、ナマズに食べられる。

相手は食べていないのに、社会的感情のないこちらが勝手に衰弱していく。

人間関係を壊す恐怖心

アメリカの心理学者フィリップ・ジンバルドーによると恥ずかしがり屋の人の心理的特徴の一つとして、「失敗を恐れる」ということが言われる。

「失敗を恐れる」ということが心理的特徴と言われるためには、その裏に「強迫的栄光追求」があることが条件である。

誰でも、失敗をそれほどに恐れていない人とが深く関われば、やはりいろいろと「いざこざ」が起きる。

例えば、ある離婚の例である。

二人は社内結婚した。

夫は将来を有望視されている若手である。

しかし強迫的に名声を追求するタイプである。

異常に失敗を恐れる社会的感情のないタイプである。

妻は異常に失敗を恐れるタイプではない。普通の人である。

彼女は結婚と同時に会社を辞めている。

あるとき社会的感情のない夫は近く、会社の会議で報告しなければならないことがあった。

異常に失敗を恐れる夫は、その報告がものすごく気になる。

社会的感情のない夫はとにかく失敗を恐れている。

社会的感情のない夫は失敗したらどうしようと、夜も眠れない。

何よりも、そのための準備が生活の全てに優先する。

ところが妻は、次の日曜日に一緒に買い物に行こうとしている。

妻は会社に在職していただけに、その報告がどのようなものであるかを知っているつもりになっている。

つまり、それほど大騒ぎすることもないと思える。

妻の目から見ると、夫はもう十分準備をしているように見える。

かつての会社の同僚の男性などは、その前夜に酒を飲んでいた。

そこで社会的感情のない夫が、次の日曜には買い物どころではないという気持ちが理解できない。

しかし夫は、妻から買い物に誘われた。

社会的感情のない夫は、誘われたこと自体が面白くない。

機嫌が悪い。

社会的感情のない夫は、妻から買い物に誘われたことで、自分が重要視されていないような気持ちになる。

大切に扱われていないと感じる。

自分のことをいい加減に考えているように感じる。

そのように感じれば、面白くないから、当然怒りが湧いてくる。

社会的感情のない夫は誘われたこと自体で不愉快である。

しかし社会的感情のない人は気が弱いから、怒りをストレートに表現できない。

「何で、俺がこんなに大変なのをわかってくれないのだ」と妻を恨む。

機嫌悪く黙り込んでしまうのがいつものことである。

日常生活の会話がスムーズにいかない。

そうなると妻も面白くない。

「結婚以来いつも、私のことなんかほったらかしだわ」と思えてくる。

妻の目から見ると、夫は行きたくないから行かないのだと考えざるを得ない。

しかし社会的感情のない夫は、妻のことをないがしろにしているわけではない。

ただ会議の報告を控えていることで、ものすごく気が重いだけのことである。

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ものごとの感じ方の違い

社会的感情のない夫は、「俺はエリートである」と自分でも思っているだけに、もし失敗したら皆の尊敬を失うような気がしてくる。

自分の将来にも影響してくると考えている。

妻のことをないがしろにしているのではなく、皆の前で発表することがものすごく大きなことなのである。

社会的感情のない夫は怖いのである。

ことに「自分は皆から買い被られている」と思い込んでいるから、失敗するとその「化けの皮」が剥がれるような気がしている。

しかし、妻には、この恐怖はわからない。

そこで妻は先に述べたような解釈になる。

この場合、二人にとって何よりも失敗することの恐怖が違う。

社会的感情のない夫の方は、妻が自分の大変さを騒がないから面白くない。

そのことを「大変ねー、大変ねー」と話題にしないから、自分の仕事を軽く扱われているような気がしている。

妻は、夫のことを大切に思っていないわけではない。

社会的感情のない夫のことを、自分のことより優先して考えているつもりである。

しかし妻は社会的感情のない夫の「失敗を恐れる気持ち」が理解できないのである。

妻の方は、別に強迫的に名声を求めているわけではない。

社会的感情のない夫のことを大切にしていないのではなく、失敗に対して神経質になっていないだけの話である。

人は同じことを体験しても、その感じる大変さは、ときに天と地ほどの違いがある。

ことに心理的に幼稚な夫にしてみれば「大変ねー、大変ねー」と騒いでもらいたいのである。

そのことに注目してもらいたいのである。

自分の努力と、その姿勢を評価してもらいたいのである。

人の気持ちに影響を与えるのは事実そのものではない。

事実に対するその人の解釈である。

事実が気持ちに直接的に影響を与えると勘違いしているから、人間関係のトラブルが起きる。

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他人の感情を理解する

やがて二人には子どもができる。

この二人の感じ方の違いは、生活のもっと多くの領域で問題になる。

妻からしてみると、家で社会的感情のない夫は暇なのだから、「子どもの世話ぐらいしてくれればいいのに」と思う。

「自分の子どもでしょう」と心の底では思っている。

社会的感情のない夫にしてみれば、会社のことで気持ちがいっぱいでそれどころではない。

すると妻はついに「子どもが可愛くないのか」と怒り出す。

社会的感情のない夫は「お前は何が大切だかわかっていない」と怒り出す。

会社と子どもという最も重要な二つが、妻の目から見ると矛盾してくる。

しかし実は一つ一つの会社の出来事が、妻と夫とでは全く違った意味と重要性をもっているのである。

劣等感の強い人は人の言葉にすぐに傷つくが、同時に人の褒め言葉がものすごく嬉しい。

劣等感の強い人と自信のある人では、人の一言一言の持ついみが全く違う。

別に、夫と妻の子どもへの愛情の大きさが、表面に見えるほど違うわけではない。

とにかく人に認められたい社会的感情のない夫にしてみれば、課長補佐になれるかなれないかは、生命的な重要性を持ってしまっている。

妻から見て何でもないささいなことが、社会的感情のない夫には憔悴の種になる。

気持ちがいつも落ち着かない。

二人の関係は破局を迎えた。

社会的感情、つまり相手を理解するということは、「相手の恐怖感を理解する」ことなのである。

あるいは逆に「相手の安心感を理解する」ことなのである。

やればやるだけ苦しくなる理由

二人は、どういう過程で離婚になったか。

社会的感情のない夫は散歩に行くのがつらい。

しかし夫は健康のために頑張って散歩に行こうとした。

玄関を出るところで、妻に「歩くときには背筋を伸ばした方がいいわよ」と言われた。

妻は社会的感情のない夫を励ますつもりである。

妻からすれば、夫の健康を考えた「愛の言葉」である。

しかし社会的感情のない夫は、その妻の言葉で散歩に行くのをやめて黙って家にと閉じこもった。

妻は「理解できない」と言う。

「自分は夫の健康のために言ってあげた」と言う。

しかし、この善意が社会的感情のない夫のやる気をそいでしまう。

このときに「背筋を伸ばして」と言わないで、「あらー、散歩に行くの、頑張っているわね」と言えば、夫は散歩の途中で元気が出たところで、背筋を伸ばして歩こうと思ったであろう。

背筋を伸ばす、腕を大きく振る、なるべく前方上を見る、お腹を引っ込めてあごを引いて歩く等々のことが健康にいいことは夫も百も承知である。

しかし、はじめからそうしようとすれば、つらくて、頑張っても散歩には出られない。

黙って家に閉じこもった社会的感情のない夫からすれば「お前の言うことは、百も承知している」ということである。

この女性は母親となったときに、子どもをの関係でも同じであった。

やった努力を認めない。

子どもが頑張って何かをすると、さらに上を要求する。

子どもからすれば、これほどやる気をそがれることはない。

この母親は自分では「家族のために」と思っている。

しかしこうしたことが毎日続いて、子どもはやがて不登校になった。

社会的感情のない夫は口をきかなくなった。

妻は「私がこんなに頑張っているのに」と不満になる。

妻が頑張れば頑張るほど、この妻を取り巻く人間環境は悪化する。

それはことごとく、妻が意図していたことと反対になっていくからである。

ここで妻が「なぜだろう?」と考えればよかったのである。

「なぜだろう?」が幸運の扉を開く。

しかしこうした社会的感情のない人は「なぜだろう?」とは決して考えない。

自分の善意の意図を信じているからである。

自分の善意が独りよがりのものであるとは、ゆめゆめ思っていない。

人間関係で「善意の意図」は危険なことである。

独りよがりのことが多いからである。

励ますつもりが逆に相手の意欲をそぐことがある。

社会的感情のない夫が心理的に幼稚なうえに、妻の方は相手を理解する能力がない。

理解がなければ寛容さはない。不寛容の精神は、それにはまり込むと、巨大な怪物に変わる。

この夫婦は二人とも努力した。

二人とも頑張った。

でも結果はよくなかった。

二人の努力は実らなかった。

夫婦ともに「私は悪くない」と依怙地になる。

妻は「私ばかりつらい目にあう」と運命を呪う。