自信を育む

起こった問題を、思考を変えるチャンスにする

「弱い自分」「ダメな自分」「何もない自分」も含め、ありのままの自分、素のままの自分を「好き」「素晴らしい」「価値がある」と思う、信じることが「折れない自信」を育みます。

しかし、このことが頭でわかっていても、ついつい自分を信じる気持ちを見失ってしまうこともあります。

そして、「自分なんてダメだ」って落ち込んだり、「弱い自分」「ダメな自分」を隠そうと虚勢を張ったり、張りぼてのような自信を積み重ねたり。

しかし、それでいいんじゃないかと思うのです。

そういうことを繰り返しながら、「ああ、自分はこれでいいんだ。この自分がいいんだ」と再確認する時間が自然と増えていけばいいのかなぁって、そう思うんです。

たとえば、人生を、一車線しかない狭い道路だと思ってみてください。

運転する人はあなた一人です。

「ついついスピード出しすぎる」とか、「気づいたら右に寄りすぎる」とか、「運転のクセ」って誰もが一人ひとり違います。

それが人生では、「ついついがんばりすぎてしまう」とか、「気づいたら、一つの価値観に凝り固まってしまう」という、一人ひとりで異なる「考え方や価値観のクセ」です。

そして、当然のことながら、スピードを出しすぎたり、右に寄りすぎたりすれば、ガードレールにガツンとぶつかってしまうことだってあるでしょう。

ぶつかって車がへこんだり、自分がケガをして、痛い思いをしたりもするわけです。

このガードレールにぶつかったときというのが、人生においては、「自信を失ったとき」「うまくいかないと感じたとき」「問題を抱えたとき」なんだと思うのです。

つまり、がんばりすぎたり、一つの価値観に凝り固まりすぎていたりするから、問題にぶつかってしまう。

だから、目の前で起こっている「問題」は、ガードレールのように、自分が暴走しないよう、落ちないよう、止めてくれたんだ、と気づいてほしいのです。

あなたを守ってくれたのだと気付いてほしいのです。

問題が起きたときに「なんで問題が起こるのよ!」と怒るのは、ガードレールにぶつかったときに、「なんでこんなところにガードレールがあるのよ!」と怒るようなもの。

ガードレールをなんとかしようとするのではなく、自分の運転のクセを見直せばいい。

つまり、うまくいかない出来事やアクシデントは、「考え方や価値観のクセを直すチャンスだよ」と教えてくれているのです。

人生は、当たって、当たって、を繰り返しながら、前に進んでいけばいい。

問題が起こってもいいし、悲しいことが起こってもいい。

人に嫌なことを言われたり、貧乏になったり、ケガをしたり、病気になったりしてもいい。

そんなふうにいろんな出来事に当たって、当たって、それでも、その都度、「考え方や価値観のクセ」を直しながら運転していれば、知らないうちに、ずっと前に進んでいるのです。

晴れの日も、雨の日もあり

「自分を信じる」という意味の「折れない自信」を育てている最中も、ふと、その土台を揺るがすようなことは起きるものです。

たとえば、信頼していた人から裏切られたり。

職場の人間関係がこじれて、どうにも収拾がつかなくなったり。

大切にしていたものを、メチャクチャに壊されたり。

一生懸命やった仕事が、あっけなく失敗に終わってしまったり。

人生にはいろいろな出来事があるのです。

そのときに、その出来事をきっかけに「自分はダメだ」と思うのか。

「自分はダメではない、こんな日もある」「自分は素晴らしい。けど、こういうこともある」と思うのか。

どう思うのかで、その後の人生は変わってくるのです。

地球もまわっている以上、晴れの日も、雨の日も、雪の日も、日照りの日も、台風の日もやってきます。

「晴れの日ばかりでないとダメ」とばかりに、それらにいちいち過剰反応するのではなく、「ああ、雨だなぁ。傘をさそう」「ああ、台風だなぁ。雨戸を閉めよう」でいいのです。

仕事をしている以上、ダメなときもいいときもある。

うまくいかないことも、落ち込むこともある。

でも「成績は右肩上がりを続けないとダメ」とばかりに、いちいち過剰反応するのではなく、「ああ、成績が悪かったんだなぁ。それなら、やり方を見直してみよう」「ああ、大きな失敗をしてしまった。でも、次にできればいい」でいいのです。

晴れの日もある。

雨の日もある。

うまくいく日もある。

いかない日もある。

でも、それと「自分の価値」とは関係がないのです。

自分らしく、自分に正直に生きてみる

身の回りに、悩みや問題が起きるときは、たいてい「自分らしくない」ときです。

本当はできないひとなのに、できるふりをしてみたり。

本当はのんびり屋さんなのに、チャキチャキせかせか動いてみたり。

本当は怠け者なのに、働き者のふりをしたり。

本当は怒っているのに、全然気にしていないフリをしたり。

本当はやさしいのに、悪い人のふりをしたり。

そんなふうに、自分に嘘をついているとき、自分らしくないときに、目の前に問題が現れます。

でも、それは、「それは、あなたの本当の生き方じゃないよ」「誰になろうとしているの」と教えてくれているんじゃないかな、と僕は思うのです。

そんなときは、「ああ、これは私が本当にしたいことではないんだな」「嫌われると思っているから、自分らしさを我慢しているだけなんだな」と自分の本当の気持ちに気付いてあげてください。

そして、気付いたら、少しずつでいいから「自分らしさ」を出してみてください。

その「自分らしさ」のなかには、自分のダメなところ、自分の嫌なところ、怒りや悲しみ、劣等感などの負の感情も含まれます。

それも「自分らしさ」の一つですから。

「自分らしさ」を大事にすることは、自分を大事にすることです。

ダメな自分でも嫌な自分でも、ありのまま、そのままの自分を大事にする。

それが自分らしく生きるということです。

自分らしく生きていると、時には自分らしく生きていない人からは理解してもらえずに攻撃を受けることもあるでしょう。

悪口や批判は、ある種の「私も本当はあなたのようにしたいのに」という妬みや、やっかみなんです。

ただ、攻撃する人たちは、そんなことにすら気付いていなくて、「正しさ」やその人の価値観をぶつけてくることもあるでしょう。

自分らしく生きることは、そんなふうに、自分らしく生きていない人を刺激することもあります。

それでも、自分らしく、自分に正直に生きる。

それが自分を信じて生きることです。

「でも」の言葉の前にある本音を大切にする

目の前の悩んでいる人が、「でも」という言葉を発したとき、そのあとに続く言葉ではなく、「その前に何を思った?」かが大切になります。

「本当は休みたい。でも、休んだらダメ社員って思われる」
「本当はその仕事、私がやりたい。でも、でしゃばりだと思われる」

このように、「でも」で区切った前の言葉に本音があるのです。

そこに相談者の「やりたい」「やめたい」「好き」「嫌い」などの「本音」や「本当の感情」が詰まっているのです。

「本当は休みたい」「本当はその仕事、私がやりたい」って。

けれど、みんな「でも」のあとの言葉を大事にしようとするのです。

「ダメ社員と思われたくない」「でしゃばりだと思われたくない」と考えてしまう。

これらは本音ではありません。

だから、「ダメ社員と思われない方法」や「でしゃばりだと思われない方法」を考えたって、意味がないのです。

それよりも、「でも」って言葉の前にある本音に気付いてほしい。

気付いたら抑えつけないで、大事にしてあげてほしい。

「でも」って言葉の前にある「本音」を見て見ないふりをしてたら、悪いことのように扱ってたら、何も変わりません。

そんなこと続けてたら、自分のこと嫌いになっちゃいます。

「でも」の前にある、自分の「やりたい」「やりたくない」「好き」「嫌い」。

それは、あなたの本音。

世界はもっと優しいんだから、「でも」の前の気持ちを、大切にしてみませんか。

古い意識や価値観を削ぎ落して自分を磨く

才能は「磨くもの」です。

「磨く」とは、自分にこびりついているもの、よいと信じて付け足してきたものを削ぎ落していくことではないか、と思っています。

小さなころから染み付いている親の価値観や世間の価値観、自分が常識だと信じていること、自分の決めた限界、劣等感や罪悪感、「相手にすごいと思われたい」という気負いや、「見返してやる」という気持ちを削ぎ落した時に、自分の「本来の才能」とは花開くのではなかろうか。

自分にこびりついた考え方や染み付いた古い意識、価値観といったようなものを削ぎ落していくことが、自分を「磨く」ことなのではなかろうか。

大人になるにつれて付け足してしまったいろんな思いを削ぎ落して、自分の本心に近づいていく。

そうすると、才能は開花するのではないでしょうか。

何もない木から仏像を彫り出すかのように、「自分」という、今まで生きてきた世界のなかから「本当の自分」を掘り出す。

そんな「本当の自分」を救い出し、楽しんでいく作業。

それを、「自分磨き」というのではないかと思います。

劣等感と仲良くなる

誰にでも、劣等感はあるものだと思います。

「私には劣等感がありません」「自信満々です」という人がいたら、逆に怖いなぁと思ったりもするのです。

だから、劣等感は、「あっていいもの」「あるのが普通のもの」。

「劣等感」って、誰かと比べて、自分を小さく感じたときに抱く感情です。

「自分はあの人より小さい」「自分はあの人よりできない」「自分はあの人より未熟だ」と感じたときに、劣等感を抱きます。

人のなかで生きている限り、他人と比べることはなくなりません。

自分を誰かと比べることで、自分を知ることができるからです。

自分は「あの人」より「大きい、小さい」「できる、できない」などと比べることでしか、知ることができないものもあるからです。

だから、劣等感は「ある・なし」の問題ではなくて、「それをどうするのか」が問題だと思うのです。

劣等感でいっぱいの人は、自信満々になりたくて、劣等感を隠して、強がります。

劣等感を「なかったこと」にしようと躍起になります。

だから、恥をさらせない。失敗できない。チャレンジできない。

知識だけを仕入れて知ったかぶりをしたり、本当は好かれたいのに「好かれなくていい」とすねたり、好きじゃないふりをしたりしていました。

劣等感をなかったことにしようとしていたからでした。

劣等感はあっていいのです。

ただ、劣等感は「ある」と認めながらも、「他人とはこれだけの違いがあるんだ」と、自分を知るためのモノサシとして、付き合っていけばいいんじゃないかと思います。

わかってはいるけれど、やめることができない自分を許す

「わかっているけど、できない」「わかっているけど、やめられない」そういうことって、ありますよね。

たとえば、ダイエットしても痩せられなくて悩んでいる人に対して、一番の答えは、「食べない」ということですよね。

それは誰もがわかっていることです。

そして、それをアドバイスしようもんなら「それは、絶対にやれない」「それだけはできない」とのたまう。

そして、それが嫌だから「食べながらダイエット」なんていう無茶な方法を探す。

そして、やっぱりうまくいかなくて、痩せられない。

これがうまくいかない人の特徴だったりします。

だが、それは、言い換えると、「本当にはわかっていないから、できない」「本当にはわかっていないから、やめられない」なのです。

ダイエットができないと悩んでいる人がいます。

ダイエットしたほうがいいということは、「わかっている」つもりでした。

ただ、「食べない」と、すぐにおなかがすいてしまいます。

大好きなおいしいものも食べられなくなってしまいます。

そんな状況は、耐えられなかった。

つまり、「わかってはいるけれど、やめることができない」の正体は、実は「やりたくない」「やめたくない」なのです。

それを「するメリット」よりも、それを「するデメリット」のほうが大きい、と本心では考えているわけです。

「やるほうが損」だと信じているのです。

そもそも、「やりたくない」のですから、「やるほうが得」とは「わかっていない」。

「わかっていない」から「やらない」のです。

しかし、そんなときは、「ああ、自分は、そこまでやりたくないんだな」と、今の自分の気持ちに気付いてあげてほしいのです。

「怖い」から、「やるほうが得と思えない」から、「やりたくない」から、やってないんだなぁと、そういう自分も認めてみる。許してみる。

まずは、できない自分、やめられない自分を、「自分で責めるのをやめる」ことから始めてみてほしいのです。

それだけでも、いつしか必ず変化は訪れます。

できないことはできないままにする

「人にまかせる」という行動をとるようになって、気付くことがある。

人というのは、「人を助ける能力」と、「助けてもらう能力」が必ずある。

だから、できないところは、克服しないでもいいんです。

逆に本人が気づかないうちに、自分が役に立つとは思ってもいないところで、驚くほど人の役に立っていることもあるのです。

だから、「できない」というのは、実は素晴らしいことなのです。

自分がおなかがすいたときに、魚が欲しくても、他の人が苦労して釣った魚をもらうのはよくないと思っていました。

なかなか釣れなくても、なんとか自分で釣る努力をしなくちゃと、無理をしてがんばる。

でも、ものすごく時間がかかるし、なんとか釣れたとしても、アジ一匹、なんてことも。

そこで「釣ってもらえばいいんじゃないか」という発想です。

でも、自分の苦労を他人に押し付けているような気がして、最初のうちは嫌かもしれません。

だけど、魚を釣るのがとびきり上手で、楽しすぎてたくさん釣ってしまって、一人ではとても食べきれなくて、人に分けたい人もいっぱいいるのです。

だったら、釣るのはその人にさせてあげて、料理も誰かにまかせて、自分は、魚をおいしくいただくことだけをやればいいんじゃないかと。

最後には片付けもまかせてしまう。

助けてくれるみんなに感謝しながら。

今までは、”罪悪感”だったことかもしれません。

「できないこと」を、義務感や他人の目線を気にして「克服すること」は、自分も苦しくなる原因でもありますが、あなたのまわりの人が、「あなたの役に立って喜ぶという、その喜びを奪ってしまうこと」でもあるのです。

あなたができないことを克服すると困る人が、世の中にはいるのです。

「できないところがある人のほうが素晴らしい」というのは、そういうことです。

もちろん、「克服するのが楽しい」「釣れない魚を釣れるようになるのが楽しい」人はそのままでいいのです。

苦手なことは他人に任せる

都会で暮らす、ある男が言いました。

「どうせ、俺はみんなみたいに野菜が作れないんだ」

「みんな美味しい野菜を作っているのに、俺は食べることしかできない。しかも、料理を作ることだってできないんだ」

と聞くと、「はぁ?」と思いますよね。

「いや、別に作れなくていいでしょ」って。

そんな人がいるかと思えば、野菜を作るのが大好きで得意な人もいるし、料理を作るのが大好きで得意な人もいる。

みんな、何かが苦手で、みんな、何かが大好きで得意で。

でも、得意なことを自分ではたいしたことないと思ってしまっていて。

ほんとは、みんな、一つのことしかできなくてもいいのかもしれない。

本当は、みんな変わり者でいいのかもしれない。

そんな「凹」なみんなが、そんな「凸」な人たちが、好きなことだけをして、苦手なことを人に任せて、自由気ままに生きることで、「凸」で、「凹」を埋め合って、世の中は「ぴったり」回っていくのかもしれません。

まとめ

〇たとえ、問題にぶつかっても、その偏りを直しながら進むうちに、いつのまにかまっすぐ前に進んでいる。

〇身の回りに問題が起きるときは、たいてい「自分らしくない」とき。「でも」という言葉で、自分の本音を消してしまわないこと。

〇自分磨きには、「足し算」よりも「引き算」。自分にこびりついているもの、よいと信じて付け足してきた余分なものをそぎ落してみる。

〇「がんばる」ことは、「努力」や「我慢」ではない。

〇劣等感はあって当然。むしろ劣等感とどう付き合うかのほうが大事。