神経質な人

神経質な人とは

神経質な人は自分のことばかり考える

神経質な自分が心理的に楽になるために、周囲の人を地獄に突き落としながら生きているのが「私ばかりつらい目にあう」という人である。

神経質な人は自分の悩みを解決しようと、周囲の人を不幸にしていながら、逆に被害者意識がある。

それが「私ばかりつらい目にあう」と叫んでいる人である。

これは神経質な人の特徴であろう。

神経質な人になると自分の悩みしかないから周囲の人の悲しさや、つらさが関係なくなる。

神経質な人ではこの世の中から他者の気持ちが消えてしまう。

もう自分が心理的に楽になること以外に、この世の中には何も存在しなくなってしまう。

神経質に悩める人々の話を聞いていても、やはり「よくもここまで自分のことばかり考えられる」と驚くほど、「自分、自分、また自分」である。

「あなた以外の人だって生きているのですよ」と言っても、神経質な人はとても耳を貸してくれない。

「私は悩んでいるのだ」「私は辛いんだ」「私は苦しいんだ」と、神経質な人はそればかりなのである。

その悩める神経質な人に「私もつらいことがあるんですけど」と言っても、無視される。

神経質な人は無視されるというより、何度そう言っても耳に入らない。

神経質な人は前と同じように「私は辛いんだ」と繰り返す。

神経質な人は「あの人はこうしてくれない」「この人はああしてくれない」と、他人への要求ばかりなのである。

神経質な人はもっと大切にしてほしい、もっと理解してほしい、もっと尽くしてほしい、他人を自分がむさぼる対象としてしか考えていない。

神経質な人は他人が自分と同じ人間とは考えていない。

神経質な人は「自分が相談しているこの相手も同じ人間なのだから、それぞれ解決しなければならない問題を抱えているかもしれない」などとは逆立ちしても考えない。

神経質な人は「自分がしがみついて相談しているこの相手も同じ人間なのだから、いま人間関係で困ったことを抱えているかもしれない、あるいは経済的な問題を抱えて苦労しているのかもしれない、子どもが病気になって大変なのかもしれないのだ」とは間違っても考えない。

神経質な人にあるのは、「私がこんなに悩んでいるのに冷たい」という相手に対する不満である。

「私の悩みを真剣に解決しようとしてくれない」という相手に対する不満である。

些細な問題を拡大して騒ぐ神経質な人

心理的に健康な人は、悩んでいる人に対して「ほかの人はもっと深刻な問題を抱えているんだよ」と言いたいのである。

神経質な人は「傷ついた、傷ついた」と騒ぐ。

しかし普通の人から言わせれば、「ほかの人はもっと傷ついているんだよ、それに耐えて生きているんだよ、もううるさく私達の側で傷ついた、傷ついた、と言わないでくれ」ということになる。

「私は傷つけられた、傷つけられた」と騒ぐが、神経質な人はもっと人を傷つけているのである。

そうは言っても、神経質な人は決してわからない。

自分のことになるとその些細なことがものすごい重大なことになる。

他人から見てどうでもいいことなのであるが、それをこの世で最も重大なこととして他人が取り扱わないと、本人は虐待されているような気持ちになる。

神経質な人と心理的に健康な人とを同じに扱うと、神経質な人はひどく不公平に扱われたと思う。

自分の小さな小さな不幸を、この世の悲劇のように周囲の人が取り扱わないと不愉快になる。

神経質な人がかすり傷をしたとする。

周囲の人が骨折をしたとする。

神経質な人にとっては「骨折なんて、そんなことをした人に皆は気を取られているのか!」と腸が煮えくり返る。

神経質な人にとって自分のかすり傷は、生命の危険が差し迫っている他人の病気より「重大であるべき」なのである。

他人に対して自分のかすり傷を、生命の危機が迫っている人以上に重大なこととして扱うことを要求してくる。

それをしないといって他人に不満になる。

悩める神経質な人の自己中心性は、まともな人には想像を絶する。

そして困ったことに神経質になると、事実自分のかすり傷は骨折以上につらいのである。

「私ばかりつらい目にあう」のである。

神経質な人にとってかすり傷は、実際に生命の危機なのである。

というのは、心理的に健康な人なら一日たたないうちに忘れてしまうようなことで、神経質な人は悩んでしまう。

神経質な人にとって、「私はつらい」という自分の言葉で、全ては可能になる「べき」なのである。

全ての責任から解放される「べき」なのである。

それが神経的プライドである。

それが被害者意識である。

そうでないなら「けしからんこと」なのである。

神経質というのは心理的に病んでいるのである。

そして「自分ばかりがこんなにつらい」と思う、「自分ばかり」という被害者意識がもっと荷物の重さを増大させる。

心理的に健康な人は「このくらいで済んでよかった」と考える。

逆境に強い神経質な人は、現実をきちんと受け止めている。

またその心の余裕が生きるエネルギーを生み、荷物を軽減させる。

自己中心性の目的

人と心がふれあうことが、自己中心性の克服につながる。

人と心がふれあえば、自然と自己中心性でなくなる。

相手という存在が自然と自分の現実に入ってくる。

心がふれあっているとき、例えばそこにあるリンゴを食べようとする。

自然と「相手も食べたいかな?」と思って、相手に「食べる?」と聞く。

つまり大人の自己中心性は、人とコミュニケーションできていない証拠である。

自己中心性とコミュニケーションの関係をしっかりと意識することは、生きていくうえで必要不可欠である。

神経質的プライドには四つの特徴があるとカレン・ホルナイは言う。

そのうちの第三の特徴は、「それにふさわしい努力」をしないことである。

しかし本人は、頑張って努力しているつもりである。

神経質な人は一生懸命頑張っているのだけれども、どうしても上手くいかない。

それは相手と心がふれあっていないから、相手が何を望んでいるかがわからないからである。

神経質な人は相手の望まないことをして、相手のために頑張って努力していると思っている。

相手は自分が期待したように動かない。

そこで神経質な人はイライラして、人間関係が上手くいかなくなる。

やがて「自分は相手のためにこんなに頑張っているのに」と相手に不満になる。

「猫に小判」という諺がある。

相手が猫だということがわからない。

相手が猫ではなく、自分の延長でしかない。

いわゆる「他者の自己化」である。

その点で、神経質な人の努力は自己中心的努力である。

神経質な人は努力は人一倍するのだけれども、ことごとく期待外れに終わる。

その不満から復讐心が生まれる。

つまり神経質的プライドの第四の特徴は、要求の裏に復讐性があることである。

ついでに述べておくと神経質的プライドの第一と第二は、非現実的と自己中心性である。

神経質な人の努力が期待外れに終わるのは、相手と心の触れ合いがないからである。

心のふれあいがあれば、相手が何を期待しているかが理解できる。

その点で、ジョージ・ウェインバーグの言う、抑圧のひどい人は相手が自分に何を期待しているかを間違えるという指摘は重要である。

やはり抑圧すると、コミュニケーション能力を失い、全てが上手くいかなくなる。

神経質な人は人とも自分とも心がふれていないから、相手に対する要求が非現実的になる。

現実と接しているということは、人と心がふれあっているということと同じである。

神経質な人とは、コミュニケーション能力に欠けることである。

現実的とは、要するにコミュニケーションできていることである。

加害者なのに被害者意識を持つ

相手に興味と関心がない。

したがって神経質な人は、自分が加害者であるのに被害者意識を持つ。

そして時に被害者である他人を非難罵倒する。

被害者を許さない。

誠に信じられないようなことが世の中ではいくらでも起きる。

被害者が加害者を許さないのはわかる。

しかし攻撃的神経質者の場合には、自分が加害者なのに被害者を許さない。

もちろんまともな人には考えられないことなのであるが、現実には、被害者が加害者から非難罵倒されるということが起きる。

現実の世の中ではまともな精神を持った人には信じられないことがいくらでも起きる。

現実の世の中では、「ウソでしょう」ということがあまりにもたくさん起きる。

それが神経質の強い人の世界である。

被害者はまともな人であるが、加害者は神経質な人である。

例えば悩みが神経質だとする。

医者が治療をする。

常識的レベルで言えば成功した。

しかし神経質な人は、非現実的なほど高い期待を持っている。

彼が期待したように治療がおこなわれない。

すると神経質な人は医者を非難罵倒することが始まる。

彼はその非難罵倒が正義に適っていると思い込んでいる。

本当は感謝をしてよいところが、神経質な人の場合にはそれが憎しみになる。

被害者を被ったと思い込んでしまう。

神経質な人は「あれも、これも」である。

周囲の人から見れば、その要求はあまりにも欲張りでしかない。

しかし本人から見れば、その要求が通らなければ不公平に扱われているのである。

神経質な人は「私は被害を受けた」のである。

神経質な人はある人と仲直りをしようと思っただけで、そのための具体的な行動をしない。

それでいながら、仲直りできないといって相手を責める。

イソップ寓話に『ラクダとゼウス』という話がある。

牛が自分の角を自慢していたので、ラクダが、うらやましく思って、自分も、角が欲しいと思った。

そこでラクダは、ゼウスのところへ行って、角をくださいと頼む。

ゼウスはラクダが体も大きく力もあるのに満足しないで、余計なものまで欲しがるのに腹を立てて、角をやらなかったばかりか、耳の一部を取ってしまった。

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怒りやすい人の理由

神経質な人は心の葛藤を、自分の意のままに外の世界を動かすことで解決しようとしている。

そこで非現実的な要求が次々と出てくる。

神経質な人は自分の思うとおりに事が運ばなければそれは「この世のどこかが間違っている」。

神経質な人は、自分が勝手に抱いた巨大な自己イメージにあうように、周囲が自分を扱うことを要求する。

そして自分が望むようにものごとは解決される「べき」なのである。

そんな馬鹿なことがこの世の中で通るはずがない。

神経質な人が喜ぶようには周囲の人は神経質な人を扱わない。

世の中は横綱でもない人を横綱として扱わない。

スターでもないのにスターとして扱わない。

だから神経質な人はいつも怒っている。

怒られた周囲の人は驚く。

何でその人が怒っているのか理解できないからである。

何で自分が怒られるのかわからないからである。

親切をしても非難罵倒されるときがある。

それは神経質な人が自分はもっと親切にされる「べき」だ、もっと大切に扱われる「べき」だと思っているからである。

非難罵倒された人は、何で自分が非難罵倒されるのか理解できない。

親切をしているのだから。

要するに神経質な人は、周囲からもっと大切に扱われる「べき」だと思っている。

神経質な人は自分が何か困ったことになれば、それは周囲の人が悪いからである。

だから周囲の人を責める。

狭い路地にある家での被害である。

隣りに新築の家が建てられることになった。

道路が狭いので、工事のためにその家は塀や玄関を壊された。

大被害である。

ところが家が建って引っ越してきた隣の家の神経質な奥さんは、もっと家を広げようとして、隣の敷地を自分の土地だと主張し始めた。

被害を受けた家は、大工さんを呼んで家の修理にかかった。

しかし隣の神経質な奥さんは、大工さんに怒鳴り返した。

大工さんは「あの隣の奥さんがいては、申し訳ないけれど仕事はできません」と帰ってしまった。

仕方なく警察を呼んだ。

警察は「隣の奥さんは目がつり上がっていて、どうにもできません、弁護士を頼んで、裁判をしてください」と言うしか方法がなかった。

そして隣の神経質な奥さんは「私はひどい被害にあった」と近所中に叫び回った。

「私は悪くない」も「私ばかりつらい目にあう」も、程度は違うが、本質的には同じことである。

神経質な彼らは現実には常に加害者である。

しかし時には常識では考えられないが、被害者意識を持つ。

現実には他人のものを盗む、殴る、危害を加える等々何でもする。

神経質な人は加害者である。

しかしそれにもかかわらず、自分が危害を加えているという自覚はない。

それどころか「自分は被害者である」と思っている。

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つらいじゃなくどのようにしたらいいか考える

生きるのがつらい神経質な人は、どうしてよいかわからない。

そこで「つらい!」と叫ぶ。

そして「つらい!」と叫ぶことで、憎しみの感情が吐けて少し心が楽になる。

そこでいつも「つらい!」「つらい!」と叫んでいる。

神経質な彼らの言葉の使い方は、コミュニケーションのための言葉の使い方ではない。

だから神経質な彼らが「悔しい!」と叫んでも、「つらい!」と叫んでも、次に「どうしたらいいか」がない。

神経質な人は「悔しい!」という叫びを聞いてもらうことが、「悔しい!」と叫ぶことの真意なのである。

神経質な人は「悔しい!」と叫ぶことで恨みを晴らしている。

神経質な彼らは「痛い!」と叫ぶ。

しかし、自分で治療して治そうとは思っていない。

神経質な人の「痛い!」は「あなたが、何とかしてくれ」という叫びである。

神経質な人は痛いのに、「こうしたらどうか」と相手から提案されると面白くない。

なぜなら「こうしたらどうか」と提案されたことを、自分がしなければならないからである。

神経質な人の「つらい!」も「悔しい!」も「痛い!」も、会話をしているのではない。

神経質な人は「あなたが助けるべきだ」とか、「あなたが解決すべきだ」という意味である。

神経質な人は「つらい!」も「悔しい!」も「痛い!」も、「あなたのせいでこうなった」のである。

責任は自分にはない。

神経質な彼らは自分から何かをするつもりはない。

神経質な人は体調を崩せば、あなたが私をお医者さんに連れて行くべきだし、お医者さんは私を治すべきなのである。

神経質な人の自分の健康の責任は、自分にはない。

神経質な人の自分の健康の責任は、相手とお医者さんにある。

神経質な人にとって体調を崩した責任は、お医者さんをはじめ周囲の人が背負うべきなのである。

彼らはずーっとこれで生きてきた。

そうして社会的に孤立していく。

神経質な彼らには、無責任が許される幼児期がなかった。

そのため大人になっても、無責任で許される幼児期のままの生き方である。

神経質な人は心理的にはまだ幼児である。

そして社会的に大人になり、もうこれ以上いきていけなくなって神経質になったり、罪を犯したり、アルコール依存症になったり、ギャンブル依存症になったり、うつ病になったり、引きこもったり、薬物依存症になったりする。

神経質な彼らは最後まで自分の人生に責任をとろうとしない。